現在の群馬県北東部から栃木県南西部にまたがる足尾山地《アシオ・サンチ》東端に位置し、東山道[a]五畿七道の一つ。近江国から東へ本州中央を貫通して陸奥国・出羽国へ至るルート。江戸時代には奥州街道と中山道に再編された。沿いの宿場を押さえる要衝として築かれた西方城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下野」を冠したが、文中では「西方城」と綴ることにする。は、下野宇都宮氏の一族である西方氏が南北朝時代後に築城したと伝わる[c]築城者や築城時期には諸説あり。。最高所に本丸、東西南北に伸びた十文字状の尾根筋に堀切や土塁を使った郭群を配した上に、枡形虎口や屈曲した喰違虎口など折れを多用して、寄手に対して幾度も横矢掛《ヨコヤガカリ》で応戦できる堅固さと技巧性を併せ持つ連郭式山城であった。安土時代の天正3(1575)年に入ると相模国の北條氏政が北関東攻略を開始、壬生氏や皆川氏らを服属させたが、彼らと領地を接する下野宇都宮氏は佐竹氏や結城氏と結んで小田原北條氏に対抗した。宇都宮領西南端にあった西方城は、壬生・皆川両氏に対する前線拠点に位置づけられた。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡し宇都宮氏は太閤秀吉に臣従した。江戸時代に西方藩が立藩すると西方城は廃城となり、その東側にある二條城が陣屋として使われた。
今となっては七年前は、平成29(2017)年の寒露の候の週末[d]【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。に一泊二日の日程で栃木県にある城跡をいくつか攻めてきた。初日の午後は栃木市西方町にある山城跡へ。午前中の城攻めを終えて新鹿沼駅から東武日光線・新栃木行に乗車し、最寄り駅の東武金崎駅に到着したのが昼すぎ。最寄りとは云え、駅東口から登城口までは公称で徒歩30分くらいかかるけど[e]自分の場合、途中にあったセブンイレブンで腹ごなしをしたので小一時間要した😉️。 。
こちらは県道R177(金崎バイパス)あたりから眺めた西方城跡。現在は比高140mほどの城山[f]標高は221.2m。と呼ばれている山上にある。また、城攻め当時は正確な位置を知らなかったが、西方城跡の目の前には下野二條城跡[g]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため、ここでは「下野」を冠しているが、文中では断り無く「二條城」と綴ることもある。も見えた:
登城口は、麓にある補陀山・長徳寺の脇にあった。この曹洞宗の禅寺は西方藩・初代藩主の藤田信吉《フジタ・ノブヨシ》[h]鉢形城主であった藤田康邦《フジタ・ヤスクニ》の孫または甥であるらしい(異説あり)。:
登城口のそばには「西方城(鶴ヶ岡城)城郭図」なる案内図(右手が北方向)があった[i]城攻め当時は無かったが、執筆現在これと同等の情報が記載されたパンフレットを栃木観光協会から入手可能。。今回は、主にこの図を参考に城攻めしてきた。なお郭の名前は通称らしいが、本稿ではそれに従った:
当時の城跡には、このような図や案内板などが建っていて大変ありがたかった 。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、西方城跡と周辺の情報を書き入れたもの(位置や形状は推定を含む):
現在の西方城跡は周辺にゴルフ場が作られたため部分的に破壊されて存在していない箇所がある。特に西の丸跡は大部分が破壊されている。往時は西の丸と東の丸、そして北の丸と南の丸で十文字状に配置された郭から、翼を広げた鶴に見立てて鶴ヶ岡城とか鶴ヶ城と云う別称があった。また先の城郭図には記載がなかったが、北の丸と二の丸の間にあって、眺望が良いと説明された郭は「三の丸」と記した。
さらに往時の時代背景を鑑みて、この城跡の周囲にあった城跡の方位も併せて記載してみた(破線は遠方を意味する)。
あと、当時は下野二條城跡がこんなに近くにあるとは知らず、さらに西方城跡の登城口からの案内板も無かった[j]最近は西方城の登城口に二條城跡への案内版も建てられているらしい 😣️。ので巡ってこなかった。時間があれば一緒に巡ってくる方が良いかもしれない[k]自分の場合、この城攻めから五年後に攻めてきた 🙂️。。
こちらは、先の「西方城(鶴ヶ岡城)城郭図」に掲載されていた「西方城址のみどころ」(八ヶ所)を同じく地理院地図上に書き入れたもの(位置や形状は推定を含む):
今回の城攻めは北の丸跡から南へ向かい、東の丸跡から再び北の丸跡へ戻って下山するコース。
登城道をしばらく登り、水の手曲輪跡から伸びた堀底道に合流して、さらに進んで行くと「みどころ① 〜 屈曲する竪堀」の案内板が出てくる:
ここを折れるとずっと先の北の丸跡下まで竪堀が伸びていた:
堀はだいぶ埋もれていて、それほど急斜面ではなった:
登城道は右手に折れて北の丸下の堡塁跡に至る。ここを登ってきた寄手《ヨセテ》は、左手上と正面上(北の丸)から横矢掛で迎撃される仕組みになっていた。
ここが土塁で囲まれた堡塁《ホルイ》跡で、馬出として使われていたとも:
ここに建っていた「みどころ② 〜 北側の堡塁」の案内板がこちら:
この堡塁は城の北端にあたり、竪堀や横堀沿いに迂回してきた寄手を上から迎撃できる構造になっていた:
堡塁跡の上が北の丸跡で、現在も立派な切岸が残っており、北の丸跡へ登る階段が設けられているが、やむを得ず堡塁を捨てて北の丸へ退却する際に、寄手を欺かのように往時の虎口はさらに奥にある:
どう見てもただの崖面にしか見えない坂虎口跡 :
こちらが北の丸跡。西側に土塁があり櫓台跡もあった。北側の他に南側にも虎口ある:
この郭《クルワ》の南側に建っていた「みどころ④ 〜 屈曲する進入路」の案内板がこちら:
北の丸跡から三の丸跡へ向かう大手道の途中にある折れ。侵入してきた寄手は一段高い武者溜のような郭から横矢掛で迎撃される:
さらに進んでいくと、三の丸へたどり着く前に一層の横矢掛にさらされることになる:
「屈曲する進入路」の先には土橋と空堀(堀切)があり、さらにその奥に見えるのが三の丸の虎口跡:
こちらが三の丸跡。この時期、周囲は木々が茂っていたが、合間からは登城口がある城址東側の眺望が利いた:
三の丸跡を横切った先にある二の丸の虎口跡との間にも土橋が良好な状態で残っていた:
土橋の両側に残っていた空堀(堀切)。他にある堀切と比べて、しっかりと薬研堀であったことが分かる:
土橋を渡り虎口跡の先が二の丸跡。規模としては三の丸(仮称)よりも狭いので腰曲輪か馬出として使われていたのかもしれない[l]従って三の丸(仮称)が二の丸だったかもしれない。:
三の丸跡と同様に、よく眺望が利く郭跡だった。ズームながら宇都宮市街地から、市役所近くにある宇都宮城跡の位置を確認できた:
こちらは二の丸東側虎口あたりから水の手曲輪あたりまで落ち込んでいた竪堀跡。藪化してよく見えなかったが:
そして目の前の土橋を渡った先が本丸跡:
ここが本丸跡。北と南に虎口を持ち、高い土塁で囲まれていた:
令和2(2020)年度の発掘調査では、北側の虎口を形成する土塁から二段の石積遺構が発見された他、西側の土塁からも石列遺構が出土したらしい。さらに郭内中央に礎石《ソセキ》と小穴が見つかり、掘立柱建物があった可能性が指摘されている。ただし他の郭跡よりも出土遺構は少ないのだとか。
この城は、下野国守護・宇都宮氏の庶家《ショケ》[m]宗家・本家より別れた一族。嫡流に対して庶流とも云う家柄。にあたる西方氏が南北朝時代に築いたとされる。戦国時代後期の天文17(1548)年、西方氏は主人で下野宇都宮氏二十代当主の宇都宮下野守尚綱《ウツノミヤ・シモツケノカミ・ヒサツナ》と共に、鹿沼城主の壬生下総守綱房《ミブ・シモウサノカミ・ツナフサ》と対陣した。以後も、西方城は東の壬生氏と西の皆川氏に対する前衛拠点として機能した。
安土時代の天正3(1575)年に入ると相模国小田原の北條氏政が北関東の攻略を開始して下野国や上総・下総国へ侵攻すると、壬生氏や皆川氏は小田原勢に従属した一方で、下野宇都宮氏は里見氏や佐竹氏らと結んで、越後国の上杉謙信に助けを求めた。
天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、下野宇都宮氏二十二代で最後の当主であった下野守国綱《シモツケノカミ・クニツナ》は豊臣勢に与し、石田治部少輔に従って忍城攻めに参陣して下野国18万石を安堵された一方で、西方城主・西方綱吉は国綱には従わなかったため西方城は没収され、城は徳川家康の次男で結城晴朝《ユウキ・ハルトモ》の養子になった[n]小田原仕置のあと、奥州仕置へ向かった秀吉は結城晴朝の接待を受け、養子の話を持ちかけられ、秀康に結城家の家督を継がせた。豊臣(結城)秀康に与えられた。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、結城秀康は越前国に移封されたため、西方城には藤田能登守信吉《フジタ・ノトノカミ・ノブヨシ》が1万5000石で入城した。信吉は西方藩を立藩、西方城南東側の丘陵に新たに下野二條城を築いて本拠とすると、西方城は廃城になった。
本丸跡には八幡宮が建っており、謎の巨石[o]発掘調査では意図的なものか、用途は何かなど不明点が多いとのこと。も見かけた:
他にも本丸南側の切岸に、石積が埋まっているのを見かけた。
本丸南側の虎口から出た先は腰曲輪跡。往時は空堀があったようだが現在は埋もれていた:
ここに建っていた「みどころ⑤ 〜 屈曲する進入路」の案内板によると、南の丸側からの寄手から本丸を守るために技巧的な設備になっていた:
この周辺は東の丸・西の丸・南の丸からの登城道が合流・分岐する場所で、虎口と虎口の間の登城道を屈曲させて側面から横矢掛で迎撃できるように工夫していた:
こちらは「みどころ⑥ 〜 枡形虎口」。西の丸がある城南西の尾根に対して設けられた虎口で、寄手は小規模ながらも西の丸との間の土橋を渡ったあと3度向きを変える(その度に迎撃される)ことになる:
この枡形虎口跡の先にあるのが南の丸跡。虎口の先にはしっかりと横堀が残っていた。この横堀の存在により、寄手は虎口を直列で進まざる得ないので、ここでも横矢掛の餌食となる:
ここが南の丸跡。武者溜として利用されていた平坦な郭で、周囲には土塁が巡らされていた:
この郭のさらに南側にある郭もまた武者溜として利用されていたが藪化して下りることができなかった。
このあとは東の丸方面へ。その途中に「みどころ⑦ 〜 井戸跡」があった:
石組の井戸であったらしく、その周囲にあった土塁から石材が散見されたという。当時は周囲に石材が転がっているのみ(埋没保存)。
水の手曲輪を経由して東の丸あとへ向かう途中に「みどころ⑧ 〜 連続する枡形虎口」があった。こちらはその虎口の一部分で、このまま下りていくとさらに虎口が連続していた:
東の丸がある城の東側尾根からの道は大手道であったとされ、小さな虎口と郭を連続させて、大手道を登ってきた寄手に横矢掛を仕掛けることができる厳重な構造になっていた。
そして、その先にあるのが東の丸跡:
令和2(2020)年度の発掘調査では、東の丸中央に礎石らしき石材や小穴が発見され、本丸同様に、掘立柱建物があった可能性が指摘されている。ここは尾根部を削平して造った郭で、北側に土塁は無く、南側にある土塁からは石材が出土しなかった。土塁の中から土器が出土したが、西方藩時代の遺物は発見されなかったと云う。
こちらは東の丸の南側に設けられた馬出:
以上で西方城攻めは終了。
下野西方城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 西方城址に建っていた案内図や説明板(西方町教育委員会/西方町文化財愛護ボランティア)
- 「西方城址散策マップ」(栃木市観光協会)
- 「中世の山城・西方城址」(西方町文化財愛護ボランティア/栃木市教育委員会・西方教育支所)
- 日本の城探訪(西方城)
- 西方城 (帰ってきた栃木県の中世城郭 > あいうえお順で探す > 栃木市 > 西方城)
- Wikipedia(宇都宮氏)
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | 五畿七道の一つ。近江国から東へ本州中央を貫通して陸奥国・出羽国へ至るルート。江戸時代には奥州街道と中山道に再編された。 |
---|---|
↑b | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下野」を冠したが、文中では「西方城」と綴ることにする。 |
↑c | 築城者や築城時期には諸説あり。 |
↑d | 【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。 |
↑e | 自分の場合、途中にあったセブンイレブンで腹ごなしをしたので小一時間要した😉️。 |
↑f | 標高は221.2m。 |
↑g | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため、ここでは「下野」を冠しているが、文中では断り無く「二條城」と綴ることもある。 |
↑h | 鉢形城主であった藤田康邦《フジタ・ヤスクニ》の孫または甥であるらしい(異説あり)。 |
↑i | 城攻め当時は無かったが、執筆現在これと同等の情報が記載されたパンフレットを栃木観光協会から入手可能。 |
↑j | 最近は西方城の登城口に二條城跡への案内版も建てられているらしい 😣️。 |
↑k | 自分の場合、この城攻めから五年後に攻めてきた 🙂️。 |
↑l | 従って三の丸(仮称)が二の丸だったかもしれない。 |
↑m | 宗家・本家より別れた一族。嫡流に対して庶流とも云う家柄。 |
↑n | 小田原仕置のあと、奥州仕置へ向かった秀吉は結城晴朝の接待を受け、養子の話を持ちかけられ、秀康に結城家の家督を継がせた。 |
↑o | 発掘調査では意図的なものか、用途は何かなど不明点が多いとのこと。 |
コメント失礼します。
当方の父方生家が、金崎の東、羽生田にあり、以前歓喜院を含む羽生田城のお話を何処かで耳にしましたが、今般西方のご説明をたいへん興味深く読ませていただきました。詳細のご説明ありがとうございました。是非今度足を運んでみようと思いました。
コメントありがとうございました。ぜひ西方城跡の周辺を巡ってみて下さい。