城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

作者別: ミケフォ (1 / 16 ページ)

新田金山城 − Nitta-Kanayama Castle

新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。

猪苗代城と(附)鶴峰城 − Inawashiro Castle

磐梯山麓の小丘陵に築かれた猪苗代城の本郭は土塁で囲まれ掘立柱建物があった

福島県は耶麻郡猪苗代町字古城跡《やまぐん・いなわしろちょう・あざ・こじょうあと》7150-1にあった猪苗代城は、相模国の豪族・三浦義明《みうら・よしあき》の七男で、源頼朝の御家人であった佐原義連《さわら・よしつら》の孫・経連《つねつら》が建久2(1191)年に築いたのが始まりと伝わる。経連は、祖父が奥州合戦《おうしゅう・かっせん》[a]文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。の功で与えられた會津四郡のうち猪苗代を領し、子孫ともども猪苗代氏を称した。猪苗代氏は代々独立志向が強く、同族で黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた會津蘆名氏とは対立と従属を繰り返していたが、のちに蘆名氏より養子を迎え一門衆に落ち着いた。しかし第十二代当主・猪苗代盛国《いなわしろ・もりくに》は嫡子・盛胤《もりたね》を猪苗代城から追い出し[b]隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。伊達政宗に寝返えって摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗を招く原因を作った。以降、猪苗代城は蒲生上杉・加藤・保科ら會津領主によって城代が置かれ、幕末の戊辰戦争で焼失して廃城となった。なお猪苗代城の北西に伸びる丘陵上に築かれた鶴峰城《つるみねじょう》は猪苗代氏の隠居城として使われていたと云う。

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a 文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。
b 隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。

向羽黒山城 − Mukaihaguroyama Castle

阿賀川沿いの岩崎山頂に築かれた向羽黒山城の一曲輪からは會津盆地を一望できた

鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《あしな》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《ふしょく》し、十六代当主・盛氏《もりうじ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《あがかわ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《いわたて》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《もりおき》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《ししさい》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。

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a 現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。
b 「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。
c 現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。
d 旧名は大川。
e 岩崎城または巌館《いわたて》とも。

仙臺藩祖御霊屋・瑞鳳殿 − The Mausoleum of “Dokuganryu” Masamune

仙臺藩祖・伊達政宗公の御霊屋は仙臺城本丸と向かい合う経ヶ峯山頂に建つ

宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ずいほうでん》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《だて・ごんちゅうなごん・まさむね》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《きょうがみね》に造営された御霊屋《おたまや》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《ただむね》公の御霊屋である感仙殿《かんせんでん》と三代藩主・綱宗《つなむね》公の善応殿《ぜんのうでん》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《きせる》など多くの副葬品が検出されたと云う。

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a 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。

仙臺城 − Sendai Castle

仙臺城の本丸北壁には伊達政宗が築いた時代を含む三つの異なる時期の石垣が遺っていた

関ヶ原の戦が終わった慶長5(1600)年、『独眼竜』の異名を持つ伊達左京大夫政宗《だて・さきょうたゆう・まさむね》が、広瀬川西岸の切り立った段丘上に築かれていた城跡[a]千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。に、二年余の歳月をかけて築いた山城が仙臺城[b]これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。である。それ以降13代270年にわたって伊達氏の居城となり、仙臺藩の政庁が置かれた。初代藩主である政宗は大規模な工事を敢行して青葉山に石垣と土塁で防備した本丸を築き[c]同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。、東と南は広瀬川と竜ノ口《たつのくち》渓谷の断崖、西が険しい青葉山と御裏林《おうらばやし》に囲まれたまさに天然の要害であったが、徳川幕府による泰平の世にはもはや時代遅れの城郭であり、二代藩主・忠宗《ただむね》の時代には平地に二ノ丸を造営して藩政の中心とし、急峻で幾度も折れ曲がる従来の大手道を廃止し、二ノ丸に大手門を築いて新たな登城道が整備された。ここで仙臺城は中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌した。明治4(1871)年に廃城となり、その後の火災や地震、米軍による仙台空襲によって城郭及び建造物の多くが焼失した。平成15(2003)年には国史跡に指定され、現在は宮城県仙台市青葉区川内1-2の仙台城跡として整備されている[d]平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。

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a 千体城、または千代城。国分《こくぶん》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。
b これは旧字体で読みは「せんだい・じょう」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。
c 同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ひがしまる》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《にしまる》」。
d 平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。

多賀柵/多賀城 − Taga Castle

多賀柵跡の正門・外郭南門からは政庁まで真っ直ぐに延びた南大路が残っていた

宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《たがさく》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、以降その他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府《ちんじゅふ》が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《おおの・あずまひと》が蝦夷[c]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線で、松島方面から南西に伸びる低丘陵の先端に位置し仙台平野を一望できる、ここ多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭には築地《ついじ》[d]土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎、工房などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《あさかり》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《これはり・の・あざまろ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年に大地震が発生して建物は全て倒壊するも、これも再興した。最後は室町時代の南北朝争乱で落城し廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定され、現在に至る。

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a 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。
b 平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。
c 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
d 土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。

滝の城 − Takino Castle

滝の城の二の郭と外郭との間には逆L字型の中堀が残っていた

柳瀬川とその支流の東川《あずまがわ》が合流して出来た段丘端に築かれ、天然の外堀である柳瀬川に面した南側は急崖、北側は三重の堀と土塁によって守られた滝の城は、室町時代末期に関東管領・山内上杉氏の家臣で武蔵国守護代の大石氏[a]のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。が、居城である滝山城に対する支城として築いたと云う説の他、扇ヶ谷《おおぎがやつ》上杉氏の家宰・太田道灌江戸城河越城を結ぶ清戸道《きよとみち》[b]江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。の間に築いた「つなぎの城」と云う説もある。道灌死後の戦国時代初期には伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[c]伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。とその一族が、ここ武蔵国へ侵攻し、天文6(1537)年に三代目当主・北條氏康が河越夜戦《かわごえ・よいくさ》で両・上杉氏と古河公方らに勝利すると、滝の城は滝山城とともに氏康の三男・氏照の支配下に入った。その後、滝の城は反北條氏を掲げた太田三楽斎《おおた・さんらくさい》らが籠もる岩付城に対する境目の城として北條流築城術で改修された。しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の際、豊臣方の浅野長吉《あさの・ながよし》[d]のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。勢に攻められて一日で落城し廃城となった。現在は埼玉県所沢市大字城23-1番にて滝の城址公園の一部が整備・保存されている。

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a のちに小田原北條氏に敗れ、主君である上杉憲実《うえすぎ・のりざね》と共に長尾景虎を頼って越後国におちた系。対して主君を見限って北條氏に臣従し、のちに守護代の座を北條氏に譲った系もある。
b 江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道。
c 伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、または早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》とも。死後に小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれる。
d のちの浅野長政。豊臣秀吉とは姻戚関係にあり、豊臣政権五奉行の一人。

前橋城/厩橋城 − Maebashi AKA Mayabashi Castle

古くは厩橋城、のちの前橋城本丸跡には群馬県庁が建ち、その脇に土塁が残っていた

群馬県前橋市大手町で一際目立つ群馬県庁舎の周辺一帯は、かって征夷大将軍・徳川家康が関東七名城[a]内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。の一つとして『関東の華』と賞した前橋城跡であり、古くは群雄割拠の時代には厩橋城《まやばしじょう》[b]読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥 と呼ばれていた。15世紀末に西上野《にし・こうずけ》の国人衆であった長野氏が拠点としていた箕輪城の支城[c]石倉城とも。が始まりとされる。越後上杉氏、甲斐武田氏、そして小田原北條氏らが関東の覇権を争った戦国の世には、ここ厩橋城の争奪戦が幾度となく繰り広げられた。特に関東管領職に就いた上杉政虎[d]云わずと知れた、のちの上杉謙信。は、この地の静謐を旗印に越後の精兵を引き連れて越山するための拠点とした。のちに武田氏と北條氏の支配下に入り、この両雄が去ったあと、関八州《かんはっしゅう》に入封した家康が譜代の重臣らを城主に置いた。城は元和3(1617)年に大改修が施され、利根川河岸の急崖に臨む本丸を幾重もの郭で囲み、三層三階の天守を建てるなど近世城郭に変貌した。のちに前橋城と改称するも、『坂東太郎』の異名を持つ利根川の氾濫と侵食により一時は廃城になる[e]度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。が、幕末には再建[f]治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。されるも四年後の明治4(1871)年の廃藩置県で二度目の廃城となった。

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a 内訳は河越城忍城唐澤山城新田金山城、宇都宮城、多気城、そして前橋城。
b 読みは他に「うまやばしじょう」があるが史料的な根拠は無いらしい。自分はずっとこの読み方だと思っていた 😥
c 石倉城とも。
d 云わずと知れた、のちの上杉謙信。
e 度重なる利根川の水害に耐えられなくなったため幕府に城の放棄を嘆願して受け入れられた。
f 治水技術が向上し、さらに開国に際し江戸城に代わる要塞の建設が必要になったため。

高崎城/上野和田城 − Takasaki AKA Wada Castle

和田城のあとに築かれた高崎城跡には土塁と乾櫓・東御門が残るのみである

鎌倉時代に上野国の国人であった和田氏[a]鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。がかって築いた砦はのちに和田城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。と呼ばれ、約160年の間、和田家の居城となった。和田業繁《わだ・なりしげ》が城主であった室町時代には関東管領・山内上杉氏に従属し古河公方や小田原北條氏、そして甲斐武田氏らと対立した。主人である上杉憲政《うえすぎ・のりまさ》が越後国の長尾景虎を頼って落ちたあとは、義父で箕輪城主の長野業政《ながの・なりまさ》に従って西上野の国人衆らと共に和田城を含む多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で上杉・北條・武田らを相手に対抗した。しかし業政死後は武田信玄に降伏・従属し、長篠城包囲戦で業繁が討ち死にするとその子・信業《のぶなり》は小田原北條氏に下り家臣として重用された。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で和田城は北国勢[c]加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。の攻撃により落城し廃城となった[d]信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。。この後に関八州へ入封した徳川家康の重臣・井伊直政がこの城跡に近世城郭を築いた。これが群馬県高崎市高松町1にあった高崎城である。しかし現在は宅地化が進み、三ノ丸外囲《さんのまる・そとがこい》の土居と水濠、そして復元された東御門や乾櫓が移築されているだけであった。

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a 鎌倉幕府の御家人の一人、和田義盛《わだ・よしもり》の子孫が上野国赤坂に土着したのが始まりとされる。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「上野《こうずけ》」を冠した。
c 加賀の前田利家・利長、越後の上杉景勝、上野の真田昌幸・信繁ら合わせて1万5千。
d 信業は小田原城に籠城したため和田氏は上野国を追放され各地を流浪した。

山形城 − Yamagata Castle

山形城本丸跡に石垣・大手橋・高麗門・櫓門からなる一文字門が一部復元された

山形県山形市霞城《かじょう》町1番7号にある霞城公園は、市内の中心部にあって馬見ケ崎川《まみがさきがわ》西岸に広がる扇状地北端に築かれていた羽州探題職《うしゅう・たんだいしき》[a]室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。・最上氏の居城であり、のちに山形藩庁がおかれた山形城である。この城の起源は初代・羽州探題であった斯波兼頼《しば・かねより》が延文元(1356)年に出羽国最上郡山形に入部して築いた館であり、このとき室町幕府により許されて「最上屋形《もがみ・やかた》[b]「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。」と称すようになったのが最上氏の始まりとされている。近世城郭としての原型は、第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主である最上義光《もがみ・よしあき》が文禄から慶長期(1592〜1615年)に拡張したもので、この時に本丸・二ノ丸・三ノ丸が築かれ、三重の堀と土塁が巡らされた輪郭式平城が完成した。のちに藩主となった鳥居忠政《とりい・ただまさ》[c]徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。は元和8(1622)年に現在公園で見ることができる二ノ丸の堀や石垣などを整備した他、明和4(1767)年には藩主・秋元涼朝《あきもと・すけとも》[d]幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。が三ノ丸に御殿を新造した。明治3(1870)年に廃城、そして昭和24(1949)年に本丸と二ノ丸が公園として市民に開放された。

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a 室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。
b 「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。
c 徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《とりい・もとだた》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。
d 幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。
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