長野県伊那市高遠町東高遠にある高遠城址公園はかっての高遠城[a]別名は渭山《イスイ》城、または兜山城とも。跡で、戦国時代初めに信濃国諏訪郡一帯を治めていた諏訪家一門の高遠頼継《タカトオ・ヨリツグ》の居城であった。そして天文10(1541)年、甲斐国の新しい主となった武田晴信は頼継と共に諏訪郡へ侵攻[b]頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。しこれ平定するが、もともと諏訪家惣領になりたがっていた頼継は若い晴信を侮ってのちに兵をおこし武田の守兵を追い払うと諏訪の上・下両社を手に入れた。怒った晴信は天文13(1544)年に頼継を一戦に打ち破って伊那郡を平定すると、山本勘助と秋山虎繁[c]諱《イミナ》として有名なのは「信友《ノブトモ》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。に命じて伊那谷における拠点として高遠城を改修させた。さらに永禄5(1562)には晴信と諏訪御料人との間に生まれた四郎勝頼が城主となるが、元亀4(1573)年に晴信(信玄)が没し、天正3(1575)年には長篠・設楽原合戦で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗、そして信長らによる甲州征伐が始まると高遠城は最終防衛拠点として勝頼の異母弟である仁科五郎盛信が入城し寡兵で織田の大軍を迎え撃った。
カテゴリー: 信濃国
現在の長野県と岐阜県中津川市の一部で、信濃国《シナノノクニ》または信州《シンシュウ》と呼ばれた
長野県松本市大字蟻ヶ崎1219にある城山公園《ジョウヤマ・コウエン》は江戸から明治の頃に公園化[a]天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸《トダ・ミツツラ》が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。され、現在は北アルプスを眺望できる展望台が建っている他に松本ゆかりの文化人の歌碑が建つ。その一方で山城としての歴史は古く、南北朝時代に信濃国守護の小笠原氏が本城の林城に対して築いた支城の一つで、築城者は不明であるものの守護を補佐した在庁官吏の一人で豪族の犬甘《イヌカイ》氏であると云う説がある。永正元(1504)年に小笠原貞朝《オガサワラ・サダトモ》の家臣・島立右近貞永《シマダテ・ウコン・サダナガ》が松本盆地に築いた深志城の他に犬甘氏の親族である桐原氏が築いた桐原城、田川の河川の縁に築いた井川城、山辺《ヤマベ》城、埴原《ハイバラ》城、稲倉《シナグラ》城など多くの城が林城の属城であったと云う。しかし天文19(1550)年には同じ甲斐源氏の庶流である武田晴信[b]のちに号して武田大膳大夫信玄《タケダ・ダイゼンタユウ・シンゲン》。に攻められ、これらの属城がことごとく陥落した。時の当主・小笠原長時[c]深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟《ナガムネ》。は林城を捨てて犬甘城の北にある平瀬城へ逃げ、さらに村上義清を頼って葛尾城へ落ち延びた。村上の援軍を待っていた犬甘城では馬場信房の偽計によって抵抗することなく乗っ取られてしまったと云う[d]慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉《フタツギ・シゲヨシ》が著した「二木家記」より。。
長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長《ヤスナガ》父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠《カッツル・トウゲ》の戦い」とも。で大敗した小笠原長時《オガサワラ・ナガトキ》が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡し織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶《オガサワラ・サダヨシ》[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城《カラスジョウ》」と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。
参照
↑a | のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。 |
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↑b | 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。 |
↑c | ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。 |
↑d | 「勝弦峠《カッツル・トウゲ》の戦い」とも。 |
↑e | 俗に云う天正壬午の乱。 |
↑f | 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。 |
↑g | 近年、別名として「烏城《カラスジョウ》」と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。 |
信濃国一之宮として諏訪郡の中で格式の高い名神大社[a]日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。である諏訪大社にあって上社《カミヤシロ》[b]「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。の大祝《オオホウリ》であり諏訪郡の領主を司った諏訪氏は、平安時代から神職にありながら武士として生きてきた一族である。戦国時代に入って第19代当主・諏訪頼重《スワ・ヨリシゲ》[c]諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。を最後に諏訪惣領家は滅亡した[d]そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。が、上社大祝職については頼重の叔父にあたる諏訪満隣《スワ・ミチツカ》が継承するに至った。そして武田家が滅亡し織田信長が横死した後に信濃国で勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて満隣の三男・頼忠《ヨリタダ》が諏訪家を再興したが、徳川家康に敗れ臣従するも、豊臣秀吉による小田原仕置後に家康が関東へ移封されるとこれに従った。代わって2万7千石で諏訪郡の領主となった日根野織部正高吉《ヒネノ・オリベノカミ・タカヨシ》は諏訪湖畔の島状を呈した場所に諏訪高島城を七年かけて築城した。城域の際まで諏訪湖の水が迫り、湿地に囲まれた連郭式平城は「諏訪の浮城」とも呼ばれ、関ヶ原の戦後に旧領復帰した諏訪頼水《スワ・ヨリミズ》以降、廃城までの約270年の間は諏訪氏の居城となり、現在は長野県諏訪市高島1-20-1の高島公園としてその一部が残る。
参照
↑a | 日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。 |
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↑b | 「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。 |
↑c | 諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。 |
↑d | そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。 |
↑e | 俗に云う天正壬午の乱。 |
長野県上田市二の丸6263番地イにあった上田城は、天正11(1583)年に信濃の戦国大名・眞田昌幸が千曲川を南に望む河岸段丘上に築いた城である。しかし現在、上田城跡公園の城跡に残る櫓や堀、石垣といった遺構は、江戸時代初期の元和8(1622)年に小諸から移封された仙石忠政[a]父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。が改修した時のものである。関ヶ原前哨戦で昌幸が徳川本隊を足止めした第二次上田合戦後、手塩に掛けて整備した城は徳川の手で徹底的に破却され堀も埋められたままであったが、忠政は幕府に城の普請を請い、小諸城のように櫓や石垣を多用し質実剛健な近世城郭として新たに再建しようとした。従って現在の城跡は眞田氏時代の縄張が一部流用されているものの、城郭そのものは全く別物である。また再建中に忠政が死去したため普請は中断となり、未完のまま仙石氏は転封、のちに藤井松平家[b]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。が入城し、そのまま幕末を迎えた。上田城は明治時代の廃城令で破却され、建物は民間に売却されるなどして、七棟あった櫓は西櫓が残るのみとなった[c]北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。。しかしながら昭和24(1949)年には、上田市民の寄付により北櫓と南櫓の二棟が元の場所に移築復元され、平成6(1994)年には本丸東虎口櫓門と土塀が復元されるに至り、今後も二の丸土塁などの復元が予定されている。
長野県長野市にある松代城は、永禄3(1560)年頃に甲斐の武田信玄が北信濃支配と越後の上杉家に対する軍事拠点として山本勘助に命じて築いた海津城が始まりと云われている。翌4(1561)年に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、当時城代であった春日虎綱(高坂弾正昌信)は信玄ら本隊の到着を待ち、甲越両軍が八幡原で激突した(第四次川中島合戦)。そして、天正9(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田家の森長可《モリ・ナガヨシ》が、そして同年の信長横死の後は上杉景勝が配下の須田満親《スダ・ミツチカ》がそれぞれ城代となり、慶長3(1598)年に上杉家が會津に転封されると豊臣秀吉の直轄地となった(城代は田丸直昌)。そして慶長5(1600)年には森忠政が城主となるが関ヶ原の戦での功績により美作《ミマサカ》国の津山城に移封されると、慶長8(1602)年に徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。家康ら幕府から疎んじられていた忠輝が改易された後は、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8(1622)年に上田城から眞田信之が10万石で入封し松代藩を藩立した。そして三代藩主の幸道の時代に松代城と改称し、以後約250年間、明治時代の廃藩置県まで眞田家の居城となった。
甲斐武田と越後上杉との間で北信濃の覇権を争った「川中島合戦」は、今から450年も前の天文22(1553)年から永禄7(1564)年に至る十数年、都合5回の永きに亘って行われたが、その中でも後世に広く伝えられ、講談や活劇の題材にもなっている合戦が永禄4(1561)年の第四次川中島合戦こと八幡原《ハチマンバラ》合戦である。甲越双方が決戦を回避した前合戦より3年の間に関東周辺の情勢も大きく変化した。小田原に本拠を置く北條氏康は関東制覇の手を緩めることなく推し進め、前関東管領の上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》と上野の長野業政《ナガノ・ナリマサ》、下野の佐竹義昭・義重、安房の里見義堯《サトミ・ヨシタカ》らは苦境に陥ち、越後の長尾景虎に助けを求める。彼らの要請に応じた景虎は関東へ侵攻するも、氏康は難攻不落の小田原城に籠城する。一方、同盟国北條氏の危機を知った武田信玄は景虎を牽制するために、北信濃の川中島に海津城を築城し信越国境に出陣して景虎の背後を脅かした。これが功を奏し、景虎は北條氏と決戦できぬまま、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職と山内上杉家を相続する儀式を執り行い、上杉憲政から偏諱を受けて上杉(藤原)政虎と改名、越後に帰国した。政虎は小田原北條氏を滅ぼし、関東管領上杉氏を再興するには、まず背後で蠢動《シュンドウ》する信玄を撃滅する必要があると考え、関東から帰国して僅か二ヶ月後には北信濃へ侵攻、海津城に睨みを効かせる妻女山《サイジョサン》に布陣した。
上田城は、天正11(1583)年に眞田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵《アマガフチ》)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった眞田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、眞田家は関東管領となった瀧川一益の麾下に入り、沼田城や岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋城《マヤバシジョウ》を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北條、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、眞田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を越後上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の嫡男・信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。
長野県上田市にある砥石城[a]戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。は、東太郎山の一支脈が神川《カンガワ》に沿って南方に突出している高い尾根の上に築かれ、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山城《コメヤマジョウ》を配す堅固な連郭式山城で、「砥石城」はこれらの城の総称となっている。この城の築城時期や築城主は定かではないが、天文年間(1532〜1555年)には信州葛尾城を居城としていた村上氏の属城であったと云う。時の村上家当主・義清は甲斐の武田信虎と諏訪の諏訪頼重と共に、小県《チイサガタ》の海野平《ウンノタイラ》に侵攻し、海野棟綱ら滋野一族、そして眞田幸綱(幸隆)とその弟の矢沢頼綱らを上州へ追い出して、信州小県郡を支配下に置いた。その後、武田晴信が父・信虎を駿河に追放し、信州佐久郡へ侵攻して村上義清の属将が守る志賀城を陥落させると、村上義清との対立が鮮明となる。天文17(1548)年2月に武田軍と村上軍が上田原で激突し、勝敗は付かなかったものの、武田方は宿老の板垣信方と甘利虎泰が討死するという事実上の大敗を喫した。これにより、一時期は甲斐武田家の信濃経営に陰りが出たが、のちに信濃守護職の小笠原長時を破って挽回し、晴信は上田原の雪辱を果たそうと、村上義清の属城・砥石城攻略に着手した。
参照
↑a | 戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。 |
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長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・瀧川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北條、三河徳川、信州眞田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして関白秀吉による小田原仕置を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、眞田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。
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