城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 関東・甲信越地方 (1 / 8 ページ)

関東と甲信越地方に存在する古城や古戦場

土気城 − Toke Castle

難攻不落と知られた土気城の搦手には高い切通しを持つクラン坂がある

奈良時代は神亀《じんき》年間(724〜729年)[a]この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。に鎮守府将軍の大野東人《おおの・の・あずまびと》が蝦夷[b]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。の侵入に備えて陸奥国に多賀柵[c]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。を、そして上総国に貴船城《きふね・じょう》なる城砦[d]本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。を築いたと云う。この城は、室町時代に入ると相馬胤綱《そうま・たねつな》[e]千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。の家臣・土気三郎が土気荘園の地頭に任じられて入城し[f]これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。土気城と呼ばれた。その後は大関城の畠山重康《はたけやま・しげやす》[g]鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。が居城としたが、長享元(1487)年に中野城の酒井定隆《さかい・さだたか》[h]上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。が攻め落として城を再興し改修した。それから五代約100年に亘って土気酒井氏の居城となる[i]子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。。そして、戦国時代は永禄7(1564)年の国府台合戦[j]通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。で、それまで北條氏康麾下で各地を転戦していた土気城主の酒井胤治《さかい・たねはる》が突如、里見方に寝返った[k]一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。。怒った氏康は、胤治とは同族である東金酒井胤房《とうがね・さかい・たねふさ》と、戦場では友軍として共に戦った臼井城の原胤貞《はら・たねさだ》らを土気城攻めに差し向けた。

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a この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。
b 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
c 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。
d 本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。
e 千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。
f これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。
g 鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。
h 上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。
i 子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。
j 通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。
k 一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。

雉ヶ岡城 − Kijigaoka Castle

雉ヶ岡城の南ノ郭南側にある土塁は上下二段の構造になっていた

埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。

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a 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。
b あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。
c もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。
d こののちに「夏目」姓を名乗った。
e 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。
f 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。

足利氏館 − Fortified Residence of the Ashikaga Clan

足利氏の氏寺である国宝の鑁阿寺には足利二つ引紋が掲げられていた

栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《ばんなじ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》から数えて三代目の源義康《みなもとの・よしやす》[a]父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重《よししげ》は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《あしかが・よしかね》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《うじでら》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《あしかが・よしうじ》[e]戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《あしかが・さだうじ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。

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a 父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。
b 現在の栃木県足利市にあった荘園。
c これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。
d 足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。
e 戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。
f 本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。

滝山合戦と廿里古戦場 − The Siege of Takiyama Castle

2万の軍勢で滝山城を包囲した武田信玄は拝島大日堂に本陣を置いたと云う

関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。

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a のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。
b 善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。
c 永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。
d 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。

武蔵滝山城 − Takiyama Castle(TAKE2)

滝山城の本丸と中の丸の間にある大堀切には木橋が架かっていた

東京都八王子市高月町から丹木町三丁目までの敷地を有する都立滝山公園は多摩川に面した加住《かすみ》丘陵上にあり、今から500年前の大永元(1521)年に武蔵国の守護代を務めていた大石氏[a]元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。が築いたと伝わる滝山城跡[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。にあたる。滝山城は、こののち関東管領上杉氏を駆逐した小田原北條氏康の三男・氏照[c]別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。の居城となり、北の多摩川と南の谷地川に挟まれるように続く東西およそ900mの天然の要害として拡張が繰り返された平山城で、現在でも北條流築城術[d]曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。を随所で伺うことができる城跡である。また近年の研究では、永禄4(1561)年に越後国の上杉輝虎[e]云わずと知れた、のちの上杉謙信率いる越軍が小田原北條氏の居城である小田原城を攻めた際に滝山城下[f]滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。で攻防戦があったと云う記録がないことから、氏照ははじめ浄福寺城(由井城)を拠点とし、このときの教訓から越軍や甲軍らを監視するために小田原城の支城として新たに築いたのが滝山城と云う説がある。昭和26(1591)年に国史跡に指定され、現在は都とNPO法人の有志らによって整備保全が行われている。

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a 元々は信濃国佐久郡を本拠に持っていた地侍で、のちに関東管領上杉氏の四宿老の一人に数えられた氏族である。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「滝山城」と綴ることにする。
c 別名を綱周《つなかね》とする大石定久《おおいし・さだひさ》の娘・比佐の婿養子となり、この時は大石源三郎氏照《おおいし・げんざぶろう・うじてる》を名乗っていた。
d 曲輪群を囲む横堀や折れ、横矢を駆使した土塁や空堀、枡形や馬出といった技巧的な虎口がその代表。
e 云わずと知れた、のちの上杉謙信
f 滝山城下には甲斐国と武蔵国を結ぶ古甲州道が通っており、のちの滝山合戦では小山田信茂率いる甲軍が軍用道として利用した。

佐野城 − Sano Castle

郭が直線的に並んだ佐野城の本丸は二の丸と深い堀切で区切られていた

栃木県佐野市若松町504にある城山公園は、慶長7(1602)年に佐野藩が徳川家康の意向を受けて居城・唐澤山城を廃し、それにともなって新たに築いた佐野城跡にあたる。この城は秋山川東岸の独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸、二の丸、本丸、そして北出丸《きた・でまる》といった郭《くるわ》を直線上に配し、それぞれ郭の間は空堀で区切り[a]これが堀切の由縁。、外郭には惣堀(水堀)を巡らせていたと云う。主郭部の規模は東西110m、南北390mを有し、築いた場所が下野国の春日岡《かすがおか》にあった惣宗寺《そうしゅうじ》[b]天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。の跡地であったことから春日岡城とも。藩主の佐野信吉《さの・のぶよし》は下野佐野氏の居城として相応しい近代城郭として完成させる予定であったが、築城から七年後の慶長19(1614)年に信吉は所領を没収されて改易となり、築城半ばで完成を見ることなく廃城となった。それから350年以上たった昭和63(1988)年から十年をかけて発掘調査が行われ、本丸跡から石畳の通路や石垣が検出された。現在の佐野城跡は区画整理などにより惣濠[c]内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。は消滅しているものの市指定文化財となっている。

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a これが堀切の由縁。
b 天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。
c 内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。

新田金山城 − Nitta-Kanayama Castle

新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。

滝の城 − Takino Castle

滝の城の二の郭と外郭との間には逆L字型の中堀が残っていた

柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌江戸城河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。

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a のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。
b 江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。
c 伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。
d のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。

前橋城/厩橋城 − Maebashi AKA Mayabashi Castle

古くは厩橋城、のちの前橋城本丸跡には群馬県庁が建ち、その脇に土塁が残っていた

群馬県前橋市大手町で一際目立つ群馬県庁舎の周辺一帯は、かって征夷大将軍・徳川家康が関東七名城[a]内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。の一つとして『関東の華』と賞した前橋城跡であり、古くは群雄割拠の時代には厩橋城《まやばしじょう》[b]読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 と呼ばれていた。15世紀末に西上野《にし・こうずけ》の国人衆であった長野氏が拠点としていた箕輪城の支城[c]石倉城とも。が始まりとされる。越後上杉氏、甲斐武田氏、そして小田原北條氏らが関東の覇権を争った戦国の世には、ここ厩橋城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。特に関東管領職に就いた上杉政虎[d]云わずと知れた、のちの上杉謙信。は、この地の静謐を旗印に越後の精兵を引き連れて越山するための拠点とした。のちに武田氏と北條氏の支配下に入り、この両雄が去ったあと、関八州《かんはっしゅう》に入封した家康が譜代の重臣らを城主に置いた。城は元和3(1617)年に大改修が施され、利根川河岸の急崖に臨む本丸を幾重もの郭で囲み、三層三階の天守を建てるなど近世城郭に変貌した。のちに前橋城と改称するも、『坂東太郎』の異名を持つ利根川の氾濫と侵食により一時は廃城になる[e]度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。が、幕末には再建[f]治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。されるも四年後の明治4(1871)年の廃藩置県で二度目の廃城となった。

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a 内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。
b 読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥
c 石倉城とも。
d 云わずと知れた、のちの上杉謙信。
e 度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。
f 治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。

高崎城/上野和田城 − Takasaki AKA Wada Castle

和田城のあとに築かれた高崎城跡には土塁と乾櫓・東御門が残るのみである

鎌倉時代に上野国の国人であった和田氏[a]鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。がかって築いた砦はのちに和田城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。と呼ばれ、約160年の間、和田家の居城となった。和田業繁《わだ・なりしげ》が城主であった室町時代には関東管領・山内上杉氏に従属し古河公方や小田原北條氏、そして甲斐武田氏らと対立した。主人である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》が越後国の長尾景虎を頼って落ちたあとは、義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って西上野の国人衆らと共に和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で上杉・北條・武田らを相手に対抗した。しかし業政死後は武田信玄に降伏・従属し、長篠城包囲戦で業繁が討ち死にするとその子・信業《のぶなり》は小田原北條氏に下り家臣として重用された。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で和田城は北国勢[c]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。の攻撃により落城し廃城となった[d]信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。。この後に関八州へ入封した徳川家康の重臣・井伊直政がこの城跡に近世城郭を築いた。これが群馬県高崎市高松町1にあった高崎城である。しかし現在は宅地化が進み、三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居と水濠、そして復元された東御門や乾櫓が移築されているだけであった。

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a 鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。
c 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
d 信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。
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