福島県は耶麻郡猪苗代町字古城跡《ヤマグン・イナワシロチョウ・アザ・コジョウアト》7150-1にあった猪苗代城は、相模国の豪族・三浦義明《ミウラ・ヨシアキ》の七男で、源頼朝の御家人であった佐原義連《サワラ・ヨシツラ》の孫・経連《ツネツラ》が建久2(1191)年に築いたのが始まりと伝わる。経連は、祖父が奥州合戦《オウシュウ・カッセン》[a]文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。の功で与えられた會津四郡のうち猪苗代を領し、子孫ともども猪苗代氏を称した。猪苗代氏は代々独立志向が強く、同族で黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた會津蘆名氏とは対立と従属を繰り返していたが、のちに蘆名氏より養子を迎え一門衆に落ち着いた。しかし第十二代当主・猪苗代盛国《イナワシロ・モリクニ》は嫡子・盛胤《モリタネ》を猪苗代城から追い出し[b]隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ザンゲン》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。、伊達政宗に寝返えって摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗を招く原因を作った。以降、猪苗代城は蒲生・上杉・加藤・保科ら會津領主によって城代が置かれ、幕末の戊辰戦争で焼失して廃城となった。なお猪苗代城の北西に伸びる丘陵上に築かれた鶴峰城《ツルミネジョウ》は猪苗代氏の隠居城として使われていたと云う。
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北海道と東北地方に存在する古城や古戦場
鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《ミウラ・ドウスン》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《アシナ》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《フショク》し、十六代当主・盛氏《モリウジ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《アガカワ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《イワタテ》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《モリオキ》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《シシサイ》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。
宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ズイホウデン》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《ダテ・ゴンチュウナゴン・マサムネ》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《キョウガミネ》に造営された御霊屋《オタマヤ》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《タダムネ》公の御霊屋である感仙殿《カンセンデン》と三代藩主・綱宗《ツナムネ》公の善応殿《ゼンノウデン》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《キセル》など多くの副葬品が検出されたと云う。
参照
↑a | 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。 |
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関ヶ原の戦が終わった慶長5(1600)年、『独眼竜』の異名を持つ伊達左京大夫政宗《ダテ・サキョウタユウ・マサムネ》が、広瀬川西岸の切り立った段丘上に築かれていた城跡[a]千体城、または千代城。国分《コクブン》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。に、二年余の歳月をかけて築いた山城が仙臺城[b]これは旧字体で、読みは《センダイ・ジョウ》。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。である。それ以降13代270年にわたって伊達氏の居城となり、仙臺藩の政庁が置かれた。初代藩主である政宗は大規模な工事を敢行して青葉山に石垣と土塁で防備した本丸を築き[c]同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ヒガシマル》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《ニシマル》」。、東と南は広瀬川と竜ノ口《タツノクチ》渓谷の断崖、西が険しい青葉山と御裏林《オウラバヤシ》に囲まれたまさに天然の要害であったが、徳川幕府による泰平の世にはもはや時代遅れの城郭であり、二代藩主・忠宗《タダムネ》の時代には平地に二ノ丸を造営して藩政の中心とし、急峻で幾度も折れ曲がる従来の大手道を廃止し、二ノ丸に大手門を築いて新たな登城道が整備された。ここで仙臺城は中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌した。明治4(1871)年に廃城となり、その後の火災や地震、米軍による仙台空襲によって城郭及び建造物の多くが焼失した。平成15(2003)年には国史跡に指定され、現在は宮城県仙台市青葉区川内1-2の仙台城跡として整備されている[d]平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。。
宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《タガサク》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《コダイ・ジョウサク》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《リッコクシ》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《オオノ・ノ・アズマビト》が、蝦夷[c]読みは《エミジ》。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線にあって、松島方面から南西に伸びた低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭に築地[d]読みは《ツイジ》。土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《アサカリ》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《コレハリ・ノ・アザマロ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年の大地震で建物は全て倒壊し、のちに再興された。最後は室町時代の南北朝争乱で落城・廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定された。
山形県山形市霞城《カジョウ》町1番7号にある霞城公園は、市内の中心部にあって馬見ケ崎川《マミガサキガワ》西岸に広がる扇状地北端に築かれていた羽州探題職《ウシュウ・タンダイシキ》[a]室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。・最上氏の居城であり、のちに山形藩庁がおかれた山形城である。この城の起源は初代・羽州探題であった斯波兼頼《シバ・カネヨリ》が延文元(1356)年に出羽国最上郡山形に入部して築いた館であり、このとき室町幕府により許されて「最上屋形《モガミ・ヤカタ》[b]「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。」と称すようになったのが最上氏の始まりとされている。近世城郭としての原型は、第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主である最上義光《モガミ・ヨシアキ》が文禄から慶長期(1592〜1615年)に拡張したもので、この時に本丸・二ノ丸・三ノ丸が築かれ、三重の堀と土塁が巡らされた輪郭式平城が完成した。のちに藩主となった鳥居忠政《トリイ・タダマサ》[c]徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《トリイ・モトタダ》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。は元和8(1622)年に現在公園で見ることができる二ノ丸の堀や石垣などを整備した他、明和4(1767)年には藩主・秋元涼朝《アキモト・スケトモ》[d]幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。が三ノ丸に御殿を新造した。明治3(1870)年に廃城、そして昭和24(1949)年に本丸と二ノ丸が公園として市民に開放された。
米沢城は、鎌倉時代に出羽国は置賜《オキタマ》郡長井庄の地頭であった長井時広《ナガイ・トキヒロ》[a]征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人で幕府創設に貢献した大江広元《オオエ・ノ・ヒロモト》の次男。奥州藤原氏討伐の功により長井庄の地頭となった。が居館を置いたのがはじまりと伝えられ、室町時代に入ると伊達氏八代当主・宗遠《ムネトオ》が長井氏八代当主・広房を滅ぼし、天文17(1548)年には伊達氏十五代当主・晴宗が父・稙宗《タネムネ》との骨肉の争い中に居城を移して城郭化した。そして伊達氏十七代当主でここ米沢城生まれの政宗が、天正19(1591)年に関白秀吉による奥州仕置で岩出山《イワデヤマ》城へ移つされるまで伊達氏十代212年の本拠地であった。その後は慶長3(1598)年まで蒲生飛騨守氏郷の筆頭家老・蒲生郷安《ガモウ・サトヤス》が城主をつとめた。氏郷が急死したあとに會津120万石を賜った五大老の上杉権中納言景勝は上杉家の執政を務めた直江山城守兼続を城主においた。しかし秀吉死後に同じ五大老の一人である徳川家康との関係が悪化し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後には徳川幕府より米沢30万石に減封され、ここ米沢城が明治維新まで米澤藩[b]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉氏の居城となった。現在、本丸跡の山形県米沢市丸の内1丁目4の松が岬《マツガサキ》公園には上杉神社が建っている。
山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《フシキイン・ケンシン》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ゴイガイ》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《スギコダチ》の中に整然と立ち並び、森厳《シンゲン》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《セイキョ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《ウエスギ・ゴンチュウナゴン・カゲカツ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《オタマヤ》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。
西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは《シロイシ・ジョウ》。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[b]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラノトウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清《フジワラ・ノ・ツネキヨ》の次男・刈田常元《カッタ・ツネモト》が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成《ガモウ・ゲンザエモン・サトナリ》を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継《アマカス・ビンゴノカミ・カゲツグ》を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。
福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫《ムツ・シノブ》郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城《スギノメ・ジョウ》[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城《ダイブツ・ジョウ》とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗《ハルムネ》の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清《キムラ・ヨシキヨ》[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。
参照
↑a | 「杉目城」とも。あるいは大仏城《ダイブツ・ジョウ》とも。 |
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↑b | 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗《ハルムネ》の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。 |
↑c | 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。 |
↑d | 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。 |
↑e | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。 |
↑f | 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。 |
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