埼玉県加須《カゾ》市根古屋633-2にあった私市城[a]これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。《キサイ・ジョウ》は利根川とその支流が注ぐ平野部に位置し、江戸時代に編纂された武蔵国各郡の地誌目録である『武蔵志』によると「城地平にして亀の甲の如し」と記され、沼沢《ショウタク》[b]浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。に浮かぶ要害であったと伝わる。築城時期は不詳であるが、城の名は武蔵七党《ムサシ・シチトウ》を構成する武士団の私市党《キサイ・トウ》に由来すると云われる[c]ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。。一方で、室町時代後期の歴史書『鎌倉大草紙《カマクラ・オオオゾウシ》[d]康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。』には、康生元(1455)年に古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に攻められて落城したとあり、これが歴史上の初見とされる。その後は、戦国乱世の関東にあって関東管領・山内上杉氏、古河公方・足利氏、小田原北條氏、そして越後上杉氏らによる争奪戦の舞台ともなった。現在残る遺構は江戸時代に立藩した私市藩の一部であるが、昭和時代の発掘調査で東西320m、南北260mの範囲に複雑な形状をした障子堀[e]豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。が広範囲に渡って発見された。
作者別: ミケフォ (2 / 21 ページ)
唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。
埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北条氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。
鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城の長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏・越後上杉氏・甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。
新潟県長岡市城内町二丁目にあるJR長岡駅は、かって越後長岡藩の藩庁が置かれていた長岡城跡にあたる。慶長3(1598)年に越後上杉氏[a]長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏。の會津若松への国替えに伴い、代わりに国入した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の与力で、又従兄にあたる堀直寄《ホリ・ナオヨリ》は、居城である蔵王堂城の城域が信濃川の流路変動や洪水で侵食や破壊が進んできたことから、信濃川上流にある大島庄は平潟原《ヒラガタハラ》[b]現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。に新城の築城を計画した。往時の平潟原は信濃川が形成した中洲で、直寄は水濠で囲まれ水運が利用できる近世城郭を目指したと云う。この地がのちの「長岡」である[c]その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。。しかし直寄の御家騒動[d]兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。で築城は中断、のちに大名として復帰し工事を再開したが完成間近に今度は越後村上藩に転封となってしまった。代わりに徳川家の譜代大名の一人である牧野忠成《マキノ・タダナリ》が入封し、ついに長岡城と城下町を完成させて長岡藩主となった。この城は戊辰戦争で全焼し廃城となったが、江戸中期にも火災で全焼し再建されている。
越後中郡《エチゴ・ナカゴオリ》[a]現在の新潟県の中越地方。は古志郡南部から蒲原郡三条へ連なる東山丘陵[b]現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。にあって標高335mほどの城山山頂に築かれていた栖吉城は、東西に伸びる二つの尾根を利用し、西側にある本城(主郭)と東側にある古城(詰郭)からなる一城別郭[c]分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。の造りであった。主郭の東・西・南の三方を囲むように二ノ郭を、その南には三ノ郭をそれぞれ配し、これらの高い切岸には畝状阻塞《ウネジョウ・ソサイ》を設けた。詰郭にはその周囲に段郭を配し、東へ伸びる尾根には堀切と畝状阻塞で寄手の侵入を防ぐと云う越後の中世城郭の特徴が多く見られる縄張である。築城期は定かではなく、戦国時代の永正《エイショウ》年間(1504〜1521年)に古志長尾家五代当主・長尾孝景《ナガオ・タカカゲ》が築き、それまでの蔵王堂城から居城を移して古志長尾氏の本拠とした。その後、古志長尾家は生母の実家として長尾景虎擁立を支え、長尾上杉家の一門衆として活躍するが、御館の乱後に滅亡。栖吉城は上杉家の會津への国替え後に廃城となった。
新潟県長岡市栃尾町の西方に位置し、標高227.7mの鶴城山《カクジョウサン》山頂に実城[a]読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。を持つ栃尾城は上杉謙信(長尾景虎)旗揚げの城として知られるが、現在見られる遺構は謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)の時のもの。その城域は、山頂周辺の本城域、千人溜りのある中腹の中城域、そして麓の根古屋域で構成され、本城域は二の丸を中心に二つある尾根のうち、北側の尾根筋に実城・松の丸・三の丸・五島丸・北の曲輪を、西側の尾根筋に中の丸・琵琶丸・烽火台を配していた。郭はそれぞれ空堀(空濠)で区分され、中でも三の丸から千人溜りまで320mにも及ぶ大空濠は山頂から落ち込んで長大な竪堀へと変化する。また枡形の虎口を巡る大手道は意図的に屈曲させていた。これら一連の縄張は謙信在城の時代には見られず、御館の乱の時代に景虎方の本荘秀綱《ホンジョウ・ヒデツナ》らによって整備・改修されたものと考えられる。栃尾城は景勝勢による足かけ三年にわたる攻城戦で落城した。
参照
↑a | 読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。 |
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信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》丘陵にあって、標高98mほどの舌状台地上に形成された逆L字型の尾根筋に、複数の郭を連ねて築かれた本与板城[a]この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。の歴史は古く、一説に越後新田氏の一族である籠沢入道が南北朝時代の建武元(1334)年に築いた砦が始まりと云う。室町時代には越後国守護・上杉氏の重臣である飯沼氏の居城[b]有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。となった。そして越後永生の乱[c]読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。で、城主の飯沼定頼は長尾為景に攻められて敗れ、為景に下った飯沼氏の家臣・直江親綱《ナオエ・チカツナ》の子・景綱《カゲツナ》[d]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。が本与板城を居城にして三島郡を支配した。この典型的な山城は例にもれず、実城や二の郭や三の郭といった主郭には土塁を巡らし、深い堀切あるいは二重堀切で区画していたが、さらに下段には腰郭をおき、主郭を挟むように西と南の二つの郭で防御させ、東下段には堀切が三方を囲む独立した出郭があったと云う。婿養子の信綱が城主の時代に与板城を築き居城を移したのちも、その支城として本与板城は存続していたと考えられている。
新潟県長岡市与板町与板甲134にある与板陣屋跡は、寛永11(1634)年に与板藩が長岡藩の支藩として立藩した際、かって越後上杉氏の執政・直江兼続の居城で既に廃城となっていた与板城の麓に構えられた藩庁跡である。この時の初代藩主は、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成《マキノ・タダナリ》の次男・康成《ヤスナリ》[a]牧野忠成の父も同名。で、ここ越後国三島《サントウ》郡与板に1万石を領していた。元禄15(1702)年に二代藩主・康道《ヤスミチ》が信濃小諸城に転封されると、ここ与板は幕府の天領になったが、宝永2(1705)年に彦根藩・井伊氏の嫡流筋にあたる遠江掛川藩主・井伊直矩《イイ・ナオノリ》が2万石を与えられて移封されてきた。そして文化元(1804)年には六代藩主・直朗《ナオアキラ》が城主大名[b]近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。に格上げされて、陣屋を移して城郭化し、文政6(1823)年に完成して與板《ヨイタ》城と呼ばれた[c]したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。。幕末の北越戊辰戦争では戦火に巻き込まれて焼失、与板ふれあい交流センターとなった跡地には冠木門と板塀が復元されている。
信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・船の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。で上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本荘秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。
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