城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 武蔵国 (1 / 3 ページ)

現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部で、武蔵国または武州と呼ばれた

雉ヶ岡城 − Kijigaoka Castle

雉ヶ岡城の南ノ郭南側にある土塁は上下二段の構造になっていた

埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。

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a 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。
b あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。
c もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。
d こののちに「夏目」姓を名乗った。
e 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。
f 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。

滝山合戦と廿里古戦場 − The Siege of Takiyama Castle

2万の軍勢で滝山城を包囲した武田信玄は拝島大日堂に本陣を置いたと云う

関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。

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a のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。
b 善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。
c 永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。
d 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。

武蔵滝山城 − Takiyama Castle(TAKE2)

滝山城の本丸と中の丸の間にある大堀切には木橋が架かっていた

東京都八王子市高月町から丹木町三丁目までの敷地を有する都立滝山公園は多摩川に面した加住《かすみ》丘陵上にあり、今から500年前の大永元(1521)年に武蔵国の守護代を務めていた大石氏[a]元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。が築いたと伝わる滝山城跡[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。にあたる。滝山城は、こののち関東管領上杉氏を駆逐した小田原北條氏康の三男・氏照[c]別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。の居城となり、北の多摩川と南の谷地川に挟まれるように続く東西およそ900mの天然の要害として拡張が繰り返された平山城で、現在でも北條流築城術[d]曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。を随所で伺うことができる城跡である。また近年の研究では、永禄4(1561)年に越後国の上杉輝虎[e]云わずと知れた、のちの上杉謙信率いる越軍が小田原北條氏の居城である小田原城を攻めた際に滝山城下[f]滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。で攻防戦があったと云う記録がないことから、氏照ははじめ浄福寺城(由井城)を拠点とし、このときの教訓から越軍や甲軍らを監視するために小田原城の支城として新たに築いたのが滝山城と云う説がある。昭和26(1591)年に国史跡に指定され、現在は都とNPO法人の有志らによって整備保全が行われている。

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a 元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。
c 別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。
d 曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。
e 云わずと知れた、のちの上杉謙信
f 滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。

滝の城 − Takino Castle

滝の城の二の郭と外郭との間には逆L字型の中堀が残っていた

柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌江戸城河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。

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a のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。
b 江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。
c 伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。
d のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE3)

秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

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a 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE2)

八王子城の大手道から「新しい」曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市元八王子町にある八王子城は小田原北條氏康の三男・氏照[a]兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。が築いた関東でも屈指の山城であり、本城である小田原城に対して北條氏最大の支城である。築城は天正10(1582)年頃から始まり、五年後の天正15(1587)年には滝山城から居城が移された。往時、最新の技術を駆使して築かれた城は織田信長が築いた安土城を参考にしたともされ、従来の「土の城[b]北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。」から石垣を多用し、尾根筋には堀切は設けずに段郭を連続させて「高低差」による備えを採用した[c]滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。。城域は深沢山[d]現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。を中心として、その尾根や谷に築いた多数の郭からなる要害地区、山腹に御主殿を建てた居館地区、城山川に沿って麓に形成された城下町の根小屋(ねごや)地区で構成されていた。また深沢山山頂には本丸が置かれていた他に、尾根筋の西端にあって本丸よりも高い場所[e]標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。には詰城(つめのしろ)が築かれ、天守に相当する物見櫓が建っていた。さらに城下町から城山川対岸の尾根筋には太鼓丸(太鼓曲輪)を築いて、根小屋地区を囲む惣構としていた。なお八王子城の詰城は、天正18(1590)年に関白秀吉が派遣した軍勢[f]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。に備えて急遽増築した郭であるが落城した時点でも未完成だった。

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a 兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。
b 北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。
c 滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。
d 現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。
e 標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。
f 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。

菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

品川御台場 − Shinagawa Daiba

東京湾埋め立てで姿を消したかっての海上砲台で残っている第三台場跡

東京都港区台場1丁目10番1号にある台場公園は、品川御台場(しながわおだいば)の一つであった第三台場の跡地を利用して昭和3(1928)年に開園し、さらに昭和50(1975)年には有明側に陸続きで連結されて、現在は砂浜や磯が広がるお台場海浜公園の一部として都会のオアシス的な憩いの場になっている[a]海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。。かっての品川御台場は、江戸時代は嘉永6(1853)年に米国合衆国海軍のペリー提督[b]マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。が「黒船」を率いて来航したことに危機感を持った幕府が江戸防衛のために建造した西洋式の海上砲台[c]「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。だった。ペリーが開国の猶予のために日本を去ったあと、江戸湾の品川沖に11基[d]海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。の台場建設を、伊豆韮山で反射炉の建造に携わった江川太郎左衛門栄達(えがわ・たろうざえもん・ひでたつ)に命じ、およそ8ヶ月で第一・第二・第三の台場が竣工、江戸湾防衛を任されていた川越藩、会津藩、忍藩がそれぞれ守備に着いた。すると翌7(1854)年に江戸湾に再来したペリーは砲台のために横浜まで引き返して上陸せざるを得なくなったと云う。同年には第五・第六の台場の他、御殿山下台場も竣工し、さらに第七台場も工事が進んでいたが、日米和親条約が締結されて以降は工事が中止となり、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。

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a 海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。
b マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。
c 「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。
d 海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。

深大寺城 − Jindaiji Castle

深大寺城の第二郭跡からは九棟の掘立柱建物が発見され一部が平面復元されていた

関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部[a]読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。で標高50mほどの舌状(ぜつじょう)台地上に築かれていた深大寺城は現在の東京都調布市深大寺元町にあり、三つの郭(くるわ)が直線的に連なった連郭式平山城であった。戦国時代初期、関東の覇権を巡って小田原北条氏と争っていた扇ヶ谷上杉氏が南武蔵の防衛ラインを強化するため、往時「深大寺のふるき郭」と呼ばれていた砦跡を修築し、重臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)[b]弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。を城主として反抗拠点とした。城の西側を除く三方は開折谷(かいせきだに)[c]地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。によって形成された沼沢地(しょうたくち)が広がり、その西側にも湧水を集めた支谷(しこく)を持ち、南側はさらに比高15mをほどの国分寺崖線(こくぶんじ・がいせん)によって多摩川と画され、その対岸をも望見することができたと云う。城内は横矢掛(よこやがかり)の虎口や郭を囲む土塁、郭を分断する空堀など防衛設備が強化されていた。戦国時代初期にあって名将の誉高く、扇ヶ谷上杉氏の勢力拡大の先鋒を担っていた太田道灌が謀殺されて以来、扇ヶ谷上杉氏の権勢は振るわず、山内上杉氏・古河公方との三つ巴の争いで互いに疲弊しきっていた間隙をついて三浦道寸[d]相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。を滅ぼし相模国を奪った小田原北条氏による武蔵国への侵攻が始まった。

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a 読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。
b 弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。
c 地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。
d 相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。

柳河藩立花家江戸屋敷跡 − Tachibana’s Edo Residences of the Yanagawa Domain

東京都台東区界隈にあった柳河藩・立花家の江戸藩邸跡には太郎稲荷が建っていた

福岡県・筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めまで12万石の柳河藩[a]本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万余石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし宗茂は、秀吉死後におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍について敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。あとを継いだのが石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領した田中吉政で、同じく柳川で領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる町作りに貢献したと云う。その後、田中家は無嗣断絶のために二代で改易となり、元和7(1621)年に奥州棚倉の赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束(せんぞく)から下谷(したや)、そして三筋(みすじ)周辺にあたる。

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a 本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。
b 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。
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