北関東の大宮台地[a]現在の埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる洪積台地《コウセキダイチ》。と猿島台地[b]現在の茨城県南西部の古河市から坂東市・守谷市・取手市あたりに伸びる台地。に挟まれた加須《カゾ》低地にあって、周囲が湿地帯の微高地[c]微地形または埋没台地とも。小規模で微細な起伏を持つ地形。に築かれていた花崎城は、築城者や築城年代などは不詳であるが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿[d]江戸幕府が編纂した武蔵国の地誌で、文化7(1810)年から約二十年を費やして完成した。現在は国立公文書館蔵。』《シンペン・ムサシ・フドキコウ》によると、戦国時代には濠を巡らした居館が建っていたとされ、さらに近隣で「太田荘の総鎮守」として知られた鷲宮神社[e]花崎城跡の最寄り駅で東武伊勢崎線・花崎駅の隣駅が鷲宮駅。に伝わる『莿萱《ハリガヤ》氏系図』によれば、同時代に鷲宮神主を務めていた細萱(大内)氏[f]はじめ「細萱《ホソガヤ》」を名乗っていたが、のちに「大内」改めたと云う。の居城・粟原城《アワバラ・ジョウ》の支城であったと云う。この一族は、この時代の一つ転換点となった河越夜戦後、古河公方の勢力から小田原北條氏の傘下に入り、姓を改めて北関東攻略の一翼を担ったと云う。花崎城跡は、昭和の時代の発掘調査で北條流築城術の特徴とされる畝濠や障子濠などが検出した他、縄文早期の土器や平安時代の住居跡も出土したと云う。現在は花崎遺跡として埼玉県加須市の文化財(史跡)に指定され、城の遺構は花崎城山公園下[g]東武伊勢崎線によって分断された城跡公園もその一部。に埋没保存されている。
カテゴリー: 武蔵国 (1 / 4 ページ)
現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部で、武蔵国または武州と呼ばれた
埼玉県加須《カゾ》市根古屋633-2にあった私市城[a]これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。《キサイ・ジョウ》は利根川とその支流が注ぐ平野部に位置し、江戸時代に編纂された武蔵国各郡の地誌目録である『武蔵志』によると「城地平にして亀の甲の如し」と記され、沼沢《ショウタク》[b]浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。に浮かぶ要害であったと伝わる。築城時期は不詳であるが、城の名は武蔵七党《ムサシ・シチトウ》を構成する武士団の私市党《キサイ・トウ》に由来すると云われる[c]ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。。一方で、室町時代後期の歴史書『鎌倉大草紙《カマクラ・オオオゾウシ》[d]康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。』には、康生元(1455)年に古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に攻められて落城したとあり、これが歴史上の初見とされる。その後は、戦国乱世の関東にあって関東管領・山内上杉氏、古河公方・足利氏、小田原北條氏、そして越後上杉氏らによる争奪戦の舞台ともなった。現在残る遺構は江戸時代に立藩した私市藩の一部であるが、昭和時代の発掘調査で東西320m、南北260mの範囲に複雑な形状をした障子堀[e]豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。が広範囲に渡って発見された。
唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。
埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北条氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。
鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城の長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏・越後上杉氏・甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。
埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。
参照
↑a | 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。 |
---|---|
↑b | あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。 |
↑c | もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。 |
↑d | こののちに「夏目」姓を名乗った。 |
↑e | 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。 |
↑f | 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。 |
関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。
東京都八王子市高月町から丹木町三丁目までの敷地を有する都立滝山公園は多摩川に面した加住《かすみ》丘陵上にあり、今から500年前の大永元(1521)年に武蔵国の守護代を務めていた大石氏[a]元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。が築いたと伝わる滝山城跡[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。にあたる。滝山城は、こののち関東管領上杉氏を駆逐した小田原北條氏康の三男・氏照[c]別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。の居城となり、北の多摩川と南の谷地川に挟まれるように続く東西およそ900mの天然の要害として拡張が繰り返された平山城で、現在でも北條流築城術[d]曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。を随所で伺うことができる城跡である。また近年の研究では、永禄4(1561)年に越後国の上杉輝虎[e]云わずと知れた、のちの上杉謙信。率いる越軍が小田原北條氏の居城である小田原城を攻めた際に滝山城下[f]滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。で攻防戦があったと云う記録がないことから、氏照ははじめ浄福寺城(由井城)を拠点とし、このときの教訓から越軍や甲軍らを監視するために小田原城の支城として新たに築いたのが滝山城と云う説がある。昭和26(1591)年に国史跡に指定され、現在は都とNPO法人の有志らによって整備保全が行われている。
参照
↑a | 元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。 |
---|---|
↑b | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。 |
↑c | 別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。 |
↑d | 曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。 |
↑e | 云わずと知れた、のちの上杉謙信。 |
↑f | 滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。 |
柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌が江戸城と河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。
小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。
最近のコメント