岐阜県は大垣市郭町《オオガキシ・クルワマチ》2丁目52番地にある大垣城跡は、戦国時代から江戸時代に美濃国で交通の要衝にあって揖斐川《イビガワ》[a]または牛屋川《ウシヤガワ》、現在の水門川。木曽川水系の一級河川。を天然の外濠とした要害堅固な城であった。一説に天文4(1535)年に美濃国守護を務めた土岐氏一族の宮川安定が築いたと云う[b]他に、明応9(1500)年に竹越尚綱《タケコシ・ヒサツナ》が築いたと云う説あり。。古来より西美濃[c]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称。の「要の処」として重要視され、永禄4(1561)年には美濃斎藤家重臣・氏家直元《ウジイエ・ナオモト》[d]号してト全《ボクゼン》。後世には、美濃斎藤氏の重臣だった稲葉良通(一鉄)と安東(安藤)守就と共に、西美濃三人衆と呼ばれた。が砦から城に改修、天正11(1583)年には織田家の池田恒興が石垣を使って近世城郭化し、天正16(1588)年には豊臣家の伊藤盛景《イトウ・モリカゲ》[e]祐盛《スケモリ》とも。が天守を築くなど、城主が代わる度に整備が進んだ。関ヶ原の戦い後の江戸時代には濠と郭が整備・拡張されて城下町を含む惣構えが完成し、寛永12(1635)年以降は戸田氏鉄《トダ・ウジカネ》を祖とする美濃大垣藩の居城になった。廃城後も天守や櫓は残されたが昭和20(1945)年の大垣空襲で焼失、昭和の時代に外観復元され、平成の時代に焼失前の外観に改修された。
今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。二日目は初日に続いて岐阜県内で大小あわせて4つの城跡を巡ってきた。この日の最後の城跡へ向かうため、3つ目の城跡を攻めたあとに最寄り駅の垂井駅から東海道本線・大垣行に乗車し、大垣駅に着いたの午後3時。そのまま南口から徒歩10分圏にある大垣城跡へ向かった。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して城跡周辺の主な Landmarks(目印となる場所や古道跡)を書き入れたもの。今回は中央にある大垣城跡を巡ってきた:
戦国時代を経て江戸時代を生き抜いた近世城郭・大垣城の絵図はいくつかあり、例えば『正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)や『日本古城絵図[f]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)[g]東海道之部(1)の『123 濃州大垣城図』。があるが、こちらは、その中から『正保城絵図』の『 美濃国大垣城絵図』上に主な郭や施設、そして町割りをそれぞれ追記したり強調し、北を上向きに回転させたもの:
城跡の周辺図と城絵図とを見比べる時の基準として美濃路[h]江戸時代の東海道(宮宿)と中山道(垂井宿)とを結んだ脇往還《ワキオウカン》のこと。宮宿から数えて大垣宿は八番目。をそれぞれ追記しておいた。なお大垣公園東側の出入口に建つ櫓門は、この城絵図で左下あたりにある柳口門を移設したもの。
駅から駅通り(県道R57)を南下して城跡へ向かう途中、往時は外濠であった水門川を渡る。はじめ牛屋川と呼ばれていたが、江戸時代に「川口村水門」が作られたあとは水門川と呼ばれるようになった:
戦国時代から百年ほどの時をかけて完成した大垣城には水濠が五つあり、西の外濠が水門川、東の外濠が牛屋川《ウシヤガワ》で、共に人工的に直流し鈎の字に曲がっているが、三つある内濠(西濠・中濠・東濠)は斜行し弧を描いて自然河川の姿を留めたものになっている。
先の城絵図にあるとおり、内濠沿いには小橋口門、大手門、南口門、柳口門、竹橋口門、清水口門、辰之口門の七つの門(七口之門)があった。
さらに下ると「史跡・大垣城跡」の石柱が見えてくるので、そこを右折して本丸跡へ向かう。ただし城絵図にあるかっての内濠は、水運業の衰退[i]一説に揖斐川水系の土砂堆積による水深不足が原因とも。と運河拡張工事の中止によって昭和13(1938)年頃から埋め立てられたため現在は存在しておらず、いきなり本丸跡(公園入口)になる。
これは大垣公園に建っていた案内板から切り出した「大垣城本丸城郭図」。先の大戦で焼失した建物はその一部が再建されていた。また先の城絵図で本丸に相当する部分に、主な建物の名称を加筆してみた:
この図にあるとおり、往時の本丸周囲には石垣で積み上げられた腰曲輪が配され、さらにその腰曲輪は幅広な水濠で囲まれており、二ノ丸とは南側の廊下橋で連結していた。
腰曲輪にあたる公園東側の入口には、天守復元と共に移築された柳口門が建っているが、これらの図からも分かるとおり、そもそも本丸のこの場所には門は無かった:
この渡櫓門は白漆喰総塗籠《シロシックイ・ソウヌリゴメ》の下見板張《シタミ・イタバリ》。
この門前の道路あたりが内濠跡。わずかながらの水路にかっての濠の名残があった:
そして移築門のとなりに建っているのが丑寅櫓(艮櫓)。その名のとおり天守から丑寅の方向(北東隅)を守る。昭和の時代に、宗門多聞《シュウモン・タモン》・先手武具多聞《サキテブグ・タモン》とともに外観復元で再建された:
このまま内濠跡である道路を歩いて本丸跡外周を歩いてみた。
かって豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いのあとに美濃国を手に入れた際、「要の処、大垣の城」として、池田恒興・輝政父子、豊臣秀次、豊臣秀長、加藤光泰、一柳直末、そして豊臣秀勝など秀吉に近い者が歴代の城主を務めた。関ヶ原の戦い後、この城を手に入れた徳川家康もまた石川氏(三代)・久松松平氏(二代)ら重臣を配した。徳川三代将軍・家光の時代に摂津国尼崎城から戸田氏鉄が10万石で入城し、これ以降は明治時代の廃藩置県で廃城になるまで、多米戸田家[j]大垣戸田家とも。もともと渥美郡多米を領していた三河戸田の一族。の居城であり、大垣藩庁であった。
これは再建された天守を見上げたところ:
昭和11(1936)年に丑寅櫓とともに國寳に指定されたが、昭和20(1945)年7月の大垣空襲で焼失した。戦後の昭和34(1959)年に天守が、昭和42(1967)年に丑寅櫓がそれぞれ鉄筋コンクリート造りで再建された。そして平成22(2010)年に、焼失前と同じ瓦葺と白漆喰総塗籠の外装に改修された。
こちらは水之手門跡、門脇で本丸跡の北西隅に再建された戌亥櫓(乾櫓)と同南附多聞:
城絵図からすると、この水之手門は本丸の搦手口に相当し、平時は閉じているが、戦時は腰曲輪から内濠へ下りるために使われることを想定していたのであろう。
そして公園東側から反時計回りに半周したところで眺めた天守[k]天守前に目立つ松は「おあむの松」(二代目)と呼ばれ、関ヶ原の戦いで西軍に属していた山田去暦《ヤマダ・コレキ》と娘・おあむが落城間近に、この松あたりから内濠に下りて脱出したと云う伝承が残る。そのため移植は不可のようだ 😐️。:
廃城前までは、内濠に囲まれ不整形な形状をした本丸にあって中央部から西側を一段高くし、多聞櫓でL字型に囲んだ北西隅に総高24m(うち石垣高は6.4mほど)を誇る四層四階の層塔型天守が建っていた。
この城にはじめて天守が建てられたのは天正16(1588)年、城主が一柳直末から伊藤盛景の頃で、当時流行であった望楼型の天守であった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、石田治部少輔三成《イシダ・ジブノショウユウ・ミツナリ》ら主力勢が入城して本陣とし、徳川家康ら東軍の動きを牽制するために奇襲をかけて勝利したものの決定打を与えることは無く(杭瀬川《クイセガワ》の戦い)、決戦場となる関ヶ原へ本陣を移した。西軍が大敗したのちに、東軍は大垣城を攻めて落城させた。
こちらは大垣公園(内濠跡)に建っていた戸田大垣藩の藩祖・戸田左門氏鉄《トダ・サモン・ウジカネ》公の騎馬像:
家康の近習の一人で、寛永14(1637)年の島原の乱の平定といった武功の他に、新田開発や治水工事に大きな功績があり、修養を説いた『八道集』(大垣市図書館所蔵)を著した。関ヶ原の戦い後の寛永12(1635)年に摂津尼崎城より大垣城へ入城し、大垣城は明治初頭に廃城になるまでの11代10万石の戸田大垣藩の居城となった。
このあとは櫓門風の公園西門[l]本来はここに門は無かった 🤬️。をくぐって本丸跡の中へ移動し、外(公園側)からは見づらかった天守を見上げてきた。その外観復元の天守と焼失前の天守の姿を並べたものが、こちら:
平成時代の外観改修では瓦葺替《カワラブキ・カエ》と共に、最上階の窓も写真にあわせて外観が復元された。
慶長6(1601)年以降、城主が代わる度に城郭が改修されてきた中で、天守は元和2(1616)年に下総国関宿城から加増移封されてきた松平忠良《マツダイラ・タダヨシ》がそれまでの三層から四層に改修したが、その後は廃城を経て先の大戦で焼失するまで、この忠良が改修した複合式層塔型四層四階の天守が継承・維持されてきた:

天守及西附櫓多聞の南北断面図
忠良が改修した天守は、一階と二階の床面積が同じで、上層へいくに従ってその面積が小さくなる層塔型。一階から最上階の四階までに通柱《トオシバシラ》[m]複数階の木造建築物において、途中で継ぐことなく、一階から最上階まで一本の柱で通すこと。は無い。天守には一層二階の東附多聞《ヒガシツケ・タモン》と西附多聞《ニシツケ・タモン》が附設され、いずれも天守や隅櫓同様に白漆喰総塗籠。天守の一層目北面と西面には比翼千鳥破風(小さい千鳥破風が二つ)、南面と東面には千鳥破風、二層目四面は三層目の屋根を突き破る大型の千鳥破風が配されている。四層目の窓上下に六葉[n]釘隠しなどに用いる金具型装飾。が打たれた長押形《ナゲシガタ》[o]壁面をぐるりと囲む化粧部材の長押の形状を漆喰を用いて造ったもの。を配して格調高い建造物とした。
四層ともに屋根には瓦が使用され、一部には金箔瓦もあったと云う。元和時代の改修を裏付けるものとして、三層目屋根の南西隅にある鬼瓦下部の隅瓦には「元和六年申五月吉日吉右衛門藤原朝臣」の銘が彫られているのだとか。この鬼瓦は、鬼板が天邪鬼《アマノジャク》を上から踏みつけた形状(天守を厄から護る意)をしており、他の城に無い特異なものである。これも平成の時代に外観復元され際に復元された:
こちらは天守東面に附設された東附多聞。現在の史料館の出入口。ちなみに、往時の天守への入口は西附多聞にあった:
史料館には関ヶ原の戦いで三成が大垣城に入城し本陣を置き、城から北西にある美濃赤坂[p]現在の岐阜県赤坂町勝山あたりの丘陵。に着陣した家康を牽制するために島左近(島清興)が奇襲し勝利した[q]前哨戦を含め関ヶ原の戦いで唯一西軍が勝利した戦い。杭瀬川の戦いの説明板があった。
最上階は展望台になっていたが、周囲には同じような高さの建物も多く、正直あまり眺めは良くなかった記憶がある:
同様に北と北東方面:
天守を出たあとは本丸跡をうろうろする。こちらは本丸の東側にあった埋門《ウズミモン》跡と七間多聞跡:
そして鉄門跡。この門から南側は内濠があり廊下橋で二ノ丸と連結していた
以上で、大垣城攻めは終了。
大垣城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 大垣城跡に建っていた案内板や説明板(大垣市教育委員会)
- 水田恒樹『大垣の近世運河と近代運河に関する研究』(リンクはPDF)
- 日本の城探訪(大垣城)
- 番外編8 大垣城(2009年3月14日登城)(城めぐりん TOP > テーマ > 番外編(北陸・東海の城))
- Wikipedia(大垣城)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | または牛屋川《ウシヤガワ》、現在の水門川。木曽川水系の一級河川。 |
---|---|
↑b | 他に、明応9(1500)年に竹越尚綱《タケコシ・ヒサツナ》が築いたと云う説あり。 |
↑c | 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称。 |
↑d | 号してト全《ボクゼン》。後世には、美濃斎藤氏の重臣だった稲葉良通(一鉄)と安東(安藤)守就と共に、西美濃三人衆と呼ばれた。 |
↑e | 祐盛《スケモリ》とも。 |
↑f | 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。 |
↑g | 東海道之部(1)の『123 濃州大垣城図』。 |
↑h | 江戸時代の東海道(宮宿)と中山道(垂井宿)とを結んだ脇往還《ワキオウカン》のこと。宮宿から数えて大垣宿は八番目。 |
↑i | 一説に揖斐川水系の土砂堆積による水深不足が原因とも。 |
↑j | 大垣戸田家とも。もともと渥美郡多米を領していた三河戸田の一族。 |
↑k | 天守前に目立つ松は「おあむの松」(二代目)と呼ばれ、関ヶ原の戦いで西軍に属していた山田去暦《ヤマダ・コレキ》と娘・おあむが落城間近に、この松あたりから内濠に下りて脱出したと云う伝承が残る。そのため移植は不可のようだ 😐️。 |
↑l | 本来はここに門は無かった 🤬️。 |
↑m | 複数階の木造建築物において、途中で継ぐことなく、一階から最上階まで一本の柱で通すこと。 |
↑n | 釘隠しなどに用いる金具型装飾。 |
↑o | 壁面をぐるりと囲む化粧部材の長押の形状を漆喰を用いて造ったもの。 |
↑p | 現在の岐阜県赤坂町勝山あたりの丘陵。 |
↑q | 前哨戦を含め関ヶ原の戦いで唯一西軍が勝利した戦い。 |
この大して見どころのない城跡が、なぜ続日本百名城なんだろうか? まぁ続日本百名城ってグループ化も意味不明だが。