茨城県水戸市三の丸2-9-22の水戸第二中学校あたりは、北は那珂川《ナカガワ》、南は千波湖《センバコ》に挟まれ、標高30mほどの東西に細長い台地の先端を利用して築かれた水戸城跡である。かっては鎌倉時代に馬場氏が築いた居館[a]源頼朝に重用された御家人の一人で、常陸平氏《ヒタチヘイシ》の流れを汲む大掾《ダイジョウ》氏(馬場氏)の居城。馬場城とも。があり、天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置時は小田原北條氏に与した江戸氏が籠城したが、豊臣方の佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》・義宣《ヨシノブ》父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に小田原北條氏を敵に回して常陸国の統一を掲げていた。に攻められて落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った佐竹氏は城を改修し、城下町を整備して水戸城に改め、それまでの常陸太田城から居城を移した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後[c]徳川家康は初め、五男で下総国佐倉城主・松平信吉《マツダイラ・ノブヨシ》を水戸城主としたが翌年に嫡子なく死去した。に、徳川頼房《トクガワ・ヨリフサ》が入城した。頼房は、前城主の佐竹氏が築いた城郭を基礎として、下ノ丸、本丸、二ノ丸、そして三ノ丸と云った郭を東西に並べた連郭式平山城として修築し、幕末まで続く徳川御三家・水戸徳川家の居城とした。激動の時代を乗り越え[d]たとえば明治時代は天狗党の乱、昭和時代は大戦による空襲の被害。、平成時代末から木造による復元整備事業が進められている。
今となっては八年前に初めて水戸城跡を攻めてきたが、その後も文化財として保護と保守が続けられる中、茨城県の史跡に指定されている城跡に対して実施されてきた測量や発掘調査の結果を踏まえて、平成時代の復元整備事業[e]復元には「一枚瓦城主」による寄付金も当てられたらしい 🙂️。により、大手門と虎口、二ノ丸角櫓といった建造物が復元され、見学ルートが整備されたらしい。と云うことで三年前から一般公開されている復元建造物を観るため、水戸の梅まつり開催中の先月は令和5(2024)年の雨水の候を過ぎた三連休の中日[f]【今日は何の日?】昭和天皇の大喪の礼《タイソウノレイ》が執り行われた日。に城跡を再び攻めてきた。
今回はJR水戸駅北口広場あたりからスタートして、八年前と同様に三ノ丸跡から二ノ丸跡、そして本丸跡の順で巡るルートに加え、下ノ丸跡や水戸東照宮も巡ってきた。このルート上にある復元された大手門や二ノ丸角櫓、そして北柵御門《キタサク・ゴモン》やその周辺の土塁・空堀、弘道館の通路を観てきた。
こちらは、江戸時代に作成された『正保城絵図[g]命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫《モミジヤマ・ブンコ》に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。』に収録されている「常陸国水戸城絵図」(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)にある水戸城主郭部を、国土地理院が公開している地理院地図(白地図)上に重畳し、今回観てきた主な復元遺構の場所を記したもの(城域や土塁・濠などは推測を含む):
城絵図にあるように駅の南側は、往時は千波湖とその沼地であった。実際に駅北口から眺めたり国道R51沿いを歩いてみると南北の高低差が分かる。
そして城攻め当時の主な周辺施設を書き入れたものと、GPSアクティビティをトレースしたものを重畳させたものがこちら。 Garmin Instinct® で計測した総移動距離は6.99km、所要時間は2時間19分(うち移動時間は1時間29分)ほど:
こちらが今回の城攻めルート。なお三ノ丸跡にある弘道館は前回訪問したので今回はパスした:
(JR水戸駅北口)→ 南三ノ丸跡(水戸中央郵便局)→ 三ノ丸西端の空堀と土塁 → 三ノ丸跡 → 北三ノ丸跡(水戸東武館)→ 北柵御門と虎口跡 → 三ノ丸北端の空堀と土塁 → 復元された弘道館の通路 → 大手門と虎口跡 → 二ノ丸角櫓 → 見晴らし台(水戸市立第二中学校) → 杉山坂と杉山門 → (本丸堀跡)→ 本丸跡と薬医門 → 柵町坂門 → (下ノ丸跡)→(JR水戸駅北口)
これは二の丸展示館に展示されていた「水戸城復元想定模型(1/1000)」:
模型の下側(南側)にある水色部分(千波湖)は現在の駅南口周辺で、桜川[h]那珂川水系の一級河川。はその名残である。
まず駅の北口広場を下りて国道R51沿いを筑西・笠間方面へ歩いていくと水戸中央郵便局が見えてくるが、ここが南三ノ丸跡で、その先の三叉路、「中央郵便局前」交差点は外堀(水濠)跡:
交差点を折れて県道R118沿いの緩やかな坂を上がっていくと、三ノ丸西端の空堀と土塁(県指定史跡)が見えてくる:
切り立った累壁《ルイヘキ》は、堀を穿って出た土を土塁に積み上げて壁にしたもので、石垣は使われていない[i]徳川家康と家光の時代に石垣構築の計画があったが実現されなかった。。さらに土塁の褶《ヒラミ》[j]馬踏《マブミ》とも。土塁上のこと。直下の外法《ソトノリ》側には犬走りを有しているのが、他の郭を含め共通の特徴になっている。土塁裏が三ノ丸跡で、土塁を一部破壊して設けた土橋の先に県立図書館が建っていた:
この三ノ丸は、桃山時代(1582〜1602年)に佐竹氏が水戸城を普請した際に「二ノ丸の外側にも郭を作って、三ノ丸となした」と伝えられている。
三ノ丸西側の空堀は、主郭部の西側に広がっていた城下町(町人地)を区画するための外堀でもあった:
現在の三ノ丸跡には県庁舎が建っており、その駐車場内から、破壊された土塁の一部を見ることができた:
このまま県道R118沿いを進むとT字路に至るが、この「水戸学の道」なる道路の先が北三ノ丸跡。ここには水戸東武館(市指定文化財)が建っている:
幕末の剣術流派の一つ、北辰一刀流[k]門弟として有名な剣士は坂本龍馬、新選組の山南敬助や伊東甲子太郎、そして吉村貫一郎がいる。の流祖であった千葉周作は、水戸藩九代藩主の徳川斉昭《トクガワ・ナリアキ》の馬廻・剣術師範に任じられ、弘道館でも教授していたらしい。東武館の館祖・小澤寅吉《オザワ・トラキチ》も江戸で北辰一刀流を修行し、廃藩置県後に、この場所に道場・水戸東武館を創設し北辰一刀流格を教授していたらしい。
次は「水戸学の道」を弘道館方面へ。ちょうど県庁の駐車場隣に復元された北柵御門が見えてくる:
地面に柱脚を埋める掘建式《ホッタテ・シキ》で、左右の柱をつなぐ貫《ヌキ》が上下二本あるのが特徴。門の両側に柵塀があり、そこから土塁と堀が延びて弘道館の敷地を囲んでいた。
この門は弘道館の教職人と役人のみ通行が許可されていたとされ、往時は、この門の先は鉤の手状に折れ曲がった枡形の虎口(喰違虎口)で、その中に番所が置かれていたと云う:
現在は虎口の半分が県庁の敷地(駐車場)になっているため、部分的な復元になっていた[l]一応は線が引かれて平面復元にはなっていた。:
虎口から弘道館に向けた通路も復元されていた:
幕末の藩校時代に弘道館の学生《ガクショウ》や教職人が通行した道を、発掘調査の結果から復元した:
北柵門脇から伸びる三ノ丸北側の堀跡と土塁は、九代藩主の徳川斉昭が弘道館を建築した際に、三ノ丸の改修を行い造成したもの。三ノ丸西端と同様に堀跡と土塁の一部は現存:
三ノ丸北端の土塁上からの眺め。空堀は深さ約1.3〜1.7m、土塁は高さ約1.5m〜2.1m(堀底から褶までの比高差は約4.6):
三ノ丸跡の弘道館公園は梅林になっており、その中を通って弘道館正門がある三ノ丸東端へ向かった:
それから弘道館前から大手橋を渡って二ノ丸跡へ。そこには令和2(2020)年に復元が完成した大手門が建っている:
大手橋手前が三ノ丸跡、大手門より奥が二ノ丸跡で、橋の下を走る県道R232(市毛水戸線)は堀切跡:
復元された二ノ丸大手門(市指定史跡)は二重櫓門形式。門の両脇が石垣ではなく土塁のため、近世城郭で一般的な渡櫓門は使われていない[m]櫓と門柱を支えるには土(土塁)ではなく石(石垣)の強度が必要である。:
平成時代の発掘調査によると、二重目に於いて柱や窓周辺と、屋根の化粧垂木《ケショウタルキ》[n]屋根の下から見ると現れる垂木で、幾本もあるのが一般的。に漆喰塗籠《シックイ・ヌリゴメ》の技法が使われていないこと、加えて二重門形式であることから門脇の土塁を含めて、佐竹氏が城主であった桃山時代の築造物とされ、土塁に取り付く城門としては国内最大級である。
近世城郭時代の様式で外観が復元された屋根瓦と、練塀《ネリベエ》[o]瓦塀とも。瓦と土を交互に積み上げて作った。後者は土塁の弱点を補強するために複雑な出入りを持つ平面形を使用している。また内部には瓦塀の遺構が発掘当時の状態で保存されている:
復元にあたって欅や檜が用いられた木造二階建。総高13.34m、桁行17.18m:
一階は板塀、二階は真壁の竹小舞下地《タケコマイ・シタジ》[p]割った竹を格子状に編み上げ、その上に壁土を塗る工法。で上漆喰塗に連子窓《レンシ・マド》が設けられている。さらに復元された潜戸、そして鏡柱と大扉:
二階天井の梁は、長さが18mに及ぶ松の一本木を使用している:
大手門をくぐった先が枡形虎口。周囲は復元された土塀を持つ高さ4.5mほどの土塁が巡らされている:
大手門虎口から二ノ丸跡を横断するように延びた「水戸学の道」を進んでいくと茨城大附属小学校と県立水戸第三高等高校との間に「水戸城・二の丸角櫓入口」の幟が建っている門が見えてくる:
この門から通路をしばらく歩いていくと土塀が出現し、その先に二ノ丸角櫓が見えた:
二ノ丸跡と云うことで位置的には小学校の敷地の奥で、往時は校舎が建つあたりに二ノ丸御殿があった:
令和3(2023)年に復元された二ノ丸角櫓(市指定史跡)。城内に四基あった角櫓《スミヤグラ》のうち二ノ丸の南西隅に建てられていたもの[q]他に、下ノ丸角櫓、本丸の南西角櫓と北西角櫓。:
二層二階の角櫓を中央に配し、その北側と東側にそれぞれ多聞櫓を接続する構成である:
復元に際して、発掘調査で発見された礎石《ソセキ》のうち位置が不明なものが7つあり、櫓前に展示されている他に、実際に復元された櫓に使われている:
復元の二ノ丸角櫓は内部も公開されており、北多聞櫓が出入口になっていた:
角櫓には二階へ上がる階段も復元されていたが立ち入り不可だった
東多聞櫓には復元工事の説明板や大手門の梁材の他に、現存していた城門の門扉が展示されていた。また、発掘調査で三つ葉葵紋鬼瓦がほぼ完全形で出土し、それを参考に復元した鬼瓦を使っているとのこと:
こちらは駅北口広場近くの歩道橋から眺めた二ノ丸角櫓と、角櫓から大手口方面へ続く土塀(復元)と土塁の法面《ノリメン》:
往時の二ノ丸南西隅は屈曲が設けられ、その下には幅広の空堀(堀切)が巡らされていた。これにより角櫓からは横矢掛を仕掛けることができ、防御と監視の両面の機能を有していたと考えられている。
このあとは再び二ノ丸跡を貫通している「水戸学の道」へ戻り、本丸跡へ向かった。
その途中にある見事な大シイ(天然記念物)の先に「二中見晴らし台」入口なるところがあったので立ち寄ってみた[r]「二中」が付くのは水戸市立第二中学校の敷地隅にあるからだろう 😁️。:
ここからは那珂川を眺めることができた。ちなみに水戸城が築かれていた上市台地《カミイチ・ダイチ》[s]北は那珂川、南は桜川に挟まれた洪積台地。は那珂川によって形成された河岸段丘である:
再び「水戸学の道」へ戻って、この見晴らし台の入り口の先に杉山口門跡と坂(杉山坂)がある:
往時、この下の那珂川側から二ノ丸へ上がる城道(杉山道)は途中に木戸を通って枡形虎口である杉山口へ通じていた。ここに建っていたのが杉山門:
この門は枡形の土塁で囲まれた堅固な門であった。攻撃を容易に受けやすい那珂川側を守備する門であるが、さらに二ノ丸御殿へ通じる重要な城道でもあった。
そして、この本城橋の先が本丸(御本城)跡。この二ノ丸跡と本丸跡をつなぐ鉄橋は、往時は橋詰橋《ハシヅメバシ》と呼ばれた木橋だった。本丸跡は、現在は県立水戸第一高等学校の敷地で、その奥(東側)にある下ノ丸(東二ノ丸)跡は同校のグラウンドになっている:
この橋の下には二ノ丸と本丸との間に設けられた堀切跡で、廃城後は明治時代に那珂川貨物駅鉄道[t]国鉄時代の常磐線の貨物支線で、那珂川駅は既に廃駅。の軌道が敷設され、現在はJR水郡線として再利用されている:
見たとおり堀幅が広い大堀切で、本丸土塁の褶から堀底までの比高差は22m以上、堀幅も約40m以上あったと推定されている。本城橋(旧・橋詰橋)下には、鉄道が敷設されたあとの昭和時代初めまで、橋の土台[u]往時は堀底を侵攻する際の障害物としての役割を持っていたとも。が残っていたと云う。
こちらは橋の上から眺めた本丸跡の塁壁。往時、こちら側(西側)には北と南に角櫓が建っていた[v]北側の角櫓は月見櫓と呼ばれていた。:
本城橋を渡った[w]この橋は学生の通学路でもあるので、本丸跡へ向かう際に(休日だったが)多くの学生とすれ違った。先にある学校の校門あたりは、往時は本丸の表門に相当する橋詰門《ハシヅメモン》が建つ虎口で、現在もその遺構の一部が残っている。たとえば校門の両脇にある土塁は現存である:
校門の先が虎口跡で、通学路が鈎の字の折れていた:
虎口の南北両側の土塁は本丸の北西隅や南西隅までそれぞれ続いていた:
こちらは校門脇に建てられていた本丸跡の見学者に対する注意書き。校門を過ぎた先は薬医門周辺までが制限時間付きの見学エリアになっていた:
こちらが県指定有形文化財(建造物)である通称「薬医門」。水戸城としてただ一つ現存する建造物として移築されたもの:
正面の柱の間《マ》が三つ、出入口は中央に一つだけの三間一戸《サンゲンイッコ》の薬医門形式で、二つの脇扉を持つ。この門があった位置は諸説あったが、現在は橋詰門であり、二ノ丸大手門と同時期の佐竹氏による建立という説が有力である。
屋根面の相交わる棟木《ムナギ》は観せる様式である「化粧棟木」を採用、同様に屋根を支える垂木もその端を反り増す化粧垂木になっている:
本柱を控柱で支える技法は薬医門形式の特徴である:
棟木を支える装飾を持つ雄大な板蟇股《イタカエルマタ》と蕪懸魚《カブラゲギョ》を採用している:
なお現在の位置に移築された際に、切妻造《キリツマヅクリ》の屋根をもとの茅葺き《カヤブキ》から銅板葺に変更されている。
このあとは二ノ丸跡の「水戸学の道」へ戻り、さらに大堀跡に沿って坂を下った。その途中の県立水戸第三高等学校の校門前には二ノ丸柵町坂下門(高麗門形式)が復元されているが、本来の位置は坂を下ったあたり:
国道R51まで下りきったところで今度は本丸跡南側をR51に沿って東へ向かった:
さらに歩いて行くと左手に本丸と下ノ丸との間にあった堀切跡が見えてくる:
茨城交通の「一高下」停留所から見上げた下ノ丸南側の塁壁。現在は擁壁(斜面崩落防止)ブロックの内側に土塁が保存されている状態:
このまま東へ進んでいくと常磐線の上をまたぐ架道橋《カドウキョウ》に至るが、常磐線も堀底跡であり、その橋上から振り返って下ノ丸跡を眺めてみた。こちらも擁壁化されているが塁壁の高さや斜度がよく分かる:
このあとはJR水戸駅へ。こちらは、その途中 R51沿いにある茨城交通の「三高下」停留所から見上げた二ノ丸の塁壁は擁壁化されている。この上あたりに、往時は御三階櫓が建っていた:
明和元(1764)年の火災で一度焼失し、のちに再建されたが、昭和20(1945)年の戦災で焼失した。地表面調査では位置や建立の痕跡は確認できなかったとか。
以上で水戸城攻めは終了。
水戸城攻め (2) (フォト集)
水戸城 (攻城記)
水戸城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 水戸城跡周辺に建っていた案内図や説明板(茨城県教育委員会・水戸市教育委員会)
- 水戸城の各種リーフレット(水戸市)
- 茨城県・水戸市教育委員会『水戸城跡 〜 三の丸土塁および堀の復旧に伴う工事・調査報告書 』(平成18年9月)
- 日本の城探訪(水戸城)
- 余湖図コレクション(水戸城・水戸市三の丸他)
水戸東照宮
元和7(1621)年に水戸藩の初代藩主で、東照大権現・徳川家康の十一男である徳川頼房《トクガワ・ヨリフサ》がここ水戸の地で父の御霊を祀るために創建したのが水戸東照宮の始まりとされる。三年後の元和10(1623)年に兄である二代将軍・秀忠公の御霊屋が建てられたあとは、歴代の将軍が相殿《アイドノ》として祀られた。
昭和11(1936)年には頼房公が配祀され、社殿が國寳に指定されたが昭和20(1945)年の水戸空襲で焼失、その後の昭和37(1962)年に社殿が再建され、境内も現在のように整備された。そして平成23(2011)年の東日本大震災により社殿を含む境内が被災した。令和の時代に入って復旧が完了し、創建400年を記念した祭礼行列が約100年ぶりに開催された。
こちらが南側の参道で、この石段を上がった先が二の鳥居。二代藩主・光圀が改めた常盤山《トキワヤマ》に築かれている:
二の鳥居の先には銅造燈籠が二基置かれているが、これは頼房公が父・家康の三十三回忌にあたる慶安4(1651)年に奉納したもの(市指定文化財):
高さ2.9m、竿は円筒で下部に広がりを持って張りを見せ、節の上下一面の籬《マガキ》に菊を配し、そこに「奉献銅燈篭両基・東照宮尊前・慶安四年四月十七日・正三位行権中納言源頼房」の銘が彫られている。火袋は円形を四角にたち、唐草の透かし彫りの中央に徳川家の葵紋と天女を二面対に配し、格狭間《コウシ・サマ》の上に笠が軒八角に冠り、わらび手は竜頭より二重に巻き上げる趣向を凝らす。
國寳に指定されていた拝殿は戦災で焼失したが、戦後復興の昭和37(1962)年に再建された:
拝殿は入母屋造、銅板葺、平入、正面には千鳥破風を有し、本殿は葵の御紋が掲げられている:
境内には他にも安神車《アンジンシャ》なる日本最古の鉄製戦車が展示されていた:
第九代藩主・徳川斉昭《トクガワ・ナリアキ》公が造らせた戦車で、一人が中に入り銃眼から射撃できるようにしてある。大牛一頭に引かせた車に連結し、歩兵隊を従わせて行動を助ける構想だったが、実践に使用されることは無かった。
2024年2月 水戸東照宮参詣 (フォト集)
【参考情報】
- 水戸東照宮の境内に建っていた案内図や説明板(水戸市教育委員会)
- Wikipedia(水戸東照宮)Wikipedia(水戸東照宮)
- 水戸東照宮(HOME > 水戸市 > 水戸東照宮)
参照
↑a | 源頼朝に重用された御家人の一人で、常陸平氏《ヒタチヘイシ》の流れを汲む大掾《ダイジョウ》氏(馬場氏)の居城。馬場城とも。 |
---|---|
↑b | 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に小田原北條氏を敵に回して常陸国の統一を掲げていた。 |
↑c | 徳川家康は初め、五男で下総国佐倉城主・松平信吉《マツダイラ・ノブヨシ》を水戸城主としたが翌年に嫡子なく死去した。 |
↑d | たとえば明治時代は天狗党の乱、昭和時代は大戦による空襲の被害。 |
↑e | 復元には「一枚瓦城主」による寄付金も当てられたらしい 🙂️。 |
↑f | 【今日は何の日?】昭和天皇の大喪の礼《タイソウノレイ》が執り行われた日。 |
↑g | 命じられた各藩は数年で絵図を提出し、幕府はこれを江戸城内の紅葉山文庫《モミジヤマ・ブンコ》に収蔵した。昭和61(1986)年に国の重要文化財に指定された。 |
↑h | 那珂川水系の一級河川。 |
↑i | 徳川家康と家光の時代に石垣構築の計画があったが実現されなかった。 |
↑j | 馬踏《マブミ》とも。土塁上のこと。 |
↑k | 門弟として有名な剣士は坂本龍馬、新選組の山南敬助や伊東甲子太郎、そして吉村貫一郎がいる。 |
↑l | 一応は線が引かれて平面復元にはなっていた。 |
↑m | 櫓と門柱を支えるには土(土塁)ではなく石(石垣)の強度が必要である。 |
↑n | 屋根の下から見ると現れる垂木で、幾本もあるのが一般的。 |
↑o | 瓦塀とも。瓦と土を交互に積み上げて作った。 |
↑p | 割った竹を格子状に編み上げ、その上に壁土を塗る工法。 |
↑q | 他に、下ノ丸角櫓、本丸の南西角櫓と北西角櫓。 |
↑r | 「二中」が付くのは水戸市立第二中学校の敷地隅にあるからだろう 😁️。 |
↑s | 北は那珂川、南は桜川に挟まれた洪積台地。 |
↑t | 国鉄時代の常磐線の貨物支線で、那珂川駅は既に廃駅。 |
↑u | 往時は堀底を侵攻する際の障害物としての役割を持っていたとも。 |
↑v | 北側の角櫓は月見櫓と呼ばれていた。 |
↑w | この橋は学生の通学路でもあるので、本丸跡へ向かう際に(休日だったが)多くの学生とすれ違った。 |
0 個のコメント
2 個のピンバック