城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 下総国

現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺、そして東京東辺で、下総国《シモウサノクニ/シフサノクニ》または総州《ソウシュウ》と呼ばれた

関宿城 − Sekiyado Castle

利根川の利点を活かして築かれ、利根川によって遺構が消えた関宿城

千葉県野田市関宿町[a]明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。にあった関宿城は、利根川と江戸川[b]江戸時代までは逆川《サカガワ》。が分岐する微高地上に築かれ、水運の要衝を押さえる城として中世から近世まで存続した。戦国時代には東国の中央という地理的な位置に加え、同じ下総国の小金城から栗橋城を経て、この時に関東を二分していた勢力の一人・古河公方[c]京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。がいる古河城の前衛と云う政治的な位置でも要の城であった。また、もう一方の勢力の小田原北條氏をして「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(喜連川文書)[d]現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。と云わしめた城でもあった。公方の片腕で関宿城主の簗田晴助《ヤナダ・ハルスケ》は形勢逆転を目論み、越後国の長尾景虎を頼るも、数度に渡る関宿合戦ののち北條氏政に屈した。そして小田原北條氏滅亡後、この城の位置付けを重要視した徳川家康は異父弟の松平康元に与え関宿藩を立藩した。明治時代に廃城となり、その後に繰り返された利根川改修と堤防建造により遺構は消滅したが、平成時代に建てられた県立関宿城博物館では城と利根川の歴史を今に語り継いでいる。

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a 明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。
b 江戸時代までは逆川《サカガワ》。
c 京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。
d 現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。

下総小金城 − Kogane Castle

小金城の鬼門である艮の方角にあった達磨口跡には土塁が残る

下総国北部一帯にかかる下総台地から伸びた台地と利根川(現在の江戸川[a]戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。)に挟まれるように形成されたいくつかの丘陵に跨って築かれ、中世城郭として最盛期には下総国北西部において最大級の南北約600m、東西約800mに及ぶ広大な城域を有していた小金城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。《コガネ・ジョウ》は、16世紀前半に千葉氏の家臣であり東葛地方[c]東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。に勢力を誇った高城氏の居城であった。この平山城は15mほどの高低差と複雑に入り組んだ地形を利用して、高さ2mほどの土塁と深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、台地を削平して複数の郭を配していたと云う。戦国時代末には小田原北條氏の配下に入り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では東海道北上勢の浅野長吉《アサノ・ナガヨシ》[d]のちの浅野長政。に攻囲されて落城した[e]その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。。その後、関東に入封した徳川家康の五男・松平信吉[f]現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。が3万石で小金城に入城するも佐倉城に転封となった後に廃城となった。現在は宅地化で消滅した土塁や畝堀など一部の遺構が復元されて、大谷口歴史公園として公開されている。

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a 戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。
c 東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。
d のちの浅野長政。
e その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。
f 現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。

師戸城 − Moroto Castle

師戸城は利根川下流に形成された印旛沼の中に浮かんでいるように見えた

縄文時代に太平洋から関東東部へ湾入し、内海として下総《シモウサ》国一之宮にあたる香取神宮[a]関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖《イキス》神社と共に東国三社の一つ。の目の前まで広がっていた香取海《カトリノウミ》[b]地学的には古鬼怒湾《フルキド・ワン》と呼ばれる。は奈良時代に入ると海退[c]読みは《カイタイ》。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。し、鬼怒川からの土砂が流れこむことで出口が堰き止められて沼が形成された。これが印旛沼《インバヌマ》の始まりとされる。この沼を天然の外堀として築かれた砦が師戸城であるが築城の経緯は不明であり、一説には下総国を拠点として千葉介《チバノスケ》を名乗っていた千葉氏の一族とされる臼井《ウスイ》氏が居城とした下総臼井城の支城として、室町時代初期に築かれたと云われている。また江戸時代初期に編纂された『臼井家由来抜書《ウスイケ・ユライ・ヌケガキ》』によると臼井氏四天王の一人、師戸四朗なる人物が城主を務めたとある。その後、戦国時代に至るまで何度か改修され、千葉県は印西《インザイ》市師戸の印旛沼公園に現存する規模になったと推定されている。永禄9(1566)年、関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。が小田原北條氏の勢力を駆逐するため安房の里見義堯・義弘父子らと千葉氏の家臣・原胤貞《ハラ・タネサダ》らが籠もる臼井城を攻め、師戸城もまた越後の精兵らの猛攻にさらされた。

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a 関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖《イキス》神社と共に東国三社の一つ。
b 地学的には古鬼怒湾《フルキド・ワン》と呼ばれる。
c 読みは《カイタイ》。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。
d のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。

亥鼻城 − Inohana Castle

「千葉城」の通称を持つ亥鼻城の2郭跡には四層五階の天守閣風な郷土博物館が建っている

千葉県千葉市中央区亥鼻の猪鼻《イノハナ》台地の上にあった亥鼻城は、平安時代の終り頃の大治元(1126)年に、桓武天皇を祖とする平家支流の千葉常重《チバ・ツネシゲ》が、当時の大椎城《オオジジョウ》[a]現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。から居城を移転して築城したものであり、現在はその跡地に四層五階の天守閣を形を模した千葉市立郷土博物館[b]昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。が建っている。ここ亥鼻城を本拠としたあとは常重の嫡子・常胤《ツネタネ》が源頼朝を助けて源平合戦や奥州合戦に参戦し、鎌倉幕府樹立に大きく貢献することで下総国の他に奥州や九州[c]奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。に所領を拡げて千葉氏の最盛期を創った[d]常胤は拝領した所領を千葉介胤正《チバノスケ・タネマサ》、師常《モロツネ》、胤盛《タネモリ》、胤信《タネノブ》、胤通《タネミチ》、そして胤頼《タネヨリ》といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党《チバ・リクトウ》」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。。しかし、古河公方[e]鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。の足利成氏による関東管領(山内上杉憲忠)の謀殺を発端として、享徳3(1454)年から28年間、関東一円の国衆・地侍らを巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》では千葉家中で内紛が勃発、公方派だった馬加(千葉)康胤や原胤房は関東管領派であった千葉介胤直が籠もる亥鼻城を攻め、城は落城、多古に逃れた胤直一族を滅ぼして下総千葉氏で千葉氏本宗家を継承した。それから康胤の孫である輔胤は関東管領上杉氏や太田道灌、さらには一族である武蔵千葉氏と抗争しつつ、印旛沼と利根川の水運を掌握でき古河公方勢と連携できる地に本佐倉城を築き、亥鼻城を廃城して居城を移した。

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a 現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。
b 昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。
c 奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。
d 常胤は拝領した所領を千葉介胤正《チバノスケ・タネマサ》、師常《モロツネ》、胤盛《タネモリ》、胤信《タネノブ》、胤通《タネミチ》、そして胤頼《タネヨリ》といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党《チバ・リクトウ》」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。
e 鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。

国府台城 − Kounodai Castle

江戸川沿いの下総台地西端に築かれた国府台城では土塁に古代古墳を利用していた

千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台《コウノダイ》と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙《カマクラ・オオゾウシ》』[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちは道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北條氏が継ぎ、北條氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤《トバ・サネタネ》と自胤《ヨリタネ》兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱と小弓公方《オユミ・クボウ》足利義明《アシカガ・ヨシアキ》・里見義堯《サトミ・ヨシタカ》連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北條氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。

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a 室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。
b 読みは《オオタ・スケナガ》。持資《モチスケ》とも。出家したのちは道灌《ドウカン》と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
c 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北條氏が継ぎ、北條氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。

本佐倉城 − Moto Sakura Castle

半島状台地上に築かれた本佐倉城は三方が湿地帯に囲まれた要害だった

千葉県の印旛郡酒々井《インバグン・シスイ》町にある本佐倉城[a]別名は将門山城。「将門」は俵籐太《タワラ・ノ・トウタ》こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。は室町時代後期の文明年間(1469〜1486年)に千葉輔胤《チバ・スケタネ》が印旛沼を望む標高約36mほどの将門山上に築いた連郭式平山城で、南西面を除く三方は湿地帯に囲まれた要害の地にあった。この輔胤は、享徳3(1455)年に始まった『応仁の乱の関東版』とも云うべき享徳の乱の最中に起こった下総守護千葉家の内乱を制して宗家を継ぎ、のちには古河公方足利氏や長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。と連携して、関東管領山内上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏らにたびたび抗してきた。下総千葉氏二十一代当主となった輔胤は内乱で荒廃した宗家の居城・亥鼻城を廃城とし、ここに築いた本佐倉城を、天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原仕置によって小田原北條氏と共に滅亡するまでの九代、百有余年にわたり宗家の居城とした。千葉家が断絶した後は徳川家康の譜代家臣の内藤家長が入封し、本佐倉城は一旦は破却されたが、慶長15(1610)年に土井利勝が佐倉藩を起藩すると城跡に藩庁が置れた。そして元和元(1615)年には、滅亡前の千葉氏が築城に着手し未完成のままだった鹿島城を整備拡張した佐倉城へ藩庁を移転すると、本佐倉城は一国一城令に従って完全に廃城となった。

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a 別名は将門山城。「将門」は俵籐太《タワラ・ノ・トウタ》こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。
b 伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。

佐倉城 − Sakura Castle

江戸幕府の重職を数多く輩出した佐倉城の本丸南には角馬出のような出丸がある

千葉県佐倉市城内町にある佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を天然の外堀とし、周囲が湿地帯である台地の上に土塁を穿って築城した連郭式平山城で、戦国時代の中頃に本佐倉城を居城としていた下総国の戦国大名・千葉親胤《チバ・チカタネ》[a]その先祖は、千葉氏宗家・千葉自胤《チバ・ヨリタネ》と関東管領山内上杉氏に反抗し、名将・太田道灌と幾度か合戦した千葉輔胤《チバ・スケタネ》・孝胤《タカタネ》父子である。が大叔父にあたる鹿島幹胤《カシマ・ミキタネ》に命じて築城が始まり、鹿島城と呼ばれていたものの、親胤が暗殺(享年17)されたために一時中断となった。その後、親胤の直系にあたる千葉氏第29代当主・千葉邦胤《チバ・クニタネ》は上総の雄・里見義弘の圧迫を受けることになったため築城を急ぎ再開したものの、邦胤もまた暗殺[b]天正13(1985)年の新年の祝賀の席にて近習の放屁を叱責したところ、恨みを持たれて就寝中に短刀で刺され死亡した。享年39。嫡男は幼少だったため、北條氏政の実子が千葉家を継いだ。されて再び中断となり、城が完成せぬまま天正18(1590)の豊臣秀吉による小田原仕置を迎えた。この時の当主が、北條氏政の実子で氏直の弟である直重であったため、ここに下総千葉氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東八州に入封した際に、その要害に着目し、慶長15(1610)年に土井利勝に命じて未完の鹿島城を整備拡張し七年の歳月を経て佐倉城として完成した。六世126年間11万石を領有した堀田氏による佐倉藩は、明治維新を迎えて廃城となったのち、帝国陸軍の佐倉連隊が駐屯して施設はことごとく破却されてしまった。

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a その先祖は、千葉氏宗家・千葉自胤《チバ・ヨリタネ》と関東管領山内上杉氏に反抗し、名将・太田道灌と幾度か合戦した千葉輔胤《チバ・スケタネ》・孝胤《タカタネ》父子である。
b 天正13(1985)年の新年の祝賀の席にて近習の放屁を叱責したところ、恨みを持たれて就寝中に短刀で刺され死亡した。享年39。嫡男は幼少だったため、北條氏政の実子が千葉家を継いだ。

臼井城と臼井田宿内砦 − Usui Castle and Usuida Shukuuchi Fort

臼井城の本丸からは臼井田宿内砦や師戸城などの支城を眺めることができる

永久2(1114)年に坂東平氏である下総国の豪族は千葉一族の臼井六郎常康《ウスイ・ロクロウ・ツネヤス》が居を構えた千葉県佐倉市臼井田には、のちに臼井氏の中興の祖と云われる臼井興胤《ウスイ・オキタネ》の代の14世紀中頃に、臼井城の基礎がおかれたと伝えられている。今から500年以上も前の文明10(1478)年に関東管領の重臣の一人だった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。が起こした反乱に乗じて古河公方と共に関東管領山内上杉氏と対立した千葉孝胤《チバ・ノリタネ》を討つべく、江戸城を発った扇谷上杉氏家宰の太田道灌資長と千葉自胤《チバ・ヨリタネ》[b]自胤に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。らは国府台城に布陣、境根原古戦場《サカイネハラ・コセンジョウ》で激戦となり、そこで敗北した孝胤はここ臼井城に籠城しなおも抵抗する。さすがの名将道灌も攻めあぐねたが、なんとか周囲にある砦や支城を攻め落とし最後の決戦で臼井城を陥落させて孝胤を父・千葉輔胤《チバ・スケタネ》の居城である本佐倉城へ敗走させたが、その決戦で道灌は弟の太田図書資忠と太田家譜代の勇士らを失ってしまった。そして翌年の和議ののち文明18(1486)年に道灌が謀殺されると、孝胤は再び臼井城を奪取し、家臣の臼井景胤《ウスイ・カゲタネ》が城主となった。

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a 伊藤潤作の『叛鬼《ハンキ》』(講談社文庫)の主人公である。
b 自胤に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。

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