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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 関東・甲信越地方 (1 / 7 ページ)

犬甘城 − Inukai Castle

連郭式山城の犬甘城の主郭と二郭を三郭から堀切ごしに眺めたところ

長野県松本市大字蟻ヶ崎1219にある城山公園(じょうやま・こうえん)は江戸から明治の頃に公園化[a]天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸(とだ・みつつら)が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。され、現在は北アルプスを眺望できる展望台が建っている他に松本ゆかりの文化人の歌碑が建つ。その一方で山城としての歴史は古く、南北朝時代に信濃国守護の小笠原氏が本城の林城に対して築いた支城の一つで、築城者は不明であるものの守護を補佐した在庁官吏の一人で豪族の犬甘(いぬかい)氏であると云う説がある。永正元(1504)年に小笠原貞朝(おがさわら・さだとも)の家臣・島立右近貞永(しまだて・うこん・さだなが)が松本盆地に築いた深志城の他に犬甘氏の親族である桐原氏が築いた桐原城、田川の河川の縁に築いた井川城、山辺(やまべ)城、埴原(はいばら)城、稲倉(しなぐら)城など多くの城が林城の属城であったと云う。しかし天文19(1550)年には同じ甲斐源氏の庶流である武田晴信[b]のちに号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。に攻められ、これらの属城がことごとく陥落した。時の当主・小笠原長時[c]深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟(ながむね)。は林城を捨てて犬甘城の北にある平瀬城へ逃げ、さらに村上義清を頼って葛尾城へ落ち延びた。村上の援軍を待っていた犬甘城では馬場信房の偽計によって抵抗することなく乗っ取られてしまったと云う[d]慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉(ふたつぎ・しげよし)が著した「二木家記」より。

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a. 天保14(1843)年に松本藩主・戸田光庸(とだ・みつつら)が桜や楓を植樹して一般庶民にも開放されたのが始まりとされる松本市最古の公園。
b. のちに号して武田大膳大夫信玄(たけだ・だいぜんたゆう・しんげん)。
c. 深志城を築いた貞朝の孫。父は長棟(ながむね)。
d. 慶長16(1611)年に松本藩主・小笠原秀政の家老・二木重吉(ふたつぎ・しげよし)が著した「二木家記」より。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE3)

秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

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a. 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b. 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c. 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE2)

八王子城の大手道から「新しい」曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市元八王子町にある八王子城は小田原北條氏康の三男・氏照[a]兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。が築いた関東でも屈指の山城であり、本城である小田原城に対して北條氏最大の支城である。築城は天正10(1582)年頃から始まり、五年後の天正15(1587)年には滝山城から居城が移された。往時、最新の技術を駆使して築かれた城は織田信長が築いた安土城を参考にしたともされ、従来の「土の城[b]北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。」から石垣を多用し、尾根筋には堀切は設けずに段郭を連続させて「高低差」による備えを採用した[c]滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。。城域は深沢山[d]現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。を中心として、その尾根や谷に築いた多数の郭からなる要害地区、山腹に御主殿を建てた居館地区、城山川に沿って麓に形成された城下町の根小屋(ねごや)地区で構成されていた。また深沢山山頂には本丸が置かれていた他に、尾根筋の西端にあって本丸よりも高い場所[e]標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。には詰城(つめのしろ)が築かれ、天守に相当する物見櫓が建っていた。さらに城下町から城山川対岸の尾根筋には太鼓丸(太鼓曲輪)を築いて、根小屋地区を囲む惣構としていた。なお八王子城の詰城は、天正18(1590)年に関白秀吉が派遣した軍勢[f]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。に備えて急遽増築した郭であるが落城した時点でも未完成だった。

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a. 兄には、長男である新九郎氏親(しんくろう・うじちか)、次男の氏政がいる。氏親が早世したため氏政が嫡男となった。弟には氏規(うじのり)、氏邦(うじくに)、そして上杉家の養子となった三郎こと上杉景虎がいる。
b. 北條流築城術による関東ローム層の粘土を使った城郭である。
c. 滝山城が甲斐の武田信玄によって落城寸前まで攻められた苦い経験により、氏照は馬出や内枡形を使った平山城の限界を痛感していたとも。
d. 現在の城山。標高は446m。八王子城山とも。現在は圏央道の八王子城トンネルが貫いている。
e. 標高は470mで八王子城域で最も高い場所にある。すぐ側にある大堀切は圧巻。
f. 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野(こうずけ)の真田昌幸・信繁ら1万5千の「北国勢」。

松本城/深志城 − Matsumoto AKA Fukashi Castle

國寶に指定された月見櫓・辰巳附櫓・大天守・渡櫓・乾小天守から成る松本城の連結複合式天守

長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長(やすなが)父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。で大敗した小笠原長時(おがさわら・ながとき)が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。

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a. のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。
b. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
c. ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。
d. 「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。
e. 俗に云う天正壬午の乱。
f. 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。
g. 近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。

諏訪高島城 − Suwa Takashima Castle

御神渡りで知られる諏訪湖畔に築かれた高島城の本丸跡には天守が復元されていた

信濃国一之宮として諏訪郡の中で格式の高い名神大社[a]日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。である諏訪大社にあって上社(かみやしろ)[b]「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。の大祝(おおほうり)であり諏訪郡の領主を司った諏訪氏は、平安時代から神職にありながら武士として生きてきた一族である。戦国時代に入って第19代当主・諏訪頼重(すわ・よりしげ)[c]諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。を最後に諏訪惣領家は滅亡した[d]そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。が、上社大祝職については頼重の叔父にあたる諏訪満隣(すわ・みちつか)が継承するに至った。そして武田家が滅亡織田信長が横死した後に信濃国で勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて満隣の三男・頼忠(よりただ)が諏訪家を再興したが、徳川家康に敗れ臣従するも、豊臣秀吉による小田原仕置後に家康が関東へ移封されるとこれに従った。代わって2万7千石で諏訪郡の領主となった日根野織部正高吉(ひねの・おりべのかみ・たかよし)は諏訪湖畔の島状を呈した場所に諏訪高島城を七年かけて築城した。城域の際まで諏訪湖の水が迫り、湿地に囲まれた連郭式平城は「諏訪の浮城」とも呼ばれ、関ヶ原の戦後に旧領復帰した諏訪頼水(すわ・よりみず)以降、廃城までの約270年の間は諏訪氏の居城となり、現在は長野県諏訪市高島1-20-1の高島公園としてその一部が残る。

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a. 日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。
b. 「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。
c. 諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。
d. そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。
e. 俗に云う天正壬午の乱。

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a. 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b. 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c. 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d. 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

師戸城 − Moroto Castle

師戸城は利根川下流に形成された印旛沼の中に浮かんでいるように見えた

縄文時代に太平洋から関東東部へ湾入し、内海として下総(しもうさ)国一之宮にあたる香取神宮[a]関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。の目の前まで広がっていた香取海(かとりのうみ)[b]地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。は奈良時代に入ると海退[c]読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。し、鬼怒川からの土砂が流れこむことで出口が堰き止められて沼が形成された。これが印旛沼(いんばぬま)の始まりとされる。この沼を天然の外堀として築かれた砦が師戸城であるが築城の経緯は不明であり、一説には下総国を拠点として千葉介(ちばのすけ)を名乗っていた千葉氏の一族とされる臼井(うすい)氏が居城とした下総臼井城の支城として、室町時代初期に築かれたと云われている。また江戸時代初期に編纂された『臼井家由来抜書(うすいけ・ゆらい・ぬけがき)』によると臼井氏四天王の一人、師戸四朗なる人物が城主を務めたとある。その後、戦国時代に至るまで何度か改修され、千葉県は印西(いんざい)市師戸の印旛沼公園に現存する規模になったと推定されている。永禄9(1566)年、関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。が小田原北條氏の勢力を駆逐するため安房の里見義堯・義弘父子らと千葉氏の家臣・原胤貞(はら・たねさだ)らが籠もる臼井城を攻め、師戸城もまた越後の精兵らの猛攻にさらされた。

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a. 関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。
b. 地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。
c. 読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。
d. のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。

菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

水戸城 − Mito Castle

水戸城跡で唯一現存する薬医門は本丸跡地の高校の敷地内に移設されていた

鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。

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a. この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。
b. 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。
c. 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a. 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b. この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c. 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。
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