垂井城跡と推定される専精寺境内には城址の碑が建つのみ

鎌倉幕府初期の御家人の一人であった長江義景《ナガエ・ヨシカゲ》[a]正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。の次男・明義の孫にあたる行景《ユキカゲ》が承久の乱の恩賞地であった美濃国不破郡垂井《ミノノクニ・フワグン・タルイ》に移り住んで長屋《ナガヤ》氏の祖となる。長屋氏は垂井の地に居館(長屋氏屋敷)を建てたが、南北朝時代[b]鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。には南朝方の攻撃を受けて足利義詮《アシカガ・ヨシアキラ》[c]室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。と共に、美濃国の守護・土岐氏をたよって京を脱出した北朝の後光厳天皇《ゴコウゴン・テンノウ》の仮御所として使われた[d]さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。。戦国時代にこの屋敷を含む高台が城塞化されて垂井城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。になったと云う説があるが、築城年・築城者ともに不明である。慶長5(1600)年、この城に1万2千石で平塚因幡守為広《ヒラツカ・イナバノカミ・タメヒロ》が入城した[f]この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。。為広は長江氏と同じ三浦氏の流れを持ち、かって羽柴秀吉の馬廻りとして仕え、幾多の合戦で武功をあげた勇将である。この直後の関ヶ原の合戦では西軍に属して討死した。その後、垂井城も廃城となったと云う。

今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。二日目は、初日に続いて岐阜県内の城跡などを幾つか攻めてきた。

この日は宿泊地最寄りのJR岐阜駅から東海道本線特別快速・米原行に乗車して垂井駅で下車。そして駅前ロータリー[g]このロータリーには現代でも人気のある御仁の坐像がある。を挟んで向かい側にある垂井町観光案内所レンタサイクルを調達した[h]貸出時間が営業時間の9時から14時までだったので、交渉して営業時間が過ぎたあとに返却する許可を頂いた。詳細は「利用承認書兼領収書」に。感謝 😎️。。当時は電動系は全て出払っていて、レンタルできたのは普通のママチャリ。料金は500円(当時):

関ヶ原決戦時、不破郡垂井には浅野幸長が陣を置いたと云う

レンタサイクル⑧「浅野幸長公」号

さらに、この日攻める城跡の一つ、菩提山城跡までのハイキングコースについて詳細なイラストが描かれた「ハイキング・サイクリングMAP」(リンクはPDF)を入手。ランドマークがしっかりと描かれていて、この土地に不案内な者には大変ありがたい地図だった。

この日一つ目の城跡は、観光協会からレンタサイクルで5分もかからない場所にある垂井城跡。と云っても城があったとされる推定地であり、城址の碑と説明板が建っているだけだった。この城自体の歴史が謎であり、分かっているのは最後の城主であった為広公のことぐらいか:

関ヶ原の戦いでは西軍についた豊臣恩顧の武将の一人

「平塚為広・居城跡」の幟

こちらは城跡と呼ばれる微高地に建つ浄土真宗の普門山・専精寺《フモンザン・センショウジ》:

天安2(858)年の建立で、最初は勅願寺と呼ばれていた

専精寺の山門

御由緒によると、天安2(858)年に天台宗・普門山善相院が創建され、元享3(1328)年に天台宗から浄土真宗に改宗、それから寺号を普門山・専精寺としたらしい。

また寺伝によれば、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは本堂が戦禍で焼失したとのこと。これにより、寺域が垂井城の一部だったとされているようだ。そして江戸中期の享保12(1727)年に本堂が再建されたと云う。

垂井城は標高419mの南宮山北麓にあり、中山道を京(あるいは関ヶ原)へ向かって西進する軍勢を押さえる場所にあった。なお関ヶ原の決戦当時、ここ垂井城には東軍の浅野幸長が陣を置いたと云う[i]東西両軍の兵力を子記した『黒田家譜』より。。おそらく専精寺が戦禍に巻き込まれたのは、この浅野勢が(主人である平塚為広が居ない)垂井城に押し入ったことによるものであろう。戦後、徳川家康の命に従って廃城にしたのは、ここ不破郡垂井の領主で東軍についた竹中重門であろう。

寺の脇には岐阜県名水50選の一つである垂井の泉(県指定史跡)と垂井の大ケヤキ(県指定天然記念物)がある:

奥に見えるのは玉泉寺

垂井の泉(県指定史跡)

関ヶ原の合戦時は浅野幸長がこの辺りに陣を置いたと云う

垂井の大ケヤキ(県指定天然記念物)

この泉は詩歌にも詠まれ[j]一番古いのは平安時代、新しいのは江戸時代の松尾芭蕉らしい。藤原高経、古来から天下の名水として、そして茶の湯に適した水として知られたらしい。名水かどうかは別にして、湧き水として城内で使われていただろうか。

最後は、今年は令和5(2023)年のGWに関ヶ原古戦場を巡ってきたが、その際に垂井城を出て東軍を迎え撃った平塚為広の陣場跡にも立ち寄ってきた:

大谷軍の前衛として東軍の藤堂高虎・京極高知らを相手にした

平塚為広碑

為広は、長年の盟友である大谷刑部吉継《オオタニ・ギョウブ・ヨシツグ》の配下として北陸方面を転戦したあとに、戸田武蔵守勝成《トダ・ムサシノカミ・カツシゲ》[k]はじめ丹羽長秀に仕えたが、のちに豊臣秀吉に仕え多くの合戦に従軍した。ともに6百ほどの兵でここ藤川台に布陣した。病を得ていた吉継に代わって大谷勢の前衛を指揮していたといい、東軍の藤堂高虎と京極高知《キョウゴク・タカトモ》らを相手に善戦した。決戦が始まって正午頃、松尾山城で趨勢を日和見していた小早川秀秋《コバヤカワ・ヒデアキ》が東軍に寝返った際、吉継本隊と共にこれを追い返すが、脇坂安治《ワキサカ・ヤスハル》、朽木元綱《クツキ・モトツナ》らも寝返って側面攻撃を受けて支えきれず、吉継に辞世の句を送って討ち死にした。享年不明。この碑は、昭和の時代に為広の子孫が建立したもらしい:

名のために 捨つる命は惜しからじ ついにとまらぬ 浮世と思へば
(現代語訳)名誉のために殉ずるのなら命は惜しくない。限られた人生なのだから

以上で、垂井城攻めは終了。

See Also美濃垂井城攻め (フォト集)
See Also関ヶ原古戦場巡り (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。
b 鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。
c 室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。
d さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。
e 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。
f この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。
g このロータリーには現代でも人気のある御仁の坐像がある。
h 貸出時間が営業時間の9時から14時までだったので、交渉して営業時間が過ぎたあとに返却する許可を頂いた。詳細は「利用承認書兼領収書」に。感謝 😎️。
i 東西両軍の兵力を子記した『黒田家譜』より。
j 一番古いのは平安時代、新しいのは江戸時代の松尾芭蕉らしい。藤原高経
k はじめ丹羽長秀に仕えたが、のちに豊臣秀吉に仕え多くの合戦に従軍した。