高幡城が築かれた高幡山の麓には平安時代から続く東関鎮護の霊場がある

東京都日野市高幡733にある高幡山・明王院・金剛寺には平安時代から続く、関東三大不動[a]他に成田山・新勝寺(千葉県)と不動ケ岡・不動尊・總願寺(埼玉県)がある(諸説あり)。の一つに挙げられる不動尊があり、その背後に聳える標高130mほどの高幡山の山頂に東関鎮護の霊場を開いたことが始まりとされる。この山は多摩丘陵の北を流れる浅川に突き出た独立峰で、山上の尾根に沿って階段状に郭《クルワ》を配し堀切や竪堀を設けた連郭式山城の高幡城であった。築城年や築城主など詳細は不詳であり、技巧的な設備は残っていないが、往時は主郭部から、鎌倉時代や室町時代に合戦があった多摩川以北は武蔵国の立河原《タチカワノハラ》[b]一説に、現在の東京都立川市附近を流れていた多摩川の河原の呼称。や分倍河原《ブバイガワラ》を遠望できたとされ、関東管領上杉氏らの拠点として使用されていた可能性が指摘される他、戦国時代には小田原北條氏の支配下にあり、かって尾根続きにあった平山城主・平山氏の領有であったと云う説もある。現在、城跡には不動尊による四国八十八ヶ所巡拝を模した山内の巡拝路が通っており、わずかながらにも残る遺構を観ながら散策できる。

今となっては六年前は、平成29(2017)年の白露の候ちかくの週末に東京都下にある城跡をいくつか攻めてきた。午後は日野市高幡町にあった高幡城跡から。京王線・高幡不動駅南口を出て都道R41(川崎街道)を渡り、眼の前にある高幡不動尊の背後に聳える高幡山が城跡である。不動尊の参拝者に城跡の存在を意識している人はそれほど多くないと思われるが、城跡を囲むように巡らされている八十八ヶ所の巡拝路を利用する人は意外と多かったと記憶している :)

高幡山へ向かう登山道は幾つかあるようだが、当時は不動尊境内にある「山内八十八ヶ所巡拝路」の入口から向かった。そして山頂の「見晴らし台」と呼ばれている主郭跡から二ノ郭跡、三ノ郭跡、そして腰郭跡を巡ってきた。今回、この訪問記を書くにあたり余湖さん余湖図:高幡城を参考情報として確認していたところ、他にも段郭や土塁などが残っている可能性があることを知り、今年は令和5(2023)年の大雪《タイセツ》の候を過ぎた週末に再訪してきた。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、前回と今回巡った高幡城跡の主な遺構などにを書き入れたもの(位置や形状は推定):

山頂の尾根に配された郭跡の他に堀切跡や土塁跡を確認できた

高幡城跡周辺図(拡大版)

多摩丘陵上の一角にある高幡山の山頂の主郭を中心に、小規模な郭が尾根上を連ねる連郭式の縄張で、主要な郭はただの削平地だったが、他に巡拝路となった堀切跡や帯郭跡があり、南西に伸びた尾根筋には僅かながらに土塁が残る。竪堀もあるようだが藪化してハッキリとは確認できず。境内にあった巡拝路の案内図には「馬場あと」なる記載があり、いかにも城跡をイメージさせるような広場だが、おそらく寺領の一部として谷津が埋め立てられるなどした後に整地されたもので、多分に高幡城の遺構ではないと思われる[c]稿末の参考情報によると、地形の起伏を利用し仏教修行の形態に見立てて整備されているとのこと。「馬場あと」がある城跡西側の裾部は墓地だった。

なお主郭跡と二ノ郭跡に相当する場所には、城跡であるためなのか[d]もしかしたら寺領であるが東京都の管理なのかもしれない。、山内札所は建っていなかった。

こちらは今回の城攻めでトレースしたGPSアクティビティを先の周辺図上に重畳したものが、こちら。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は2.18km、所要時間は1時間19分(うち移動時間は32分)ほど:

山内八十八ヶ所巡拝路に沿って攻めてきた

My GPS Activity

基本的には、この整備された巡拝路と見晴らし台を歩くことで城攻めは完了する[e]勿論、併せて八十八ヶ所巡りしても構わない 🙂️。。ちなみに一度目は山内札所の第一番から攻めたが、今回は第八十七番から。城攻めのあと、浅川に架かる高幡橋から標高130mほどの山に築かれていた城跡を眺めてきた:

城の北を流れる浅川と多摩丘陵の独立山に築かれていた高幡城跡

浅川と城址遠景

と云うことで、本稿では主に二度目に攻めた高幡城跡を紹介する[f]一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。

まず巡拝入口から第八十七番の山内札所まで登る:

すぐ左手が一番札所だが、今回は更に登って八十七番札所から

山内八十八ヶ所巡拝入口

第八十七番あたりは城の北側に向かって尾根が落ち込み、その斜面にはいくつかの段郭があった:

尾根の北端にある山内札所八十七番あたり

段郭跡

巡拝路で切岸が改変されてしまった段郭跡をさらに登って行く:

二段目は規模は小さい

段郭跡

三段目は楕円形をし、三ノ郭との明確な境はない

段郭跡

尾根の北端に最上段の段郭跡があり、その端っこからは武蔵滝山城[g]直線距離にして約9km(2.3里)。方面を眺めることができた:

浅川の先には、武蔵滝山城跡や多摩川がある

段郭跡からの眺め

また段郭跡の南側は特に土塁や堀切といった境がないまま三ノ郭跡に変化していた:

瓢箪形の削平地で、この先に二ノ郭との堀切がある

三ノ郭跡

三ノ郭跡の先に幅広の巡拝路が出現するが、これが二ノ郭との間にあった堀切跡:

三ノ郭(手前)と二ノ郭(奥)の間にあった堀切跡

堀切跡

これが、そのまま往時の規模であるとは思えないが[h]軽車両くらいは通れる路幅だった。、城内で最も大きい部類に入る施設であったのであろうことは推測できる。さらに二ノ郭切岸はコンクリートなどで補強されていた。こちらも、それなりの規模であったのであろう:

坂虎口風だが、石段を含めて後世の造物

二ノ郭切岸と虎口跡

切岸下部がコンクリートや巨石で補強されていた

堀切跡と二ノ郭の切岸

二ノ郭跡は後回しにして、このあとは主郭部下に残る帯郭跡を通って城の南西に伸びている尾根を下りた:

左上が二ノ郭跡、右手下には谷津に落ち込む竪堀があるらしい

帯郭跡

ここも巡拝路に改変されていて正確な規模は不明。さらに谷津の斜面に沿って落ち込んだ竪堀があるらしいが、藪化もあって確認できず。

南西に伸びた尾根下には腰郭跡がいくつかある。ここから見上げた城塁は思ったほどの急斜面ではなかった。他の腰郭跡は整地されて墓地になっていた。ついでに竪堀跡を下から見上げたがやはり確認できず:

主郭部西側の谷津に沿って幾つかあり墓地などになっていた

腰郭跡

この谷津には経年で土砂が流れ込んだか、あるいは寺領となって埋め立てられたかして、のちに巡拝路が敷かれたのだろう。そういう視点だと、この「馬場あと」なる広場も本来は谷津だったのであろう:

その先に見える尾根は城域だが、ここは後世の造物だろう

馬場あと

ここを横目に進むと小さい丘陵(郭の一部)が出現する。その上も巡拝路になっていて、このあたりが寺領の境界らしくフェンスが建っていた。この先にある小高い場所が櫓台跡:

右手が寺領境界のフェンス、この先の高台が櫓台跡

南西隅の郭の一部

こちらは櫓台跡を下りて尾根と合流する地点。高幡山の登山路になっているが堀切跡:

手前が尾根、正面が登山口、右手上が櫓台跡

堀切跡

ここから尾根を伝って主郭部方面へ登る。なだらかな尾根なので特に苦労はしないが、その脇にはいくつか土塁が残っていた:

正面が主郭部方面で、かなり緩やかな尾根に残る土塁

土塁跡

正面が主郭部方面で、かなり緩やかな尾根に残る土塁

土塁跡

主郭跡南西の帯郭まできたら「見晴らし台入口」ではなく、腰郭が残る主郭南側へ向かう:

左手の石段を上がると主郭跡、右手奥へ進むと腰郭跡方面

主郭下の帯郭跡

こちらが腰郭跡。この南端あたりから見下ろすと意外と急斜面だった:

主郭南側下の帯郭跡(巡拝路)から見下ろした腰郭跡

腰郭跡

主郭南側の尾根を利用した小さい郭(手前が段郭方面)

腰郭跡

この郭の東側下には段郭跡がいくつか連なっていた。ここから登って巡拝に向かう人もいた:

腰郭跡の東側下にある小さな郭(一段目)

段郭跡

腰郭の東側下に連なる小さな郭(三段目)で、この下が登山口

段郭跡

このあとは主郭跡の南側下へ戻り、巡拝路になっている帯郭跡を歩いて堀切跡から二ノ郭跡へ:

左上の主郭下にある帯郭跡は、そのまま巡拝路になっている

帯郭跡

その途中に案内図と共に郭跡へ上る石段があるが、これは主郭と二ノ跡の間の堀切跡。あとでもう一度確認することに。

さらに北方面へ進んでいくと、帯郭の北東隅あたりに小さな出郭跡がある。現在はベンチが置かれて展望台になっている:

帯郭跡の北東隅にある小さな郭

出郭跡

三ノ郭との間の堀切跡まで戻ってきたら、二ノ郭虎口跡を大きく改変して作られた石段を登る:

脇に「高幡城本丸址」の標柱が建っていた

二ノ郭跡の城塁と登り口

破壊された虎口の先が三ノ郭との間の堀切跡(巡拝路)

二ノ郭虎口跡

こちらが二ノ郭跡。他の郭と同様に土塁など目立った施設はなく南北に細長く平坦である。両側の城塁下は帯郭跡(巡拝路)である:

細長く平坦で、土塁などは無く、両側下は帯郭跡

二ノ郭跡

なお二ノ郭跡とこの先の主郭跡には、城跡なのか[i]もしかしたら寺領であるが東京都の管理なのかもしれない。、山内札所は建っていなかった。

このまま主郭跡方面へ進むと堀切+土橋跡がある:

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堀切跡+土橋跡

この右手は、さきほど帯郭跡沿い歩いていた時に見た石段である:

主郭と二ノ郭との間の堀切跡で、ここから郭内へ入れる

堀切跡

土橋跡の向こう側にも堀切跡が残っていた

堀切跡

土橋の反対側にも堀切跡があった:

主郭(左手)と二ノ郭(右手)の間の堀切は帯郭に落ち込む

堀切跡

帯郭方面に落ち込んでいた堀切を土橋跡から見下ろす

コメント付き

そして、まったく痕跡の無い主郭虎口跡を進んだ先が主郭跡である:

少し坂になっているが、明確な土塁などは見られない

主郭虎口跡

現在は「見晴らし台」と呼ばれ、山内札所はない

主郭跡

この郭は台形であるが、他と同様に特に土塁といったものは確認できなかった:

城の南側に位置した台形をした郭

見晴らし台

この「高幡城址」について説明板には:

高幡城址
不動ヶ丘一帯に中世高幡城が築かれました
頂上の広場は本丸あとと伝えられています
麓には根小屋陣川戸等城址ゆかりの地名が残っています

と記されるのみである。あと見晴らし台と銘をうっているだけあって、標高138.6mからの眺めは意外と良かった:

城址北東側を一望(立川〜国立〜府中)できる眺めだった

主郭跡からの眺望

空気が澄んでいれば新宿副都心や東京スカイツリーも見えた

こんな眺めも

以上で高幡城攻めは終了。

See Also高幡城攻め (フォト集)
See Also高幡城攻め (2) (フォト集)

【参考情報】

上杉憲秋(憲顕)公墓所

高幡城跡の麓にある高幡不動尊金剛寺(別称は高幡不動尊)は平安時代に、高幡山に建立した不動堂に不動明王像を安置したことを始まりとする。仁王門など寺宝に指定された建築物などの中に混ざって、上杉堂と呼ばれる上杉憲顕公墳がある:

上杉憲秋(憲顕)公の墓標が安置されている

上杉堂

上杉憲秋(憲顕)《ウエスギ・ノリアキ》は、室町時代中期の坂東武士で、足利将軍家との血縁から関東管領を世襲してきた上杉一族[j]鎌倉で居館があった場所により山内家、犬懸家、扇ヶ谷家、宅間家の四家ある。の一つ、犬懸上杉《イヌガケ・ウエスギ》家の五代当主であった。父は武蔵国守護であり、室町幕府・関東管領職を拝命した上杉氏憲《ウエスギ・ウジノリ》、号して禅秀《ゼンシュウ》。父・禅秀は鎌倉公方[k]鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。・足利持氏《アシカガ・モチウジ》ら幕府勢に謀反したが鎮圧されて自刃した(上杉禅秀の乱)。憲秋は、この乱では病により戦場を離脱して京へ逃れていた。持氏が永享11(1447)年の永享の乱[l]足利幕府・関東管領 vs 鎌倉公方の戦い。で敗れ、空席であった鎌倉公方の跡を継いだ足利成氏[m]古河に拠点をおいて古河公方と呼ばれた。《アシカガ・シゲウジ》らの軍勢と、享徳4(1455)年に分倍河原(立川原)で先鋒として合戦し、武蔵府中の高安寺館に籠もった成氏を攻めるも、歴戦の雄である武田信長《タケダ・ノブナガ》に先鋒入替の機会を狙われ、疲労して伸び上がった備えが崩れて敗走した。この時、憲秋もまた深手を負い、ここ金剛寺まで逃れて自刃したと云う。

この御堂にある自然石は墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百ヶ日忌払い供養の伝承があるらしい(鎌倉大草紙《カマクラ・オオゾウシ》より):

墓標は自然石で、右奥には殉死した家臣の石がある

憲秋公の墳

See Also高幡城攻め (フォト集)
See Also高幡城攻め (2) (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 他に成田山・新勝寺(千葉県)と不動ケ岡・不動尊・總願寺(埼玉県)がある(諸説あり)。
b 一説に、現在の東京都立川市附近を流れていた多摩川の河原の呼称。
c 稿末の参考情報によると、地形の起伏を利用し仏教修行の形態に見立てて整備されているとのこと。「馬場あと」がある城跡西側の裾部は墓地だった。
d, i もしかしたら寺領であるが東京都の管理なのかもしれない。
e 勿論、併せて八十八ヶ所巡りしても構わない 🙂️。
f 一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。
g 直線距離にして約9km(2.3里)。
h 軽車両くらいは通れる路幅だった。
j 鎌倉で居館があった場所により山内家、犬懸家、扇ヶ谷家、宅間家の四家ある。
k 鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。
l 足利幕府・関東管領 vs 鎌倉公方の戦い。
m 古河に拠点をおいて古河公方と呼ばれた。