山梨県甲府市古府中2611にある武田神社は、かって甲斐国の国主であった武田信虎・晴信・勝頼[a]信虎は甲斐国守護、晴信は甲斐国守護と信濃国守護、勝頼は信濃国守護。ら三代が居住し国政を司る政庁を兼ね、躑躅ヶ崎館[b]読みは《ツツジガサキ・ヤカタ》あるいは《ツツジガサキ・ノ・ヤカタ》。と呼ばれた館跡の一部である[c]国史跡としての登録名は「武田氏館跡」。。この館は三方を山に囲まれ、東に藤川、西に相川が南流し、相川によって形成された扇状地に突き出た尾根の「躑躅ヶ崎」先端に築かれた天然の要害であった。甲斐源氏第十八代[d]甲斐源氏の初代は清和源氏義光(新羅三郎義光)。甲斐武田氏の初代は武田信義。当主の信虎が、それまでの居館であった川田館《カワダヤカタ》から、この地へ守護館を移した時代は主郭のみの方形単郭の縄張であったが、その後は改修と拡張が重ねられて西曲輪・味噌曲輪・稲荷曲輪が増設された他、信仰深い晴信の招聘により多くの寺社が建立された城下町の「古府中」も発展した。しかし勝頼の時代には、この館を放棄して韮崎の新府城を新たな政庁とし古府中も移された。甲斐武田氏滅亡後は織田・徳川・豊臣の各氏が躑躅ヶ崎館を統治拠点として再利用し、主郭に天守台、そして館南西に梅翁曲輪などが築かれたが、甲府城が築かれると廃城になった。
今となっては十年前の平成26(2014)年に初めて躑躅ヶ崎館跡を攻めてきたが、当時、発掘調査が行われていた場所に甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)なる施設が開館し、「武田二十四将図展 〜 その成立と展開を考える 〜」なる企画展が開催されていることを知り、先々月は令和6(2024)年の小満の候の週末[e]【今日は何の日?】今月の風呂の日。桂小五郎(木戸孝允)が西南戦争中に病死した日。に鑑賞してきたが、せっかくなので、その展示にちなんで「甲府市指定」武田二十四将らの屋敷跡を巡ってきた他、同じく十年前は発掘調査中であったが、のちに整備された梅翁曲輪《バイオウ・クルワ》[f]楳王曲輪、または梅王曲輪とも。跡と、十年前は参詣できなかった武田信虎公の菩提寺である大泉寺にも足を伸ばしてきた :
(甲府駅)→(レンタサイクル受取)→ 甲府市武田氏館跡歴史館 → 躑躅ヶ崎館・西曲輪南側虎口跡 → 躑躅ヶ崎館・西曲輪南馬出跡 → 躑躅ヶ崎館・梅翁曲輪跡 → 武田家将士屋敷巡り → 武田信玄公墓所 → 河尻塚 → 大泉寺 → (レンタサイクル返却)→(甲府駅)
梅翁曲輪跡ほか
こちらは武田神社周辺の案内図に記されていた「武田氏館跡曲輪配置図」の情報[g]国史跡「武田氏館跡」のリーフレット(甲府市教育委員会)にも同じ図が掲載されている。を国土地理院が公開している地理院地図(白地図)上に重畳し、さらに今回巡ってきた遺構★を強調したもの:
主に十年前は発掘調査のため立入りが制限されていた梅翁曲輪跡を巡ってきたが、他に発掘調査で出土した石積や戦国期の馬の骨の標本などを甲府市武田氏館跡歴史館で鑑賞してきた。また梅翁曲輪に隣接する西曲輪南側の虎口跡も巡ってきた。
こちらは梅翁曲輪跡の説明板に掲載されていた「武田氏館跡全体図」に一部加筆したもの:
躑躅ヶ崎館の主郭跡には武田神社[h]大正8(1919)年の創建で、主な祭神は武田信玄公。の社殿が建ち、濠に架かった神橋を渡って境内へ向かう参道があるが、ここは大手口跡ではない:
『信玄公御屋形図《シンゲンコウ・オヤカタ・ズ》』(江戸時代・山梨県立博物館蔵)によると、武田神社の社殿が並ぶ主郭跡には、往時は大きく分けて政務・儀礼の場として使われた本主殿・主殿と、信玄公らの生活の場であった御裏方と云った建物あり、その東側には毘沙門堂などが建つ信仰空間で、西側は甲斐武田家代々の家宝を納めた御旗屋があり、南側には築山・泉水を配した庭園があったと云われる。
参道口をそれ、濠に沿って西曲輪跡へ。この館南側にある水濠は深くて広い。一方、北側は空堀だったと云う:
こちらは西曲輪南側虎口跡。往時は木橋で、濠を渡ると枡形虎口になっていた:
虎口にある石積。十年前に攻めた時とは積み方が変わっていた:
こちらは西曲輪跡から虎口跡をみたところ。この先の道路を越えたところが西曲輪南馬出跡:
このあとは西曲輪跡の南側にある梅翁曲輪跡へ。虎口跡から道路を渡ったところには西曲輪南馬出跡があった:
虎口の前に馬出を配置するのは甲州流築城術の特徴で、この馬出は西曲輪南側虎口の前に築かれ、人や馬の出入りを隠す目的も併せ持つコの字型の土塁と石塁からなる防御施設であった。
なお発掘調査では、この場所からは、四肢を折り曲げ、北枕の西向き埋葬された馬の全身骨格が完全な形で出土した。これは戦国時代の馬を伝える貴重な資料とされ、現在は信玄ミュージアムに復元展示されている(有料)。復元された体高は約125cmで、これは現代ではポニー(pony)に分類される大きさとのことから、想像されていたよりも戦国期の馬は小さかったと云える。
馬出跡の南にあるのが梅翁曲輪跡。恵林寺蔵の『甲州古城勝頼以前図』に、この郭《クルワ》は描かれていないことから、甲斐武田氏滅亡後に附設された説が有力であるが、築城者は不明[i]織田信長の家臣・河尻秀隆や、徳川家康の家臣・平岩親吉《ヒライワ・チカヨシ》、あるいは豊臣秀吉の家臣・加藤光泰《カトウ・ミツヤス》の誰か?。この郭は東西約130m、南北約90mの規模を持ち、北・北東・南・南西・西北に虎口を持つ:
往時は郭の南側には松木堀と呼ばれる濠が設けられていたが、現在は南側の虎口へ渡る土橋跡を境に、濠の西半部がL字形に残っているものの、東半部は埋め立てられて往時の姿をとどめていない。
この郭内へ入るために馬出跡からぐるりと回り込んで南虎口跡へ向かった。こちらは松木堀と土塁。土塁と、その基底部から検出された石積が復元されていた:
こちらが南側虎口の土橋跡とⒸ(南虎口)石積:
本来は南虎口は枡形虎口であるが、ここでは発掘調査により検出された土塁東端部の石積のみ復元されている。
こちらが梅翁曲輪跡と土塁:
Ⓐ土塁・濠。土塁の高さは不明のため発掘調査で検出した基底部の遺構から復元したもの:
発掘調査では土塁の基底部の濠側に一段、郭側に二段の石積が検出された:
こちらは Ⓑ南西虎口門跡。発掘調査では、石積と片側2個づつの合計4個の門の礎石が検出された:
松木堀の一部は、廃城後の江戸時代以降に用水路として再利用されたため、埋められることなく往時に近い状態を残したまま(発掘調査後に)復元されていた:
この土塁の郭側には溜まった雨水や使用済みの生活用水を濠へ排水するⒹ集水口跡や暗渠跡が検出された。暗渠の方は排水の出入口がずれていたため、集水口だけ平面復元されていた:
今後は郭内の公有化[j]現在、郭内には民家が数件建っている。を進め、他の虎口の復元などが計画されているらしい:
なお発掘調査で検出したものは他にも、信玄ミュージアムで鑑賞することができる[k]無料の常設展示室や有料の特別展示室。:
これは躑躅ヶ崎館の周囲に形成された城下町の区画していた石積を復元したもの。相川によって造られた扇状地が南へ向かってなだらかな斜面を形成し、屋敷の間には高低差が生じてしまうため、段差部分に自然石を積み上げて土留めにしていたとされる。
以上で、躑躅ヶ崎館攻めは終了。
躑躅ヶ崎館攻め(2) (フォト集)
躑躅ヶ崎館 (訪問記)
躑躅ヶ崎館攻め(フォト集)
【参考情報】
- 梅翁曲輪跡周辺や信玄ミュージアムに建っていた案内図や説明板(甲府市教育委員会)
- リーフレット『国史跡・武田氏館跡』(甲府市教育委員会・歴史文化財課)
- 山梨県甲府市史跡武田氏館跡 : 武田氏館跡関係資料集(甲府市教育委員会)
- 山梨県甲府市『史跡・武田氏館跡Ⅱ1986』(甲府市教育委員会)
甲斐武田二十四将図
今回のツアーの目的は、信玄ミュージアムの企画展「武田二十四将図展 〜その成立と背景を考える〜」の鑑賞だった。信玄は優秀な家臣を多く召し抱えていたことはよく知られており、それを裏付ける史料の一つとして「武田二十四将図」が取り上げられることが多いが、このような信玄と家臣らの集合図の殆どは、信玄公の死後で甲斐武田氏が滅亡した後の江戸時代の作品である。さらには描かれている諸将らが活躍した年代は大きく異なり、現実的に同じ時に集合したとは考えられず、甲斐武田家将士らのオールスター的な意味合いが強いものになっている。
今回、有料での鑑賞ながら個人所蔵の絵図3点の写真撮影は不可だった 。と云うことで、本稿では企画展の案内板に掲載されていた絵図2点を引用する:
その昔、山梨県立博物館で開催された「生誕500年・武田信玄の生涯[l]博物館開館15周年記念の特別展示だった。」では、これとは別の武田二十四将図を2点鑑賞したが、総じて絵図によって描かれている武将の顔ぶれは異なるものの、信玄を最上位に頂き、御一門衆、御譜代家老衆、先方衆《サキテシュウ》、そして足軽大将の序列で、一同が向かい合って軍議しているかのようなレイアウトになっている。
他には 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(浜松市)所蔵の「武田二十四将図」を閲覧・ダウンロードできる:
このような絵図が江戸時代に流行した背景には、武士の教養として甲州流軍学の書『甲陽軍鑑[m]譜代家老の春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《オバタ・カゲノリ》が写本したものが最古の文献として現存している。』が読みつがれ、甲斐武田家の隆盛と衰勢を題材とした軍記物や歌舞伎・浄瑠璃が広まり浸透していったことが考えられている。
上の絵図で①は江戸時代末期から明治時代に活躍した浮世絵師の歌川芳員《ウタガワ・ヨシカズ》による作画。一方、②は山梨大学名誉教授で武田氏の研究にも多大の功績のある故・磯貝正義《イソガイ・マサヨシ》氏の家に代々伝わってきた絵図で、左下の「竹月堂浮石筆」の落款《ラッカン》[n]いわゆる署名。は、かって岩村藩士であった磯貝長七郎正名の雅号であることから、絵師ではなく武士が描いた武田二十四将図として他とは一線を画す作である。また将士の名前には誤記[o]武藤喜兵衛が武藤善兵衛、山本勘助入道道鬼が山本勘助入道道岡になっている。が見受けられることから、何らかの原本を書写したものである可能性が高いとされている。
絵図によって信玄を入れて二十四将か否か、あるいは将士の場合は同じ家名・官位でも代が違ったり、通称が違ったりするが、概して描かれている将士は以下のとおり(カッコ内は代表とされる御仁):
- 武田逍遥軒(武田信廉)
- 穴山梅雪(穴山信君)
- 伊那四郎勝頼(武田勝頼)
- 馬場美濃守(馬場信房・馬場信春)
- 山縣三郎兵衛(山縣昌景)
- 高坂弾正忠(高坂昌信)
- 内藤修理(内藤昌豊)
- 三枝勘解由(三枝守友)
- 武藤喜兵衛(眞田昌幸)
- 曾根下野守(曾根昌世)
- 土屋右衛門(土屋昌続)
- 甘利九衛門(甘利虎泰)
- 甘利左衛門(甘利信忠)
- 原隼人亮(原昌胤)
- 原美濃入道(原虎胤)
- 小幡豊後守(小幡昌盛)
- 小畠山城入道(小畠虎盛)
- 秋山伯耆守(秋山信友)
- 横田備中守(横田高松)
- 多田淡路守(多田満頼)
- 小山田兵部尉(小山田信茂)
- 眞田弾正忠(眞田幸綱)
- 眞田源太左衛門(眞田信綱)
- 眞田兵部尉(眞田昌輝)
- 山本勘助入道(山本勘助)
以下はこれまで鑑賞してきた絵図からは確認できなかったが、二十四将として扱われることがある御仁:
- 武田典厩(武田信繁)
- 一條右衛門(一條信竜)
- 板垣駿河守(板垣信方)
- 諸角豊後守(諸角虎定)
- 飯富兵部少輔(飯富虎昌)
- 櫻井安芸守(櫻井信忠)
2024年5月 武田氏館跡歴史館 (フォト集)
【参考情報】
- 信玄ミュージアム企画展「武田二十四将図展 〜その成立と背景を考える〜」
- 甲府市・武田氏館跡歴史館の常設展示・特別展示・企画展示
- 「武田二十四将図」 甲府で企画展 武士が描いた希少な作品も 山梨県(日テレNEWS NNN 2024年5月13日)
- 『生誕500年・武田信玄の生涯』(山梨県立博物館)
- 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(TOP> 詳細検索「武田二十四将図」)
甲斐武田家将士屋敷跡巡り
甲斐国の守護であった信虎が躑躅ヶ崎館を造営し、その周辺に道路を設け、家臣団の屋敷や寺社を配置し、商職人を集めて城下町を開いた。これが甲斐国の府中(都)を意味する「甲府(古府中)」であり、館と共に領国経営の拠点となった。
信玄ミュージアムの企画展「武田二十四将図展 〜その成立と背景を考える〜」の鑑賞にちなみ、甲府市が紹介している武田二十四将の屋敷跡を巡ってみた。甲府市の紹介ページによると、大正時代に発刊された『甲府略志』所収の「古府之図[p]Wikipedia の躑躅ヶ崎館のページに添付されている画像の方が高精細なのでオススメ 🤩️。」には武田二十四将を含む武田家に仕えた将士の屋敷跡が記されており、これを元に甲府市が現代の地図上にマッピングした地図で場所を特定して巡ってきた。実際、甲府市は二十四将を紹介する案内板を設置しているとのことで、こちらを目印にした。加えて、二十四将以外の将士の屋敷跡についても古府之図を参考に可能なかぎり巡ってきた。
こちらは古府之図にある将士屋敷跡の情報を、国土地理院が公開している地理院地図(白地図)上にマッピングさせたもの(位置は推定含む)。図中★は甲府市認定の武田二十四将屋敷跡[q]ie. 案内板が設置されている屋敷跡。、★は武田二十四将以外の将士の屋敷跡、★は甲斐武田氏ゆかりの墓所、★はその他の史跡(跡):
各屋敷跡のラベルは甲府市設置の案内板ではなく、古府之図に記載されていたものをそのまま使用した。
そして、この図の上に屋敷跡を巡ったとき(躑躅ヶ崎館攻めも含む)の実際のGPSアクティビティ(ハイキング)をトレースしたものがこちら。Garmin Instinct 2X Dual Power® で計測した総移動距離は11.57㎞、所要時間は2時間50分(うち移動時間は1時間20分)ほど。高度を表す色から分かるように、北から南へゆるい斜面(扇状地)になっている:
梅翁曲輪跡を攻めたあと、その目の前にあった屋敷跡からスタート。なお甲府市設置の案内板と標柱とに記された名前が異なる御仁あるが、基本的には古府之図の表記に従う。
まずは「内藤修理亮」の屋敷跡:
内藤修理亮昌秀《ナイトウ・シュリノスケ・マサヒデ》(昌豊)は御譜代家老衆の一人。川中島合戦、滝山合戦や小田原城攻め、そして三増合戦など武田家の重要な作戦の殆どに参陣、家中の人望も高く、山縣昌景からは典厩信繁亡きあとの甲軍の副将と称された。信玄の西上野侵攻後は箕輪城主として越後上杉氏や小田原北條氏に備えた。天正3(1575)年の設楽原合戦で討ち死した。享年53。
その隣は「板垣駿河守」の屋敷跡:
板垣駿河守信方《イタガキ・スルガノカミ・ノブカタ》は御譜代家老衆筆頭の一人。信虎・晴信(信玄)の二代に仕えた上に晴信の傅役を務めた。信虎追放の際も中心的な役割を果たし、北信濃の諏訪攻略後に郡代として統治を任された。上田原で村上義清らと激突した際、一時の勝利に乗じて大人気なく首実検していたが、そこを義清らに急襲されて討ち死した。享年不詳。
現在の信玄ミュージアム周辺が「穴山伊豆守」の屋敷跡:
穴山玄蕃頭信君《アナヤマ・ゲンバノカミ・ノブタダ》は御一門衆で御親類衆筆頭。母が信玄の姉・南松院殿で、正室が信玄の次女・見性院殿。出家後に梅雪斎不白《バイセツサイ・フハク》を名乗る。信玄と勝頼の二代に仕える。駿河江尻城代。設楽原合戦では自軍の敗戦が確実になると退路確保の任務を放棄して早々に戦線を離脱した。織田・徳川両軍による甲州征伐では勝頼を見限り、徳川家康に内応した。天正10(1582)年に甲斐武田氏が滅亡したあと、近江安土城を訪問して織田信長に御礼し家康一行と共に堺を遊覧するが、直後に信長が本䏻寺で斃れ、混乱する畿内から脱出を試みるも一揆の襲撃で命を落とした。享年42。
この隣が「高坂弾正忠」の屋敷跡:
高坂弾正忠昌信《コウサカ・ダンジョウノジョウ・マサノブ》は御譜代家老衆の一人。春日源五郎虎綱《カスガ・ゲンゴロウ・トラツナ》を名乗っていた頃に晴信の近習となり、小諸城代、海津城代に抜擢され、高坂(香坂)の名跡を継承して、越後上杉勢との最前線を任された。信玄から受けた教えをまとめた書物がのちの『甲陽軍鑑』の原本となった。川中島合戦や三方ヶ原合戦などに参陣。設楽原合戦では嫡男を出陣させて自らは海津城を守備していたが、敗走してきた勝頼を信州駒場まで出迎えた。その後は信玄の遺言に従い、甲越同盟の実現に力を注いだが交渉中に病に倒れた。享年52。
この隣は「眞田弾正忠」の屋敷跡。:
眞田弾正忠幸綱《サナダ・ダンジョウノジョウ・ユキツナ》は他国衆の信濃先方衆《シナノ・サキテシュウ》の一人。晴信が苦戦した村上義清が守る砥石城を計略を持ってわずか一日で攻略した。さらに義清らに奪われていた旧領の信濃国小県郡で眞田本城(眞田郷)を取り戻した。川中島合戦に参陣し、西上野侵攻で箕輪城攻略に携わった。晴信が剃髪して信玄を名乗ると、自身も剃髪して一徳斎を名乗る。隠居後、信玄が没した翌年に病没した。享年62。
ここから北へ向かったところが「横田備中守」の屋敷跡:
横田備中守高松《ヨコタ・ビッチュウノカミ・タカトシ》は御譜代国衆で足軽大将衆の一人。信虎・晴信の二代に仕えた。信濃国攻略に尽力し、全身に多くの疵痕を負うほどの勇猛ぶりが近隣に知れ渡ったと云う。天文19(1550)年に村上義清が遠征中で不在であった砥石城攻めでは先陣を務め、北信濃から急遽戻ってきた義清らの追撃戦に遭遇した際は、晴信を逃がすために殿を務め、激戦の末に討ち死にした。享年不詳。武田家の武辺者のお手本となった御仁。
ここから西へ向かったところが「武田逍遥軒」の屋敷跡:
武田刑部少輔信廉《タケダ・ビョウブノショウ・ノブカド》は御一門衆の一人。信虎の六男で、信玄の実弟。兄の典厩信繁と共に信玄を支えた。信玄の影武者も務めた。また絵師としての才能に恵まれ、父・信虎像、母・大井夫人を描いた肖像画が現代に残る。信玄死後は四郎勝頼を補佐した。織田・徳川による甲州征伐で逃亡中に捕縛され処刑された。享年51。
これと虎落小路《モガリコウジ》[r]県道R31沿い一帯は、往時は躑躅ヶ崎館への侵入を防ぐための柵が設けられていたと云う。跡沿いに南にあるのが「小山田信茂」の屋敷跡:
小山田兵衛尉信茂《オヤマダ・ヒョウエノジョウ・ノブシゲ》は御譜代家老衆の一人。小山田家は甲斐国東部郡内の国衆で、御一門衆の待遇を受けた名族。信玄と勝頼の二代に仕え、信玄亡きあとは武田典厩信豊と共に武田氏を支えた。滝山合戦や小田原城攻め、三増合戦の他、山縣昌景ら共に駿河・伊豆侵攻、三方ヶ原合戦の先陣を務めた。織田・徳川による甲州征伐では、勝頼が新府城を放棄すると郡内にある居城・岩殿城へ退避を提言するが、その途中で離反し勝頼と一族郎党の入城を拒否した。しかし武田家を支えてきた家臣でありながらの裏切りを嫌った織田信忠に処刑された。享年43。
この隣が「土屋右衛門尉」の屋敷跡:
土屋右衛門尉昌続《ツチヤ・ウエモンノジョウ・マサツグ》は御譜代家老衆の一人。父は金丸筑前守虎義。信玄の奥近習六人衆の一人[s]土屋右衛門尉昌続の他に、三枝勘解由昌貞(守友)、曽根内匠昌世、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利左衛門尉昌忠、長坂源五郎昌国がおり、信玄から「昌」の名を授かった、今で云う将来の幹部候補生にあたる。。川中島合戦、三方ヶ原合戦などに参陣。信玄の三回忌の追善法要が終わった後に、追腹を切って殉死するつもりで高坂昌信に介錯を願い出た際、昌信から「どうせ死ぬなら戦場で死ね」と諌められ、設楽原合戦で壮絶な討ち死を果たした。享年31。なお、甲斐武田家滅亡に際し最後まで忠節を尽くして勝頼らを警護して「土屋惣蔵片手千人斬り」の伝説を残し、勝頼の介錯をした土屋惣蔵昌恒《ツチヤ・ソイウゾウ・マサツネ》は実弟にあたる。
この南にあるのが「山本勘助」の屋敷跡:
山本勘助晴幸《ヤマモト・カンスケ・ハルユキ》は御譜代国衆で足軽大将衆の一人。三河国牛窪出身で、諸国遍歴の末に甲斐国に入り、板垣信方の推挙で晴信に仕えた。兵法や築城術に長け、戦や出陣の吉兆を占うことができたことから晴信に助言する軍師として重用された。晴信が出家した際に自らも剃髪して道鬼斎と称した。川中島合戦では馬場信春と共に、俗に云う「啄木鳥《キツツキ》戦法」を進言するも上杉謙信に見破られ、多くの将士を失うことになった責任を痛感し、僅かの家来と共に敵中に斬り込んで討ち死した。享年62。
ここから南にあったのが「眞田源太左衛門」の屋敷跡:
眞田源太左衛門尉信綱《サナダ・ゲンタザエモンノジョウ・ノブツナ》は他国衆の信濃先方衆の一人。眞田弾正忠幸綱の嫡男。最終的には騎馬200騎を率いる侍大将になった。箕輪城を含む西上野攻略、滝山合戦、小田原城攻め、三増合戦、三方ヶ原合戦など信玄による武田家の重要な作戦の殆どに参陣した。元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。享年39。
内藤修理亮の屋敷跡の南にあるのが「原加賀守」の屋敷跡:
原隼人佑昌胤《ハラ・ハヤトノスケ・マサタネ》は御譜代家老衆の一人。武田家の陣場奉行を務めた他、治水などの土木系の政務をこなした。信濃・駿河侵攻に参陣。設楽原決戦では奉行の一人として勝頼に撤退を進言するも容れられず、最後は戦働きを志望して先鋒の内藤修理亮隊に合流、徳川家康が本陣を置いた弾正山を目指して突撃するも柵にたどり着く前に敵弾に斃れた。享年不詳。
この南にあるのが「三枝勘解由」の屋敷跡:
三枝勘解由左衛門尉昌貞《サイグサ・カゲユ・ザエモンノジョウ・マササダ》は御譜代国衆で足軽大将衆の一人。信玄の奥近習六人衆の一人[t]土屋右衛門尉昌続の他に、三枝勘解由昌貞(守友)、曽根内匠昌世、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利左衛門尉昌忠、長坂源五郎昌国がおり、信玄から「昌」の名を授かった、今で云う将来の幹部候補生にあたる。。足軽大将に任じられ、のちに山縣昌景の娘を妻に娶り寄子として「山縣」の姓を名乗った。昌景とともに駿河侵攻に参陣。長篠・設楽原合戦では昌貞ら3兄弟で長篠城監視部隊の一つである姥ヶ懐《ウバガフトコロ》砦で警戒していたが、徳川勢の酒井忠次らが率いる別働隊の奇襲を受け、奮戦は目覚ましくも多勢に押し切られ討ち死にした。享年38。
武田二十四将には挙げられていないが、この屋敷跡から脇にそれた場所に「長坂釣閑斎」の屋敷跡があった:
長坂左衛門尉釣閑斎《ナガサカ・サエモンノジョウ・チョウカンサイ》。御譜代国衆で足軽大将衆の一人。晴信が出家した際に自らも剃髪して釣閑斎[u]「長閑斎」という表記もあるが、現在こちらは別人の今福長閑斎との説が有力。と称した。甲府城下町の広小路の西側に沿って屋敷を構えていたと云う。信玄と勝頼の二代に仕え、信玄亡きあとは(馬場・山縣ら「年寄り」嫌いの)勝頼に重用された。年寄りらが反対した織田・徳川との決戦を進言したのは釣閑斎であると云う。信長の甲州征伐では勝頼ら一行にはつき従わず、甲府に残り、織田に捕縛されて処刑された。享年70。
「三枝勘解由」の屋敷跡の隣は「多田淡路守」の屋敷跡であるが、その南側には伊勢神宮を祀った大神宮があったと云う:
甲斐武田氏が信仰していた石和の大神宮を、信虎が躑躅ヶ崎館の建設に伴って遷座したと云う。これは、伊勢神宮外宮《イセジングウ・ゲグウ》の御師《オシ》が甲斐武田氏を檀那として抱えていたことから始まると云う。
こちらが「多田淡路守」の屋敷跡:
多田三八郎《タダ・サンパチロウ》こと多田淡路守満頼《タダ・アワジノカミ・ミツヨリ》は御譜代国衆で足軽大将衆の一人。美濃国の出身で、修行のため甲斐国へ渡り、信虎・信玄の二代に仕えた。出陣は数知れず、感状を貰うこと29度に及び、全身は疵だらけだったと云う。江戸時代の軍記物『甲斐国志』には信濃国の虚空蔵山の砦で「火車鬼」と云う妖怪を退治した伝説が記されている。川中島合戦前に病没。享年不詳。
この北側の現在の信玄通り(往時は広小路)沿いには「馬場美濃守」の屋敷跡がある:
馬場美濃守信春《ババ・ミノノカミ・ノブハル》は御譜代家老衆の一人。はじめ教来石景政《キョウライシ・カゲマサ》と名乗り、信虎・信玄の二代に仕えて「馬場」氏の名跡を継いだ。山本勘助より築城術を学び、川中島合戦では勘助とともに「啄木鳥戦法」を献策し、自らも別働隊を率いた。西上野攻略、滝山合戦、小田原城攻め、三増合戦、三方ヶ原合戦など信玄による武田家の重要な作戦の殆どに参陣した。設楽原合戦では勝頼に撤退を進言したが退けられ、最後は勝頼を逃がすために殿軍を担い奮戦して討ち死した。その戦いぶりは、信長公記で「馬場美濃守手前の働き、比類なし。」と称えられた。享年62。
この屋敷の隣は、武田二十四将には挙げられていないが、信濃国の先方衆(小県)の一人である「相木市兵衛」の屋敷跡がある。こちらは案内板も石碑も建っていない:
相木市兵衛昌朝《アイキ・イチベエ・マサトモ》。信濃国の先方衆(佐久郡)の一人。もとは岩村田大井氏の家臣とも。長女は眞田幸綱の次男・昌輝の正妻で、次男が山縣昌景の娘婿ともあって山縣隊の相備でもあった。川中島合戦などに参陣。駿河侵攻前に亡くなった。享年52。
この隣も同じく武田二十四将には挙げられていないが、豪勇としられる「廣瀬左衛門」の屋敷跡。廣瀬左衛門景房《ヒロセ・サエモン・カゲフサ》も山縣昌景隊の相備であった。武田家滅亡後は徳川家康の家臣・井伊直政の下で赤備《アカゾナエ》として活躍した。
その隣が「甘利備前守」の屋敷跡:
甘利備前守虎泰《アマリ・ビゼンノカミ・トラヤス》は御譜代家老衆筆頭の一人で、板垣信方とともに両職という最高職に就いていた宿老。甘利家は甲斐源氏の流れを汲む武田家の庶流である。信虎・晴信(信玄)の二代に仕え、武田家の重要な作戦の殆どに参陣した。上野国から長野業政の諫言を無視して来攻してきた関東管領・上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》の派遣軍を撃破する功を挙げた(小田井原合戦)。晴信が北信濃の雄・村上義清と戦った上田原合戦では、信方を討った余勢を駆って意気が上がる村上勢から晴信を逃がすために討ち死した。享年不詳。
この屋敷の南には「山縣三郎兵衛尉」の屋敷跡がある:
山縣三郎右兵衛尉昌景《ヤマガタ・サブロウ・ウヒョウエノジョウ・マサカゲ》は御譜代家老衆の一人。はじめ飯富源四郎を名乗る。晴信の近習と使番から始まり、信濃侵攻の頃には侍大将になるなど家中で猛将ぶりを発揮する。飯富虎昌の弟と云う説があるが真偽は不明。この虎昌が義信事件に連座して自刃すると、譜代家老・山縣氏の名跡を継ぐ。内政・外交・軍事の多岐にわたって信玄と勝頼を支えた。部隊の装備を朱色で統一していたことから「山縣の赤備」と呼ばれていたことは有名。西上野攻略、滝山合戦、小田原城攻め、三増合戦、そして三方ヶ原合戦など信玄による武田家の重要な作戦の殆どに参陣した。駿河侵攻では主導的な役割を果たした。馬場信春らと共に、設楽原合戦では勝頼に撤退を進言したが退けられ、家康本陣に向かって九度も突撃を敢行したが、全身に被弾して壮絶な討ち死を遂げた。享年不詳。
古府之図によると、この南は「小幡織部正」の屋敷跡であるが、甲府市は小畠山城守虎盛と小幡豊後守昌盛の父子の屋敷跡としていた:
小畠山城守虎盛《オバタ・ヤマシロノカミ・トラモリ》は足軽大将衆の一人。信虎・晴信(信玄)の二代に仕えた。遠江国の出身で、武田家の主要な作戦の殆どに参陣した。海津城に高坂昌信の補佐役として在城した。川中島合戦の直前に病没。36度の出陣で貰った感状も36度に及ぶ歴戦の勇将。「よくみのほどをしれ」と子息に遺言した。享年71。なお古府之図の「小幡織部正」は虎盛のことであるが、小幡姓に改名したのは子・昌盛の時代なので、小幡姓は誤りと云うのが通説。
小幡豊後守昌盛《オバタ・ブンゴノカミ・マサモリ》も足軽大将衆の一人。小畠虎盛の次男で、家督を継いで「小畠」から「小幡」姓に改めた。信玄・勝頼の二代に仕える。父の跡を継いで海津城で高坂昌信を補佐した。川中島合戦、滝山合戦、小田原城攻め、三増合戦などに参陣。設楽原合戦時は病床にあったため参陣できず、そののちに病死した。享年49。なお三男の小幡景憲《オバタ・カゲノリ》は甲州流軍学の創始者であり、『甲陽軍鑑』の編者である。
山縣・小畠・小幡らの屋敷前は鍛冶小路と呼ばれた通りであった。この沿線には刀や鉄砲の鍛冶職人の屋敷が建ち並んでいた:
この南は「小山田備中守」と、武田二十四将ともされる「諸角豊後守」の屋敷跡。共に案内板や石碑は建っていない:
小山田備中守昌行《オヤマダ・ビッチュウノカミ・マサユキ》は御譜代家老衆の一人。昌成とも。父は小山田虎満《オヤマダ・トラミツ》。信玄・勝頼の二代に仕えた。同姓ながら小山田信茂とは別の一族で、石田小山田氏の名跡を継いだ信濃国の国人衆である。西上野攻略、滝山合戦、小田原城攻め、三増合戦に参陣する。設楽原合戦では、大通寺の陣で勝頼の撤退を見送ったあと、勝ち戦の追撃戦で深追いしてきた徳川家康の家臣・松平伊忠《マツダイラ・コレタダ》を返り討ちにした。織田・徳川による甲州征伐では信玄の五男で高遠城主・仁科五郎盛信の副将として武田家に忠節を尽くして籠城戦を繰り広げ、壮絶な討ち死を遂げた。享年不詳。
諸角豊後守虎定《モロヅミ・ブンゴノカミ・トラサダ》は御譜代家老衆の一人。信虎・信玄の二代に仕えた。その武勇は飯富虎昌と並び称賛された。信玄の実弟・典厩信繁の傅役であり、川中島合戦で討ち死した信繁のあとを追うように上杉勢に突撃して討ち死した。享年不詳。
そして広小路跡(現在の信玄通り)まで出たところで、北側にあるのが「曽根下野守」、南側にあるのが「武田左馬助信繁」の屋敷跡。
まず、こちらが武田二十四将に数えられることもある「曽根下野守」の屋敷跡。しかしながら案内板や石碑はなかった:
曽根下野守昌世《ソネ・シモツケノカミ・マサタダ》は御譜代国衆で足軽大将衆の一人。信玄の奥近習六人衆の一人[v]土屋右衛門尉昌続の他に、三枝勘解由昌貞(守友)、曽根内匠昌世、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利左衛門尉昌忠、長坂源五郎昌国がおり、信玄から「昌」の名を授かった、今で云う将来の幹部候補生にあたる。。信玄による駿河・伊豆侵攻に参陣し、同輩の武藤喜兵衛と共に、信玄をして『我が両目の如き者なり』と云わしめた。興国寺城代。眞田昌幸と共に新府城の縄張を行った。主家滅亡後、一時は家康の配下となるがのちに出奔して蒲生飛騨守氏郷に仕え、陸奥国で會津若松城を普請した[w]會津若松城が馬出を主体とした縄張になっているのは曽根による甲州流築城術が用いられたからである。。生没年不詳。
そして「武田左馬助信繁」の屋敷跡:
武田典厩信繁《タケダ・テンキュウ・ノブシゲ》は御一門衆筆頭。信虎の四男で信玄の実弟。文武に優れ、片腕としてその信頼は篤く、甲軍の副将と称された。特に武田騎馬軍団の育成に力を注いだ。信繁の書いた『武田家訓九十九箇条[x]甲州法度之次第の原型とされる。』が現在も遺っており、江戸時代には武士の心得えとして広く読まれた書であった。川中島合戦で啄木鳥戦法が見破られ、別働隊が戻ってくるまで甲軍は越軍の車懸りに圧されまくられ、信玄の居る本陣が脅かされる事態となった際、兄を守るため捨て身の突撃を果たした末に討ち死した。享年37。信玄は信繁の亡骸を抱いて号泣し、恵林寺の師僧・快川和尚からは「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵方の謙信からもその死を惜しまれたほどの御仁。
広小路跡の西にある六方小路跡沿いには「一條右衛門大夫」の屋敷跡がある:
一條右衛門太夫信竜《イチジョウ・ウエモンノタユウ・ノブタツ》は御一門衆の一人。信虎の八男で信玄の異母弟。信玄の駿河国侵攻後は駿河田中城や駿府城(今川氏館)の城代を務めた。設楽原合戦では織田の佐久間信盛勢を押し返すも、敗戦が決定的となった勝頼の撤退を見送ったのちに退却した。織田・徳川による甲州征伐では駿河国から撤退、居城の上野城を徳川勢に包囲され衆寡敵せず、討ち死した。享年不詳。
「武田左馬助信繁」屋敷跡の南が「秋山伯耆守」の屋敷跡:
秋山伯耆守虎繁《アキヤマ・ホウキノカミ・トラシゲ》は御譜代家老衆の一人。秋山家は甲斐源氏の支流。信玄の南信濃侵攻後に伊那郡代として高遠城代、飯田城代を務めた。さらに隣接する美濃国の織田、三河の徳川を監視し、対織田・徳川両氏の外交も担当した。駿河国侵攻や三方ヶ原合戦では別働隊として活躍した。信玄死後は西美濃の岩村城に入城、織田・徳川による甲州征伐で織田信忠らを迎撃する。城兵の助命と交換に降伏開城を申し出たが、信長はこれを反故にして城兵は撫で斬りとなった。虎繁は岐阜へ連行されて長良川で逆さ磔に処された。享年49。虎繁は生前に、信長の叔母で病死した岩村城主・遠山景任《トオヤマ・カゲトウ》の未亡人を妻に迎えて降伏開城した岩村城を手に入れ、遠山氏の養子になっていた信長の五男・勝長を人質としていた。
この南が「飯富兵部少輔」の屋敷跡:
飯富兵部少輔虎昌《オブ・ヒョウブノショウユウ・トラマサ》は御譜代家老衆の一人。信虎・信玄に仕え、信玄の嫡男・義信の傅役を務めた。川中島合戦を含む北信濃攻略の作戦には赤備の部隊を率いて活躍した猛将。信虎追放にも従って信玄の信任を得ていたが、駿河侵攻を計画する信玄が義信と対立すると、義信を擁護するために責任を一身に背負って自らの謀反として幕を引くために自刃した。享年不詳。その後、飯富家は断絶となった。
最後に、武田二十四将の一人とされる鬼美濃こと原美濃守虎胤《ハラ・ミノノカミ・トラタネ》の屋敷跡は古府之図からは不明とのこと。甲府市のページには案内板は用意されているらしいが、今回は残念ながら見つけることはできなかった 。
さらに武田二十四将以外の将士の屋敷跡も古府之図から推測できるが、現在はそのほとんどが民家や公共施設になっているようで案内板や石碑など Landmarks が無いのが実情である[y]屋敷跡に史料的な価値はなく、史跡扱いすることはできないので当然ではあるが 😐️。。
武田家将士屋敷跡巡り (フォト集)
【参考情報】
- 屋敷跡に建っていた案内図や説明板(甲府市教育委員会)
- 信玄公のまち 〜 古府を歩く。(甲府市役所観光開発課)
- Wikipedia(武田信玄の家臣団)
- 「平成・武田城下町絵図」(リンクはPDF)(山梨県埋蔵文化センター)
- リーフレット「武田城下ぶらり歴史探訪 〜 家臣屋敷地散策コース」(甲府市教育委員会歴史文化財課)
曹洞宗・萬年山大泉寺と武田信虎公墓所ほか
武田家将士屋敷跡をレンタサイクルで巡ったついでに、信玄公の墓所を再訪した他、前回の城攻めでは参詣できなかった武田信虎公の菩提寺である曹洞宗・萬年山大泉寺も参詣してきた。
こちらは大泉寺の総門(甲府市指定文化財):
江戸時代中期の宝永2(1705)年に、幕府側用人であった柳沢吉保《ヤナギサワ・ヨシヤス》が建立した永慶寺から移築した門との説があるが定かではない。門の様式は京都宇治にある黄檗山萬福寺《オウバクザン・マンプクジ》の総門に類似し、屋根は桟瓦葺《サンカワラブキ》[z]波型の軽量な瓦を重ねて葺いた屋根のこと。、軒は一軒疎棰《ヒトノキ・マバラタルキ》、屋根を三つに切って中央の屋根を両脇の屋根より一段高くしている、いわゆる中国の牌楼式の門(漢門)。門の両脇に連結した土塀に向かって、右手には連子窓《レンジマド》を有す小屋敷(番所)が接続する。この番所は起り《ムクリ》の桟瓦葺である。
こちらが本堂:
甲斐源氏[aa]清和源氏の源義光(新羅三郎義光)を祖とする甲斐国発祥の氏族。甲斐武田家の他に逸見家・加賀美家・安田家・浅利家がある。第十八代当主、甲斐武田家[ab]武田信義を祖とする氏族で多くの庶流がある。15当主で甲斐守護職であった武田信虎(出家後は無人斎道有)が甲府を開いた際に加賀国から天桂禅長《テンケイ・ゼンチョウ》を招いて大泉寺を創建した。信虎が信玄により駿河国に追放されたのちも、信玄の保護を受ける。天正2(1574)年に信虎が流寓《リュウグウ》先の信濃国高遠で死去しあと、亡骸をここ大泉寺に埋葬し霊廟が建立され、その墓域は昭和の時代に県指定史跡に指定された。
本堂奥には450回忌に合わせて令和5(2023)年に建立された信虎公の坐像がある:
この先に霊廟である「御霊殿」がある:
大泉寺は永禄・文化・昭和の時代に大火で堂宇を焼失したにもかかわらず多くの文化財が被害を免れているが、その中で信虎の三男である逍遥軒信綱筆の『絹本着色武田信虎像』は国指定の重要文化財とされている。絵師でもある信綱が父・信虎の姿を描き大泉寺に納めたと云う:
狩野深信筆『武田信玄像』(江戸時代中期の作)は堂々と威厳に満ちた信玄の英雄像を描いたもの:
御霊殿の裏に信虎・信玄・勝頼三代の五輪塔が安置されていた(向かって左から勝頼公、信虎公、信玄公):
武田信虎は、武田信縄《タケダ・ノブツナ》の嫡男として明応3(1494)年に往時の居館であった石和館《イサワヤカタ》に生まれた。永正4(1507)年に父が死去すると甲斐武田家の家督を継いで、父の時代から内乱状態だった甲斐国内を生来の豪毅勇武をもって統一した。国衆の一人、大井氏とは和睦が成立し、娘を正室(大井夫人)に迎えた。永正16(1519)年に躑躅ヶ崎館の造営に着手、城下町を整備し、有力国衆ら家臣の屋敷を配した。さらに躑躅ヶ崎館の北にある丸山に詰城となる要害山城(石水寺城)を築城した。
永正18(1521)年に駿河の今川氏親勢が富士川沿いの河内へ侵攻してくると、これを迎撃するが、今川勢が更に攻勢を強めると、信虎は要害山城に籠もった。この今川との攻防戦の最中に嫡子・晴信(幼名・太郎)が誕生する。その後、甲斐国隣国の武蔵国(扇ヶ谷上杉氏と山内上杉氏)、相模国(小田原北條氏)、駿河国(今川氏)、そして信濃国(諏訪氏、その他の国衆)との間で合戦や外交を繰り広げた。暴君として知られる信虎は家中からの諫言に対して手討ちにすることが多く、御家断絶となった国衆が多かったが、のちに晴信は断絶した御家の名跡を家臣らに継がせて復活させている[ac]たとえば内藤氏、馬場氏、山縣氏など。。
天文10(1541)年に対立していた晴信は信虎を駿河へ追放した。この時、信虎が今川義元の下に寓居した一方で、正室の大井夫人は家督を相続した晴信が治める甲斐国に残った。その後、信虎は上洛するなど遊歴したと云う。
信玄が死去し、甲斐武田の当主が勝頼になった天正2(1574)年に、信虎の六男・逍遥軒信綱の居城であった高遠城に身を寄せ、その地で没した。享年81。
亡骸はここ大泉寺にて葬られた。法号は大泉寺殿泰雲存康大庵主。信虎の五輪塔は、のちに補修され、その際に上部を相輪状に変更されている。
こちらは岩窪町にある武田信玄公墓所。十年前にも参詣したが、今回も訪問してきた:
この場所に建っていた説明板(岩窪町自治会)によると、天正元(1573)年に信濃駒場で生涯を閉じた信玄公の遺言に従い、「三年間の秘喪」のあと土屋右衛門尉の屋敷で荼毘に附され、恵林寺にて葬礼を行って埋葬されたと云う。すなわち、ここが土屋右衛門尉の屋敷だったと云うことになり、今回巡ってきた屋敷跡とは異なるが、それに関して特に説明は無かった。
武田信虎・信玄・勝頼公三代の墓所 (フォト集)
【参考情報】
- 大泉寺境内に建っていた案内図や説明板(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会)
- Wikipedia(武田信虎)
- 武田信玄公御墓所に建っていた説明板(岩窪町自治会・老人クラブ)
- 持明院の宝物のページ(甲斐武田家を大壇主とする高野山・真言宗の別格本山・小坂坊の塔頭寺院には信虎ら三代の肖像画が収蔵されているらしい)
参照
↑a | 信虎は甲斐国守護、晴信は甲斐国守護と信濃国守護、勝頼は信濃国守護。 |
---|---|
↑b | 読みは《ツツジガサキ・ヤカタ》あるいは《ツツジガサキ・ノ・ヤカタ》。 |
↑c | 国史跡としての登録名は「武田氏館跡」。 |
↑d | 甲斐源氏の初代は清和源氏義光(新羅三郎義光)。甲斐武田氏の初代は武田信義。 |
↑e | 【今日は何の日?】今月の風呂の日。桂小五郎(木戸孝允)が西南戦争中に病死した日。 |
↑f | 楳王曲輪、または梅王曲輪とも。 |
↑g | 国史跡「武田氏館跡」のリーフレット(甲府市教育委員会)にも同じ図が掲載されている。 |
↑h | 大正8(1919)年の創建で、主な祭神は武田信玄公。 |
↑i | 織田信長の家臣・河尻秀隆や、徳川家康の家臣・平岩親吉《ヒライワ・チカヨシ》、あるいは豊臣秀吉の家臣・加藤光泰《カトウ・ミツヤス》の誰か? |
↑j | 現在、郭内には民家が数件建っている。 |
↑k | 無料の常設展示室や有料の特別展示室。 |
↑l | 博物館開館15周年記念の特別展示だった。 |
↑m | 譜代家老の春日虎綱(高坂弾正昌信)の口述を書き継いだ軍学書で、武田信玄や勝頼の合戦記録として、のちに小幡景憲《オバタ・カゲノリ》が写本したものが最古の文献として現存している。 |
↑n | いわゆる署名。 |
↑o | 武藤喜兵衛が武藤善兵衛、山本勘助入道道鬼が山本勘助入道道岡になっている。 |
↑p | Wikipedia の躑躅ヶ崎館のページに添付されている画像の方が高精細なのでオススメ 🤩️。 |
↑q | ie. 案内板が設置されている屋敷跡。 |
↑r | 県道R31沿い一帯は、往時は躑躅ヶ崎館への侵入を防ぐための柵が設けられていたと云う。 |
↑s, ↑t, ↑v | 土屋右衛門尉昌続の他に、三枝勘解由昌貞(守友)、曽根内匠昌世、武藤喜兵衛(眞田昌幸)、甘利左衛門尉昌忠、長坂源五郎昌国がおり、信玄から「昌」の名を授かった、今で云う将来の幹部候補生にあたる。 |
↑u | 「長閑斎」という表記もあるが、現在こちらは別人の今福長閑斎との説が有力。 |
↑w | 會津若松城が馬出を主体とした縄張になっているのは曽根による甲州流築城術が用いられたからである。 |
↑x | 甲州法度之次第の原型とされる。 |
↑y | 屋敷跡に史料的な価値はなく、史跡扱いすることはできないので当然ではあるが 😐️。 |
↑z | 波型の軽量な瓦を重ねて葺いた屋根のこと。 |
↑aa | 清和源氏の源義光(新羅三郎義光)を祖とする甲斐国発祥の氏族。甲斐武田家の他に逸見家・加賀美家・安田家・浅利家がある。 |
↑ab | 武田信義を祖とする氏族で多くの庶流がある。 |
↑ac | たとえば内藤氏、馬場氏、山縣氏など。 |
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