標高402mの菩提山城の本曲輪跡下には急峻な切岸が残る(おしろんだい)

西美濃[a]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称を中心にそびえる伊吹山系東端に位置する標高402mの菩提山[b]この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。にあって南北約350m、東西150mの規模を有していた菩提山城は、天文13(1544)年に美濃国守護職・土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が、美濃国不破郡岩手郷[c]現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。を治めていた美濃岩手氏[d]岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。に宛てた書状に初めて登場し、西美濃が接する近江国の浅井《アザイ》氏と六角氏の動静を監視する目的として築かれた山城であった。美濃岩手氏三代当主・元重の子に重道がおり、これが竹中氏の祖にあたり、美濃国を統治した斎藤山城守道三亡き永禄元(1558)年には重道の子・重元《シゲモト》が本家にあたる岩手信冬を攻めて追放し、この城を手に入れたと云う[e]これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。。岩手一帯6千貫を治める領主となった重元が隠居して、家督を継いだ半兵衛重治は斎藤龍興に仕えて稲葉山城下に居館を置く一方、ここ菩提山城は竹中氏の本城とした。山頂の主郭部を中心に大規模な堀切や複数の虎口で守られた西美濃最大級の山城は、重治の子・重門が城の機能を竹中氏陣屋に移した後に廃城となった。

今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。二日目は初日に続いて岐阜県内で、大小あわせて4つの城跡を巡る予定であったので、移動時間を短縮させるためにレンタサイクルを利用した。

この日は宿泊地最寄りのJR岐阜駅から東海道本線特別快速・米原行に乗車して垂井駅で下車。そして駅前ロータリーを挟んで向かい側にある垂井町観光案内所レンタサイクルを調達した[c]。さらに、この日攻める菩提山城跡までのハイキングコースについて詳細なイラストが描かれた「ハイキング・サイクリングMAP」(リンクはPDF)を入手。ランドマークがしっかりと描かれていて、この土地に不案内な者には大変ありがたい地図だった。

このMAPを片手に観光案内所をスタートしてこの日二つ目の城跡を攻めたあとは、ハイキング&登山に切り替えて菩提山城跡へ徒歩で向かった。城跡がある菩提山の山頂へ向かうハイキングの入口は幾つかあるが、登山は西側にある菩提入口を、下山は東側の大手道入口を利用した。

こちらは菩提入口近くに建っていた「菩提山城跡ハイキングコース案内図(一部)」に加筆したもの:

幾つかある登山口のうち、今回は登山は菩提入口、下山は大手道入口を使った

「菩提山城跡ハイキングコース案内図」(拡大版)

レンタサイクルを竹中氏陣屋跡に隣接する岩手公民館(現在は垂井町岩手地区まちづくりセンター)の駐車場に置いて、菁莪記念館《セイガ・キネンカン》から折れて登山口のある白山神社を目指した:

この先にJR東海道本線がある

菁莪記念館から西へ

JR東海道本線をこえたら二股を右手に進む

案内板に従う

こちらが白山神社入口。この階段を登ったところに白山神社があり、その境内に登山口(菩提入口)がある:

この参道を登ると白山神社があり、その奥に登山口がある

白山神社入口

ちなみに、白山神社の境内から石段を下りたところに、かってこの周辺で勢力を誇っていた伊福氏の菩提寺があるが、これは天長元(824)年に真言宗の布教のため訪れていた僧・空海が開基となって建立したものらしい(菩提山の名前の由来とともなっている)。往時の堂宇はその後の兵火によりことごとく焼失し、その後再興されたと云う。

こちらが白山神社の本殿。向かって左手に登山口である菩提入口がある。案内図によると、そこから山頂までの距離は1,350mほど[f]時間にすると約40分強の登山であったが急坂が多いので、休憩時間を入れるとすると60分くらいは見ておいた方が良い 😐️。

鳥居をくぐって菩提寺の御堂(聖堂)の先にある

白山神社の本殿

本殿に向かって左手奥の倉庫脇が登山口

菩提入口

こちらは山頂に建っていた「菩提山城縄張図」で、今回の城攻めは図中下(大手山道)から登山してきた:

図中下側の大手山道から攻めた

「菩提山城縄張図」

そして城跡の平面図に相当する「菩提山城跡概要図(作図:中井均)」に周辺の情報標高、そして巡ってきた遺構の位置などを加筆したもの。菩提山の山頂に複数の郭を設け、堀切や竪堀で防衛する中世時代の典型的な山城だった:

各所の標高と城周辺の情報を加筆した

周辺情報

今回巡ってきた遺構の情報を加筆してみた

遺構情報

この図の右手下から登山し、図中に加筆した遺構を巡って、再び右手下へ下山した:

(菩提入口)→ ・・・ →(分岐点)→ 大手道跡 → 土橋跡と竪堀 → 大手曲輪跡 → 堀底道(堀切・竪堀)→ 三の曲輪跡 → 大堀切 → 腰曲輪跡 → 二重竪堀(竪堀1+竪堀2=竪堀)→ 出曲輪跡 → 腰曲輪跡 → (畝状堀、二重竪堀)→ ・・・ → 竪堀 → 台所曲輪跡 → 西の曲輪跡 →(馬すべり坂)→ 物見台跡 → 竪堀 → ・・・ → 二の曲輪跡 → 馬出跡と堀切 → 本曲輪跡 → 腰曲輪跡 → ・・・ → 大手道跡 → (分岐点)→ (鉄塔)→(分岐点)→(大手道入口)→(八幡神社)

菩提山の山頂へ向かうには複数の登城口から伸びるハイキングコースが交差するため分岐点も多いが、案内板が建っていたので特に問題はなかった。緑色は眺望が良かったところで、麓にある竹中氏陣屋跡はもちろん、岐阜城跡や鷺山城、垂井城跡や大垣城跡、そして関ヶ原古戦場跡としては毛利勢が布陣した南宮山を眺めることができた。あと東海道新幹線も :)

整備された登山道を登り、産業用道路を渡って、案内板を確認しながら分岐点を目指す:

登山口からしばらくは急坂が続く

登城道

左手奥に見える中部電力の送電線施設のための道路らしい

登城道と産業道路

途中、目安になる距離や時間が記された案内板が建っており、それに従って登っていくと鉄塔近くの分岐点に到達する:

この分岐点は菩提山城跡まで510m(15分)ほど

分岐点「菩提山城まで0.4km/15分」

このまま直進すると山頂にある菩提山城跡で、距離としては510m(時間とすると15分)ほど。そして、ここから先は大手道跡になる:

道幅も狭く、いっそう急坂となる

大手道跡

山頂へ向かって登っていくと最初の遺構である土橋と竪堀が出現する:

山頂へ向かう尾根筋上に残る土橋跡

大手道跡と土橋跡

土橋両側の竪堀は谷津に向かって落ち込んでいた

竪堀

さらに登って行くと大手道跡は大手曲輪を迂回するように二の曲輪との間に設けられていた堀切の堀底道になる。さらに堀切端からは竪堀に変化していた:

左手が大手曲輪跡、右手上は二の曲輪跡

堀切(堀底道)

大手曲輪と二の曲輪との間にある堀切は竪堀に変化していた

竪堀

こちらが大手曲輪跡。二の曲輪の南に設けられ、往時は大手道を監視・遮断するために三段の段曲輪から構成され、番屋(櫓)の類が建っていたと云う。規模は200㎡:

往時、ここには番所が建ち大手道を監視していた

大手曲輪跡

標高391mの大手曲輪跡から堀切を挟んで、標高401mのニの曲輪の切岸を見上げたのがこちら:

堀切を挟んで大手曲輪跡から見上げたところ

二の曲輪の切岸

大手曲輪跡からさらに登って行くと三の曲輪跡に至る。枡形状の虎口も残っていた:

大手道跡を登って行くと枡形状の虎口跡があった

虎口跡

二の曲輪の腰曲輪に相当する郭

三の曲輪跡

この郭の別名は西の丸。625㎡の規模を持ち、北側にある二の曲輪との比高差は10mほど。馬出として使われていた可能性があるのだとか。

三の曲輪の南側には城内最大とされる大堀切が’残っていた。上部幅16m・底部幅4mの規模:

手前が三の曲輪跡、大堀切を挟んで奥が出曲輪跡

大堀切

廃城後四百年以上(当時)経過しているが、ロープ場になるくらいの深い堀と高い城塁が残っていた。往時は三の曲輪と出曲輪の間に跳ね橋が設けられていたらしい:

三の曲輪跡(手前)から深く幅広な大堀切を見下ろす

大堀切

ロープをつたって大堀切の堀底へ下りてみた。竪堀として落ち込んだ先に水の手(井戸)がある:

この奥が水の手、左手上は腰曲輪跡、右手上が三の曲輪跡

堀底

さらに堀底を北へ進んで、出曲輪下の腰曲輪跡へ:

出曲輪(左上)の西側下にあり、この奥に二重竪堀がある

腰曲輪跡

腰曲輪跡の南側向かうと出曲輪から二本の竪堀が谷津へ落ち込んでいた:

手前の竪堀#1と、土塁を挟んだ先にある竪堀#2で二重竪堀

二重竪堀

出曲輪(手前)から二本の竪堀が谷津へ落ち込んでいた

二重竪堀

一つ目の竪堀#1は出曲輪と腰曲輪との間にある堀切(武者隠し)が変化したものであり、二つ目の竪堀#2は出曲輪南側の尾根筋を断ち切った堀切が変化したものようだ。

次は出曲輪跡。三の曲輪と大堀切で隔てた郭で、900㎡の規模を持つ:

正面には土塁が残っていた

出曲輪跡

西南端に土塁を築き、西側の腰曲輪との間の堀切は武者隠しとして使われ、北西端には櫓が建っていたらしい。

この郭と南側対岸の尾根には、一部分を削平して幅3m長さ30mに及ぶ武者走が設けられていた一方で、堀は畝状になっていた:

畝状堀は武者走として使われ、その先の腰曲輪へ移動できた

堀切と畝状堀

畝を持つ二本の堀切が、そのまま二重竪堀に変化していた

竪堀と畝状堀

標高391m出曲輪跡は本曲輪より10mほど低い位置にあるが眺望は良かった:) 。この時は夏でありながら空気が澄んでいて、例えば岐阜城跡や名古屋駅あたりまで見渡せた:

もっと望遠できれば犬山城あたりまで見えたかも知れない

岐阜城跡

岐阜県から愛知県を含む濃尾平野の眺めが良かった

名古屋駅周辺

このあとは三の曲輪跡まで戻り、さらに北にある台所曲輪方面へ:

大手道は左手の台所曲輪、右手上の二の曲輪で防御できた

三の曲輪跡から台所曲輪跡へ

三の曲輪の虎口あたりから見上げたところ

二の曲輪の切岸

三の曲輪と台所曲輪との間には竪堀もあった。530㎡の規模を有していた、この台所曲輪は水の手や斜面に設けた物資集積場(帯曲輪と段曲輪)、そして西の曲輪にあった蔵を管理する城内補給の中枢として機能していたと考えられる:

台所曲輪へ向かう大手道から見下ろしたところ

竪堀

城内の補給をまかなう中枢機能を有していた

台所曲輪跡

昭和の時代の測量調査では、この郭から曲谷臼《マガタニウス》[g]かってお隣の滋賀県米原市にあった曲谷《マガタニ》村は石材の生産地であり石工も多く居た。そこでは石臼《イシウス》が名産だったと云う。の石片が多数出土したらしい。

この曲輪の北側にあるのが西の曲輪跡。この郭も補給の機能を有していたとされる:

蔵などが建っていた

西の曲輪跡

この郭の西側は通称「馬すべり坂」と呼ばれる急斜面があり、本曲輪と接する東側には横掘が設けられていた:

急坂と竪堀、そして物資集積場として段曲輪がある

馬すべり坂

西の曲輪と右手上の本曲輪との間に横掘があった

横掘

この郭の北側には物見台と推定できる土塁があり、その奥には竪堀もあり、城の北側(塩ヶ谷方面)に対する備えであった:

手前方面が竪堀と馬すべりの坂

物見台跡

西の曲輪の北端から山裾(塩ヶ谷)へ落ち込んでいた

竪堀

竪堀脇から尾根伝いに段曲輪を下りて行くと、さらに「北の水の手」と云う場所へ行けるようだが体力的・時間的に厳しかったので今回は省略した。水の手一体は堀切も少なく、城塁としては未完成な部分もあるのだとか。

このあとは台所曲輪跡まで戻り、大手道に沿って二の曲輪跡へ:

本曲輪を守り、三の曲輪と大手道を守る郭

二の曲輪跡

この郭の別名は中の丸。800㎡の規模を持ち、西側に枡形虎口を持つ。北にある本曲輪の虎口を守り、西・南・東の三方下を走る大手道を上から守備できる位置にある。

二の曲輪跡から幟が建つ本曲輪跡を眺めたのがこちら。本曲輪との間には「堀切+馬出+堀切」がある[h]藪化が激しくて、この構図からだと分かりづらいが 😑️。

二の曲輪と本曲輪の間には堀切二つと馬出がある

本曲輪跡の眺め

標高401mの二の曲輪跡からの眺望も良かった :)。例えば大垣城跡や名古屋駅方面を含む眺め:

菩提山城跡から大垣城跡までの直線距離は13kmほど

大垣城跡がある方角

菩提山城跡から名古屋駅周辺までの直線距離は44kmほど

(コメント付き)

こちらが二の曲輪跡から本曲輪跡へ向かう途中にある馬出と堀切:

本曲輪との間に堀切と馬出が残っていた

堀切と馬出

馬出跡から土橋を渡って本曲輪跡へ移動する

(コメント付き)

城内で最も高い標高402mの本曲輪跡がこちら。城の東端からの眺望は開けていて良かった :)

城内最大で最高置にある郭で、最高所は天守台の形態を残していた

本曲輪跡(拡大版)

別名が東の丸とあるように城内の東端にあり、城内最高所の標高402m、最大規模の825㎡を有す南北に長い郭である。


この城の築城年・築城者は諸説あり、たとえば永禄元(1558)年に竹中重元が岩手周辺の領主であった岩手氏を追い出して、新しい領主となった翌年に菩提山に砦を築いたのが始まりとか、それまであった砦を大規模に改修して菩提山城にしたなどがあるが、共通するのは山城から平城へ移り変わる山城全盛時代の中世末期に存在し、廃城まで美濃竹中氏の居城であったと云うことである。

中世の山城特有の空堀や堀切、そして竪堀といった防衛施設が遺構の中から見られる他、郭《クルワ》の配置・構成も特徴的で、それぞれの郭固有の機能[i]指揮中枢部、防御・監視部、そして補給部といった機能を備えていた。を連携させ、一つの巨大な要塞として組み上げた意図が伺われるのだとか。さらに、他の城とは異なり石塁(石積)よりも土塁を多用しているが、寄手に対しては堅固にして連綿に計算された巧妙な造りになっていたと云う。

重元の子、”半兵衛” 重治《シゲハル》はこの城を受け継いだあと、稲葉山城下に居館を構え、織田信長や羽柴秀吉に仕えていながらも竹中氏の本拠としていた[j]実際のところ、半兵衛自身がこの城を居城としていたのはわずか七年である。。半兵衛が陣没したあと、家督を継いだ重門《シゲカド》が慶長5(1600)年に菩提山の麓に城(陣屋)を移すと、「戦国の時代も終わった世では生活に不便である」として、慶長13(1608)に菩提山城は廃城となったが、その後およそ四百年以上も手付かずの状態にあったことにより、現代でも遺構の保存状態は良好である。


昭和の時代の測量調査の結果では、本曲輪の北側にある土壇が最も高い位置にある(標高403m)。その形態から天守台と呼んでいるが、おそらく櫓の類が建っていたと推測される:

本曲輪の中で最も高い403mの土壇が櫓台と思われる

伝・天守台跡は標高403m

こちらは腰曲輪跡。本曲輪の東側下にあった郭で225㎡の規模を有していた:

本曲輪の東側の一段下にある郭

腰曲輪跡

そして腰曲輪跡や堀切・土橋跡などを含む本曲輪跡からの眺望(パノラマ):

(この日は晴天で、午前中は空気も澄んでいたので名古屋あたりまで眺めることができた)

本曲輪跡からの眺望(パノラマ)

以上で菩提山城攻めは終了。

最後に菁莪記念館で展示されていた菩提山城のジオラマ(1/250):

主に今回巡ってきた遺構を加筆してみた

「菩提山城復元予想模型」(1/250)

このあとは大手道跡を降って分岐点へ移動し、そこから大手道入口へ下山した:

登山してきた菩提入口とは反対側へ向かう

分岐点「禅幢寺まで1440m」

左手上には中部電力の鉄塔が建っていた

大手道跡

このあと二つほど分岐点を通過することになるが案内板に従えば問題はない。また大手入口前には獣よけの柵と扉があり、開け締めについては施錠に注意する必要があった:

周囲の石積みは菩提山城とは関係のない後世の造物

大手道入口

登山口の近くには八幡神社が建っており、鳥居をくぐって下山が終了。このあとは半兵衛の墓所がある禅幢寺《ゼンドウジ》へ。

See Also菩提山城攻め (フォト集)

【参考情報】

竹中半兵衛重治公墓所と禅幢寺

菩提山城跡ハイキングコースの大手道入口近くにある曹洞宗の普賢山・禅幢寺《ゼンドウジ》は、明応3(1494)年に薩摩国にあった金幢寺の僧・正碩和尚が開基した曹洞宗の寺院で、それ以来は岩手一帯の領主らに保護されてきた。現在は、最後の領主であった美濃竹中氏の菩提寺でもある:

菩提山の麓に建つ曹洞宗の禅寺である

普賢山・禅幢寺

美濃竹中氏の系図は諸説あって明らかではないが、一説に美濃に土着した清和源氏を祖とする美濃岩手氏の一族とされる。『美濃国諸家系譜』によると、南北朝時代に美濃国守護を務め婆娑羅大名《バサラ・ダイミョウ》[k]主に南北朝時代に、身分を無視した実力主義を掲げ、天皇や公家を軽んじた振る舞いを主張した奴輩《ヤッパラ》の総称。として知られる土岐頼遠《トキ・ヨリトオ》の養子・長山頼基の曾孫にあたる頼重《ヨリシゲ》を祖とする。応永20(1413)年に「美濃国不破郡岩手・府中・栗原・梅谷・荒尾・松尾・大石・漆原等領之」との記録が残り、ここ岩手一帯で有力な領主であった。

この頼重から数えて三代当主・重久には嫡男である信忠の弟に重氏《シゲウジ》がおり、これが美濃竹中氏の祖となったと云う。美濃国を平定した斎藤道三の時代が終わったのちの永禄元(1558)年に、重氏の子・重元《シゲモト》が美濃岩手氏七代当主の弾正信冬《ダンジョウ・ノブフユ》を攻めて、これを追放し新しい領主となった。

その二年後に重元が隠居すると、半兵衛の通称で知られる嫡男の重治《シゲハル》が16歳で家督を継いだ。半兵衛は、持ち前の智謀で美濃竹中氏の名を広く知らしめ、後世には今孔明《イマ・コウメイ》[l]中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。とも呼ばれ、豊臣秀吉の「軍師」として数多くの戦綺談で活躍する勇将として語り継がれてきた:

菩提山城跡の麓にある竹中氏陣屋跡の前にある

竹中半兵衛重治公の坐像

半兵衛は、天文13(1544)年に美濃国大野郡[m]現在の岐阜県揖斐郡大野町あたり。の大御堂城《オオミドウ・ジョウ》で生まれ、父の重元と共に菩提山城を手に入れて岩手の地へ移った。幼少時より学問を好み、兵法の研究に励んだといい、のちに西美濃三人衆[n]美濃斎藤氏の重臣だった稲葉伊予守良通(一鉄)と安東(安藤)伊賀守守就、そして氏家常陸介直元(卜全)を指す後世に作られた総称。の一人で北方城主の安東守就《アンドウ・イガノカミ・モリナリ》の娘(のちの得月院《トクゲツイン》)を娶った。家督を継いだ際に父から、菩提山城と麓の西福村に構えた居館を中心に6千貫の所領を受け継いだ。また往時の主人は稲葉山城の斎藤龍興《サイトウ・タツオキ》で、竹中氏当主として稲葉山城下に屋敷を与えられていたと云う。

この龍興は領主としての才は凡庸で、近習や一部の寵臣[o]半兵衛と因縁のあった斎藤飛騨守ら。だけを重用し、西美濃三人衆ら父・義龍の時代から仕える古参の重臣を遠ざけ、正しく政務を顧みようとしなかった。これを憂いた半兵衛は、永禄7(1564)年に謀略を持って僅か半日で稲葉山城を奪取した[p]竹中家の人質として稲葉山城に送られていた弟の久作(重隆)の病気見舞と称して家臣ら十数名とともに危なげなく入城し、寵臣らを斬って、守就らの軍勢を手引きして城内を制圧した。。龍興は歯噛みして悔しがりながら搦手の水門から城外に脱出したと云う。この時、半兵衛は齢20。

この話には、さらに「尾ひれ」が付いて美談として江戸時代まで美濃国で信じられていたらしい。その尾ひれとは、尾張国の織田信長がこの事件を伝え聞いて「稲葉山城を我らに渡されよ。さすれば美濃半国を貴殿にあてがい申そう」と書状を送ってよこし、対する半兵衛は「この城は当国の領主の居城でござる。他国の人に渡し申しては人の批判もいかがかと存ずる」として拒否、間もなく舅を仲介役にたてて城を龍興に返した上に、自らは事件の責任をとって浪人し、近江国に立ち退いたと云うもの。

ただ美濃国を出て近江国へ退いたと云っても斎藤氏の被官を辞めたと云うだけで、岩手6千貫の所領や菩提山城の所有権を放棄した訳ではなく、それらは弟の久作をはじめとする一族の者が守っていた。この時の半兵衛の隠遁生活については記録が無いため不明で、再び半兵衛が歴史の表舞台に現れるのは稲葉山城のっとりから八年後の元亀元(1570)年のことである。

しかしながら、この八年の間に歴史は大きく変化していた。まず美濃国は信長に奪われて稲葉山城は岐阜城に改名され、前の主人である龍興は近江国に追い落とされてしまった。信長が越前国の朝倉氏と対立すると、その義弟で北近江の領主であった淺井備前守長政《アザイ・ビゼンノカミ・ナガマサ》が裏切って対立した。この頃、半兵衛は美濃国の主人が変わっことにより織田家に帰服して被官となっており、木下藤吉郎の寄騎(与力)衆に加わっていた。藤吉郎による対淺井勢の切り崩しについては、半兵衛の息子の重門が著した『豊鑑』に記録されており、半兵衛は見事に淺井家の家臣の調略を成功させている。これは近江国での八年間の隠遁生活による功績とされる。この時、藤吉郎は齢35、半兵衛は齢25である。

信長と淺井・朝倉勢との無二の一戦であった姉川の戦いで、半兵衛の活躍は記録として残されていないが、弟の久作が淺井家の猛将・遠藤喜右衛門直経《エンドウ・キエモン・ナオツネ》を討ち取る功をあげている[q]久作は戦の前から直経を討ち取ると豪語していたらしい。。元亀3(1572)年に淺井家が滅びると、藤吉郎は羽柴秀吉と改めて長浜城主となり、半兵衛もこれに従った。

天正5(1577)年、越後の上杉謙信が信長の勢力圏に接する能登国に討って出てきた。大いに緊張した信長は柴田権六勝家を大将に、丹羽長秀、羽柴秀吉ら織田家中の主な諸将を配下につけて加賀国まで派遣したが、しばらくして秀吉は勝家と意見が衝突したので、信長に伺いをたてずに帰国してしまった。信長は激怒し、切腹を云い渡す寸前まで散々に叱りつけたが、秀吉は一向に謹慎せず、毎日家来共を集めて酒宴を開いたり、能楽を楽しんでいた。信長は猜疑心の強い性格だ。今や20万石の身代である秀吉が陰気臭く謹慎などしていると謀反に発展するのではないかと、さらに疑念が大きくなる恐れがあった。わざとでも遊楽している姿を見せつけてやれば、信長もそのうちに落ち付くであろうと云う人間心理を読解し、このような対応を秀吉に勧めたのも半兵衛の謀略《ハカリゴト》であろう。さらに云えば、戦の謀略(戦術)の主要な部分もまた読心術である。

この件から間もなく秀吉は中国攻めの司令官に任ぜられて播磨国へ向かい、半兵衛もまた同道した。この時、半兵衛は齢34。

播磨の小寺官兵衛孝高《オデラ・カンベエ・ヨシタカ》(のちの黒田如水)は信長に帰服を誓い、秀吉と対面して播州計略の策と居城である姫路城を献上した。この官兵衛はなかなかの知恵者で大いに活躍した。当時の人たちは、秀吉が半兵衛と官兵衛の「二兵衛」を寄騎していることを、中国・前漢の高祖(劉邦)が張良・陳平の二謀臣を持っていたに類えたと云う[r]読みは「たぐえた」。劉邦と秀吉を並べて評した云うこと。。一般に、両雄並び立たずと云われるが、この二人は料簡の狭い人間ではなかったので、ずいぶんと仲が良かった。これを伝える話が残されている。

翌6(1578)年に摂津国の有岡城主・荒木摂津守村重《アラキ・セッツノカミ・ムラシゲ》がとつぜん主人である信長に反旗を翻して居城に立て籠もった。背後には中国の覇者・毛利家が蠢動《シュンドウ》していたのであるが、官兵衛の主人である小寺政職《オデラ・マサモト》もこれに通じていた。官兵衛は主を諌め、自らが村重を説得することになり、往時、三木城攻囲中だった秀吉に伝え、さらに信長の許しをもらったのちに有岡へ向かった。二枚舌の政職は村重の許に密使を使わせて、官兵衛が説得にきたら捕縛して殺してもらいたいと申し送っていた。そのため官兵衛が到着すると直ぐに捕らえられて城内に幽閉されてしまった。官兵衛一生の大厄難である。劣悪な牢屋内で皮膚病にかかり足も不自由なったうえに、頭も禿げてしまった。

信長は官兵衛が有岡城に入ったきり出てこないので、必定村重に一味したのだと激怒した。官兵衛が信長に帰服した際に嫡男の松寿丸《ショウジュマル》(のちの黒田長政)を人質として差し出し、これを秀吉が長浜城で預かっていたのだが、信長はこれを殺してしまえと秀吉に厳命した。この時、三木城攻めの最中であった秀吉の代わりに安土城に出頭したのは半兵衛であった。半兵衛はこれを諌めたが信長は聞かない。「斬れ」と言い張る。「さらば致し方はござらぬ。不憫ながら殺しましょう」と答えて、長浜城へ向かい、松寿丸を連れ出して菩提山城下にある家臣・不破矢足[s]竹中家一の家臣。姉川の戦いでは足に刺さった矢をものともせず戦ったことから、のちに半兵衛が「矢足」と名付けたと云う。五明稲荷神社と県道R257を挟んだところに墓所あり。の屋敷[t]これが現在の五明稲荷神社あたり。に隠してしまった。もちろん信長には斬ったと報告したのである。この翌年、有岡城は明智光秀と滝川一益によって攻め落とされ、官兵衛は助け出された。信長は、さんたんたる姿になりながらも節を守り通した官兵衛と対面して涙を流したと云う。さらに半兵衛の機転で松寿丸を殺さずにいたことを聞いて大いに喜んだ。

しかし、この時には既に半兵衛は生きてはいなかった。有岡城が落城する数ヶ月前に三木の陣中で病没していたのである。半兵衛はこの年の春頃から体調を崩して病気になっていた。秀吉の勧めで一時的に京の名医のもとで療養していたが、なかなか良くならない。半兵衛は憤然として「いずれ死ぬべきものなら、戦場でこそ死にたい。三木の陣中へまいろう」と云って戻ってきたが、間もなく病あらたまって6月某日に没した。享年36。

この由があって黒田家と竹中家の交誼は末代まで続くことになったことは、その後の歴史に知るところである。

半兵衛の軍師としての細かい活躍はよくわかっていない。彼自身があまり表舞台に出ることを欲していなかったかもしれない。しかし半兵衛が優れた智謀の人であったことは、前述のとおり、彼の子の重門が著した『豊鑑』から伺えるとともに、半兵衛が没した際に秀吉が落胆悲哀したと云う記録からも伺えるところである。


こちらは禅幢寺の山門。菩提山城跡でもみかけた幟がたっていた:

菩提山城跡でも見かけた「半兵衛」の幟が立つ

山門

こちらは本堂。現在の本堂は半兵衛の孫にあたる竹中重常が寛文3(1663)年に建立したもので、平成の時代に町指定建造物になった:

重治公の孫・重常公が江戸時代に建立したもの

本堂(垂井町指定建造物)

禅幢寺の寺宝には「半兵衛竹中重治像」なる掛け軸があり、半兵衛の肖像画と花押が残されている。なお先の坐像はこの肖像画をモデルにしているらしい:

(菁莪記念館に展示されていたパネルより)

竹中半兵衛重治公の肖像(複製)

本堂に向かって左手に案内板があるので、それに従って高台にある墓地へ向かう。左から竹中半兵衛重治公の墓、半兵衛の正室・得月院殿の墓、そして半兵衛の父である重元公の墓[u]今回の訪問から二年後の令和元(2019)年に墓所が整備されたらしい。

半兵衛の墓は、子の重門が三木から移葬したもの

竹中半兵衛重治公・得月院殿・重元公の墓所

半兵衛の墓所は、子の重門が三木から移葬したものである。

他には、稲葉城乗っ取りで半兵衛と共に活躍した所太郎五郎(竹中善左衛門)、岩手藩士の長原武や国井化月坊、岩手藩旗本竹中家の家臣・大野是什坊の墓があった。

その中に一つ気になるものがあり、「小西行長之墓」と彫られている墓碑があった:

三条大橋に首が晒された後の行方が不明らしいが・・・

伝・小西行長之墓

小西行長と云うと、和泉堺の豪商・小西隆佐の次男で、切支丹大名の一人。豊臣秀吉に仕え文禄・慶長の役では漢城占領一番乗りと明との交渉役にあたった。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では西軍の将として奮戦したが敗戦後に捕縛され、京の六条河原で斬首、その首級は三条大橋に晒されたと云う。亡骸はカトリック教会に引き取られて葬られたらしいが、埋葬地は不明。この墓が偽物と指摘する説もあり[v]首塚が竹中氏陣屋跡近くの明泉寺の裏手にあるらしい 😑️。

これは菁莪記念館に展示されていた「銀箔押一の谷形兜」《ギンパクオシ・イチノタニ・ナリ・カブト》のレプリカ:

(菁莪記念館に展示されていた)

銀箔押一の谷形兜(レプリカ)

鎌倉時代は源義経の故事で知られる「一の谷のひよどり越え」の険崖をイメージさせる兜で、半兵衛の遺品であった。形見分けで福島市松(のちの福島正則)の手に渡り、その後の朝鮮の役で黒田長政と仲違いした際に、仲直りの印として互いの兜を交換し、この一の谷の兜は長政の手に渡った。長政にとって半兵衛は命の恩人である。関ヶ原の合戦や大坂の陣で長政は一の谷の兜を被ったとされ、黒田家では代替わりする度に一の谷形兜を新調していた。

JR垂井駅北口のローターリーにある半兵衛の坐像はこの兜を被っている[w]ここ垂井町には半兵衛像が三体あり、ここで紹介した二体の他にタルイピアセンターと云う図書館にもあるらしい 😊️。

垂井駅北口ロータリーにある

「竹中半兵衛重治公」の坐像

曹洞宗・普賢山・禅幢寺
岐阜県垂井町岩手1038-1

See Also竹中重治公墓所と禅幢寺 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称
b この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。
c 現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。
d 岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。
e これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。
f 時間にすると約40分強の登山であったが急坂が多いので、休憩時間を入れるとすると60分くらいは見ておいた方が良い 😐️。
g かってお隣の滋賀県米原市にあった曲谷《マガタニ》村は石材の生産地であり石工も多く居た。そこでは石臼《イシウス》が名産だったと云う。
h 藪化が激しくて、この構図からだと分かりづらいが 😑️。
i 指揮中枢部、防御・監視部、そして補給部といった機能を備えていた。
j 実際のところ、半兵衛自身がこの城を居城としていたのはわずか七年である。
k 主に南北朝時代に、身分を無視した実力主義を掲げ、天皇や公家を軽んじた振る舞いを主張した奴輩《ヤッパラ》の総称。
l 中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。
m 現在の岐阜県揖斐郡大野町あたり。
n 美濃斎藤氏の重臣だった稲葉伊予守良通(一鉄)と安東(安藤)伊賀守守就、そして氏家常陸介直元(卜全)を指す後世に作られた総称。
o 半兵衛と因縁のあった斎藤飛騨守ら。
p 竹中家の人質として稲葉山城に送られていた弟の久作(重隆)の病気見舞と称して家臣ら十数名とともに危なげなく入城し、寵臣らを斬って、守就らの軍勢を手引きして城内を制圧した。
q 久作は戦の前から直経を討ち取ると豪語していたらしい。
r 読みは「たぐえた」。劉邦と秀吉を並べて評した云うこと。
s 竹中家一の家臣。姉川の戦いでは足に刺さった矢をものともせず戦ったことから、のちに半兵衛が「矢足」と名付けたと云う。五明稲荷神社と県道R257を挟んだところに墓所あり。
t これが現在の五明稲荷神社あたり。
u 今回の訪問から二年後の令和元(2019)年に墓所が整備されたらしい。
v 首塚が竹中氏陣屋跡近くの明泉寺の裏手にあるらしい 😑️。
w ここ垂井町には半兵衛像が三体あり、ここで紹介した二体の他にタルイピアセンターと云う図書館にもあるらしい 😊️。