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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 武蔵国 (1 / 2 ページ)

現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部で、武蔵国または武州と呼ばれた

石神井城 − Syakujii Castle

年に一度開放される石神井城の主郭は、池と急崖に囲まれ三方に堀と土塁が巡らされていた

東京都練馬区石神井台1丁目18にあった石神井城は、北は三宝寺池(さんぽうじ・いけ)、南は石神井川に挟まれた台地上に築かれた単郭もしくは連郭[a]現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。式平山城である。鎌倉時代から、葛西、江戸両氏とともに秩父平氏[b]桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。の流れをくむ有力国人・豊島(としま)氏の居城であり、石神井郷を治める拠点としていた。平氏没落により所領を失っていた豊島氏であったが、のちに鎌倉公方[c]簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。と関東管領[d]簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。との間で起こった争いで鎌倉公方・足利持氏に味方した功績から旧領を回復した。室町時代に入り京で応仁の乱が勃発すると、再び鎌倉公方と関東管領との間で争い[e]いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。が起こった上に、関東管領勢で長尾景春[f]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が反旗を翻し、鎌倉公方と連携して対立した。この時、石神井城主の豊島泰経(としま・やすつね)は、妻の兄である景春に味方して弟の泰明(やすあき)と共に挙兵した。関東管領勢にとって江戸城河越城岩付城との連絡を遮断する位置あった石神井城の存在は脅威であったため、文明9(1477)年に関東管領勢の太田道灌は三浦義同[g]読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。、千葉自胤らと平塚城を攻めたあとに泰経・泰明兄弟らと激突、これを痛破した。この時、泰明以下一族の多くが討死にした。石神井城に逃れた泰経であったが道灌らの総攻めにあって城を脱出、石神井城は落城した。

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a. 現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。
b. 桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。
c. 簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。
d. 簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。
e. いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。
f. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
g. 読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。

志村城 − Shimura Castle

志村城の二ノ丸跡には熊野神社があり、社殿は古墳の上に建てられていた

武蔵千葉氏ゆかりの城である志村城は、康正2(1456)年に千葉自胤(ちば・よりたね)が扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。の助けを借りて赤塚城に入城した際に、彼の一族である千葉隠岐守信胤(ちば・おきのかみ・のぶたね)を配して赤塚城の前衛拠点としていたと云う。ここ東京都板橋区志村にある丘陵地に築かれていた志村城の築城時期は不詳であるが、一説に南武蔵の石神井城を居城として勢力をふるい、のちに長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。の乱に乗じて小机城で太田道灌と対峙した豊島泰経(としま・やすつね)の先祖が築いたとも。この城の本丸は、現在の区立志村小学校を中心とした比高20mほどの舌状台地上にあったとされ、周囲に出井川(でいがわ)[c]かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。と荒川をめぐらせ、城の北・西・南側は急崖のうえに湿地帯であったため「守るに易く攻めるに難し」と云われた堅城であった。しかし大永4(1524)年に小田原の新興勢力・伊勢氏綱[d]のちの北条氏綱。に攻められて落城し、北条氏配下に入ったが、豊臣秀吉の小田原仕置後に志村城は廃城となった。現在は宅地化の波に埋もれ遺構は殆どといってよいほど期待できないが、城山と云う台地の上にある城山熊野神社はかっての二ノ丸跡で、その社殿は古墳の上に建ち、境内には横矢掛かりの空堀の一部が残っていた。

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a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c. かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。
d. のちの北条氏綱。

赤塚城 − Akatsuka Castle

さくら並木でも有名な赤塚公園の城址広場は往時は赤塚城本丸であった

東京都板橋区赤塚5丁目にある赤塚溜池公園[a]公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。南側の台地上には、かって赤塚城が築かれていた。この城の築城年は不詳であるが一説に、康正2(1456)年に武蔵千葉氏[b]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が親の仇である古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗して下総国市川城[c]国府台城であったと云う説あり。に籠城したが寄せ手の梁田持助(やなだ・もちすけ)に敗れ、扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[d]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。を頼りに武蔵国へ落ち延び、彼らを庇護した道灌は兄の実胤を武蔵石浜城[e]現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。へ、弟の自胤を赤塚城に置いたとされる。現在の城址公園あたりは高島平のベッドタウン化に伴って急速に開発が進み、それまで明瞭に残っていた遺構が殆ど確認できないほどに改変されてしまったと云う。その結果、現在は本丸跡と堀切跡、そして石碑が残っているだけである。城址の北と東と西の三方の台地縁は自然の谷で区画され、北側の溜池あたりは外堀であったとされ、往時の赤塚城は北側を流れる荒川の早瀬の渡しを一望し、武蔵国北部と南部、江古田に至る鎌倉街道を押さえる要衝であったが、のちに武蔵千葉氏が小田原北条氏麾下となった後は、主家と運命を共にし豊臣秀吉の小田原仕置後に赤塚城は廃城となった。

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a. 公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。
b. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
c. 国府台城であったと云う説あり。
d. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。

岡城 − Oka Castle

黒目川が取り巻く舌状台地に築かれた岡城の子細は不明であるが太田道灌が関与しているとも

かって「岡の城山」(おかのしろやま)とも呼ばれていた埼玉県朝霞市岡にある城山公園は、今から約8000〜4500年前の縄文時代から遺る遺跡[a]貝塚が発見されている。であり、戦国時代前期には黒目川(くろめがわ)[b]東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。を真下に見る舌状(ぜつじょう)台地の先端部を利用した岡城[c]朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。なる連郭式平山城が築かれていたとされる。この当時の築城者や城主については現在のところ不詳であるが、文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺん・むさし・ふどきこう)の中には名将・太田道灌資長[d]読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。や、その曾孫・太田新六郎康資[e]読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。との関係ついて記述があると云う。築城の才が豊かな道灌は稲付城の例にあるように、台地の先端が「舌」のような形になっている舌状台地を利用して城を築くことが多いようで、北は河越城岩付城、南は赤塚城志村城、稲付城といった規模の大小を問わずに江戸城の防衛線を構築していたのではないかと見ることができる。岡城が築かれた台地は西から東へ延びており、西側にある日蓮宗・本仙寺(ほんせんじ)付近で細く括れた独立丘陵状を呈しており、標高は約19mで周囲の低地との比高は12〜14mほどで、城内は堀切や「折れひずみ」と呼ばれる空堀、そして土壇によって区分けされた郭が連なっていたとされる。

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a. 貝塚が発見されている。
b. 東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。
c. 朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。
d. 読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。

稲付城と道灌山 − Inatsuke Castle and Doukan-Yama Fort

日暮里駅前には江戸城の周囲に砦城を築いた太田道灌の騎馬像が建っていた

室町時代後期の武将で、武蔵国の扇ヶ谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦を指揮した太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。は軍略・軍才はもちろんのこと築城の才能も抜群で、康正2(1456)年から長禄元(1457)年にかけて江戸城河越城、そして岩付城を築いたことは有名であるが、他にもこれらの城の支城や砦なども築いており、500年以上経った都内各所には現在も遺構や伝説が残っている。その中で武蔵野台地北東端に天然の地形を利用して築かれたとされる稲付(いなつけ)城は、東京都北区赤羽の静勝寺(じょうしょうじ)にあたり、道灌が築いた戦国時代初期の砦跡と伝えられている。後年、彼の子孫が城址を含めた土地を寄進し、道灌と彼の父・道真の法号により自得山静勝寺と改称したと云う。また文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として記述があるのだとか。そして稲付城南東にある飛鳥山[b]現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。から上野へ向かって南下した台地の縁にある道灌山もまた道灌が江戸城の出城として築いたと云う伝承があり、現在はその一部が西日暮里公園として残されている。かって、この台地に広がる寺町あたりは「ひぐらしの里」と呼ばれ、寺社が競って庭園を造り、花見の名所でもあった他にも筑波山や日光山を展望することができたと云う。

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a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。

茅ヶ崎城 − Chigasaki Castle

早渕川に張り出す丘陵上に築かれた茅ヶ崎城の中郭は高い土塁で囲まれていた

神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎[a]神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。は旧港北区の北西部にあたり、現在は横浜市の行政区として再編され港北ニュータウンとして生活拠点に指定された街であるが、その街を流れる鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)中流右岸にある三角山[b]現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。から東へ連なる標高28m〜35mほどの丘陵上に茅ヶ崎城[c]この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。がある。この城の近くには、往時は関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っており、東には相模国と武蔵国江戸を結ぶのちの中原街道が、そして西には矢倉沢街道に通じており、まさに交通の要衝の地に築かれた平山城であった。この城の築城とその年代については正確な史料がないため、平成2(1990)年から始まった発掘調査の結果から築城年代は14〜15世紀前半頃で、少なくとも二度に渡る大規模な改築跡が認められた。それにより15世紀後半の相模国と武蔵国は関東管領・山内上杉氏の所領であり、その後は小田原北条氏の支配を受けていたと考えるのが専らとされている。現在残る遺構も、早渕川に張り出した丘陵上に複数の郭が連なり、それらを取り巻く空堀や堀切、外縁部に築かれた高い土塁、そして中郭東にあった二重土塁などは「北条流築城術」が伺え、その保存状態も良好である。

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a. 神奈川県茅ヶ崎市とは異なる。ここは横浜市都筑区(よこはまし・つづきく)である。
b. 現在の横浜市営地下鉄のセンター南駅付近の旧名称である。
c. この茅ヶ崎周辺は標高が低い盆地にあるので、比高差は意外と大きい。

杉山城 − Sugiyama Castle

鎌倉街道を見下ろす丘陵に築かれた杉山城南二の郭と南三の郭は屏風折れの切岸と堀を持つ

埼玉県比企郡嵐山(さいたまけん・ひきぐん・らんざん)町にある杉山城は、(旧)鎌倉街道を見下ろす丘陵の山頂に築かれた本郭を中心に、北・南・東の三方の尾根上に複数の郭(くるわ)を配した連郭式平山城である。総面積は約80,000㎡にも及び、丘陵の高低差を利用して巧みに築かれた縄張は、市野川を外堀としたまさに自然の要害と呼ぶに相応しい県内でも屈指の名城として評価されているが、この城の築城年代や築城主については現在[a]城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。でも不明である。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、横矢掛かりを仕掛けるための複合的な虎口、馬出として利用していた郭など、現存する遺構の保存状態は良好で、その技巧的な城構えからは戦国時代後期の小田原北条氏によるものとされていたが、近年は発掘された土器や陶磁器といった遺物の製造年や近隣の武州松山城の存在の他に、同時代とする山中城などに見られた北条流築城術の特徴が無いことから、戦国時代初期の関東管領山内上杉氏とする説が有力となった[b]本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。。しかし、依然として出土遺物だけで年代を確定するのは説得力が乏しいとされ、縄張や虎口の類似性、築城技術の差などから後北条氏によるものとする主張も多く、今もなお『杉山城築城の謎』として物議を醸している。

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a. 城攻め当時なので平成27(2015)年5月現在である。
b. 本訪問記執筆現在でも埼玉県嵐山町の杉山城のホームページでは山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に対抗して築城したものと説明されていた。

武蔵松山城 − Musashi Matsuyama Castle

比企丘陵の先端に築かれた松山城は市野川の急流で削り取られた急峻な崖地を利用した平山城である

今から620年以上前の応永年間初期に扇ヶ谷上杉氏家臣の上田友直が、それまでの砦から本格的な城に仕上げたのが始まり[a]この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。とされる埼玉県比企郡吉見町にある武州松山城は、市野川が形成した広大な湿地帯に突き出す比企丘陵東端に築かれていた連郭式平山城である。15世紀後半に京都で起こった応仁の乱が全国に飛び火し、ここ関東でも長年の間、関東管領と古河公方、そして地侍らを巻き込んだ戦乱期が続いていたが、室町時代後期に相模国から伊勢新九郎率いる新興勢力(のちの小田原北条氏)の台頭が著しくなると、旧体勢力側に「回されてしまった」扇ヶ谷と山内両上杉氏、そして古河公方らは「敵の敵は味方」の理のごとく合力して対抗するようになった。それまで武蔵国中原の要衝として幾多の争奪戦が展開されたここ武州松山城もまた伊勢氏に抗する拠点となった。天文6(1537)年に扇ヶ谷上杉家当主の朝興(ともおき)が河越城で病死すると、関東制覇を強力に推し進める伊勢氏綱・氏康親子は河越城を奪取、総崩れとなった上杉勢は武州松山城に退却した。氏綱は手綱を緩めることなく追撃するが、城代・難波田憲重(なんばだ・のりしげ)らの奮戦で撃退[b]この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。されると、武州松山城は扇ヶ谷上杉氏の居城となった。

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a. この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。
b. この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。

河越城 − Kawagoe Castle

小江戸川越に残る川越城本丸御殿は県庁、工場、学校を経て現在に至る

室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。

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a. 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。

江戸城 − Edo Castle (TAKE3)

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在唯一残る多聞櫓の富士見多聞

現在、天皇の平時における宮殿であり居住地である皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家[a]江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。が居城としていた江戸城跡にあり、その後は明治元(1868)年に東京城(とうけいじょう)に改名され、翌2(1869)年の東京奠都(とうきょうてんと)[b]明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。後は皇城(こうじょう)と称された。そして明治21(1888)年に明治宮殿が完成したことにより宮城(きゅうじょう)に改名され、太平洋戦争後の昭和23(1948)年には現在の「皇居」に改名された。この皇居が江戸城と呼ばれていた時代、その城の最盛期は寛永15(1638)年の天下普請で最後の天守閣が完成した頃であり、外郭にあたる総構えは周囲が約4里[c]日本の一里は約3.924kmである。(15.7㎞)、東西約50町[d]日本の一町は約109.09mである。(5.45㎞)、南北約35町(3.82㎞)、面積は2082haに及んでいたと云う。その一方で、現在の皇居にあたる内郭[e]内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。の周囲は約2里(7.85㎞)、東西約21町(2.29㎞)、南北約17町(1.85㎞)、そして面積は424.8haであったとされる[f]東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。。外濠より内側の城域、いわゆる外郭はちょうど現在の千代田区全域と、それに隣り合う港区と新宿区との境界の一部、そして神田駿河台を掘削して造った神田川が含まれている。そして内郭に建てられていた建造物は合わせて149棟[g]天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。にのぼり、その外観はまさに「日の本一(ひのもといち)の城塞」と言えよう。

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a. 江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。
b. 明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。
c. 日本の一里は約3.924kmである。
d. 日本の一町は約109.09mである。
e. 内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。
f. 東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。
g. 天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。
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