関東七名城に数えられた宇都宮城本丸跡には土塁と櫓が復元されている

田川と釜川によって侵食された宇都宮丘陵の西側を南北に延びる宇都宮台地東端にあって、東と北は田川低地、そして西に小さな沢がある南向きの段丘上に築かれていた宇都宮城は、日光街道と奥州街道が分岐する要衝に位置する。この城は藤原秀郷や宇都宮氏の祖・藤原宗円《フジワラ・ノ・ソウエン》の館跡とする説があるが定かではない。堀が何度も堀り直されていることが分かっており、宇都宮氏が城主であった戦国時代から大きく拡張されてきたと考えられる。宇都宮氏が慶長2(1597)年に太閤秀吉の命で改易された後は城主の入れ替わりがあったが、関ヶ原の戦い後に入城した本多氏による町割替や城普請、そして奥平氏による二の丸整備などで近世城郭としての宇都宮城が完成し、江戸時代後期に入城した戸田氏が幕末までの約130年を治めた。しかし慶応4(1868)年[a]明治元年でもある。の戊辰戦争で本丸をはじめ多くの建造物を焼失して廃城となった。その後は土塁や堀は破却され、昭和時代にはいっそうの都市化が進み、城の遺構は消滅した。

今となっては七年前は、平成29(2017)年の寒露の候の週末[b]【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。に一泊二日の日程で栃木県にある城跡をいくつか攻めてきた。二日目の最終日は宿泊先に最寄りのJR小山駅から宇都宮線に乗ってJR宇都宮駅で下車。駅西口から出ている関東自動車の路線バスに乗り換えて「宇都宮城址公園入口」で下車し、宇都宮城跡へ。

廃城後に城跡は売却され、次第に土塁や石垣も破却されてしまい、昭和の時代まで残っていた濠も埋め立てられてしまった。特に太平洋戦争後に宇都宮市が戦災復興都市に指定されたことにより、都市の再生と整備が進んで遺構の痕跡までが消滅した。平成時代に入って本丸跡で発掘調査[c]平成元(1989)年から平成11(1999)年まで三度実施された。が実施されたあと、平成14(2002)年に城址公園として市民に開放された。同時に本丸跡の一部を外観復元する工事が始まり、五年後の平成19(2007)年に完成した。

遺構がほとんど期待できない一方で、近世・宇都宮城の古絵図はいくつか残っていることは興味深い。たとえば:

  • 『日本古城絵図 〜 東山道之部(5).173 下野国宇都宮城』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)
  • 『日本古城絵図 〜 東山道之部(5).174 下野宇都宮城図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)

そして、こちらは城址公園の案内板に描かれていた『江戸時代宇都宮城下復元図[d]「下野国宇都宮城下之図」(栃木県教育委員会)と「宇都宮古図」(田代善吉著「栃木県史」)、「幕末宇都宮城下復元図」(宇都宮市)などによって推定した作成し図。』の主郭部を、国土地理院が公開している地理院地図(白地図)上に重畳させたもの:

現代の地図上に「江戸時代宇都宮城下復元図」の一部を重畳したもの

近世宇都宮城復元図(その1)

現代の地図と復元図の上に本丸周辺の櫓名を強調させたもの

同図(その2)

濃茶色の実線が板塀、薄茶色の部分は土塁や水濠や石垣などから構成される城域の境界線を表す。名称のうち門や御殿は緑黄色、濠は水色、郭名は濃紺色、櫓名は青色、その他の呼称は黒色で区別している。

近世城郭の宇都宮城は田川を天然の外濠とし、さらに釜川から水を引き込んで内濠とした上で、本丸と二の丸と三の丸、そして外郭からなる輪郭式の縄張りを持つ。本丸の西と東に設けられた幅広の水濠は敵を寄せ付けない規模であった。本丸や二の丸には櫓が建ち、内枡形の門の他に、三日月濠を伴った外枡形としている他、主要な虎口は全て石垣を積むなど堅固な惣構えであった。この城の主郭部は複雑な塁線を有して横矢を掛けることができ、石垣の城とはまた違った高い防備力を有していた。

そして城址公園周辺の情報を同様の地図上に重畳させたものがこちら:

城址公園は発掘調査結果や城郭資料に基づき復元された

宇都宮城址公園周辺図

赤色実線で囲んだエリアが城址公園。今回はのバス停から公園内に復元された櫓や濠などを巡ってきた他に、最後の城主・戸田氏の菩提寺であった英厳寺跡の公園にも足を伸ばしてきた。

最盛期の江戸時代中期には田川を加えて四重の濠と土塁に囲まれた堅固な輪郭梯郭複合式平城であったが、戊辰戦争で城内の建物の多くを焼失し、廃城後は次第に濠が埋め立てられた。日露戦争後には帝国陸軍が移駐するなど宇都宮は軍都になったが、先の大戦では米軍の空襲を受けて甚大な被害を被った。

城址公園で入手したリーフレット『宇都宮城(宇都宮市教育委員会文化課)』(リンクはPDF)に掲載されていた「江戸時代の宇都宮城推定図」は、北側から眺めた二の丸(手前)と本丸(中央)が描かれている:

江戸時代の宇都宮城本丸推定

江戸時代の宇都宮城本丸推定図(加筆あり)

現在の城址公園は発掘調査の結果や城絵図に基づき、この図で云う本丸の西側部分を復元したとのこと[e]公園西側に市役所があるので、防災公園(避難所)として活用することを考慮して西側の復元なのだろう😐️。

さらに公園案内図と、発掘調査で確認された遺構の位置を示した図もあった:

往時の本丸西側半分を復元した他、防災公園の設備を持つ

宇都宮城址公園案内図

公園案内図に遺構の位置を重畳したもの

「掘・土塁などの位置」

バス停から公園へ向かって南下すると正面に復元された清明台と土塀と本丸土塁、そして内濠が出現する:

清明台は本丸北西隅に建ち、天守の代用となる櫓だった

清明台と土塁と内濠(復元)

清明台は、かっては本丸北西隅の土塁上に建ち、天守の代用となる二層二階・瓦葺の櫓であった。平安時代の陰陽師・安倍晴明《アベ・ノ・セイメイ》が、宇都宮城の前身にあたる藤原(宇都宮)氏の居館で子々孫々の繁栄を祈願した場所との伝承により、この名が冠され、この櫓が建つ土塁は他よりも高くなっている:

木造二層二階の本瓦葺き、壁は白漆喰塗で復元された

清明台と土塀(復元)

櫓の両脇に土塀も復元されているが、往時の土塀の総延長は409間[f]約743.6m。で、狭間が切られていたと記録されている。

こちらは本丸を取り巻くように復元された内濠。江戸時代初めに入城した本多正純が築いたとされ、往時の幅は最大で15間、深さは最大で4間あったと云う[g]それぞれ約27.2mと約7.27m。

かっては本丸を巡っていた水濠で、本丸濠とも

内濠(復元)

おほり橋と土塁を貫通して作った公園入口は防災公園のため

土塁と内濠(復元)

ちなみに宇都宮氏が城主を務めていた時代は空堀で、もっと小規模で公園脇の道路あたりにあった。

内濠脇の道路は本丸に二つあった虎口のうち北側の虎口で、事実上の大手口にあたる清水門跡。往時、ここは石垣造りの内枡形であった:

本丸北側の虎口で、内枡形門

清水門跡

こんまま道路沿に進んだ先が本丸跡(御本丸広場)。半分だけ復元土塁と土塀が巡らされているのが分かる:

この奥に見えるのが南西隅に建つ富士見櫓

本丸跡

往時は、ここに本丸御殿が建っていた

本丸跡

ここ本丸跡には、往時は江戸から将軍家が行列を組んで日光社参《ニッコウ・シャサン》[h]徳川家康こと東照大権現がおわす日光東照宮へ参拝すること。した際の宿泊所として利用された御成御殿《オナリ・ゴテン》(本丸御殿)が建っていた[i]社参が終わると御殿は取り壊されたらしい。。現在は御殿の代わりに、宇都宮城址公園清明館が建っている。

かっての城主・宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力御家人の一人であり、弘安4(1281)年の元寇襲来では九州へ出陣する一方で和歌に精通するなど文武両道の武家であった。特に第九代当主・宇都宮公綱《ウツノミヤ・キンツナ》は精鋭・紀清両党《キセイリョウトウ》[j]東国武士の武勇を代表する武士団の一つ。を率い、南朝・後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐勢を迎撃して楠木正成と対峙、撤退した正成から「坂東一の弓取り」と評されるほどの勇将であった。戦国時代、第二十二代当主・国綱は宇都宮城を堀と土塁を使って堅固に改修し、周囲に支城となる砦をたくさん築き、北関東の雄として甲斐武田氏や小田原北條氏との厳しい戦いを、一時は宇都宮城を捨てて山城である多気城に拠点を移すなどして、よくよく防いだ。

なお、江戸時代後期の『宇都宮史[k]原本に加筆修正し改名した『宇都宮志料』が現存している。』(下野庵宮住《シモツケアン・ミヤズミ》著)の中で、宇都宮城は関東七名城[l]誰が云ったかは知らないが、他に新田金山城唐澤山城河越城忍城厩橋城、そして多気城がある。の一つに挙げられている。

復元された土塁上には階段やエレベータで登ることができ、復元された清明台の内部を見ることができた:

郭外側は窓はあるが、郭内側は倹約のため窓は省かれた

清明台(城内側)

一階の広さは約5.9m✕6.9m(富士見櫓より少し小さい)

復元二面図

復元された清明台や富士見櫓の他、往時は城内にあった五基の櫓は全て同じ意匠で、木造二層二階、無破風、白漆喰総塗籠《シロシックイ・ソウヌリゴメ》である。また格子窓は城外側にのみ設けられ、城内側は入口のみ[m]おそらく倹約と省力化が念頭にあったと考えられている。

公開されていた清明台の内部と、鉄砲狭間から二の丸跡の眺め。青森県産のヒバを使った柱以外、大部分は栃木県産の木材を使用とのこと:

一階は常時公開(二階は特定日だけの公開)

清明台の内部

内濠ごしに眺めた二の丸跡

鉄砲狭間からの眺め

矢狭間や鉄砲狭間がある土塀が建つ土塁づたいに本丸南西隅に建つ富士見(藤見)櫓へ。こちらは土塁下から見上げたところ:

 

その名のとおり、往時は遠く富士山が望めたらしい

富士見櫓(城外)

往時は遠く富士山を望むことができたと云う。木造二層二階、無破風、白漆喰総塗籠で、意匠は他の櫓と同じ:

木造二層二階・本瓦葺で白漆喰塗、高さは清明台と同じ

富士見櫓(城内側)

土塁上に石垣を基壇として築き、その上に二層の櫓を設けた

復元二面図

屋根の冠瓦と隅瓦には宇都宮氏の「左三ツ巴」紋、鬼瓦には本多氏の「丸に立葵」紋が、それぞれあしらわれていた:

宇都宮城主を務めた宇都宮氏と本多氏の家紋があしらわれていた

復元櫓の瓦

こちらの櫓も一階だけ見学できた。往時は武具や兵糧が保管されていたと考えられる:

往時は武具や兵糧が納められていたとされる

富士見櫓の内部

本丸跡(御本丸広場)を南下したところに伊賀門跡がある。伊賀門はもう一つの本丸の虎口。北側にある清水門と同様に石垣造りの内枡形だった:

本丸南側(搦手)の内枡形虎口だった

伊賀門跡

往時、本丸からこの門を出た先には内濠と二の丸があったが、現在は内濠は埋められて何も残っていなかった:

最大で幅27m、深さは最大7mあったとされる

内濠+本丸跡

御本丸広場の南側は、往時は内濠と二の丸があった

内濠+二の丸跡

そして二の丸の裏門跡には土橋の石垣が復元さてれていた。この土橋は二の丸(左手)と三の丸(右手)をつなぐもの[n]本物の遺構は埋没保存されている。。往時は、現在の公園出口(右手奥)あたりに二の丸の裏門が建ち、その先の公園外が三の丸だった:

二の丸(左手)と三の丸(右手)をつなぐ土橋を復元したもの

土橋の石垣(復元)

この土中に実物の石垣が保存されている

(コメント付き)

この土橋の説明板に描かれていた遺構の位置関係図。往時の石垣は土橋が崩れないようにするために大小の石で組んだ補強材だった:

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土橋の石垣跡

最後は本丸土塁の中に作られた防災施設(倉庫)内に展示されていた歴代城主の家紋入りの幟:

平安時代の藤原氏の館から近世・宇都宮城まで47代続いた

主な歴代城主の家紋幟

平安時代から江戸時代までに宇都宮城(とその前身の館)の城主は47人。その中で最も多いのは鎌倉時代から安土桃山時代まで二十代続いた宇都宮氏[o]先祖である藤原氏(平安時代)を入れると二十二代。。奥平氏六代と松平氏は飛び飛びで城主になっている[p]松平氏は庶流の多い同族であるが、家は異なる。。本多氏と阿部氏は一代だけ[q]それぞれ本多正純、阿部正邦。戸田氏は幕末にかけて最後の城主を務めた[r]途中、松平氏が入城したが、それでも十代続いて二番目に多い。

慶應4(1868)年から始まった戊辰戦争で、地理的・軍事的にも要となる宇都宮城をめぐって新撰組副長・土方歳三ら旧幕府軍と激しい攻防戦が展開された。この時の被害は甚大で、惣構の武家屋敷の他、周囲の町人街も軒並み焼失した。宇都宮城は弱点とされる南東側からの攻撃に耐えることができず、ついに落城した。この時、宇都宮藩士らは敵の手に渡る前に城内に火を放ったことで、さらに被害が広がったとされる。その後、援軍を得た新政府軍が城を奪還した[s]この激戦で土方歳三は脚に銃弾を受け、會津鶴ケ城で三ヶ月ほど戦線離脱することになった。

以上で、宇都宮城攻めは終了。このあとは戸田氏の菩提寺跡へ。

See Also宇都宮城攻め (フォト集)

 
【参考情報】

戸田家菩提所と英厳寺跡

宇都宮城址公園から徒歩15分ほどのところに、宇都宮城主であり、幕末まで下野国・宇都宮藩主を務めた戸田家の菩提寺とされた英巌寺《エイガンジ》跡がある。この臨済宗の寺院は戊辰戦争で堂宇が焼失したのちに廃寺となったが、その跡地に戸田家の墓所が整備され、現在は史跡(英巌寺児童公園)として開放されている:

城跡と同様に住宅地に囲まれた場所であった

戸田家菩提所・英厳寺史跡の入口

英巌寺跡地に整備された宇都宮藩主で宇都宮戸田家第十二代当主・戸田忠恕《トダ・タダユキ》公の墓所:

戒名は「霊光院殿神岳忠烈大居士」

戸田忠恕公の墓所

幕末の混乱期に尊王の志を掲げたため幕府の怒りを買った

戸田忠恕公像

安政3(1856)年に兄の跡を継いで藩主となると、持ち前の志であった尊王[t]天皇を尊ぶ思想。勤王とも。を藩内政策で掲げたために幕府の怒りを買い、御公儀から隠居謹慎の沙汰を受け、嫡子・忠友に家督を譲った。慶應4(1868)年の戊辰戦争では、旧幕府軍によって落城した宇都宮城奪還を朝廷に願い出たものの病に倒れ果たせなかった。享年22。

ちなみに城址公園内にも顕彰碑が建っていた:

激動の幕末の時代に幕府に楯突いた城主であった

宇都宮城主・戸田忠恕顕彰の碑

この隣が宇都宮藩の最後の藩主で、宇都宮戸田家第十三代当主・戸田忠友《トダ・タダトモ》公の墓所:

宇都宮藩の最後の藩主であった

戸田忠友公の墓所

怒りの収まらない幕府は、養嗣子ながら忠恕から家督を譲られた忠友を陸奥棚倉藩に転封してしまおうと画策するが、戸田家からの粘り強い赦免嘆願で諦めたと云う。この騒動により忠友は佐幕派に傾き、戊辰戦争後には第十五代将軍・徳川慶喜の助命嘆願を行った。しかし今度は逆に新政府により目をつけられて隠居させられそうになるが、最終的には許された。宇都宮藩初代知事。第十四代将軍・徳川家茂《トクガワ・イエモチ》の小姓でもあった。大正の時代に死去。享年78。

一番奥には宇都宮戸田家当主の墓所がある:

初代・尊次から第十一代・忠明までの墓

宇都宮戸田家の墓所

江戸時代の戸田家は、松平を冠し信濃国松本藩から始まる宗家の他に、三河国田原藩から始まる庶流があり、これが宇都宮藩主の家系として幕末に至った。墓石には、初代・戸田土佐守尊次《トダ・トサノカミ・タカツグ》から第十一代・因幡守忠明までの当主の名が刻まれていた。

英巌寺跡地は史跡になっていた。また、ここに残る「英巌寺のイヌツゲ」は宇都宮城が健在だった時代のもので、戊辰戦争後も生き残り、昭和の時代に市指定天然記念物になるほどの巨木であったが、当時は根幹のみ残し切除されていた:

史跡として跡地と墓所が整備されていた

英厳寺児童公園

戊辰戦争を生き抜いたが、根幹を残して切除されていた

英厳寺のイヌツゲ

以上で宇都宮城主・戸田家菩提寺跡の参詣は終了。

See Also宇都宮城主・戸田家菩提所英巌寺史跡 (フォト集)

【参考情報】

  • 戸田家菩提所英巌寺史跡にに建っていた案内板や説明板(宇都宮市)
  • 宇都宮の歴史と文化財(宇都宮市歴史文化資源活用・推進協議会)
  • Wikipedia(戸田家) (三河戸田氏 > 江戸時代 > 庄右衛門忠政(光忠)の家系(田原戸田家、下野国宇都宮藩主)) 

参照

参照
a 明治元年でもある。
b 【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。
c 平成元(1989)年から平成11(1999)年まで三度実施された。
d 「下野国宇都宮城下之図」(栃木県教育委員会)と「宇都宮古図」(田代善吉著「栃木県史」)、「幕末宇都宮城下復元図」(宇都宮市)などによって推定した作成し図。
e 公園西側に市役所があるので、防災公園(避難所)として活用することを考慮して西側の復元なのだろう😐️。
f 約743.6m。
g それぞれ約27.2mと約7.27m。
h 徳川家康こと東照大権現がおわす日光東照宮へ参拝すること。
i 社参が終わると御殿は取り壊されたらしい。
j 東国武士の武勇を代表する武士団の一つ。
k 原本に加筆修正し改名した『宇都宮志料』が現存している。
l 誰が云ったかは知らないが、他に新田金山城唐澤山城河越城忍城厩橋城、そして多気城がある。
m おそらく倹約と省力化が念頭にあったと考えられている。
n 本物の遺構は埋没保存されている。
o 先祖である藤原氏(平安時代)を入れると二十二代。
p 松平氏は庶流の多い同族であるが、家は異なる。
q それぞれ本多正純、阿部正邦。
r 途中、松平氏が入城したが、それでも十代続いて二番目に多い。
s この激戦で土方歳三は脚に銃弾を受け、會津鶴ケ城で三ヶ月ほど戦線離脱することになった。
t 天皇を尊ぶ思想。勤王とも。