鹿沼城の本丸はそのまま野球場にできるくらい広い郭だった

栃木県鹿沼市今宮町1666-1の御殿山公園北にある坂田山には、鎌倉時代に鹿沼権三郎入道教阿《カヌマ・ゴンザブロウ・ニュウドウ・キョウア》[a]出家後の法名。鹿沼勝綱《カヌマ・カツツナ》とも。下野佐野家の庶流・鹿沼家の祖とされる人物。の居館があった。のちに関東八屋形《カントウ・ハチヤカタ》の有力大名[b]室町時代に割拠した有力大名で、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家。である宇都宮氏との抗争に敗れて鹿沼氏は滅亡し、あらたに宇都宮氏の家臣で壬生城主の壬生氏が入った。戦国時代の天文元(1532)年には、壬生下総守綱房《ミブ・シモウサノカミ・ツナフサ》が坂田山の館に隣接する御殿山に鹿沼城を築いた。下野国を縦断する黒川《クロカワ》西岸の沖積地《チュウセキチ》にあって、標高170mほどの独立台地に位置するこの平山城郭は、中心に本丸を配し、周囲に二ノ丸と三ノ丸を設け、深い堀を巡らしたと云う。しかし、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で、五代当主の上総介義雄《カズサノスケ・ヨシタケ》は小田原北條氏に与して敗れた際に戦死し、鹿沼城も落城後に廃城になった。近年は城郭跡を地ならしして総合グラウンドとなし市民の憩いの場になっている。

今となっては七年前は、平成29(2017)年の寒露の候の週末[c]【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。に一泊二日の日程で栃木県にある城跡をいくつか攻めてきた。初日の午前中は東武日光線の新鹿沼駅から徒歩20分ほどのところにある鹿沼城跡。過去二度ほど発掘調査が実施され、壬生氏の「三つ巴」紋があしらわれた漆椀の他、土器《カワラケ》や古銭が出土したり、県内で初めて障子堀跡が発見されたことでも知られる。

この城の古絵図を探してみると『諸国古城之図[d] 東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。』にあった。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回の鹿沼城跡攻めで巡ってきた Landmarks (目印となる場所や建物)にを書き入れたもの(位置や形状は推定を含む):

今回の主な訪問場所で、郭跡の位置や規模は推定を含む

鹿沼城跡周辺図(コメント付き)

本丸跡は野球場[e]両翼90.0m、中堅114.0mでナイター設備を備える。になっていたが、内野席あたりに土塁の一部が残っていた[f]あるいは観覧席として利用しているのかも 😉️。。また本丸跡の西側(二ノ丸跡)には、藪化して分かりづらいが空堀を見ることができた。三ノ丸跡は市役所を含めて宅地化が進んでおり、公園へ登る坂が往時の城塁を偲ばせるくらいである。鹿沼今宮神社《カヌマ・イマミヤ・ジンジャ》は壬生綱房が鹿沼城の鎮守として造営し、廃城後には鹿沼宿[g]下野国の壬生通(日光例幣使街道《ニッコウ・レイヘイシカイドウ》)の宿場。の氏神として再興されたもの:

延暦元(782)年の創建で、鹿沼城築城時に勧請された

境内は三ノ丸跡

鹿沼城の廃城後に鹿沼宿の氏神として再興された

鹿沼今宮神社

三ノ丸跡の神社を参詣して市役所前の坂を登って行くと「名勝史蹟・鹿沼古城跡」の説明板があった[h]城攻め当時は無かったが、最近は城址の碑も建ったようだ 😥️。。その奥が御殿山公園:

この坂を登って独立台地上に築かれた城跡へ

三ノ丸跡から本丸跡へ

野球場方面へ向かって遊歩道を歩いていくと本丸土塁と二ノ丸土塁が出現する:

遊歩道を境に左手が二ノ丸跡、右手が本丸跡(野球場)

本丸土塁

ちょうどこの遊歩道を挟んで西側(向かって左手)が二ノ丸跡、東側(同右手)が本丸跡。

ここで本丸跡へ向かう前に二ノ丸跡へ下りてみた。藪化した杜の中を進んでいくと空堀と土塁があった:

この下は三ノ丸跡、右手の杜が二ノ丸跡

登城道

藪化していて空堀が分かりづらいが・・・

空堀と土塁

こちらが二ノ丸空堀(横堀)と土塁。横矢掛《ヨコヤガカリ》を備えた堀、そして壁の様に高い切岸を持つ土塁が残っていた:

二ノ丸に巡らされた横堀で、右手の土塁の上にも堀があった

空堀#1

二ノ丸の横堀である空堀#1は横矢掛を備えていた

横矢掛

二ノ丸土塁は、まさにこの城が要害であることを示すかのように高い切岸を持ち、実際のところ土塁上にも空堀が走っており、いわゆる二重土塁を形成していた[i]北條流築城術の特徴を持っている?

土塁の上にも空堀があり、高低差がある二重堀になっていた

二ノ丸土塁の高い切岸

再び公園へ戻り二ノ丸土塁上へ:

右手が本丸跡(現在は野球場)

二ノ丸土塁上

そして、藪化してわかりづらいけれど、土塁上から見下ろした空堀がこちら。下で見てきた空堀と併せると二重堀(二重土塁)になっている:

さらに、この下にも空堀があるので二重堀になっている

空堀#2

次は本丸跡へ。球場の周囲には土塁がそのまま残っている:

球場内が本丸跡である(遺構は埋没したまま?)

本丸土塁

本丸跡の先にある一段高い[j]そして城内で一番高い郭。場所は太夫殿《タユウドノ》と呼ばれていた郭だった:

本丸の東側下にある太夫殿の土塁

太夫殿の土塁

本丸より一段高い郭で、現在は忠霊塔が建っている

太夫殿跡

本丸跡の大部分は野球場であり、球場内に遺構らしきものは見当たらなかった:

改変・削平されて、現在は野球場になっている

本丸跡

下野宇都宮氏の家臣であった壬生家二代当主・綱重《ツナシゲ》が、主人である宇都宮忠綱《ウツノミヤ・タダツナ》[k]下野宇都宮家・第十八代当主。家臣らの対立により、居城を奪われるなど家中は混乱した。の命を受けて鹿沼氏を攻略し、その居館であった坂田山館《サカタヤマ・ノ・ヤカタ》を拠点として新たな支配を開始した。綱重死後は、彼の嫡子で壬生城主であった綱房が入り、坂田山とは尾根続きにあった御殿山に新たな居城となる鹿沼城を築いた。以後、幾度か改修を重ねて城域を拡張し、横矢掛や二重土塁などの設備を持つ縄張になったと云う。その背景には、同じ宇都宮氏の重臣であった芳賀氏や今泉氏らを謀略で追い落とした上に、主人である宇都宮氏に下剋上して独立する(宇都宮錯乱)など、家中の対立があったとされる。

綱房が宇都宮城を奪ったあとに急死すると、その嫡子・綱雄《ツナタケ》は宇都宮城を落ちて鹿沼城へ退き、小田原北條氏の勢力拡大を背景に宇都宮氏とさらに対立するも、父・綱房の弟で壬生家の勢力拡大に尽力した叔父の周長《カネタケ》は、宇都宮氏の重臣・芳賀高定《ハガ・タカサダ》と共謀して綱雄を謀殺し、鹿沼城を奪った。

一方、綱雄の嫡子で壬生家最後の当主である義雄《ヨシタケ》は、父の仇である周長を斃して壬生家の本城である鹿沼城を奪還した。以降は父と同様に、小田原北條氏の力を背景に宇都宮氏と対立した。

天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の時、義雄とその近習は本城の小田原城に籠城し、鹿沼城と壬生城は家臣らが守備したが、小田原城が開城したのちに、秀吉勢に与していた宇都宮氏や結城氏の猛攻にさらされて落城した:

壬生義雄は小田原城に籠城していた(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より)

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

一方、義雄は小田原城にて陣没したのだと云う[l]あるいは病死、暗殺など諸説あり。


このあとは公園の外に出て城の外郭(出郭)あたりへ移動した。こちらは公園西側から鹿沼城が築かれていた丘陵を眺めたところ:

城址西側から眺めた城は独立丘陵上に築かれていた

鹿沼城跡の遠景

そして、かって鹿沼氏の居館があったとされる城の北側へ回り込んでみた。現在、坂田山と御殿山の間には道路が敷かれているが、往時は尾根続きだったらしい:

往時は坂田山と御殿山は尾根続き

坂田山館跡と鹿沼城跡との間道

鹿沼氏の居館は鹿沼城の北側にあった

坂田山館跡

以上で鹿沼城攻めは終了。

See Also鹿沼城攻め (フォト集)

【参考情報】

曹洞宗・西鹿山雄山寺と壬生上総介義雄公墓所

鹿沼城跡である御殿山公園の西側の東武日光線沿いには、鹿沼城主で壬生家最後の当主である五代・上総介義雄《カズサノスケ・ヨシタケ》公の菩提寺である曹洞宗の西鹿山雄山寺《ニシシカヤマ・オウザンジ》がある。はじめ光照寺と号し、のちに義雄公の菩提を弔うために戒名「寒光院殿雄山文英」から雄山寺に改めたらしい:

御殿山公園の西側にある曹洞宗の寺院

西鹿山・雄山寺

天正18(1590)年、義雄は居城の鹿沼城ではなく、小田原北條氏の本城である小田原城に籠城して太閤秀吉の軍勢を迎撃するも敗れ、酒匂川《サカワガワ》の陣中にて戦死したと云う[m]他に開城後、同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照《ミナガワ・ヒロテル》に毒殺されたと云う説あり。。義雄には嫡子がおらず、無嗣断絶で壬生家は滅亡した[n]なお、義雄は秀吉から所領を安堵されていたが、嫡子が居なかったので領地は召し上げられたと云う説もあり。皆川広照による毒殺もこの所領安堵を妬んでとも。。享年47。

おそらく亡骸は壬生城跡近くの向陽山・常楽寺に葬られたと思われる。ここ雄山寺には公の遺髪を納めた宝篋印塔の他、殉死した家臣らの供養塔がある:

本堂裏の墓地の北端あたりにある

「壬生義雄公之墓」の碑

太閤秀吉による小田原仕置で戦死したらしい(諸説あり)

壬生義雄公の宝篋印塔

墓前にある灯籠には「壬生上総介義雄墓」、「天正十八年七月八日於小田原城中戦死」と刻まれていた。

壬生家は京都を出自とし官吏を務めていた一族で、下野国に下向して関東八屋形の一人である宇都宮氏に仕えた。下剋上してのし上がった最盛時には18万石を領した戦国大名だった。

See Also壬生義雄墓所 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 出家後の法名。鹿沼勝綱《カヌマ・カツツナ》とも。下野佐野家の庶流・鹿沼家の祖とされる人物。
b 室町時代に割拠した有力大名で、宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家。
c 【今日は何の日?】足袋の日。木の日(「十」と「八」を組み合わせると「木」の字になることから)。
d 東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。
e 両翼90.0m、中堅114.0mでナイター設備を備える。
f あるいは観覧席として利用しているのかも 😉️。
g 下野国の壬生通(日光例幣使街道《ニッコウ・レイヘイシカイドウ》)の宿場。
h 城攻め当時は無かったが、最近は城址の碑も建ったようだ 😥️。
i 北條流築城術の特徴を持っている?
j そして城内で一番高い郭。
k 下野宇都宮家・第十八代当主。家臣らの対立により、居城を奪われるなど家中は混乱した。
l あるいは病死、暗殺など諸説あり。
m 他に開城後、同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照《ミナガワ・ヒロテル》に毒殺されたと云う説あり。
n なお、義雄は秀吉から所領を安堵されていたが、嫡子が居なかったので領地は召し上げられたと云う説もあり。皆川広照による毒殺もこの所領安堵を妬んでとも。