岐阜県の不破郡垂井町岩手《フワグン・タルイ・イワテ》614-1周辺は、後世には今孔明《イマ・コウメイ》[a]中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。と呼ばれた竹中半兵衛重治《タケナカ・ハンベエ・シゲハル》の嫡男・重門《シゲカド》が天正16(1588)年頃に築いた城で、竹中氏累代の居城として戦時には詰城になる菩提山城《ボダイサン・ジョウ》に対して、平時の居館として使われた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いのあと、所領を安堵されて幕府の上級旗本[b]家格は交代寄合で、領地支配の他に江戸に家老や家臣を常駐させ、参勤交代制の対象となった。扱いとなった重門は、祖父・重元《シゲモト》の代から続く菩提山城を廃し、ここ岩手一帯における行政府としての機能を移して陣屋《ジンヤ》とした。この城は四方に濠と土塁と石垣を巡らし、大手口にあたる東側に櫓門を有していたと云う。竹中氏は明治元(1868)年の戊辰戦争まで存続し、最後の当主である十四代・重固《シゲカタ》は旧幕府軍方について敗れ、陣屋は廃城となった。現在は城域の大部分が消失しているが櫓門とその台座石垣、そして濠など一部の遺構が往時の姿で残っている。
今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。二日目は初日に続いて岐阜県内で、大小あわせて4つの城跡を巡る予定であったので、移動時間を短縮させるためにレンタサイクルを利用した。
この日は宿泊地最寄りのJR岐阜駅から東海道本線特別快速・米原行に乗車して垂井駅で下車。そして駅前ロータリーを挟んで向かい側にある垂井町観光案内所でレンタサイクルを調達した[c]貸出時間が営業時間の9時から14時まで。料金はママチャリタイプで500円(当時)。。さらに、この日攻める菩提山城跡までのハイキングコースについて詳細なイラストが描かれた「ハイキング・サイクリングMAP」(リンクはPDF)を入手。ランドマークがしっかりと描かれていて、この土地に不案内な者には大変ありがたい地図だった。
観光案内所をスタートして、まず一つ目の城跡を攻めたあと、ハイキング・サイクリングMAPを片手に、相川を渡った先にある五明稲荷神社《ゴミョウ・イナリ・ジンジャ》に立ち寄ってから竹中氏陣屋跡へ。
こちらは、陣屋跡先の観光駐車場に建っていた「竹中氏陣屋跡及び櫓門」なる説明板[d]ちなみに、この裏は「菩提山城跡」の説明板と云うリバーシブル(reversible)でリーズナブル(reasonable)な形式だった 😄️。から抜き出した『竹中家本邸古圖』を北を上向きに回転させたもの:
この古絵図に描かれているのは、まだ南側(図中左側)へ拡張されていない江戸時代初めの頃の陣屋と思われる。記録として残る全盛期の陣屋は北辺が三十七間半(約68.2m[e]一間 = 1.81m、一尺 = 0.3m、一坪 = 3.3㎡として換算。以降同じ。)、東辺が四十間五尺(約74.2m)、南辺が四十二間二尺(約77.0m)、そして西辺が三十六間一尺(約66.1m)の規模を持つ方形であった。
明治時代の廃城令(幕府建造物破壊令)で櫓門を含む城域全てが取り壊しの危機に直面したが、高橋弥八郎[f]江戸時代後期の数学者・砲学者。明治維新後は竹中家再興のために尽力した者の一人。垂井町岩手にある明神湖そばの岩崎神社近くに「弥八地蔵」として祀られている。氏らから出た「陣屋の櫓門は菁莪《セイガ》学校[g]現在の町立岩手小学校の前身。の正門である」と云う主張により、櫓門を含む大手口跡は岐阜県の文化財として残されることになった。一方、城域の南側はそのまま学校の敷地として使われ、北側半分は大手口周辺以外は破壊された。
こちらが大手口跡に建つ現存の櫓門で、間口六間(約11.0m)、奥行き三間(約5.5m)の木造白塗壁の櫓が野面積みの石垣上に建つ:
この櫓門と、その櫓を支える台座石垣、そして門の片脇に残る水濠が現在の遺構である。この櫓門をくぐると、往時は1636坪(約5408.3㎡)の城域に水濠と土塁が巡らされ、大手門(櫓門)の他に御殿や書院、蔵、藩校、そして馬場があったと云う。
台座石垣とその脇へ伸びている石垣は積み方が色々だった。こちら側も往時は水濠であったが埋め立てられて、無造作に石垣を積んだせいなのか、一部は崩落していた:
こちらは大手南側に残された水濠と石垣の一部。往時は城域の四方に水濠が巡らされていた:
重門は関ヶ原の戦いの後に領地回復[h]重門が治めた領地も戦場に化したことから領民安定と亡骸の供養などの後始末全般。に対する謝礼として家康より米1千石を賜ったが、その費用の一部を濠建造に使用したことから「千石濠」とも呼ばれた。
大手口の枡形跡から見た櫓門:
そして台座石垣と門扉:
枡形に入った正面には目隠し石垣[i]馬隠しの石垣とも。が置かれ、城外から容易には内部を伺い知ることができないようになっていた。現在はお稲荷さんが建っていた:
岐阜県下で唯一現存する城郭建造物である櫓門:
櫓門の台座石垣から見下ろした一部が現存の水濠と武者走りのある石垣:
現在、陣屋跡の約2/3が学校や役場関連の敷地になっている:
陣屋の北西側にそびえるのが菩提山(岩手山)[j]観世音菩薩を祀り、美濃巡礼第十六版の札所になっている。で、かっては竹中氏の居城であった菩提山城跡:
鎌倉時代からこの地を治めていた豪族の岩手氏が築いた岩手山城を、重門の祖父にあたる遠江守重元《トオトウミノカミ・シゲモト》が城主・岩手弾正信冬を攻めて城を乗っ取り、自らの居城とした。一説に重元の父・重氏は岩手氏の庶流であるとするものがあり、もしかしたら稲葉山城主であった斎藤利政(斎藤道三)とその子・高政との対立に伴う同族争いとみることができるかもしれない。いずれにしろ重元は美濃の国主・斎藤氏の被官であり、近江国から美濃国への入口にあたる要衝として菩提山城を整備し、ここ陣屋ができるまで竹中氏累代の本拠として使われた。このような経緯から菩提山城が岩手山城と呼ばれていたのに対して、陣屋の方は岩手城とも呼ばれていた。
「歴史と自然のまち・たるい観光案内図(岩手地区)」を見ると菩提山城と陣屋の位置関係が分かる:
こちらは菁莪記念館《セイガ・キネンカン》。江戸時代には岩手竹中氏の道場兼学校であった:
陣屋の城主であった重門は文武両道の士で、父・半兵衛重治が与力となった木下秀吉(豊臣秀吉)ついて記録した伝記『豊鑑《トヨカガミ》』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)の筆者である。その教えを継いだ岩手竹中氏は、江戸時代に菁莪堂を建てて家臣らの教育に務め、幾多の人材を輩出した。廃城後には菁莪義校、菁莪学校、岩手小学校へと受け継がれた。
現在は、旗本竹中家関係および往時の学校の史料などが保存されている。
最後に、陣屋跡の前にあった竹中半兵衛重治公の坐像:
陣屋は子の重門が築城したものなのに、なぜか城とは関係のない半兵衛の坐像があった[k]こういうのを見ていつも思うのだが、ある意味で歴史を正しく伝えていないのは如何なものかと 🤐️。。
以上で、竹中氏陣屋攻めは終了。
竹中氏陣屋攻め (フォト集)
【参考情報】
- 竹中氏陣屋周辺に建っていた案内板や説明板(垂井町)
- 日本の城探訪(竹中陣屋)
- 番外編78・竹中氏陣屋(2011年8月10日登城)(城めぐりん > 番外編・目次 > 北陸・東海の城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(岐阜 > 美濃 竹中陣屋(垂井町))
- 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国燗熟篇』(文春文庫刊)
- 『竹中氏陣屋跡について』(リンクはPDF/垂井町トップページ > 組織でさがす > 施設 > 岩手地区まちづくりセンター > 竹中半兵衛公を学ぶ > 竹中氏陣屋跡について)
- Wikipedia(竹中氏陣屋)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | 中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。 |
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↑b | 家格は交代寄合で、領地支配の他に江戸に家老や家臣を常駐させ、参勤交代制の対象となった。 |
↑c | 貸出時間が営業時間の9時から14時まで。料金はママチャリタイプで500円(当時)。 |
↑d | ちなみに、この裏は「菩提山城跡」の説明板と云うリバーシブル(reversible)でリーズナブル(reasonable)な形式だった 😄️。 |
↑e | 一間 = 1.81m、一尺 = 0.3m、一坪 = 3.3㎡として換算。以降同じ。 |
↑f | 江戸時代後期の数学者・砲学者。明治維新後は竹中家再興のために尽力した者の一人。垂井町岩手にある明神湖そばの岩崎神社近くに「弥八地蔵」として祀られている。 |
↑g | 現在の町立岩手小学校の前身。 |
↑h | 重門が治めた領地も戦場に化したことから領民安定と亡骸の供養などの後始末全般。 |
↑i | 馬隠しの石垣とも。 |
↑j | 観世音菩薩を祀り、美濃巡礼第十六版の札所になっている。 |
↑k | こういうのを見ていつも思うのだが、ある意味で歴史を正しく伝えていないのは如何なものかと 🤐️。 |
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