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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 関東・甲信越地方 (1 / 6 ページ)

松本城/深志城 − Matsumoto AKA Fukashi Castle

國寶に指定された月見櫓・辰巳附櫓・大天守・渡櫓・乾小天守から成る松本城の連結複合式天守

長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、みずからは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長(やすなが)父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。で大敗した小笠原長時(おがさわら・ながとき)が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。

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a. のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。
b. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、みずからは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
c. ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。
d. 「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。
e. 俗に云う天正壬午の乱。
f. 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。
g. 近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。

諏訪高島城 − Suwa Takashima Castle

御神渡りで知られる諏訪湖畔に築かれた高島城の本丸跡には天守が復元されていた

信濃国一之宮として諏訪郡の中で格式の高い名神大社[a]日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。である諏訪大社にあって上社(かみやしろ)[b]「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。の大祝(おおほうり)であり諏訪郡の領主を司った諏訪氏は、平安時代から神職にありながら武士として生きてきた一族である。戦国時代に入って第19代当主・諏訪頼重(すわ・よりしげ)[c]諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。を最後に諏訪惣領家は滅亡した[d]そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。が、上社大祝職については頼重の叔父にあたる諏訪満隣(すわ・みちつか)が継承するに至った。そして武田家が滅亡織田信長が横死した後に信濃国で勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて満隣の三男・頼忠(よりただ)が諏訪家を再興したが、徳川家康に敗れ臣従するも、豊臣秀吉による小田原仕置後に家康が関東へ移封されるとこれに従った。代わって2万7千石で諏訪郡の領主となった日根野織部正高吉(ひねの・おりべのかみ・たかよし)は諏訪湖畔の島状を呈した場所に諏訪高島城を七年かけて築城した。城域の際まで諏訪湖の水が迫り、湿地に囲まれた連郭式平城は「諏訪の浮城」とも呼ばれ、関ヶ原の戦後に旧領復帰した諏訪頼水(すわ・よりみず)以降、廃城までの約270年の間は諏訪氏の居城となり、現在は長野県諏訪市高島1-20-1の高島公園としてその一部が残る。

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a. 日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。
b. 「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。
c. 諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。
d. そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。
e. 俗に云う天正壬午の乱。

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a. 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b. 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c. 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d. 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

師戸城 − Moroto Castle

師戸城は利根川下流に形成された印旛沼の中に浮かんでいるように見えた

縄文時代に太平洋から関東東部へ湾入し、内海として下総(しもうさ)国一之宮にあたる香取神宮[a]関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。の目の前まで広がっていた香取海(かとりのうみ)[b]地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。は奈良時代に入ると海退[c]読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。し、鬼怒川からの土砂が流れこむことで出口が堰き止められて沼が形成された。これが印旛沼(いんばぬま)の始まりとされる。この沼を天然の外堀として築かれた砦が師戸城であるが築城の経緯は不明であり、一説には下総国を拠点として千葉介(ちばのすけ)を名乗っていた千葉氏の一族とされる臼井(うすい)氏が居城とした下総臼井城の支城として、室町時代初期に築かれたと云われている。また江戸時代初期に編纂された『臼井家由来抜書(うすいけ・ゆらい・ぬけがき)』によると臼井氏四天王の一人、師戸四朗なる人物が城主を務めたとある。その後、戦国時代に至るまで何度か改修され、千葉県は印西(いんざい)市師戸の印旛沼公園に現存する規模になったと推定されている。永禄9(1566)年、関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。が小田原北條氏の勢力を駆逐するため安房の里見義堯・義弘父子らと千葉氏の家臣・原胤貞(はら・たねさだ)らが籠もる臼井城を攻め、師戸城もまた越後の精兵らの猛攻にさらされた。

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a. 関東地方を含む全国にある「香取神社」の総本社。茨城県の鹿島神宮と息栖(いきす)神社と共に東国三社の一つ。
b. 地学的には古鬼怒湾(ふるきど・わん)と呼ばれる。
c. 読みは「かいたい」。土地の隆起により海岸線が後退し海面下のにあった地面が陸上に現れること。
d. のちの上杉謙信。「輝」の字は足利幕府第13代将軍・足利義輝からの偏諱。

菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

水戸城 − Mito Castle

水戸城跡で唯一現存する薬医門は本丸跡地の高校の敷地内に移設されていた

鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。

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a. この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。
b. 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。
c. 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a. 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b. この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c. 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。

土浦城 − Tsuchiura Castle

幾重の水堀に囲まれた土浦城の本丸には東西2基の二重櫓が建っていた

戦国時代を経て江戸時代は慶長6(1601)年に近世城郭として大規模に整備された土浦城は、霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ桜川河口の低地に築かれていた輪郭式平城であるが、本丸を含む主要な郭が幾重にも巡らされた水堀や周囲の沼地によって防御された「水城」としての一面をも持つ珍しい城である。周囲に特に高い遮蔽物がなかったこともあり、城の姿が水に浮かぶ亀に例えられたことから亀城(きじょう)とも呼ばれ関東でも代表的な土造りの城であった。現在は茨城県土浦市中央1丁目13番地で樹齢500年とも云われる県指定天然記念物のシイの木と芝生広場を有す亀城公園として市民の憩いの場となっている。江戸時代初期に結城秀康[a]読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。が城主となると、それ以降は土浦藩として松平氏・西尾氏・朽木氏[b]城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。が継ぎ、明治時代に廃城となるまで、甲斐武田氏に最後まで従った忠臣・土屋昌恒(つちや・まさつね)を祖とする土屋氏が藩主を務めた[c]藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。。城下に水戸街道[d]江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。を引き込み、本丸には東西2基の二重櫓が建ち、搦手口の霞門(かすみもん)、そして大手口の太鼓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝わる櫓門で、現在は関東地方で唯一本丸に現存する遺構となっている。

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a. 読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。
b. 城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。
c. 藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。
d. 江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。

品川御台場 − Shinagawa Daiba

東京湾埋め立てで姿を消したかっての海上砲台で残っている第三台場跡

東京都港区台場1丁目10番1号にある台場公園は、品川御台場(しながわおだいば)の一つであった第三台場の跡地を利用して昭和3(1928)年に開園し、さらに昭和50(1975)年には有明側に陸続きで連結されて、現在は砂浜や磯が広がるお台場海浜公園の一部として都会のオアシス的な憩いの場になっている[a]海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。。かっての品川御台場は、江戸時代は嘉永6(1853)年に米国合衆国海軍のペリー提督[b]マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。が「黒船」を率いて来航したことに危機感を持った幕府が江戸防衛のために建造した西洋式の海上砲台[c]「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。だった。ペリーが開国の猶予のために日本を去ったあと、江戸湾の品川沖に11基[d]海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。の台場建設を、伊豆韮山で反射炉の建造に携わった江川太郎左衛門栄達(えがわ・たろうざえもん・ひでたつ)に命じ、およそ8ヶ月で第一・第二・第三の台場が竣工、江戸湾防衛を任されていた川越藩、会津藩、忍藩がそれぞれ守備に着いた。すると翌7(1854)年に江戸湾に再来したペリーは砲台のために横浜まで引き返して上陸せざるを得なくなったと云う。同年には第五・第六の台場の他、御殿山下台場も竣工し、さらに第七台場も工事が進んでいたが、日米和親条約が締結されて以降は工事が中止となり、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。

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a. 海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。
b. マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。
c. 「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。
d. 海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。

深大寺城 − Jindaiji Castle

深大寺城の第二郭跡からは九棟の掘立柱建物が発見され一部が平面復元されていた

関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部[a]読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。で標高50mほどの舌状(ぜつじょう)台地上に築かれていた深大寺城は現在の東京都調布市深大寺元町にあり、三つの郭(くるわ)が直線的に連なった連郭式平山城であった。戦国時代初期、関東の覇権を巡って小田原北条氏と争っていた扇ヶ谷上杉氏が南武蔵の防衛ラインを強化するため、往時「深大寺のふるき郭」と呼ばれていた砦跡を修築し、重臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)[b]弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。を城主として反抗拠点とした。城の西側を除く三方は開折谷(かいせきだに)[c]地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。によって形成された沼沢地(しょうたくち)が広がり、その西側にも湧水を集めた支谷(しこく)を持ち、南側はさらに比高15mをほどの国分寺崖線(こくぶんじ・がいせん)によって多摩川と画され、その対岸をも望見することができたと云う。城内は横矢掛(よこやがかり)の虎口や郭を囲む土塁、郭を分断する空堀など防衛設備が強化されていた。戦国時代初期にあって名将の誉高く、扇ヶ谷上杉氏の勢力拡大の先鋒を担っていた太田道灌が謀殺されて以来、扇ヶ谷上杉氏の権勢は振るわず、山内上杉氏・古河公方との三つ巴の争いで互いに疲弊しきっていた間隙をついて三浦道寸[d]相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。を滅ぼし相模国を奪った小田原北条氏による武蔵国への侵攻が始まった。

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a. 読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。
b. 弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。
c. 地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。
d. 相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。
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