標高68mほどの鷺山を含む鷺山公園は斎藤道三の最後の居城だった

岐阜県岐阜市鷺山150にあった鷺山城は標高68mほどの小さい丘ではあるが、平地にそびえて展望が良く、北に東山道が横切り、南に長良川が控え、古来から要の地として使われた。鎌倉時代に常陸国の佐竹秀義《サタケ・ヒデヨシ》[a]清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。が築城したと伝わり、室町時代に美濃国の守護・土岐氏の居城であった革手城《カワデ・ジョウ》の支城となり、近くに美濃国の守護所[b]読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。も置かれた。その後、土岐一族の内乱が起こるとこの城で攻防戦が繰り返された。天文5(1536)年、十一代守護に任じられた土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》は鷺山から守護所を枝広館[c]現在の長良公園あたり。に移したため、この城は新たに守護代の名跡を継いだ斎藤利政のものとなる。のちに尾張国の織田信長に嫁ぐ濃姫《ノウヒメ》はこの城の館で生まれたと云う[d]ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。。頼芸を追放して美濃一国を手に入れた利政は、嫡男の新九郎高政《シンクロウ・タカマサ》[e]のちの斎藤義龍。に居城である稲葉山城を譲ったあと、「道三」と号して鷺山城を隠居城とした。この時、父子の関係は修復不可能なほど悪化していた。

先月は、令和5(2023)年のGWは六年前に攻めてきた稲葉山城跡(岐阜城跡)を再訪してきたが、その後にこの城の城主で「美濃の蝮」こと斎藤山城守道三が隠居した時に居城としたと伝わる鷺山城跡も攻めてきた。さらに道三公に関連すると云うことで、彼にゆかりある場所として、こちらも六年前に訪問した美濃斎藤家菩提所の常在寺《ジョウザイジ》と、子の高政に敗れたのち埋葬されたと伝わる道三塚も併せて紹介する。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して道三公にゆかりある鷺山城跡や菩提寺などを★で書き入れたもの(本稿ではについて紹介する):

岐阜城跡の西北に位置する鷺山城跡の他、道三塚や常在寺を徒歩やバスを使って巡ってきた

鷺山城跡と岐阜城跡

この日は岐阜城攻めを終えたあと、「岐阜公園歴史博物館前」のバス停から岐阜バス市内ループ線(左回り)JR岐阜駅行きに乗車して「緑ヶ丘」なるバス停で下車し、そこから徒歩で鷺山城跡である鷺山公園へ向かった[f]乗車時間は15分ほど。大人一律220円(当時)。バス停から鷺山公園までは徒歩10分ほど。

こちらが鷺山城攻めでトレースしたGPSアクティビティ。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は1.89km、所要時間は1時間15分ほど。城内に残る主な遺構[g]位置は推定を含む。また郭名は仮称。も付記してみた:

北野神社がある居館跡、そして登城口から山頂周辺を巡ってきた

My GPS Activity

城跡の麓にある北野神社[h]京都の北野天満宮に由来する菅原道真公を祀っているとのこと。の参道口から城攻めをスタート。鳥居の背後に聳えて見えているのが鷺山:

鷺山山麓の東側にある北野神社で、境内は城主居館跡

北野神社

境内は、道三をはじめとする城主の居館「鷺山館」跡とのことだが、既に大部分が改変されていて、土塁の他にこれと云った遺構は無かった。なお、この館は美濃国の九代守護であった土岐政房《トキ・マサフサ》が最初に構えたとされる:

最後の城主は斎藤山城守道三

「史跡・鷺山城主館址」の碑

この境内内部がかっての鷺山館跡だったらしい

城主館跡

これは山頂の本郭跡に建っていた推定図『鷺山城東山麓館推定図』に、先程のGPSアクティビティを重畳させたもの[i]どこぞの城攻めでも書いたが、この類の図がスタート地点(麓)ではなくゴール地点(山頂)にあるってどうなんだろう 😕️。

鷺山の東側山麓にあった方形居館だった

『鷺山城東山麓館推定図』(加筆あり)

この図にあるように、鷺山の東側山麓にあった鷺山館は東西約150m、南北約200mの規模を持つ方形の居館であったと推定される。平成の時代の試掘調査では堀の一部が発見され、その幅は20mにも達するものだったと云う。現在は堀跡の上に道路が敷かれ、土塁の痕跡が一部残っているだけであった。

こちらが境内北側の旧NTT鷺山住宅地内に残る土塁で、道路になっている場所が堀跡:

る旧NTT鷺山住宅地の中に残る(敷地内は立入禁止)

鷺山館の土塁跡

芝生が土塁跡、道路が堀跡

土塁跡と堀跡

居館跡の境内には他に、鷺山城の礎石《ソイシ》なるものが展示されていた:

昭和の時代の造成工事で出土したものらしいが・・・

鷺山城の礎石

・・・確定的な論証はできていないらしい

鷺山城の礎石

この石は昭和の時代に、鷺山南側の造成工事中に出土したものらしい。但し、この石の論証は行われてはおらず、実際のところ礎石かどうかは不明である。

このすぐ近くには、鷺山城の最後の城主で「美濃の蝮」の異名を持つ斎藤山城守道三公の慰霊碑が建っていた:

おそらく某大河ドラマと同時期の産物だろう

「戦国の武将・斎藤道三公慰霊之碑」

こちらは居館跡から詰めの城であった鷺山城跡東側を見上げてみたところ。道三は高政との対決を前に、この城から大桑城へ移ったと云う。確かに、守りやすい城には見えない:

居館跡から見上げたところ

鷺山城跡

登城口は鷺山の北側と東側にあり、この時は鷺山公園がある東側から攻めた:

三段の平場を経た、この先に登城口がある

鷺山公園入口

この公園は城址南側の麓にあり、稲葉山城(岐阜城)跡を眺めることができた:

城址南側に三段の平場があった

鷺山公園

鷺山公園からの眺め

稲葉山城跡

こちらが公園内にある登城口:

本郭跡の山頂辺りまで遊歩道が整備されていた

登城口

ここからは意外と斜度はキツかったが、山頂まで遊歩道が整備されていて、この山の中央を南北に走る尾根の南端部までは6分ほど[j]遊歩道は、当日午前中の雨で泥濘が多かった 😥️。

四阿と近くに建つ説明板が目印

南郭(仮称)跡

この南端部は南郭(仮称)跡。この季節は周囲が藪化して眺めはそれほど良くないが、往時は長良川近くまで遠望できたのであろう。

そばに建つ「鷺山城址(鷺山自治連合会)」の説明板の前を登った先が本郭(仮称)跡で、その手前の階段あたりが虎口跡:

階段の先が本郭跡

虎口跡

城址の碑と説明板が建つ

本郭(仮称)跡

この本郭跡が標高67.7mの山頂であり、南北に走る尾根の真ん中あたり。こちらも南郭跡と同様に、周囲の眺めは良くなかった:

楕円形をした削平地で、現在は眺望は良くない

本郭(仮称)跡

戦国時代中期の永正16(1519)年に美濃国守護の土岐一族で内乱が起こると、守護所がある鷺山城を巡る攻防戦が繰り返され、結局、新左衛門尉《シンザエモンノジョウ》[k]松波庄五郎とも。斎藤利政(道三)の父とされる。をはじめとする長井氏に後押しされた土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が鷺山城を奪取し、天文5(1536)年に第十一代守護に任じられて左京大夫を賜った。

その後、頼芸の後ろ盾であった長井氏が死去したあと、新左衛門尉の子である規秀《ノリヒデ》が守護代である斎藤氏の名跡を、持ち前の巧みな話術と機転の良さを武器にして強引に手に入れ、斎藤利政《サイトウ・トシマサ》を名乗った。守護代の城として稲葉山城を居城としていた利政は、しばしば頼芸の居館がある鷺山城を訪ねたと云う。

尾張国の織田弾正忠《オダ・ダンジョウノジョウ》家に自らの娘を嫁がせて同盟を成立させた利政が美濃国を手に入れる野望を推し進めるに従い、次第に頼芸との関係が悪化する。そして天文11(1542)年に頼芸の居城・大桑城を攻め、降伏した頼芸を尾張国に追放した。

それから12年後、利政は子の高政を支持する家臣らによって半ば強制的に家督を譲り、剃髪入道させられて、ここ鷺山城に隠居させられた。さらに義龍(高政)は、道三と号した父に対して挙兵した。道三は鷲山城を捨てて、大桑城へ入城し兵を整え、寡兵ながらも長良川河畔で義龍率いる大軍を渡り合うが討死した。

こののち義龍は鷺山城を廃城にした。


本郭跡から北へ伸びる尾根は堀切で断ち切られ、その先が太子堂跡:

本郭跡(手前)と太子堂跡(奥)との間にある堀切跡

堀切跡

現在、ちょうど堀切の堀底道が遊歩道になっている:

本郭(左手上)と北郭(右奥)との間の堀切跡

堀切跡

尾根筋に設けられた本郭と北郭との間を断ち切るように設けられた堀切。その西側と東側はそれぞれ竪堀に変化していた。こちらは堀切から西側へ落ち込む竪堀との変化点:

本郭(左手上)と北郭(右手上)との間の堀切

堀切から

竪堀跡から北郭(左手奥)と本郭(右手上)との間の堀切

竪堀へ

そして堀切東側とそこから竪堀への変化する地点:

左から右へ走る堀切、そして奥が北郭跡

堀切から

堀切は鷺山東側へに落ち込むように竪堀と変化していた

竪堀へ

堀切跡を越えて、太子堂跡[l]城攻め当時、ここは完全な廃墟だった。があるところが北郭(仮称)跡:

既に廃墟になった太子堂なる建物があるだけ

北郭(仮称)跡

この太子堂の裏手は、鷺山中央を走る尾根がY字に分岐する地点だったので、それぞれの尾根筋を下りてみた。まずは北西側に伸びる尾根筋:

鷺山北西麓にある白山神社方面へ下る遊歩道であった

分岐後の北西側尾根筋

尾根先端には小さな削平地がある。櫓跡の類だろうか:

この下は白山神社・心洞寺あたり

北西側尾根の終端部

再び北郭跡まで戻り、次は北東側に伸びる尾根筋へ:

鷺山北東麓にある公民館や小学校方面へ下る遊歩道であった

分岐後の北東側尾根筋

こちらはY字の尾根によって挟まれた谷部分。このまま麓まで落ち込んでおり、一種の防衛施設として使われていたであろうと想像する:

谷上方を見上げたところ

尾根筋と谷

二つの尾根によって差さまれた急峻な谷

尾根に挟まれた谷

この谷を挟んで向かいにある(先程歩いた)尾根筋を眺めてみたのが、こちら:

谷を挟んで向かいにある尾根筋を眺めたところ

向かい側の尾根筋

尾根筋を登ってくる寄手に対して反対側の尾根筋から射掛けることができたのであろうか。

こちら側の尾根筋南端も部分的に削平されていたが櫓跡だろうか。この下はもう一つの登城口(公民館・小学校方面):

この下はもう一つの登城口(市立鷺山小学校)側

終端部

北西側に延びる尾根の終端から北郭跡を見上げたところ

尾根筋を見上げる

以上で、鷺山城攻めは終了。

最後は鷺山公園で見かけた注意書き:

IMGP5132.resized

「ハチに注意(通報あり)」

See Also鷺山城攻め (フォト集)

【参考情報】

 斎藤山城守道三公墓所と常在寺、そして道三塚

後世に「乱世の奸雄」とか「美濃の蝮」の異名[m]この異名を記録した史料は無いので、後世の創作とするのが通説。で知られ、右大将・織田信長の義父であり、美濃国守護代であった斎藤山城守利政《サイトウ・ヤマシロノカミ・トシマサ》は、討死する二年前の天文23(1554)年に、現在の菩提寺である日蓮宗の鷺林山・常在寺《ジュリンザン・ジョウザイジ》で剃髪入道して道三と号した:

実物は菩提寺である常在寺の所蔵

肖像画(複製)

父は松波庄五郎《マツナミ・ショウゴロウ》。はじめ京都にある妙覺寺《ミョウカクジ》[n]現在の妙覺寺は、本䏻寺の変で焼失した後に秀吉が現在の場所に移転したもので、庄五郎が居た時代の妙覺寺ではない。の僧侶であったが、学友が美濃国にある妙覺寺派末寺の常在寺へ赴任した際、還俗して庄五郎を名乗り美濃国に入る。油売りの行商として成功すると、一転して武士を志し、常在寺の学友の伝《ツテ》で美濃守護代の家老である長井家に仕え、長井新左衛門尉に改めた。その後、守護土岐家の信頼を得ると、土岐家の家督争いでは巧みな話術と機転の良さを武器に、土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》の守護補任に大きく貢献した。

父の死後に跡を継いだ利政は、はじめ長井新九郎規秀《ナガイ・シンクロウ・ノリヒデ》と名乗り、父と同様に巧みな話術と機転の良さを武器に謀略を駆使して長井家を滅ぼすと、今度は守護代の斎藤氏を籠絡してその名跡を継いで斎藤新九郎利政に改めた。この時、守護である頼芸にとっても利政はなくてならない寵臣となった。

利政は用意周到な男である。頼芸を持ち上げその寵臣であっても近隣の大名らと対等に付き合うことはできないことを知っていた。そこで可児郡《カニ・グン》の明智城[o]明智長山城とも。主・明智駿河守光継《アケチ・スルガノカミ・ミツツグ》[p]光継の孫がのちの明智日向守光秀であると美濃国諸旧記《ミノノクニ・ショキュウキ》に記されている。その真偽は不明。の三女を正室にもらうことにした。明智氏は土岐氏の一族で、東美濃随一の名家である。これで東美濃の諸家は皆手中に収めることができると見たのである。勿論、この縁組に頼芸を利用して媒酌人をも務めさせた。

稲葉山城に入輿した明智の姫君は小見の方《オミノカタ》と呼ばれた。新九郎は齢41、小見の方は齢21である。二年後に小見の方は鷺山館で女子を産んだ。この女子(三女)がのちに信長に嫁ぐ帰蝶[q]美濃から嫁いできた「濃姫」、または鷺山館から嫁いだことから「鷺山殿」とも。である。

官位をもらい、左京太夫山城守《サキョウタユウ・ヤマシロノカミ》に任ぜられ、美濃一国を一手に支配できる身分にトントン拍子で登りつめた利政にとって、今度は頼芸の存在が鬱陶しくなってきた。頼芸には京から呼び寄せた美女をあてがい、その裏で権勢を一手に握りしめて美濃国を治めていたが、それにまかせて次第に傲慢になった。頼芸もばかではない。天文11(1542)年、ついに利政との間で抗争が勃発した。利政は軍勢を率いて頼芸が籠もる大桑城を強襲、無二無三に攻め立てると援軍が到着する前についに城は陥り、捕縛された頼芸は尾張国の織田信秀の下へ追放された。

かくて、美濃一国には利政の上に立つ者はなくなり、名実共に美濃の太守となったものの、ここまでたどり着くまでの手段が悪辣陰険を極めていることから、美濃勢の多くは心服せず離反の色を隠さない。そこで一計を案じ、側室の深芳野《ミヨシノ》[r]一説に、美濃国一の美女であったとされ、はじめ土岐頼芸の愛妾で、のちに斎藤利政の側室になった。が最初に産んだ新九郎高政《シンクロウ・タカマサ》(のちの義龍)を嫡子として家督を譲ることを宣言した。この高政が実は頼芸の胤《タネ》であることは、往時は皆の知るところであった。「高政は土岐の血統を受け継いでいなさる御方である」として、皆の心を引き留めようとしたのである。この計略が功を奏し、皆々、反抗の色を捨てて、家督が移譲されるまでの間は利政に帰服した。

国内の反抗は静まり、一応は利政の統制が行き届くようになったが、騒ぎは国の外から始まった。天文14(1545)年、利政に追放された頼芸が尾張(織田)と越前(朝倉)の助勢を得て南北から美濃に侵攻してきた。これに対し利政は少勢ながらも尾越連合軍をさんざんに討ち破って退却させたと云う。利政は、頼芸の守護退任を条件として織田・朝倉両氏と和睦、室町将軍・足利義輝のとりなしで美濃国に帰住を許されていた頼芸は再び美濃国から追放された[s]追放後、最後は甲斐武田氏に庇護され、信長による甲州征伐で捕縛されると、稲葉一鉄の図らいで美濃国へ戻り、そこで没したと云う。享年81。

一方、美濃加納口での戦い[t]井ノ口の戦いとも。利政ら美濃勢が兵を引いた信秀の軍を背後から強襲して大敗させたと云う。で大敗した信秀は利政の実力のほどを知るにあたり、元服前の我が子・吉法師《キッポウシ》(のちの信長)のため家老の平手政秀《ヒラテ・マサヒデ》に命じて、利政の三女・帰蝶を嫁にもらう約束を取り付けた[u]駿河国の今川と美濃国の斎藤両氏と争うのは得策ではないと信秀が判断したと云うのが通説。。帰蝶姫が尾州に嫁してから三年後の天文20(1551)年に信秀は病死した。享年42。

その後、尾州から聞こえてくるのは聟殿《ムコドノ》の良くない評判ばかりであった。「乱暴者、うつけ者、たわけ者」として織田家中でも有名とのこと。人の一倍二倍も洞察力がある利政は鼻から気にしていなかったが、一度会っておきたいと云う気持ちが募ってきた。天文22(1553)年、あの有名な富田正徳寺における両雄の会見となった。会見が済んで、信長が引き上げるのを利政は二十町ばかり馬を並べて見送ったが、その帰途、傍に居た猪子兵助《イノコ・ヒョウスケ》に「どう見たぞ、儂が聟殿を?」と聞くと「されば、お気の毒ながら大たわけでござりますな。」と評した。これに対し、利政は憂わしげな顔つきで、しみじみと「さればのう、無念なことじゃ。あのたわけ殿の門前に、儂が子供らは馬をつなぐ(臣従する)ことになるであろうよ。」とつぶやいたと云う。

利政は信長と会見した翌年に、かねてからの公約どおり、高政から改めた義龍《ヨシタツ》に家督を譲り、自らは隠居して道三と号したが、同時に義龍を嫌い始めた。代わりに次男の孫四郎(のちの龍重)に官位を与え嫡子にしようと動き出した。一説に、実子ならざる義龍に家督を譲ると宣言したのは、事情やむなき処置であったからで、既に領内が我が威光に服しきった以上、これを廃して実子を立てる気になったのは当然であると云う。はじめ義龍は自分が道三の実子でないことを知らなかったため、急速に自分に対する愛情が無くなった道三の仕打ちを訝しがったが、家臣の日根野備前弘就《ヒネノ・ビゼンノカミ・ヒロナリ》から「実父でないばかりか、父君の国を奪い取って追い出した仇であります。」と聞くに及び、驚き、憤り、そして道三に対する憎悪を燃え立たせた。

ともかくも義龍は道三を討つ覚悟を決め、計略をめぐらし、ひそかに味方となる美濃勢に手を回しはじめた。弘治元(1555)年、義龍は病気と称して稲葉山の居館に引きこもっていたが、道三が鷹狩で不在の時、弟二人を呼び出して弘就に討ち取らせた。義龍はこの事件を道三に知らせてやった。仰天した道三は直ちに馳帰り、兵を集めて稲葉山城下を焼き払った。義龍に対する道三の宣戦布告である。

隠居していた鷺山城を出て大桑城に入城した道三は、稲葉山城の義龍と睨み合いつつ兵を徴したが、義龍は以前から手配をしている上に人質が稲葉山城にいるため、道三に味方する兵はまことに少ない。合戦があるたびに道三の勢力は減っていく。翌2(1556)年、道三は城を出て有無の一戦を決心していたので、聟殿の許に使いをつかわして「お味方たまわらば、美濃国を譲り申すであろう。」と云い送った。一方、義龍も稲葉山城を出て、長良川の河原を西北に向かって押してきた。両軍は長良川河畔で激突(長良川の戦い)、緒戦は道三側が勝利したが、しょせんは多勢に無勢である。川を押し渡り突進してきた義龍軍と死力を尽くして戦ったが討ち負けた。

日が暮れかかったのに乗じて撤退しようとした道三を義龍は逃さじと追撃してきた。義龍麾下の長井忠左衛門道勝なる勇士が道三を生け捕ろうと組み付いていた時に、小牧源太道家なる者が駆けつけてきて道三の両膝を薙刀で斬り落として、そのまま首級を討った。享年63。

義龍は首実検中に道三に向かって「身から出た錆でござる。拙者を御恨みあるな。」とつぶやいた。


こちらが道三公をはじめとする美濃斎藤家の菩提所である日蓮宗・鷺林山・常在寺。ここは京都の妙覺寺の旧末寺[v]現在の妙覺寺は本䏻寺の変で焼失、のちに豊臣秀吉が現在の場所に移転した。であった。稲葉山城跡(岐阜城跡)の麓にある:

日蓮宗京都妙覚寺の旧末寺

日蓮宗・鷲林山・常在寺

常在寺は室町時代の宝徳2(1450)年に土岐氏家守護代として権力を持ち、事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿《サイトウ・ミョウチン》が建立した。

父子二代による美濃国盗りの物語は、まさにこの寺から始まった。土岐氏を追放したあと、道三は常在寺を改築し、寺領として領下、日野、芥見などを与えて保護した。

ここの寺宝に「絹本著色斎藤道三像」と「絹本著色斎藤義龍像」があり、共に国の重要文化財に指定されている。この両像は、絹地に着色して上畳《アゲダタミ》に端座した姿を描いたもの。道三像は傷みが著しく鮮明さを欠いているが、眼光の鋭さに精悍な正確が感じられ武将の気迫がよく現れているとのこと。道三像は、信長の正妻・帰蝶姫の寄進とされている。一方、義龍像は傷みは少なく、穏やかな表情の中にも個性が見え、描線には内面的な力強さが感じられると云う。義龍像は、彼の嫡子・龍興の寄進とされる。

本堂に向かて右手には斎藤道三公の供養塔があった:

斎藤道三公の供養碑

本堂には道三・義龍・龍興公らの位牌もあるらしい。

この寺院は他にも貴重な史料を所蔵しているようで、例えばこちらは道三公が御守りとして戦の際に懐に忍ばせていたとされる懐中本尊《カイチュウホンゾン》(日蓮聖人の奥邸日朗上人筆)(複製):

戦の際に懐に忍ばせておいた御守り

『斎藤道三公・懐中本尊』(複製)

こちらは市指定史跡の道三塚《ドウサンヅカ》:

道三が討たれた場所にあった塚を移設して碑を建てた

道三塚(岐阜市指定史跡)

道三の首級が討たれたあと胴体は崇福寺西南の場所[w]現在の岐阜メモリアルセンター敷地内。に埋葬され塚が建てられたが、長良川の氾濫でたびたび流された。江戸時代後期の天保8(1837)年に、常在寺の和尚・日椿上人《ニンチン・ジョウニン》が、この場所(岐阜市長良福光)に移設して碑を建てたと云う:

討たれたあと道三公の亡骸を葬った塚(移設)と碑

道三塚に建つ碑

特別な場所として、この塚には畏敬の念が払われ、周囲が宅地開発される中、現在も守られているとのこと。

こちらは岐阜公園のロープウェイ乗り場に展示されていた『斎藤道三遺言状』(複製):

弘治2(1556)年4月19日付で信長に送った遺言状

『斎藤道三遺言状』(複製)

義龍と有無の一戦を決心したあと出陣する前に聟である信長宛に送ったとされるもので「美濃国を譲り渡す」と記されている(神奈川県相模原市・岡本家所蔵)。

同じく展示されていたものに『斎藤道三判物』と『斎藤義龍判物』(共に複製)があった。道三らが自らの花押を添えて発給した文書(判物《ハンモツ》)の一つらしい:

道三が花押を添えて発給した文書の一つ

『斎藤道三判物』(複製)

義龍が花押を添えて発給した文書の一つ

『斎藤義龍判物』(複製)

この判物に記されている天文23(1554)年3月5日(旧暦)の時点で、道三から義龍に家督が譲られていたことが分かる。

最後は、名鉄岐阜駅前のアーケードに掲げられていた美濃斎藤家の二頭立波《ニトウ・タツナミ》紋が描かれた幟:

二頭立波紋

See Also道三塚と斎藤家菩提寺 (フォト集)

【参考情報】

  • 常在寺と道三塚に建っていた案内板や説明板(岐阜市教育委員会)
  • 鷺山公園(山上部と北野神社境内)に建っていた案内板や説明板(鷺山自治会連合会/岐阜市)
  • 日蓮宗「Vol.20 岐阜・美濃の武将を癒やした法華経」(日蓮宗ホーム > 寺院めぐり > のんびり行こう・ぶらりお寺たび > Vol.20)
  • 海音寺潮五郎『武将列伝 〜 戦国揺藍篇』(文春文庫刊)
  • 太田牛一著・中川太古訳 『現代語訳・信長公記』(新人物文庫刊)
  • Wikipedia(斎藤道三)

参照

参照
a 清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。
b 読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。
c 現在の長良公園あたり。
d ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。
e のちの斎藤義龍。
f 乗車時間は15分ほど。大人一律220円(当時)。バス停から鷺山公園までは徒歩10分ほど。
g 位置は推定を含む。また郭名は仮称。
h 京都の北野天満宮に由来する菅原道真公を祀っているとのこと。
i どこぞの城攻めでも書いたが、この類の図がスタート地点(麓)ではなくゴール地点(山頂)にあるってどうなんだろう 😕️。
j 遊歩道は、当日午前中の雨で泥濘が多かった 😥️。
k 松波庄五郎とも。斎藤利政(道三)の父とされる。
l 城攻め当時、ここは完全な廃墟だった。
m この異名を記録した史料は無いので、後世の創作とするのが通説。
n 現在の妙覺寺は、本䏻寺の変で焼失した後に秀吉が現在の場所に移転したもので、庄五郎が居た時代の妙覺寺ではない。
o 明智長山城とも。
p 光継の孫がのちの明智日向守光秀であると美濃国諸旧記《ミノノクニ・ショキュウキ》に記されている。その真偽は不明。
q 美濃から嫁いできた「濃姫」、または鷺山館から嫁いだことから「鷺山殿」とも。
r 一説に、美濃国一の美女であったとされ、はじめ土岐頼芸の愛妾で、のちに斎藤利政の側室になった。
s 追放後、最後は甲斐武田氏に庇護され、信長による甲州征伐で捕縛されると、稲葉一鉄の図らいで美濃国へ戻り、そこで没したと云う。享年81。
t 井ノ口の戦いとも。利政ら美濃勢が兵を引いた信秀の軍を背後から強襲して大敗させたと云う。
u 駿河国の今川と美濃国の斎藤両氏と争うのは得策ではないと信秀が判断したと云うのが通説。
v 現在の妙覺寺は本䏻寺の変で焼失、のちに豊臣秀吉が現在の場所に移転した。
w 現在の岐阜メモリアルセンター敷地内。