城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

作者別: ミケフォ (1ページ目 (19ページ中))

新發田城 − Shibata Castle

新發田城跡の本丸北西隅には天守の機能を持つ三階櫓が復元されている

新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。

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a これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。
b 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。
c 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。
d 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。

蔵王堂城 − Zaoudou Castle

蔵王堂城跡で唯一の遺構は本丸南東隅の土塁と水堀跡である

越後国を流れる信濃川と柿川《カキガワ》の合流点に形成された河岸段丘上に、その昔、蔵王権現[a]金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。を祀る蔵王堂が建てられていたが、南北朝時代、この御堂に北朝勢力の中条氏が本陣を構えて砦化したことが蔵王堂城の始まりと伝わる。戦国時代初期、越後国守護・上杉氏に従って国入した長尾景忠[b]鎌倉幕府三代将軍・源実朝を暗殺した二代将軍・源頼家の次男・公暁《クギョウ》を討った御家人・長尾定景《ナガオ・サダカゲ》の孫。関東長尾氏四代当主。の三男・景晴《カゲハル》が古志《コシ》郡代となり、交通の要衝にある蔵王堂城を居城にした。景晴は越後長尾氏[c]長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。の分家にあたる古志長尾氏の祖となり、その後、古志長尾氏が栖吉城を居城にすると、長尾為重《ナガオ・タメシゲ》[d]長尾景虎の叔父にあたるらしい。が入城して本格的に改修したと云う。時が流れ慶長3(1598)年に越後上杉氏が會津若松へ国替えになると、代わって入国した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の弟・親良《チカヨシ》が蔵王堂城に入城、のちに養子[e]兄・堀秀治の次男。の鶴千代が継ぐが夭逝《ヨウセイ》したため、彼の後見人であった堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が居城の坂戸城とともに治め[f]当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。、長岡城移転後は廃城になり、現在は遺構の一部が残るのみである。

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a 金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。
b 鎌倉幕府三代将軍・源実朝を暗殺した二代将軍・源頼家の次男・公暁《クギョウ》を討った御家人・長尾定景《ナガオ・サダカゲ》の孫。関東長尾氏四代当主。
c 長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。
d 長尾景虎の叔父にあたるらしい。
e 兄・堀秀治の次男。
f 当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。

村上城/越後本荘城 − Murakami AKA Honjō Castle

村上城跡の二ノ丸跡には二層二階の櫓が建っていた出櫓の台座石垣が残る

新潟県村上市大字本町字田口979[a]所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。にある村上城跡は、標高135mの臥牛山《ガギュウザン》に築かれた山上部と山麓の居館部からなり、戦国時代には揚北衆[b]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。《アガキタシュウ》の領袖《リョウシュウ》であった本荘繁長[c]名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。《ホンジョウ・シゲナガ》の居城で中世城郭の本荘城[d]本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。であり、安土桃山時代には堀秀治《ホリ・ヒデハル》[e]織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。の家臣・村上頼勝《ムラカミ・ヨリカツ》が石垣を用いて改修し村上城と改称した近世城郭であった。そして江戸時代には村上藩主の堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が望楼型三層三階の天守櫓を建て、町割りをして城下町を整備した。天守櫓はのちに播磨国から国替えとなった松平直矩《マツダイラ・ナオノリ》が建て替えたが[f]理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。、落雷によりわずか四年で焼失し以後再建されることはなかった。明治時代の廃藩置県で廃城が決まり、北越戊辰戦争のおりに居館部を焼失したものの、城内の門や石垣はほぼ無傷で残っていたが悉く破却された。中世と近世の城郭遺構が混在する城跡は平成5(1993)年に国の史跡に指定された。

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a 所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。
b 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。
c 名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。
d 本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。
e 織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。
f 理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。

鳥羽山城 − Tobayama Castle

鳥羽山城は堀尾氏が改修し道幅6mを越えていたとされる大手道が残る

元亀3(1572)年に甲斐国の武田信玄が大軍を率いて遠江国の徳川家康領に侵攻を開始、兵数で劣る家康の手勢を分散させるため、守備の薄い城を次々に陥落させることで掛川城諏訪原城、そして浜松城といった家康の拠点を孤立させた。つづいて信玄は自軍の補給路を確保するために二俣城を包囲するも、この城の天嶮に阻まれて近寄ることができなかったが[a]もちろん家康も後詰を送れずにいた。、ついには水の手を絶つことに成功し降伏開城させた。こののち信玄は三方ヶ原台地で家康と織田信長の援軍を痛破し東海道を押し進む動きをみせたものの、翌4(1573)年に急死して上洛戦は幻となった。そして機山公[b]武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。の喪が明けた天正3(1575)年に、跡目を継いだ四郎勝頼が信長ら連合軍に無二の決戦を挑んだ長篠・設楽原合戦で惨敗すると[c]これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。、ついに家康の反撃が開始され、二俣城奪還のため旧・二俣川[d]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。対岸に鳥羽山城を築き、周囲の附城と共に包囲網を形成したと云う。この城は、現在は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある鳥羽山公園として市民の憩いの場になってる。

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a もちろん家康も後詰を送れずにいた。
b 武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。
c これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。
d 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。

二俣城 − Futamata Castle

二俣城の本丸西側には石段を持つ野面積みの天守台が残る

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990にある城山公園は、天竜川と旧・二俣川[a]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。が合流する天然の要害に築かれた山城跡で、戦国時代中頃に遠江国を斯波氏から奪還した駿河国の今川氏輝[b]今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。が重臣の松井貞宗に命じて築かせたのが始まりとされる。ここ二俣の地は遠江の平野部と山間部の結節点に位置し、遠江各地への街道が交差する要衝であり、今川氏衰退後は甲斐国の武田氏と三河国の徳川氏による激しい争奪戦の舞台になった。この城は、北を除く三方が川によって形成された崖地だったので、搦手にあたる北側尾根筋を遮断するだけで守りに堅固な城になった。永禄11(1568)年に武田信玄が今川義元亡き駿河国へ侵攻、同時に徳川家康も遠江国で大井川を境に西側の領土を略して二俣城を手に入れた。しかし元亀3(1572)年には信玄が大軍を率いて家康領に侵攻を開始、山縣昌景ら別働隊が二俣城を包囲するも城の天嶮に阻まれ近寄ることができなかったが家康も後詰を送れず水の手を絶たれて降伏開城するに至り、城は武田氏の手に落ちた。

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a 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。
b 今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。

烏山城 − Karasuyama Castle

室町時代に築かれ、近世城郭に改修された烏山城の吹貫門跡に残る石垣

室町時代は応永25(1418)年に、那珂川《ナカガワ》東岸にあって南北に伸びる標高200mほどの八高山《ハッコウサン》上に築かれた烏山城は、山の形が牛が寝ている姿に似ていることから臥牛城《ガギュウジョウ》の別名を持つ山城である。一説に、平安時代末期にあった讃岐国屋島での源平合戦[a]所謂、屋島の戦い。で、弓の神技を披露して名を馳せた下野国の御家人・那須与一《ナス・ノ・ヨイチ》[b]那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。の子孫[c]那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。が築いたと云う。東西約370m、南北約510mに及ぶ城域に、本丸・古本丸・北城・中城・西城・大野曲輪・常磐曲輪・若狭曲輪からなる五城三郭を配した梯郭式の縄張りを持っていた。この典型的な中世城郭の山城は下野国の名門・那須家の居城であったが、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に参陣せず所領没収とされたあとは忍城主だった成田氏長をはじめ多くの大名が入城し、幕末まで改修を重ねた末、明治時代に廃城となった。昭和の時代に入ると発掘調査が行われ、現在その城跡は栃木県立自然公園の一部になっている。

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a 所謂、屋島の戦い。
b 那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。
c 那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。

壬生城 − Mibu Castle

壬生城本丸跡南西側に残る横矢の折れを持つ城塁が復原されていた

栃木県下都賀郡壬生[a]読みは《トチギケン・シモツガグン・ミブ》。町本丸1丁目にある壬生町城址公園は、県内に残る数少ない近世城郭・壬生城の本丸跡である。この城の歴史は古く、戦国時代は文明年間(1469〜1486年)に下野宇都宮氏の家臣で壬生家二代当主である壬生綱重《ミブ・ツナシゲ》が思川《オモイガワ》と黒川に挟まれた台地に築いた平城であった。綱重は宇都宮氏の下で勢力を拡大し、鹿沼城を居城として壬生・鹿沼・日光山を領有、壬生城は子の頼房が居城とした。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、五代当主の義雄《ヨシカツ》は小田原北條勢に与して敗北、直後に病死[b]同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照に毒殺されたと云う説あり。して壬生家は無嗣断絶となった。このあと壬生城には結城秀康が入城、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後は目まぐるしく城主が替わった。そして壬生藩が立藩されたのち、正徳2(1712)年に鳥居忠英《トリイ・タダテル》が3万石で封じられると、明治維新までの157年間を鳥居氏八代が治めた。日光街道沿いの平城と云う立地から将軍による日光社参の宿城に使われたと云う。

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a 読みは《トチギケン・シモツガグン・ミブ》。
b 同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照に毒殺されたと云う説あり。

祇園城/下野小山城 − Gion AKA Oyama Castle

祇園城の本丸跡と二ノ丸跡の間の堀切に架かっていた赤い祇園橋

平安末期に下野国《シモツケノクニ》最大の武士団を率い、藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[a]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔を称した小山政光《オヤマ・マサミツ》が思川《オモイガワ》東岸の河岸段丘に築いたとされる崖端《ガケバタ》城の小山城はのちの祇園城[b]城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。であり、小山氏の拠点として越後の上杉謙信や小田原の北條氏康らとの絶え間のない戦乱をくぐり抜けてきた。天正4(1576)年に城主の小山秀綱《オヤマ・ヒデツナ》が北條氏に降伏して開城したあと、小田原北條家で他国衆[c]小田原北條氏に降った外様大名らの総称。の取次を担当していた北條氏照が城代を置き、小山城も思川に沿って南北に本丸・二ノ丸(塚田曲輪)、北久保曲輪、北曲輪などを堀を使って連ねた連格式平山城に拡張・整備されたと云う。本丸にいたっては高い土塁と幅約20mに及ぶ空堀によって守られ、二ノ丸にはL字形の空堀を利用した馬出が設けられた。この祇園城は江戸時代に近世城郭としての縄張が完成し、現在は栃木県小山市城山町1丁目1番にある城山公園として市民の憩いの場となっている。

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a 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。
b 城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。
c 小田原北條氏に降った外様大名らの総称。

足柄城 − Ashigara Castle

駿河と相模の国境にある足柄城一の郭跡から霊峰・富士の眺め

静岡県駿東郡小山町竹之下にある足柄城址は、かっては駿河国と相模国の境目にあって、標高759mの箱根外輪山から派生した尾根上にある足柄峠と箱根の街道を押さえるために小田原北條氏が整備したとされる。この城の築城者とその年代は不詳であるが、かなり早い時代から戦略上の要衝として軍事的な施設が設けられていた形跡があると云う。戦国時代には北條氏康が駿河今川氏と甲斐武田氏の来襲に備えて相模国三田郷[a]現在の神奈川県厚木市。から人夫を出させて普請したと云う記録も残っており、その後も改修が続けられた。永禄11(1568)年に甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を破って武田信玄が駿河国へ侵攻すると、北條氏の最前線であった深沢城も攻撃を受け[c]信玄は力攻めはせず、甲斐国から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら北條勢の戦意が落ちるを待ち、降伏開城させた。のちに云う「深沢城矢文」。、城代の北條綱成はここ足柄城へ退いた。また関白秀吉による小田原仕置に備えて大改修を施したが、天正18(1590)年には隣城の山中城が一日で落城したことで城主・北條氏光《ホウジョウ・ウジミツ》[d]この城には交替で城主を務める当番衆が置かれていたとも。小田原城へ退却、山中城を陥落させた徳川家康勢に攻撃され足柄城は落城し、のちに廃城となった。

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a 現在の神奈川県厚木市。
b 善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。
c 信玄は力攻めはせず、甲斐国から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら北條勢の戦意が落ちるを待ち、降伏開城させた。のちに云う「深沢城矢文」。
d この城には交替で城主を務める当番衆が置かれていたとも。

泉頭城 − Izumigashira Castle

泉頭城で柿田川沿いにある西曲輪跡には貴船神社が建つ

永禄11(1568)年に甲相駿三国同盟[a]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を破り、甲斐国の武田信玄が三河の徳川家康と共に駿河国の今川領へ侵攻すると、相模国小田原の北條氏康は相駿同盟[b]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視し信玄に対抗するため、嫡男の氏政と共に駿河と伊豆の国境に出陣した。一方、信玄は駿河国境で氏康らの軍勢を牽制しつつ、その裏をかいて2万の軍勢で上野国の碓氷峠から武蔵国へ侵攻、北條氏の支城を攻撃しながら南下して小田原城を囲んだ。急報を聞いた氏康らが小田原へ取って返すと信玄は囲みを解いて引揚げを開始、氏康の命で先回りした北條氏照氏邦らと三増峠で激突するが小田原勢を退けて帰国した。この時、氏康は駿河国を手中に入れた武田勢に備えるため、国境に接する駿河田中城、蒲原《カンバラ》城、興国寺城三枚橋城駿河戸倉城、獅子浜城、長久保城、そして泉頭《イズミガシラ》城の七つの城に兵を配置し城の改修を命じて小田原へ帰陣したと云う[c]北條五代記』には、「氏康は信玄逃げ行く由聞き、これら七つの城に人数を篭め置き、氏康父子小田原へ帰陣せり」とある。。その一つの泉頭城は、現在の清流柿田川水源地にある柿田川公園として市民の憩いの場となっている。

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a 善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。
b 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。
c 北條五代記』には、「氏康は信玄逃げ行く由聞き、これら七つの城に人数を篭め置き、氏康父子小田原へ帰陣せり」とある。
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