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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 関東・甲信越地方 (1 / 5 ページ)

関東と甲信越地方に存在する古城や古戦場

石神井城 − Syakujii Castle

年に一度開放される石神井城の主郭は、池と急崖に囲まれ三方に堀と土塁が巡らされていた

東京都練馬区石神井台1丁目18にあった石神井城は、北は三宝寺池(さんぽうじ・いけ)、南は石神井川に挟まれた台地上に築かれた単郭もしくは連郭[a]現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。式平山城である。鎌倉時代から、葛西、江戸両氏とともに秩父平氏[b]桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。の流れをくむ有力国人・豊島(としま)氏の居城であり、石神井郷を治める拠点としていた。平氏没落により所領を失っていた豊島氏であったが、のちに鎌倉公方[c]簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。と関東管領[d]簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。との間で起こった争いで鎌倉公方・足利持氏に味方した功績から旧領を回復した。室町時代に入り京で応仁の乱が勃発すると、再び鎌倉公方と関東管領との間で争い[e]いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。が起こった上に、関東管領勢で長尾景春[f]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が反旗を翻し、鎌倉公方と連携して対立した。この時、石神井城主の豊島泰経(としま・やすつね)は、妻の兄である景春に味方して弟の泰明(やすあき)と共に挙兵した。関東管領勢にとって江戸城河越城岩付城との連絡を遮断する位置あった石神井城の存在は脅威であったため、文明9(1477)年に関東管領勢の太田道灌は三浦義同[g]読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。、千葉自胤らと平塚城を攻めたあとに泰経・泰明兄弟らと激突、これを痛破した。この時、泰明以下一族の多くが討死にした。石神井城に逃れた泰経であったが道灌らの総攻めにあって城を脱出、石神井城は落城した。

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a. 現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。
b. 桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。
c. 簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。
d. 簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。
e. いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。
f. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
g. 読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。

久留里城 − Kururi Castle

里見氏の居城であり対北条との最前線を担った久留里城の本丸跡には模擬天守が建つ

千葉県は小櫃川(おびつがわ)東にある標高145mほどの丘陵上には、かって安房上総(あわ・かずさ)の雄と云われた里見氏の居城で、ここ関東の覇権をめぐって小田原北条氏と激しい攻防戦を繰り広げたときに、その最前線を担った久留里城が建っていた。別名は「雨城(うじょう)」。この山城にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているよう見え、城の姿が隠し覆われて敵の攻撃を受けづらかったと伝わる[a]あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。。その起源は、名将・太田道灌が江戸城を築城したのと時を同じくする康正元(1455)年、上総武田氏の祖と伝わる武田信長[b]上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。の築城とするのが通説である。戦国時代に入り、武田氏を抑えて久留里城を手に入れた里見氏ではあったが、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置に参陣しなかったため安房一国のみの安堵となり、ここ久留里城のある上総国が関八州を賜った家康の領有となると、明治時代に入って廃城となるまで徳川譜代の居城となった。現在は東西の尾根に一部の遺構が残る他、本丸跡には江戸時代に建っていたとされる天守をイメージして、昭和54(1979)年に鉄筋コンクリート製二層三階の模擬天守が建てられ、城山公園として千葉県君津市では桜の名所の一つとなっている。

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a. あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。
b. 上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。

亥鼻城 − Inohana Castle

「千葉城」の通称を持つ亥鼻城の2郭跡には四層五階の天守閣風な郷土博物館が建っている

千葉県千葉市中央区亥鼻の猪鼻(いのはな)台地の上にあった亥鼻城は、平安時代の終り頃の大治元(1126)年に、桓武天皇を祖とする平家支流の千葉常重(ちば・つねしげ)が、当時の大椎(おおじ)城[a]現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。から居城を移転して築城したものであり、現在はその跡地に四層五階の天守閣を形を模した千葉市立郷土博物館[b]昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。が建っている。ここ亥鼻城を本拠としたあとは常重の嫡子・常胤(つねたね)が源頼朝を助けて源平合戦や奥州合戦に参戦し、鎌倉幕府樹立に大きく貢献することで下総国の他に奥州や九州[c]奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。に所領を拡げて千葉氏の最盛期を創った[d]常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。。しかし、鎌倉公方(足利成氏)による関東管領(山内上杉憲忠)の謀殺を発端として、享徳3(1454)年から28年間、関東一円の国衆・地侍らを巻き込んだ享徳の乱(きょうとくのらん)では千葉家中で内紛が勃発、公方派だった馬加(千葉)康胤や原胤房は関東管領派であった千葉介胤直が籠もる亥鼻城を攻め、城は落城、多古に逃れた胤直一族を滅ぼして下総千葉氏で千葉氏本宗家を継承した。それから康胤の孫である輔胤は関東管領上杉氏や太田道灌、さらには一族である武蔵千葉氏と抗争しつつ、印旛沼と利根川の水運を掌握でき古河公方勢と連携できる地に本佐倉城を築き、亥鼻城を廃城して居城を移した。

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a. 現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。
b. 昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。
c. 奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。
d. 常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。

三増峠古戦場 − The Battle of Mimasetōge

小田原城を包囲した武田信玄は、その帰途に追撃してきた小田原北条勢を三増峠で迎え撃った

永禄11(1568)年に甲斐国の武田信玄は形骸化した甲相駿三国同盟を一方的に破棄して、三河国の徳川家康と共に駿河国の今川領に侵攻した。かって「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡き名門今川家当主の氏真は、甲州勢の怒涛の猛攻に堪えられず、三国同盟の絆である正室・早川殿のつてで、舅である相模国の北条氏康に支援を求めた[b]氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。。氏真は駿府を捨てて掛川城へ避難するが、混乱ために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄、さらに急ぎ越後国の上杉輝虎[c]のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。と和睦を成立させて信玄に対抗した。信玄は翌12(1569)年6月に伊豆まで侵攻して氏康を牽制、その本隊が伊豆に集合した隙をついて8月には2万の軍勢を率いて上野国から鉢形城滝山城といった拠点を攻撃しつつ、10月に小田原城を包囲した。しかし籠城勢が挑発に応じないため無理な城攻めはせずに、城下を焼き払うと相模川沿いに三増峠を経由して帰国の途についた。小田原城を固く守備させていた氏康は、氏照と氏邦ら2万の軍勢を三増峠へ向かわせ、自らも伊豆を退陣し、氏政と共に2万の軍勢をもって帰路の信玄を挟撃する作戦を開始した。

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a. 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b. 氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。
c. のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。

津久井城 − Tsukui Castle

津久井城の本丸にあたる本城曲輪は標高375mの山頂に土塁で囲まれた狭い郭であった

北方は武蔵国、西方は甲斐国に接し相模国西北部に位置する標高532mほどの津久井山[a]この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。に築かれていた山城の津久井城は、八王子街道[b]現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。と甲州街道[c]江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。が交差する津久井往還に近く、古来から相模川を利用した交通の要衝の地に建っていた。現在は神奈川県相模原市緑区にある県立津久井湖城山公園として、城山ダムと山城を利用した憩いの場になっている津久井は「築井」とも呼ばれ、鎌倉時代後期には幕府の直轄地であり、中世の早い時期から経財と軍事の重要拠点であったとされ、その後は享徳3(1454)年から始まった享徳の乱、長尾景春の乱、そして後に小田原北条氏の祖となる伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。が相模国に進出した頃にも、その舞台の一つになった。特に太田道灌とその弟・資忠らは津久井山に籠もった景春勢を攻めたり、伊勢新九郎と敵対した扇ヶ谷上杉朝良と三浦道寸(みうら・どうすん)らが津久井山を攻めたと云った記録が残っている。そして相模一国が小田原北条二代目の氏綱によって掌握された頃には既に津久井城が存在し、内藤氏なる一族が城主を務めていたとされる。三代目の氏康の頃には津久井衆が組織されて小田原城に対する支城ネットワークの「ハブ」となり、甲斐武田氏との国境を監視・守備する需要な役割を果たしていたと云う。

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a. この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。
b. 現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。
c. 江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。
d. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

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a. 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b. 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c. 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d. 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e. 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f. この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。

唐澤山城 − Karasawayama Castle

唐澤山城の本丸南側にある高石垣は藤原秀郷の子孫・佐野氏が拡張した時の姿を現在に残していた

栃木県佐野市富士町にある唐澤山城[a]現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。は県南部の唐沢山一帯に複数の曲輪を配し、標高242mの山頂に本丸を持つ連郭式山城で、周囲を急崖と深い谷に囲まれた天然の要塞をなし、山麓に広がる根小屋(ねごや)地区との比高差は約180mにも及ぶと云う。その城域からの眺望は関東八州を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山や秩父、南アルプス、秀峰富士、そして東に筑波山を眺めることができたと云う。築城は田原藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)公により、今から一千年以上前の平安時代中期は延長年間(923〜931年)とされている。公は下野国(しもつけのくに)の在庁官人である押領使(おうりょうし)[b]現代で云う軍人または警察官職のこと。の役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に城を築いて善政を施したと云う。公が征東大将軍に任じられ平将門追討で功をなした後はその末裔が代々城主となり、戦国時代には後裔氏族[c]藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。の一つである下野佐野氏の居城として中世山城の城郭に整えられたとされる。そして佐野氏第15代当主・昌綱(まさつな)は小田原の北条氏康と越後の長尾景虎の二大勢力のはざまにあった中で長尾氏につくと、永禄3(1560)年に唐澤山城は北条氏政率いる35千人の大軍に包囲された。

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a. 現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。
b. 現代で云う軍人または警察官職のこと。
c. 藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。

志村城 − Shimura Castle

志村城の二ノ丸跡には熊野神社があり、社殿は古墳の上に建てられていた

武蔵千葉氏ゆかりの城である志村城は、康正2(1456)年に千葉自胤(ちば・よりたね)が扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。の助けを借りて赤塚城に入城した際に、彼の一族である千葉隠岐守信胤(ちば・おきのかみ・のぶたね)を配して赤塚城の前衛拠点としていたと云う。ここ東京都板橋区志村にある丘陵地に築かれていた志村城の築城時期は不詳であるが、一説に南武蔵の石神井城を居城として勢力をふるい、のちに長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。の乱に乗じて小机城で太田道灌と対峙した豊島泰経(としま・やすつね)の先祖が築いたとも。この城の本丸は、現在の区立志村小学校を中心とした比高20mほどの舌状台地上にあったとされ、周囲に出井川(でいがわ)[c]かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。と荒川をめぐらせ、城の北・西・南側は急崖のうえに湿地帯であったため「守るに易く攻めるに難し」と云われた堅城であった。しかし大永4(1524)年に小田原の新興勢力・伊勢氏綱[d]のちの北条氏綱。に攻められて落城し、北条氏配下に入ったが、豊臣秀吉の小田原仕置後に志村城は廃城となった。現在は宅地化の波に埋もれ遺構は殆どといってよいほど期待できないが、城山と云う台地の上にある城山熊野神社はかっての二ノ丸跡で、その社殿は古墳の上に建ち、境内には横矢掛かりの空堀の一部が残っていた。

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a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c. かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。
d. のちの北条氏綱。

赤塚城 − Akatsuka Castle

さくら並木でも有名な赤塚公園の城址広場は往時は赤塚城本丸であった

東京都板橋区赤塚5丁目にある赤塚溜池公園[a]公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。南側の台地上には、かって赤塚城が築かれていた。この城の築城年は不詳であるが一説に、康正2(1456)年に武蔵千葉氏[b]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が親の仇である古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗して下総国市川城[c]国府台城であったと云う説あり。に籠城したが寄せ手の梁田持助(やなだ・もちすけ)に敗れ、扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[d]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。を頼りに武蔵国へ落ち延び、彼らを庇護した道灌は兄の実胤を武蔵石浜城[e]現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。へ、弟の自胤を赤塚城に置いたとされる。現在の城址公園あたりは高島平のベッドタウン化に伴って急速に開発が進み、それまで明瞭に残っていた遺構が殆ど確認できないほどに改変されてしまったと云う。その結果、現在は本丸跡と堀切跡、そして石碑が残っているだけである。城址の北と東と西の三方の台地縁は自然の谷で区画され、北側の溜池あたりは外堀であったとされ、往時の赤塚城は北側を流れる荒川の早瀬の渡しを一望し、武蔵国北部と南部、江古田に至る鎌倉街道を押さえる要衝であったが、のちに武蔵千葉氏が小田原北条氏麾下となった後は、主家と運命を共にし豊臣秀吉の小田原仕置後に赤塚城は廃城となった。

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a. 公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。
b. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
c. 国府台城であったと云う説あり。
d. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。

岡城 − Oka Castle

黒目川が取り巻く舌状台地に築かれた岡城の子細は不明であるが太田道灌が関与しているとも

かって「岡の城山」(おかのしろやま)とも呼ばれていた埼玉県朝霞市岡にある城山公園は、今から約8000〜4500年前の縄文時代から遺る遺跡[a]貝塚が発見されている。であり、戦国時代前期には黒目川(くろめがわ)[b]東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。を真下に見る舌状(ぜつじょう)台地の先端部を利用した岡城[c]朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。なる連郭式平山城が築かれていたとされる。この当時の築城者や城主については現在のところ不詳であるが、文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺん・むさし・ふどきこう)の中には名将・太田道灌資長[d]読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。や、その曾孫・太田新六郎康資[e]読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。との関係ついて記述があると云う。築城の才が豊かな道灌は稲付城の例にあるように、台地の先端が「舌」のような形になっている舌状台地を利用して城を築くことが多いようで、北は河越城岩付城、南は赤塚城志村城、稲付城といった規模の大小を問わずに江戸城の防衛線を構築していたのではないかと見ることができる。岡城が築かれた台地は西から東へ延びており、西側にある日蓮宗・本仙寺(ほんせんじ)付近で細く括れた独立丘陵状を呈しており、標高は約19mで周囲の低地との比高は12〜14mほどで、城内は堀切や「折れひずみ」と呼ばれる空堀、そして土壇によって区分けされた郭が連なっていたとされる。

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a. 貝塚が発見されている。
b. 東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。
c. 朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。
d. 読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。
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