城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 上野国

現在の群馬県で、上野国(こうずけのくに)または上州(じょうしゅう)と呼ばれた

新田金山城 − Nitta-Kanayama Castle

新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。

前橋城/厩橋城 − Maebashi AKA Mayabashi Castle

古くは厩橋城、のちの前橋城本丸跡には群馬県庁が建ち、その脇に土塁が残っていた

群馬県前橋市大手町で一際目立つ群馬県庁舎の周辺一帯は、かって征夷大将軍・徳川家康が関東七名城[a]内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。の一つとして『関東の華』と賞した前橋城跡であり、古くは群雄割拠の時代には厩橋城《まやばしじょう》[b]読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 と呼ばれていた。15世紀末に西上野《にし・こうずけ》の国人衆であった長野氏が拠点としていた箕輪城の支城[c]石倉城とも。が始まりとされる。越後上杉氏、甲斐武田氏、そして小田原北條氏らが関東の覇権を争った戦国の世には、ここ厩橋城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。特に関東管領職に就いた上杉政虎[d]云わずと知れた、のちの上杉謙信。は、この地の静謐を旗印に越後の精兵を引き連れて越山するための拠点とした。のちに武田氏と北條氏の支配下に入り、この両雄が去ったあと、関八州《かんはっしゅう》に入封した家康が譜代の重臣らを城主に置いた。城は元和3(1617)年に大改修が施され、利根川河岸の急崖に臨む本丸を幾重もの郭で囲み、三層三階の天守を建てるなど近世城郭に変貌した。のちに前橋城と改称するも、『坂東太郎』の異名を持つ利根川の氾濫と侵食により一時は廃城になる[e]度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。が、幕末には再建[f]治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。されるも四年後の明治4(1871)年の廃藩置県で二度目の廃城となった。

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a 内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。
b 読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥
c 石倉城とも。
d 云わずと知れた、のちの上杉謙信。
e 度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。
f 治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。

高崎城/上野和田城 − Takasaki AKA Wada Castle

和田城のあとに築かれた高崎城跡には土塁と乾櫓・東御門が残るのみである

鎌倉時代に上野国の国人であった和田氏[a]鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。がかって築いた砦はのちに和田城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。と呼ばれ、約160年の間、和田家の居城となった。和田業繁《わだ・なりしげ》が城主であった室町時代には関東管領・山内上杉氏に従属し古河公方や小田原北條氏、そして甲斐武田氏らと対立した。主人である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》が越後国の長尾景虎を頼って落ちたあとは、義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って西上野の国人衆らと共に和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で上杉・北條・武田らを相手に対抗した。しかし業政死後は武田信玄に降伏・従属し、長篠城包囲戦で業繁が討ち死にするとその子・信業《のぶなり》は小田原北條氏に下り家臣として重用された。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で和田城は北国勢[c]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。の攻撃により落城し廃城となった[d]信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。。この後に関八州へ入封した徳川家康の重臣・井伊直政がこの城跡に近世城郭を築いた。これが群馬県高崎市高松町1にあった高崎城である。しかし現在は宅地化が進み、三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居と水濠、そして復元された東御門や乾櫓が移築されているだけであった。

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a 鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。
c 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
d 信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。

上泉城 − Kamiizumi Castle

上泉城の本丸跡に建立された四代目城主上泉伊勢守信綱の像

国盗りの攻防が激しかった戦国時代の上州にあって赤城山南麓一帯の大部分は、大胡(おおご)城を居城としていた大胡氏によって支配されていた。その支城として築かれ、大胡一族でもある上泉氏が在城していた上泉城は現在の群馬県前橋市上泉町にある。城域は推定で東西およそ600m、南北およそ400m、城の南に桃木川(もものきがわ)、西から北に藤沢川が還流することで三方を川という天然の外堀で囲まれていた。要害は本丸・二の丸・三の丸の他に、一の郭とニの郭、そして出丸を持っていた。中世の末期、剣道史に名を残した剣聖・上泉伊勢守秀綱(のちに武蔵守信綱)は永正5(1508)年に上泉城主・武蔵守義綱の次男として生誕し、のちに四代目城主となって領地と領民を守った。当時の上州は北から越後長尾氏、西から甲斐武田氏、南から相模北条氏がそれぞれの思惑をもって侵攻していた時代で、上泉伊勢守は平井城の関東管領上杉氏の被官であったが、その最後の管領だった上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)が長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後入した後は、同じ上杉方の箕輪城主で勇将の誉高い長野業政の重臣となり、ともに武田信玄率いる甲州勢と壮絶な戦いを繰り広げ「上野国一本槍」と呼ばれた。

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岩櫃城 − Iwabitsu Castle

左手に見える岩櫃城は、右手は岩櫃山の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城である

群馬県西部は吾妻(あがつま)郡東吾妻町原町平沢郷にある標高802mの岩櫃山中腹東面に築かれた岩櫃城は、山頂から200mほど下ったところ(標高593m)に本丸・二の丸・中城を連ねた典型的な中世の山城である。岩櫃山の麓にあるすり鉢状の高原盆地に広がった平沢集落からの比高は100m程、岩櫃城の東を走る吾妻街道からは200m程の高地にある。この城は年代は定かではないが、言い伝えによれば南北朝の頃に藤原鎌足の子孫である吾妻太郎助亮(あがつま・たろう・すけふさ)が築いたとされ、のちに松井田城主斎藤氏の家系が代わって戦国時代まで吾妻を支配していた。永禄6(1563)年に甲斐の武田信玄が上州攻略のため真田幸綱(幸隆)に岩櫃城攻略を命じ、城方の六代目吾妻太郎斎藤越前守憲広は堅城を利して奮戦したがついに落城した。以後、信玄より吾妻郡守護代を命じられた幸綱とその一族が、元和2(1616)年の一国一城令により廃城になるまで支配した。幸綱の三男昌幸は、天正10(1582)年3月に織田・徳川の連合軍に追われ新府城を放棄した武田四郎勝頼と当主・信勝を迎えて再挙を図るために、ここ岩櫃山南面に御殿(現在の潜龍院跡)を三日間の突貫工事で造ったものの、ついに勝頼ら一行が吾妻の地を踏むことはなかった。

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名胡桃城 − Nagurumi Castle

天然の要害に守られ、連郭式崖端城である名胡桃城の二ノ郭は食違い虎口だった

利根川と赤谷川の合流近くに突き出た段丘面に築かれ、三方に切り立った崖を成している天然の要害に守られ、南面のみ狭丘を以って繋がっている名胡桃城は群馬県の利根郡みなかみ町にある。歴史の流れを変えた城としてもたびたび名前がでてくる、この城は室町時代に沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が(のちの般若郭に)館を築いたのが始まりと伝えられている。そして、この付近は上野(こうづけ)と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていた場所であった。天正7(1579)年に、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻し、利根川を挟んで対岸にある沼田城攻略の前線基地として名胡桃城を拡張した。一時、沼田城は真田昌幸の支配下になったものの、天正17(1589)年には関白太政大臣となった豊臣秀吉からの上洛要請を拒む小田原北条氏がその条件として利根・吾妻地域の領有を要求してきたが、昌幸は「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城は渡すことはできない」と突っぱねたため、秀吉は富田左近将監らを派遣して検分させ、「利根川を境として沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯、ただし赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下した。真田は名胡桃城に鈴木重則を、北条は沼田城に猪俣邦憲をそれぞれ城代として置いた。そして同年秋、この名胡桃城を舞台に、ついに全国の大名らを巻き込むことになる大事件が勃発した。

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沼田城 − Numata Castle

河岸段丘に築かれた沼田城本丸から真田氏時代の西櫓台石垣が見つかった

群馬県の北部に位置し、皇海山(すかいさん)・赤城山・武尊山(ほたかやま)などの山々に四方を囲まれ、利根川とその支流の片品川、蓮根川により形成された河岸段丘の上に広がる沼田市には、天文元(1532)年に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰(まんきさい・あきやす)[a]万鬼斎の娘には、先日城攻めした箕輪城主・長野業政の側室がいる。が約三カ年の歳月を費やして、急崖の台地上に築いた沼田城(蔵内城)がある。その後、関東管領山内上杉氏と小田原北条氏との覇権争いに巻き込まれて家中で内紛が起こり、万鬼斎は會津へ逃亡した。そして天正6(1578)年、謙信死後の御館の乱(おたてのらん)に乗じて北条氏邦が沼田城を支配し、弟で氏康七男の上杉景虎を援護しつつ上杉景勝を牽制したものの、翌年には景勝方勝利と景虎自刃で沼田城内は動揺、天正8(1580)年にはその隙をついて武田勝頼の命で上野支配に動いていた真田昌幸の計略により、疑心暗鬼になった城将・藤田信吉[b]鉢形城主・北条氏邦は藤田康邦の婿養子であり、信吉(のぶよし)は康邦の孫にあたる。の内応を誘い開城させ武田氏の城となると、沼田城と呼ばれるようになる。翌9(1581)年には、沼田万鬼斎の子・平八郎景義(かげよし)[c]摩利支天の再来と云われた勇将だったらしい。が悲願の沼田城奪回を計って挙兵するも、戦では叶わないとみた昌幸の策略で謀殺された。さらに同10(1582)年に武田家が滅亡し、天正壬午の乱を経て、同18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後は昌幸の嫡男・信幸が城主となり城下町の整備を行った。

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a 万鬼斎の娘には、先日城攻めした箕輪城主・長野業政の側室がいる。
b 鉢形城主・北条氏邦は藤田康邦の婿養子であり、信吉(のぶよし)は康邦の孫にあたる。
c 摩利支天の再来と云われた勇将だったらしい。

箕輪城 − Minowa Castle

榛名山麓の丘陵上に築かれた箕輪城の大手門は虎韜門と呼ばれている

群馬県高崎市箕郷(みさと)町にある箕輪城は、今から500年近く前の明応から永世(1492〜1521)年間に関東管領・山内上杉氏の下で西上野を治めた箕輪衆筆頭の長野業尚(なりひさ)によって、榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に築かれた梯郭式平山城である。それから時代が戦国の世に移り変わるにしたがって勢力を拡大していった子の憲業(のりなり)と孫の信濃守業政(なりまさ)の代に一段と城が強化された。特に業政は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、そして越後の長尾景虎ら三雄が上州を舞台にして互いに覇権を争った時代に、あくまでも関東管領・山内上杉家の再興を図って箕輪衆を束ね、多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で孤軍奮闘した勇将である。業政死後、甲州勢の猛攻に子の右京進業盛(なりもり)は父の遺志を守り将兵一体となってよくよく防戦したが、永禄9(1566)年に箕輪城はついに落城した。信玄は内藤修理亮昌豊を城代として上野経営の拠点としたが、天正10(1582)年の滅亡後は織田家中の滝川一益が在城し、信長横死の後は北条氏康が四男氏邦が城主となった。さらに天正18(1590)年の北条氏滅亡後は徳川家康が重臣である井伊直政を封し、城の大改修と城下町を整備させた。その後、慶長3(1598)年に直政が上野和田城[a]のちの高崎城である。を居城としたのにあわせて箕輪城は廃城となった。

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a のちの高崎城である。

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