犬山城の複合式望楼型木造天守は國寶である(落雷で鯱が破損しているが)

木曽川南岸にあって標高85mの丘陵北端が最頂部を本丸とし、そこから南へ幾重もの郭《クルワ》を階段状に配し、山麓にある三ノ丸との間に濠を設けることで、大河を背にした後堅固《ウシロケンゴ》の山城[a]城郭構造としては平山城に相当する。として完成した犬山城は、桃山末期から江戸初期[b]桃山時代の慶長元(1596)年〜江戸時代の元和元(1615)年あたり。に小笠原吉次《オガサワラ・ヨシツグ》が建造したと伝わる木造天守が最終的に望楼型三層四階に改修され、明治4(1871)年の廃城後に個人の所有物となり、昭和の時代には國寳に指定されて、国内でも数少ない現存天守の一つとしてその姿を今に残している。美濃と尾張の国境をおさえる要衝に築かれたこの城の歴史は古く、戦国時代の天文6(1537)年に織田信康《オダ・ノブヤス》が築城し、甥の信長による美濃攻略、そして小牧の戦いでは池田勝入《イケダ・ショウニュウ》[c]信長とは乳兄弟である池田恒興。初め織田信雄・徳川家康方に与すると思われたが羽柴秀吉に調略された。が入城して羽柴勢の拠点となるなどした。江戸時代初めに家康の側近の一人で、尾張徳川家の附家老であった成瀬正成《ナルセ・マサナリ》が拝領すると、廃城まで犬山成瀬家13代[d]犬山藩最後の当主は9代目。廃城後も(譲渡された個人として)城主を務めた。が城主を務めた。

今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。三日目は愛知県での城攻め。午前中は天守が國寳に指定されている犬山城跡へ。宿泊地最寄り駅の名鉄一宮から急行に乗り、名鉄岐阜駅を経由して名鉄各務原線の犬山遊園駅で下車。まずは廃城後に移築された内田門を見に瑞泉寺《ズイセンジ》に立ち寄ったあと、木曽川に架かる犬山橋を渡り川沿いを歩いて犬山城を遠望しながら、再び木曽川を渡って犬山城跡へ向かった:

木曽川に架かる橋(鉄道橋と道路)が並行している

犬山橋

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して今回巡ってきた犬山城跡を含む主な Landmarks(目印となる場所や古道跡)にを書き入れたもの:

城門(一部)が移築された寺院、國寳の天守、城下町とミュージアムを巡ってきた

犬山城跡周辺図(拡大版)

個人的には二度目[e]10年近く前(当時)に名古屋旅行で立ち寄ったのが一度目 😃️。の犬山城跡であったが、今回は移築された一部の城門巡りを含めた城攻め:

(犬山遊園駅)→ 瑞泉寺の山門・移築城門(内田門) → (木曽川沿い)→ ・・・ →(犬山城前広場)→ 犬山城跡 → 天守 → 大手門枡形跡 → 城とまちミュージアム → 常満寺の山門・移築城門(松ノ丸裏門) → ・・・ → (犬山駅)

こちらは木曽川に架かる城址北東の犬山橋から城跡を眺めたところ:

城址北側は木曽川に面した断崖と天然の外濠で守られていた

犬山城跡と木曽川

天然の外濠である木曽川によって削られた独立丘陵北側は断崖なので、本丸は南側(大手側)の守備に注力できる後堅固な構造になっていた。これは戦国時代の中世城郭から一貫して継承された縄張であり、城域は近世城郭化されるにしたがい南側へ向かって拡張された。

こちらは現代の木曽川。犬山城があるこのあたりは木曽川中流にあたるらしい:

古来は川を挟んで左手が尾張国、右手が美濃国だった

現代の木曽川

古来、美濃国と尾張国の国境《クニザカイ》とされた木曽川[f]現代の流路と区別して古木曽川あるいは境川と呼ばれる。は、その広大な流域と川幅を持つことから陣場などの軍事拠点として利用されてきたと云う[g]例えば鎌倉時代の承久の乱では幕府軍と朝廷軍が川を挟んで対陣した。

川幅の広い木曽川対岸から眺めると、独立丘陵上に建つ現存・天守がとても遠くに小さく見えた :O

木曽川対岸から眺めた犬山城本丸跡で、標高85mほどの城山(犬山)上に天守が建つ

独立丘陵上に建つ天守1(拡大版)

さらにズームで見た天守構造物がこちら:

複合式・望楼型・三層四階の木造天守は現存で國寳

犬山城の天守

高さ19mほどの天守は複合式・望楼型・三層四階の木造建造物。慶長期(1596〜1614年)、関ヶ原の戦い後に城主となった小笠原吉次は犬山城を中世城郭から近世城郭に改修し、城下町も整備した。この時代に本丸に建てられたのが二層二階の櫓で、これが現在の天守の基礎となったとされる(諸説あり)。そして元和期(1615〜1623年)に成瀬正成が城主となると、増築した三層目のほか各層に唐破風が、そして最終的には最上階に花頭窓《カトウマド》と廻縁《マワリエン》と高欄《コウラン》が設けられ、現在見ることができる天守となったと云う:

天守南北に唐破風、東西に千鳥羽破風が設けられていた

複合式・望楼型・三層四階地下二階の天守

入母屋屋根である二層目の上に望楼が載る望楼型天守。創建時からの一層・二層目は総塗籠の大壁造《オオカベヅクリ》、のちに増築された三層目は真壁造《マカベヅクリ》[h]両者の違いは、柱や梁が隠れているか露出しているか。

こちらは木曽川に架かるライン大橋上から再び「天然の外濠」ごしに眺めた本丸跡西側の眺望:

木曽川を望む85mほどの犬山に建つ現存天守

独立丘陵上に建つ天守2(拡大版)

平成時代の発掘調査では本丸跡周辺から丘陵を人工的に掘削して造った切岸が発見されたと云う。なお城攻め当時の平成29(2017)年7月には二つある鯱のうち一つが落雷で破損してしまったらしく存在していなかった(片鯱の状態) :O

平成29(2017)年7月に落雷で鯱が大きく破損したらしい

片鯱の天守

このあとは三ノ丸跡の犬山城前広場から本丸跡を目指した:

犬山城前大広場から城攻めを開始した(スダンダードコース)

城址の碑

こちらは城とまちミュージアム(犬山市文化史料館)に置かれていた犬山城のジオラマに一部加筆したもの。今回巡った Landmarks や後日巡った移築門に該当するものは茶色で示した(右奥が北方向、左手前が南方向):

城とまちミュージアム(史料館)に展示されていたもの(加筆あり)

犬山城ジオラマ(拡大版)

ここ三ノ丸跡から天守を見上げてみると、こんな感じ:

北西端に見える出張は石落の間

三ノ丸跡から見上げた天守

この天守を目指して三ノ丸跡から大手道跡を登り中門跡[i]特に標柱や目印は無かった。を越え、松ノ丸跡に建てられ城主・成瀬氏の守護神を祀る三光稲荷神社の脇を登って行くと、矢来門跡があった。この門は廃城後に愛知県丹羽郡にある寺院に移築され、現在ここには礎石の一部が残るだけ:

桐ノ丸へ入る門で、愛知県丹羽郡の専修院東門に移築された

矢来門跡

更に登ると樅ノ丸《モミノマル》の空堀があり、大手道跡を挟んで、その向かいが松ノ丸門跡[j]特に標柱や目印は無かった。。なお松ノ丸には表門裏門があるが、前者は愛知県一宮市の寺院、後者は(城跡からほど近い)愛知県犬山市の常満寺にそれぞれ移築されている:

大手道を挟んで矢来門の向かい側にある空堀

樅ノ丸の空堀

左手が樅ノ丸の空堀、右手は松ノ丸跡(三光稲荷神社)

大手道跡

さらに進むと桐ノ丸虎口を守っていた黒門跡がある。黒門も廃城後に払い下げられ愛知県丹羽郡の寺院に移築され、現在は礎石の一部が残る:

桐ノ丸にあった門で、愛知県丹羽郡の徳林寺山門に移築された

黒門跡

黒門が建つ桐ノ丸から樅ノ丸、そして杉ノ丸を縦断するように本丸虎口の鉄門《クロガネモン》まで一直線に続く大手道跡の石段を登っていくと、その途中に杉ノ丸の石垣が残っていた:

桐ノ丸跡から樅ノ丸跡、杉ノ丸跡を縦断する大手道

大手道跡

往時はこの上に御成櫓が建っていた

杉ノ丸石垣

本丸下にあって杉ノ丸の虎口に建っていたのが岩坂門で、その先には本丸南西隅の石垣[k]石垣の一部が崩落しているように見えたが 😑️。が残っていた。往時、この石垣上には二層の鉄砲櫓が建っていたと云う。現在、櫓風の建物が建っているが、これは後世の造物(茶屋):

往時、この本丸南西隅の石垣の上には鉄砲櫓が建っていた

本丸石垣

杉ノ丸虎口に建っていた薬医門形式の門

岩坂門跡

こちらが本丸虎口跡に建つ鉄門。鉄で覆われ門扉を持つ櫓門であった。現在の櫓門は昭和の時代に復興されたもの。この門をくぐると枡形をした坂虎口になっていた(「入城」は有料[l]一般500円(当時)。):

ここから先が本丸跡(有料エリア)となる

鉄門跡(復興櫓門)

妙な改変が加わっているが、往時は枡形の坂虎口である

本丸虎口跡

坂虎口を登ると、昭和27(1952)年に國寳に指定された天守が出現する[m]この季節は杜が邪魔して石垣が見えなかったけど 😑️。

(引き気味で撮ってしい、こじんまりした天守になった 😥️)

天守

この天守は、明治24(1891)年の濃尾大地震(M8.4相当)により半壊した。その四年後には修理を条件として県から旧藩主・成瀬家に譲与され、犬山市民の支援もあって無事に修復されたと云う歴史があるが、それを知る観光客はそれ程いないのではないだろうか[n]そのおかげで自分もこうして城攻め出来ているわけで。先人たちに感謝 😎️。。昭和の時代には伊勢湾台風による被害も出たそうだし。

こちらは二層の櫓の上に望楼を載せた天守を見上げたところ。外装は、一層目が下見板張《シタミ・イタバリ》で、二層目以上は白漆喰塗籠《シロ・シックイ・ヌリゴメ》、さらに最上階の望楼は柱をそのまま見せた真壁造《シンカベ・ヅクリ》:

望楼型天守を正面から見上げたところ

天守

右手に張り出している附櫓はあとから追加されたもので、これにより「複合式」という冠詞がついて、一般に複合式望楼型三層四階の天守と呼ばれる。

(案)国宝犬山城天守・史跡犬山城跡保存活用計画』(犬山市教育委員会)には天守の各面立面図が掲載されていた:

(第二章 文化財の概要、図2.15 より)

犬山城天守各面立面図

さらに天守内には木製模型が展示されていた。さらに外観は三層だが、内部は地上四階、地下二階の構造である:

天守建造物は石垣頂部から19m、石垣は24mの高さがある

木製模型

通説に拠ると、一階・二階は慶長6(1601)年に建てられた二階櫓、元和6(1620)年に三階部分の唐破風が追加され、最上階の望楼には廻縁と高欄が設けられた。なお天守の南北に唐破風、東西に千鳥破風が設けられている:

石垣を含む高さ約42mの三層四階の天守を見上げたところ

三層四階の天守

天守一階の崖側にあたる北西端に設けられた出張は石落の間、そして北東隅に設けられた石落とし。それぞれ脇に開き戸の窓を持ち、そこから鉄砲などで寄手に反撃することも可能だった:

天守の北西側に設けられた石落としの櫓

石落の間の出張(北西端)

三角形をした黒い板張りが石落とし

石落とし(北東隅)

天守東南部の附櫓《ツケヤグラ》は天守から突出しており、天守入口に寄せた敵に横矢掛けすることができた。さらに三方に連子窓が設けられ、周囲を見渡すことも可能だった:

天守入口の寄手に横矢をかけることができた

附櫓

天守に居ながら周囲を遠方まで見渡すことができた

附櫓の連子窓

このあとは土足厳禁の天守内部へ。台座石垣の入口附近(穴蔵)は大勢の観光客が列を成していた  :O

天守一階にある上段の間は天守内で唯一の畳敷きで床の間があった[o]その体から分かるように、江戸時代後期に設けられた部屋。。正面の木戸の裏は武者隠しになっている:

正面奥の木戸の裏は武者かくしの間

上段の間

城攻め当時の平成29(2017)年7月12日に落雷で破損した鯱の破片の一部が展示されていた:

城攻め当時の平成29(2017)年8月は鯱が一つしかなかった

落雷で破損した鯱の一部

二階外周を巡る廊下状の武者走《ムシャバシリ》(入側)は幅広であり、初期の二階櫓の名残とされる:

幅が広いのは二重櫓上部の名残と言える

二階の武者走

屋根裏にあたる三階の破風の間。ここには成瀬氏の時代に増築された唐破風があり、その内部には入込《イリコミ》の間が設けられ、窓を設けることで採光していた:

入込の間と窓が設けられ、屋根裏ながら採光できた

唐破風の内部

そして四階の廻縁からの眺望。犬山城の周囲は城が多く、それだけでもこの城の地政学的な位置づけが分かると云うもの。

まずは天守から南側に広がる濃尾平野と名古屋市街地方面。小牧山城跡を眺めることができた:

正面奥の丘陵が小牧山城跡(当時、次に攻めた城跡)

遠方に小牧山城跡

木曽川を挟んで南西側の対岸にある丘陵は伊木山《イギヤマ》城跡。ここから上流に向かって川幅が広くなっていた:

伊木山城は木曽川渡河地点の軍事的な要衝として使われた

木曽川と伊木山城跡

伊木山城跡に向かって視線を右手にずらしていくと岐阜市の市街地方面で、その奥には今回の城攻めツアーで巡ってきた岐阜城(稲葉山城)跡が見えた[p]ちなみに岐阜城天守からも犬山城の天守を眺めることができる 😀️。

正面奥に見えるのが岐阜城(稲葉山城)跡

岐阜市街地

写真中央に、金華山上に建つ復興天守の岐阜城跡が見える

岐阜城跡

最後は木曽川を挟んで北西側にある鵜沼《ウヌマ》城跡。天然の岩山を利用した犬山城の支城であり、戦国時代には犬山城攻めにも利用されたと云う:

左手奥(写真外)は中山道の鵜沼宿へ至る

木曽川と鵜沼方面

小牧・長久手の戦いで、池田勝入が犬山城攻略の足がかりとした

鵜沼城跡

天守を出たあとは本丸跡を歩いてみた。こちらは本丸北東隅にあった七曲門《ナナマガリモン》跡。往時は櫓門が建っていたが、現在は礎石がよく残っていた:

別名は見晴門で、礎石が多く残っている

七曲門跡

この上に櫓門が建っていた

七曲門の台座石垣

本丸東側の土塁石垣。奥に見えるトイレは大砲櫓跡。往時は土塁上に多聞櫓が建ち、現在の柵のように大砲櫓と連結していた:

往時はこの上に多聞櫓が建ち、奥の大砲櫓と連結していた

本丸東側の土塁石垣

このあとは三ノ丸跡までおりて城下跡へ。この交差点が大手門枡形跡:

犬山市福祉会館前の変形交差点

大手門枡形跡

城絵図によると枡形には一之門と二之門があった。平成の時代に発掘調査が実施され、大手門枡形の西側に大手口を構成する空堀跡の一部が発見された。その規模は幅が約17.5m、深さは約6.5m以上で絵図の記載とほぼ同じだったと云うが、廃城後に土塁を崩して埋められてしまった。

この城とまちミュージアム(犬山市文化資料館)には犬山城の歴史や城下町を含む大きなジオラマが展示されていた[q]観覧料は大人100円(当時)。

犬山城を中心に犬山の歴史と文化についての展示あり

城とまちミュージアム

犬山城主・成瀬氏を紹介するパネル

犬山成瀬家の紹介

自身二度目の訪問となった犬山城は「片鯱」で締りのない天守であったが、ひとまず以上で犬山城攻めは終了。

See Also犬山城攻め (フォト集)

【参考情報】

犬山城移築門巡り

犬山城は明治4(1871)年に廃藩置県が施行[r]これにより犬山藩は犬山県となり、さらに名古屋県と合併した。されて廃城となり、その前後の年に天守を除く城門や櫓は取り壊しになるか、あるいは民間に払い下げられた。廃城前まで城内には主な御門だけでも18はあった[s]前述の『(案)国宝犬山城天守・史跡犬山城跡保存活用計画 』の第2章の表2.6より。とされ、その内の一部は現存し県内に移築されている:
  1. 【外郭部】内田門(瑞泉寺/犬山市犬山)
  2. 【松ノ丸】松ノ丸裏門(常満寺/犬山市犬山)
  3. 【松ノ丸】松ノ丸表門(浄蓮寺/一宮市穂積)
  4. 【大手道】矢来門(専修院/丹羽郡扶桑町)
  5. 【大手道】黒門(徳林寺/丹羽郡大口町)
  6. 【不明】不明(運善寺/一宮市浅井町)

1と2は犬山城跡の近隣に移築されていたので、城攻めと同じ日に巡ってきた。それ以外の門は、後日その存在を知ったもの。あと6は、前述の『(案)国宝犬山城天守・史跡犬山城跡保存活用計画 』で知った門で、現在は運善寺の山門であるものの、城内のどの門かは特定できていないらしい。これを除く3〜5の門について日を改めて巡ってきた。

内田門(瑞泉寺・山門)

城山東の麓は濠と土塁が南北に延び、濠の中に馬出が設けられていた 。その西側に土塁と石垣を築いて内田門が設けられていた。この門から松ノ丸へ至る入口に榊門、三ノ丸へ至る虎口に清水門が建っていた。

城内に礎石は残っていないが、内田門は城址北にある臨済宗の青龍山・瑞泉寺《セイリュウザン・ズイセンジ》に、山門として移築されていた。薬医門形式:

廃城後に払い下げられ、瑞泉寺の山門に移築された

内田門

こちらが門扉。一説に、この門は美濃金山城の大手門を犬山城に移築したとも:

廃城後に払い下げられ、瑞泉寺の山門として移築された

内田門の門扉

青龍山・瑞泉寺
愛知県犬山市犬山瑞泉寺7

 松ノ丸裏門(常満寺・山門)
松ノ丸には二ノ丸御殿相当の居館が建ち、大手道に接する北面西側に表門が、外郭部と接する北面東側に裏門が設けられていた。この郭は同じ二ノ丸相当の桐ノ丸より一段低く、南東隅と南西隅には隅櫓が建っていた。 
廃城後に表門と裏門が払い下げられ、それぞれ一宮市と犬山市の寺院に移築されたと伝わる。
 
犬山城下町大本町通り沿いにある浄土宗の日輪山・常満寺《ニチリンザン・ジョウマンジ》の山門は、薬医門形式の松ノ丸裏門を移築したもの。屋根瓦には天守にもあった魔除けの桃[t]亀の甲羅の上に桃が載った形をしたもの。があしらわれていた。犬山市登録有形文化財
 
廃城後に払い下げられ、常満寺の山門に移築された

松ノ丸裏門

廃城後の明治10(1877)年に移築され、国の有形文化財でもある松ノ丸裏門の門扉:

廃城後に払い下げられ、常満寺の山門に移築された

松ノ丸裏門の門扉

日輪山・常満寺
愛知県犬山市犬山西古券281


特定できている城門のうち残りの3つについては、本稿を執筆中にその存在を知り(六年経った今)改めて移築先を確認して巡ってきた。こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して今回巡ってきた犬山城移築門を書き入れたもの:

犬山市に移築された門の存在を知って巡ってきた

犬山城移築門

これら移築先の寺院は名鉄犬山線沿線にある。

松ノ丸表門(浄蓮寺・山門)
松ノ丸で大手道に接する北面西側に表門[u]本丸門とも呼ばれていた。が建っていた。廃城後に一宮市千秋町にある浄土真宗の小塚山・浄蓮寺《コヅカサン・ジョウレンジ》の山門に移築された。一宮市指定文化財
 
廃城後に払い下げられ、浄蓮寺の山門に移築された

松ノ丸表門

本柱と控柱の真上に切妻造り・本瓦葺きの屋根を載せた薬医門形式。右脇間には潜戸が設けられている。棟は甍瓦《イラカ》を伴う組棟《クミムネ》で、両脇に降り棟《クダリムネ》[v]瓦屋根の最長部を横向きに走る棟が組棟、その両脇に縦向きに走る棟が降り棟。を持つ。本柱と並列に脇柱をあて正面とし、その背後に控柱を置いて控貫で連結している:

廃城後に払い下げられ、浄蓮寺の山門に移築された

松ノ丸表門(裏)

鬼瓦には犬山藩成瀬家の定紋である片喰紋《カタバミ・モン》があしらわれ、破風には猪の目懸魚《イノメ・ゲギョ》を付け、ともに白が冴える漆喰仕上げ:

鬼瓦には犬山藩成瀬氏の方喰紋があしらわれていた

松ノ丸表門(横)

平成の時代に保存修理が行われた。

小塚山・浄蓮寺
愛知県一宮市千秋町穂積塚本郷内22

矢来門(専修院・東門)

本丸の鉄門下から三ノ丸へ至る大手道には第一から第四まで4つの門があったとされ、そのうちの第三の門にあたる矢来門は松ノ丸表門を西へ折れた先に建っていた。廃城後に払い下げられて丹羽郡扶桑町にある浄土宗の解脱山・専修院《ゲダツサン・センシュウイン》の東門に移築された。扶桑町指定文化財

廃城後に払い下げられ、先修院の東門に移築された

矢来門

本柱二本の間に切妻造りの瓦葺の屋根をかけ、控柱と門扉を付け、主柱と控柱との間に小屋根が付く高麗門形式である:

秀吉の時代以降に広く使われるようになった高麗門形式

矢来門(裏)

解脱山・専修院
愛知県丹羽郡扶桑町大字柏森字乙西屋敷62

黒門(徳林寺・山門)

本丸の鉄門下から三ノ丸へ至る大手道には第一から第四まで4つの門があったとされ、そのうちの第二の門が黒門で、桐ノ丸南西隅にある道具櫓に向かって西に折れ曲がったところに建っていた。城跡に礎石が残っている。廃城後に金23円で払い下げられて丹羽郡大口町にある臨済宗の大龍山・徳林寺《ダイリュウサン・トクリンジ》の山門に移築された。大口町指定文化財:

廃城後に払い下げられ、徳林寺の山門に移築された

黒門

本柱と控柱の真上に切妻造り・本瓦葺きの屋根を載せた潜戸付きの薬医門形式:

廃城後に払い下げられ、徳林寺の山門に移築された

黒門(裏)

廃城後に払い下げられ、徳林寺の山門に移築された

門脇の潜戸(裏)

なお徳林寺の中門は、さらに古く(大口町内最古)戦国時代はじめに小口城主・織田広近が建立したものらしい。

大龍山・徳林寺
愛知県丹羽郡大口町余野2丁目201

本稿執筆中さらに移築門について調べていたら、もう一つ(見落としていた)移築門が出てきた :$。こちらはまた機会ができたら巡りたい。

See Also犬山城攻め (フォト集)
See Also移築門めぐり (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 城郭構造としては平山城に相当する。
b 桃山時代の慶長元(1596)年〜江戸時代の元和元(1615)年あたり。
c 信長とは乳兄弟である池田恒興。初め織田信雄・徳川家康方に与すると思われたが羽柴秀吉に調略された。
d 犬山藩最後の当主は9代目。廃城後も(譲渡された個人として)城主を務めた。
e 10年近く前(当時)に名古屋旅行で立ち寄ったのが一度目 😃️。
f 現代の流路と区別して古木曽川あるいは境川と呼ばれる。
g 例えば鎌倉時代の承久の乱では幕府軍と朝廷軍が川を挟んで対陣した。
h 両者の違いは、柱や梁が隠れているか露出しているか。
i, j 特に標柱や目印は無かった。
k 石垣の一部が崩落しているように見えたが 😑️。
l 一般500円(当時)。
m この季節は杜が邪魔して石垣が見えなかったけど 😑️。
n そのおかげで自分もこうして城攻め出来ているわけで。先人たちに感謝 😎️。
o その体から分かるように、江戸時代後期に設けられた部屋。
p ちなみに岐阜城天守からも犬山城の天守を眺めることができる 😀️。
q 観覧料は大人100円(当時)。
r これにより犬山藩は犬山県となり、さらに名古屋県と合併した。
s 前述の『(案)国宝犬山城天守・史跡犬山城跡保存活用計画 』の第2章の表2.6より。
t 亀の甲羅の上に桃が載った形をしたもの。
u 本丸門とも呼ばれていた。
v 瓦屋根の最長部を横向きに走る棟が組棟、その両脇に縦向きに走る棟が降り棟。