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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 陸奥国

白石城 − Shiroishi Castle

白石城本丸跡に復元された天守はかって幕府をばばかり「大櫓」と呼んでいた

西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷(ふじわら・の・ひでさと)[b]平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清(ふじわら・の・つねきよ)の次男・刈田常元(かった・つねもと)が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。

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a. 読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。
b. 平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。

陸奥福嶋城 − Fukushima Castle

現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

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a. 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b. 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c. 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d. 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f. 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。

二本松城 − Nihonmatsu Castle

江戸時代に二本松城主・丹羽光重は石垣を多用した近世城郭に改修した

室町時代に奥州管領[a]奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。を拝命していた奥州畠山(おうしゅう・はたけやま)氏は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)[b]南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。で将軍側についたが敗北し一族の多くが討死した中で、畠山国詮(はたけやま・くにあきら)が安達郡二本松(あだちぐん・にほんまつ)まで落ち延びて二本松畠山氏[c]二本松氏、または奥州畠山氏とも。の祖となった。彼の嫡子・満泰(みつやす)の代には白旗ヶ峰(しらはたがみね)の麓に居館を移し、これがのちに二本松城となる。その後は怨敵・伊達政宗に攻められて開城[d]二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。し、伊達氏による対蘆名・佐竹の拠点となったが、豊臣秀吉による奥州仕置ののちに蒲生氏郷の所領となり城代が置かれた。氏郷が急死したあと會津120万石に移封された上杉景勝が城代を置いていたが関ヶ原の戦いで敗戦後、蒲生氏・加藤氏が続き、一度は天領になるが白河藩より転封されて二本松藩を立藩した丹羽光重(にわ・みつしげ)[e]第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。の居城となった。氏郷の時代に改修された二本松城であるが、光重の時代にはさらに大改修が施され現在、福島県二本松市郭内3丁目の霞ヶ城公園(かすみがじょうこうえん)で見る近世城郭に生まれ変わった。しかし丹羽氏10代の居城は幕末の戊辰戦争で新政府軍を迎え撃つも僅か一日で落城した。

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a. 奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。
b. 南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。
c. 二本松氏、または奥州畠山氏とも。
d. 二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。
e. 第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle(TAKE2)

蒲生氏郷が黒川城を改築にした際の外郭遺構が現存し国指定史跡になっている

天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津宰相・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

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a. 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。
b. 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。
c. のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。
d. 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a. 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b. 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。

棚倉城 − Tanagura Castle

本丸が水堀と土塁で囲まれていた棚倉城は現在も亀ケ城公園として、その一部が残っていた

赤館城主で初代棚倉藩主であった立花左近将監宗茂が、元和6(1620)年に旧領の筑後柳川藩主に返り咲くと、その二年後に二代藩主として入封したのが丹羽長重(にわ・ながしげ)である。長重は、織田信長の宿老の一人である丹羽長秀[a]当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごろうぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。の嫡男で、彼も前藩主・立花宗茂同様に、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では西軍に与したため改易されたが、三年後には常陸国古渡(ひたちのくに・ふっと)藩主として大名に復活、さらに慶長19(1614)年の大坂の陣で武功を挙げたことで、徳川二代将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)[b]これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。に加えられると、常陸国江戸崎(ひたちのくに・えどさき)2万石を経て、棚倉藩に5万石で加増移封された。入封時は山城の赤館を居城とするも、寛永元(1624)年に平城の築城を幕府に願い出て、同2(1625)年に着工し、のちに完成したのが棚倉城[c]別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。で、現在は福島県東白川郡棚倉町の中心に壮大な濠を残す亀ヶ城公園として整備されている。ただし長重は築城途中の同4(1627)年、城の粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに陸奥国白河へ10万石で移封されたため築城途中で放置されることになったが、そのあとに近江国から入封した内藤豊前守信照によって築城が再開され、ついに完成し、そして赤館は廃城となった。

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a. 当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごろうぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。
b. これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。
c. 別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。

赤館 − Akadate Castle

赤館の主郭にあたる一番平は城内で最も広い郭で、現在は赤館公園になっていた

福島県東白川郡棚倉町にあった赤館[a]「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。は、往時「館山」と呼ばれた標高375mほどの丘陵に築かれていた山城で、北は阿武隈川、南は久慈川へ至る川を天然の外堀とし、関東と東北の分水嶺(ぶんすいれい)に位置していたことから古来より両文化の交流点であり軍事的要衝の一つであった。築城年については南北朝時代の建武(1334~1338)年間に赤館伊賀次郎が城主であったと云う記録が唯一残っているが、室町時代には白河結城(しらかわ・ゆうき)氏が城主となり、戦国時代に入ると蘆名氏、佐竹氏、そして伊達氏ら強豪のはざまで生き残りを賭けたものの、関白秀吉の奥州仕置で改易となって赤館は佐竹氏による南郷支配の拠点と一つとなった。秀吉亡きあとは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に佐竹氏が出羽国へ転封となったため、赤館を含む棚倉は幕府の天領[b]江戸幕府の直轄地の俗称。となった。そして慶長11(1606)年には、同じく関ヶ原の戦で西軍について改易となっていた立花宗茂公が棚倉に1万石を与えられて大名として復帰し、赤館城主となった。そして豊臣家が滅亡したのちの元和6(1620)年に宗茂公は旧領へ復帰、代わって丹羽長重[c]織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。が入封して棚倉藩主となり、のちに大坂の陣の功で加増されたことで新たに棚倉城を築くと、ここ赤館は廃城となった[d]しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

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a. 「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。
b. 江戸幕府の直轄地の俗称。
c. 織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。
d. しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

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