美濃一国から天下布武の山城となった岐阜城跡に建つ復興天守

鎌倉時代に、政所執政の二階堂行政《ニカイドウ・ユキマサ》[a]源頼朝死後の鎌倉幕府で「十三人の合議制」に加わった文官の一人。鎌倉の二階堂に居館があった。某大河ドラマでは野中イサオ氏が演じていた。が京への押さえとして美濃国の井之口山《イノクチヤマ》[b]稲葉山、現在は満開のツブラジイで山全体が金色に輝いて見えることから金華山とも。に築いた砦は、戦国時代初めに美濃守護代を務めた斎藤利永《サイトウ・トシナガ》が城塞化した。天文7(1538)年には、巧みな話術と機転の良さを武器に伸し上がって守護代の名跡を我が物とした斎藤利政(号して斎藤道三)が稲葉山城の主となり、美濃守護の土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》を追放して美濃一国を支配する拠点とした。道三死後の永禄10(1567)年には、尾張国を統一した織田信長が攻め落として岐阜城と改め、この城を足がかりにして天下布武を推し進めた。その後、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに先立つ攻防戦では、僅か一日で落城し、翌年には廃城になった。標高330mほどの急峻な山頂に築かれた要害ではあったが七度も落城し、さらには道三以降ほとんど全ての城主が不幸な末路を遂げている[c]徳川家康が岐阜城を早々に廃城にしたのは、この不吉さがあったからかもしれない 😅️。。現在、山上部には復興天守が建ち、山麓部には信長が築いたとされる城主居館跡が残る。

今となっては六年前は、平成29(2017)年のお盆休みを利用して岐阜県と愛知県にある城跡をいくつか攻めてきた。まずは人生初の岐阜県にあって有名な岐阜城跡。ただ当時の城攻めで見落とした遺構がいくつかあったことを本稿執筆前に気づいて、今年は令和5(2023)年のGWに再訪してきた。よって本稿では二度の岐阜城攻めをまとめて紹介する[d]特に表記としては区別しないが、一度目は晴天、二度目は雨のち曇りという違いがある😄️。

岐阜城跡がある岐阜公園へは岐阜駅北口のバスターミナルから岐阜バスで移動した。周辺には名鉄岐阜駅のバスターミナルもあり、意外とバスによる交通網は整備されているものだなと当時は感心したような記憶がある[e]しかし Suica による支払いは不可で現金のみ。これは六年経った現在も同じだった😥️。。のりば⑫から岐阜公園・長良橋行きに乗車して岐阜公園歴史博物館前で下車[f]乗車時間は15分ほど。大人片道210円(当時)。。このバス停前から岐阜城跡を見上げることができた:

バス停前から見上げた岐阜城主郭部あたりに建つ復興天守

岐阜城の本丸跡

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して岐阜城跡がある金華山周辺で、今回巡ってきた地点(バス停含む)にを書き入れたもの:

金華山頂の城跡と山麓の居館跡や信長像などを巡ってきた

岐阜公園周辺図

金華山の山頂にある岐阜城の主郭部、そして当時は発掘調査が行われていた山麓の城主居館跡、公園のシンボルである信長公騎馬像などを巡ってきた。

この山は、全山がチャートと呼ばれる岩石[g]角岩《カクガン》とも呼ばれる堆積岩の一種。でてきており、自然地形の切り立った崖がいたるところに見られ、その岩山を活かした岐阜城は天然の要害であり、大きく分けて山頂附近の主郭部と山林部の副郭部、そして城主の居館や政庁があった山麓部から成る。また城下町を含んだ惣構えも形勢されていた。ちなみに平成23(2011)年には山麓部を含む約209haのエリアが「岐阜城跡」として国史跡に指定されている。

主郭部へ向かうには登山またはロープウェイという手段があるが、今回は後者を選択[h]大人・往復1,080円(当時)。。ゴンドラからは城主居館跡の他に、金華山西側に広がる惣構えの一部だった城下町と、天然の外堀であった長良川を眺めることができた:

居館跡(手前)、城下町の井口、そして長良川(奥)

ゴンドラからの眺め

こちらは山頂に建っていた「岐阜城跡山上部概要図」。この図を参考に遺構を巡ってきた:

主な遺構はロープウェイ乗り場から天守台あたりまで

「岐阜城跡山上部概要図」(拡大版)

ロープウェイ乗り場を出たところにあるリス村は硝煙蔵跡。ここには七曲り登山道が通っているが、それが大手道であり、もう一つ百曲り登山道との合流点でもある:

主郭部最南端にあった郭で、麓からの大手道が合流する

硝煙蔵跡に建つリス村

金華山展望レストランへ向かう遊歩道との分岐点を過ぎたところ建っているのが天下第一の門(冠木門形式)で、岐阜市が建立した模擬門[i]二度目の城攻めでは、化粧直しされて墨色に綺麗に塗り直されていた 😊️。

信長が天下統一へ踏み出した大志を讃えて、市が建立したもの

天下第一の門(模擬門)

この門をくぐった先が伝・一ノ門跡。太鼓櫓跡(展望レストラン)の真下あたり:

古絵図に描かれていた門で、現在は崩落した巨石が残る

伝・一ノ門跡

一ノ門は江戸時代の古絵図に描かれていた門で、現在は石垣の一部が残るのみであるが、往時はこの大手道脇に巨石が積まれていたと云う:

石垣のように積まれていた巨石が崩落した状態

伝・一ノ門跡概要図(拡大版)

こちらが尾根筋を掘削して作った一ノ門跡と崩落した石垣の一部。これらの巨石は、廃城後に加納城築城の石材として運ばれてしまった跡であろう:

発掘調査を終えて、埋め戻した土は養生中だった

伝・一ノ門跡

廃城後に多くの巨石が加納城の石材として運ばれた

崩れた石垣の一部

こちらは伝・馬場跡:

古絵図で一ノ門の先に描かれていた大手道

伝・馬場跡

城内で珍しく平坦な場所で、一ノ門前から三十間(54m)も続いている場所は乗馬の訓練に使われていたと云うが、矢場だったと云う説もあるらしい。

そして尾根筋を断ち切って作られた堀切(切通)跡:

尾根を遮断するように設けられた堀跡

堀切(切通)跡

現在は木橋ならぬ轍橋が架かっていた

堀切(切通)跡

堀切跡を過ぎた先の石段あたり(伝・二ノ門周辺)にも石垣の残骸が残っていた。例えば、こちらは信長時代の石垣[j]永禄10(1567)年の信長入城後に築かれた石垣のこと。

石段手前(下台所下)の斜面に残っている石垣の一部

信長時代の石垣

石段を登った左手正面には斎藤道三(後斎藤)時代の石垣[k]天文8(1539)年頃の斎藤利政(道三)から始まる時代から信長が入城するまでの間に築かれた石垣。がある:

石段を上がって二ノ門とは反対側に移動したところにある

後斎藤時代の石垣

伝・二ノ門が建つ枡形虎口の石垣も信長時代のもの:

伝・二ノ門前の枡形虎口の石垣

信長時代の石垣

古絵図に描かれていた門で、この先が下台所跡

伝・二ノ門跡

後斎藤時代の石垣は角張った石材をびっしり隙間なく垂直に積んでいるのが特徴であるのに対し、信長時代の石垣は角が丸い石材を緩やかな傾斜を付けて積んでいる。伝・二ノ門周辺にある石垣のうち、後斎藤時代に築かれた一部の石垣は信長の時代でも使われ続けていたことも分かっているらしい。

伝・二ノ門をくぐった先が下台所跡という削平地であり、ここで天守方面へ向かう遊歩道が分岐する:

下台所跡から眺めた復興天守

復興天守

上り(往路)は大手道に従って上台所跡経由で、下り(復路)は上台所跡の下側を通るルートを使った。どちら側にも井戸跡があり、岩盤を矩形にくり抜き、雨水を貯めて使用していたとされる:

手前に井戸跡へ降りる石段があり、この先が天守台

上台所跡と大手道

岩盤を方形に刳りぬいて造られた井戸

金銘水

上台所北側の切岸(土塁)を護岸している石垣も信長時代のもの:

上台所北側を護岸している石垣もまた信長時代のもの

信長時代の石垣

そして、この先にある天守台上に建てられているのが復興天守。昭和31(1956)年に復興された鉄筋コンクリート造り三層四階の構造。平成の時代に大改修されて今の姿に至る:

昭和の時代に加納城の御三階櫓の図面を参考に建てられた

復興天守

江戸時代はじめに廃城になった際、天守は他の矢倉や石垣と共に解体されて加納城築城の資材として運び出された。明治時代に、長良川の橋の廃材を利用して模擬天守が再建されたが、大東亜戦争中の昭和18(1943)年に焼失した。現在の天守建造物は復興天守としては二代目。その威容は461.77㎡、天守台を除く棟高は17.7mである。当時の天守内は一階「武具の間」、二階「城主の間」、三階「信長公の間」、そして最上階の「望楼の間」は展望台になっていて、実際に外廻縁《ソトマワリエン》から岐阜城360度の眺望を楽しむことができた[l]入場料は一般100円(当時)。

模擬天守の入口で、内部は資料館と展望台になっていた

復興天守の入口

復興天守内に展示されていたものの中から「織田信長坐像」(レプリカ)[m]実物は三年前に特別公開していた大徳寺の総見院で観てきた。と「フロイス神父書簡原文」(一部複写)とその訳文。これは、彼の著書『フロイス日本史』の一部である:

実物は京都・大徳寺塔頭総見院で観てきた

「織田信長坐像(模造)」

彼の著書「日本史」ともなった本文の一部を訳したもの

「フロイス神父書簡原文」と訳文

他にも信長公や道三公の肖像画や、最後の城主・織田秀信公の兜(レプリカ)などが展示されていた。

そして最上階の展望台から眺めた城址西側の風景がこちら。眼下に井之口の城下町と長良川、その先には伊吹山や養老山地をみることができた:

眼下には井之口の城下町が広がり長良川沿いに惣構えがもうけられていた

展望台からの眺め(拡大版)

他にも城址東は恵那山や木曽御嶽山の雄大な姿や、北には乗鞍や日本アルプスの連なり、そして南に濃尾平野の広がりと木曽の流れが悠然と伊勢湾へ注いでいるさまを一望することができる。

これは岐阜城の北西方向にある鷺山城《サギヤマ・ジョウ》跡。道三が隠居城とした平山城で、麓にある北野神社は居館跡である:

岐阜城西側にある鷺山は道三の隠居城だった

鷺山城跡

復興天守が建つ天守台石垣は二段になっており、一段目は廃城後の状態のまま、二段目は建造物を乗せるために現存の石材を積み直したものらしい:

廃城後も積まれたまま残っていた石垣の一部らしい

天守台の一段目

模擬天守の為に積み直したもので下のほうは現存石垣

天守台の二段目


鎌倉幕府で政所令を務めた二階堂行政の一門は恩賞として美濃・伊勢・薩摩に領地を与えられたが、ここ美濃国の井之口山に築いた砦を行政の子孫が居城とし、姓を稲葉と改めことで稲葉山城と呼ばれるようになった。

戦国時代に初めに下剋上がおき、美濃守護代・斎藤氏の家臣であった長井氏が美濃国の実権を握ると、長井新左衛門尉《ナガイ・シンザエモンノジョウ》[n]松波庄五郎とも。斎藤利政(道三)の父とされる。はそれまでの居城を革手城から稲葉山城へ移した。

斎藤道三が油売り商人として京から美濃へ下り、守護・土岐氏の知遇を得て、美濃一国を手に入れたとされる説[o]司馬遼太郎の原作をベースとした某大河ドラマ『国盗り物語』で知られる説。のうち、現在は前半生の主人公は父・長井新左衛門尉であり、後半生が道三の生涯であることが通説となっている。

新左衛門尉の子・利政は父から譲り受けた稲葉山城を要害化し、山麓に居館を建て、百曲通と七曲通の民を集めて城下町を造り、御園・岩倉・中川原に市場を設けた。

利政は隠居して道三と号し鷺山城に移ったが、家督を譲った嫡男の新九郎高政《シンクロウ・タカマサ》(のちの斎藤義龍)と対立し、弘治2(1556)年に長良川河川にて戦い道三は自分の子に討たれた。それから五年後に義龍が急死する[p]室町幕府第十三代将軍・足利義輝《アシカガ・ヨシテル》に拝謁し左京太夫に任じられた直後に病死。享年33あるいは35とも。と嫡男の龍興《タツオキ》が継いだ。

幼い龍興の時代に斎藤氏の勢威はずいぶんと衰えたが、それを象徴するような事件が永禄7(1564)年に起こった。家臣の安東守就《アンドウ・モリナリ》と、その娘婿である竹中半兵衛重治《タケナカ・ハンベエ・シゲハル》らが城内で反乱をおこして稲葉山城を半年間占拠した。

永禄10(1567)年、かねてより美濃攻略を進めていた尾張国の織田信長が稲葉山城を攻め、西美濃三人衆[q]美濃斎藤氏の重臣だった稲葉伊予守良通(一鉄)と安東(安藤)伊賀守守就、そして氏家常陸介直元(卜全)を指す後世に作られた総称。らの内応により落城させた。越前に逃れた龍興はのちに信長による朝倉攻めで討ち死した

稲葉山城を手に入れた織田信長は、井之口を「岐阜」に改め、「麟」の字の花押と共に「天下布武」の印判を使い始めた。それと共に、天下統一をめざした城下町を整備した。日の本で通例化してきた楽市楽座を導入した町には多くの民と銭が集まった。

天正4(1576)年に信長は岐阜城を嫡男の信忠に譲り、自らは安土城を築いて居城を移し天下布武を推し進めていたが、その矢先の天正10(1582)年、本䏻寺の変がおこり信長と信忠は共に京で討ち死した

信長・信忠死後、信長の三男・信孝が岐阜城を居城とし、信長の跡を継いで天下統一を目指した羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れると降伏した信孝は切腹して果てた

天正11(1584)年に池田恒興の嫡男・元助《モトスケ》が岐阜城主となるが、翌年の小牧・長久手の戦いで恒興と元助は討ち死にした。そして恒興の次男・輝政が岐阜城主となるが、すぐに三河国吉田城へ転封となり、代わりに羽柴秀勝が岐阜城主となる。

元禄元(1592)年におきた文禄の役で渡海した秀勝は現地で病没したので、信長の孫で信忠の長子である織田秀信が岐阜城主となる。

慶長5(1600)年に石田三成が徳川家康打倒のために挙兵すると、秀信はそれに呼応して岐阜城に籠城するが福島正則・池田輝政らに攻められて落城、降伏した秀信は高野山に送られたのちに自刃した

家康は慶長6(1601)年に岐阜城を廃城にし、あらたに加納城を築いて娘婿の奥平信昌に美濃国10万石を与えた。この時、廃城となった岐阜城から天守や矢倉などの建築物の他、石垣が加納城築城の資材として運び出された。

以上、岐阜城の歴史に併せて、主な城主がたどった末路を強調してみた。特に信長・信忠・秀信の三代は、小田原北條氏五代にも似た「栄枯必衰の理[r]栄華を極めたものも、必ず衰退すると云う道理。」を物語っているようである。


復興天守が建つ郭跡の奥には水手道《ミズノテドウ》下り口(めい想の小径)があり、ここから搦手にあたる裏門(搦手門)までガレ場な搦手道を下りていく。その途中にも石積みが残っていた:

ここから搦手にある裏門までガレ場が続く

水手道下り口

登山道脇にも石積みが残っていた

石積み

しばらく下りたところに裏門(搦手門)跡があった。裏門の両脇は板状の石を立て並べた土塁で固められていたとされ、信長が改修した時代のものだと云う:

この削平地に信長が築いた裏門と石垣があった

裏門跡

現在は門の台座石垣として使われていたでろう巨石がいたるところに転がっている状態であった:

信長が築いた裏門の石垣が崩落して散乱していた

現在の裏門跡(拡大版)

こちらが裏門跡で散乱していた巨石の一部:

織田信長の時代のものとされる巨石

裏門跡と巨石

織田信長の時代のものとされる巨石

裏門跡と巨石

このあとは復興天守が建つ郭跡へ戻り、岐阜城資料館脇から上台所下を通って、金華山展望レストランが建つ太鼓櫓跡へ向かった。その入口にある石垣(隅石)も信長時代のもの:

上台所南側の切岸を護岸している石垣と隅石

信長時代の石垣

こちらは本丸井戸。こちらも雨水を貯めて使用していたとされる:

大きな谷にある井戸は貯水葉とされる

本丸井戸

保護材で囲んだ状態で保存されている井戸趾

本丸井戸

井戸の上が上台所跡であるが、その切岸(南側)も北側同様に、石垣で護岸されていた:

上台所南側を護岸している石垣もまた信長時代のもの

信長時代の石垣

護岸に使用していた石垣も信長時代のもの:

上台所南側を護岸している石垣もまた信長時代のもの

信長時代の石垣

こちらが伝・太鼓櫓跡で、古絵図に描かれていた櫓が建ってい場所。この下が伝・一ノ門跡。往時、ここに建っていた矢倉も加納城築城に利用されたと思われる:

レストランが建つ場所に太鼓櫓が建っていた

伝・太鼓櫓跡

レストラン上はビアガーデンを兼ねた展望台になっていて、復興天守のそれよりも自由に動き回りながら景色を楽しむことができた。

たとえば、こちらは犬山城跡[s]ちなみに犬山城天守からも岐阜城の復興天守を眺めることができる 😀️。

写真中央に、木曽川沿いに建つ現存天守の犬山城が見える

犬山城跡(拡大版)

(かなりキツめにズームした天守ているのでピンぼけ)

犬山城

そしてロープウェイで麓へ下りたあとは御手洗池《ミタラシイケ》へ。関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍に攻められて落城下際に大勢の奥女中らが、往時は長良川の淵だったこの池に身投げしたと伝わる:

最後に岐阜城が落城した際に奥女中らが身投げした

御手洗池

そして岐阜公園総合案内所前に建っている「若き日の織田信長像」:

信長が「うつけもの」と呼ばれていた時代がモデルらしい

「若き日の織田信長像」

天然の外堀であった長良川と、そこに架かる長良橋上から眺めた金華山の遠景。川沿いにある土手は惣構えの土塁跡らしい:

川沿いには惣構えの土塁も残っていた

長良川

標高330mの金華山(稲葉山、井之口山)と岐阜城跡で、土手は惣構えの土塁

金華山

以上で、岐阜城攻めはひとまず終了。このあとは城主居館跡を巡ってきた。

See Also岐阜城(稲葉山城)攻め (フォト集)
See Also岐阜城攻め(2) (フォト集)

城主居館跡

金華山西麓の槻谷《ケヤキダニ》と呼ばれた場所は、岐阜城になってからの歴代城主の居館であったと云う。谷の中心に川が流れ、その両脇に複数の削平地が階段状に配されていた。このような地形は斎藤道三の頃に作られ、織田信長が大規模に改修し、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城するまで使われていたことが発掘調査で分かっているのだとか。

信長時代の居館は巨石列、石垣、そして巨石石組みといった技法を使って平坦地に造成し、虎口には巨石を積んで、金箔瓦を多用した建築物が建っていた。さらに自然の岩盤を利用した庭園、天守のような高層建築物や座敷をもつ城主邸宅もあったと推測されている:

巨石を用いた虎口、岩盤を背景とした庭園、天守のような高層建築物があった

信長公居館の復元CG

ここが居館跡の入口で、模擬の冠木門が建っていた。なお往時の入口はここではなく、板垣退助像が建つ場所だったらしい:

稲葉山の麓に築かれていた信長居館跡の入口に建つ冠木門

模擬冠木門が目印

この門をくぐった先に巨石列で区画された城主の居館跡があった:

中央を流れる谷川と、その左右に配された平坦地から成る

城主居館跡(織田信長公居館跡)

岐阜公園の駐車場周辺が政庁に類する建築物が建つエリアであった一方、その場所より上段が城主居館のエリアだった。ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは「入口に劇場のような家」があり、「長い石段」を登ると「宮殿の広間」に入ると記録している。

こちらが宮殿へと続く巨石列通路と土塁。特に居館入口附近は扁平な巨石を立てて並べ、裏込め石を詰めた土塁で通路を区画していたと云う:

土塁を巨石で整列させて通路を区画していた

巨石列通路

扁平な巨石を立ち並べ、裏込石を詰めた土塁で通路とした

巨石列通路

巨石通路の下層からは石積みの穴と下へ降りる階段が見つかったが、ここから斎藤道三の時代の土層が発見された:

巨石列通路の下層から石積みの穴と階段が見つかった

道三時代の遺構

道三時代の地面と信長時代の地面の間に炭の層が見つかったことから、信長による稲葉山城攻めで、ここにあった建築物が焼失したものと考えられている。

当時は発掘調査が継続していたためカバーで覆われていた箇所があった:

最上段の庭園(千畳敷跡)から見下ろした居館跡

発掘調査中の居館跡

往時、このエリアには谷川が流れ、その周辺には庭園があったと云う:

ここには谷川が流れ、左手上には庭園があったとされる

谷川と庭園跡

こちらは岩盤と石垣で囲まれた庭園があったとされる千畳敷跡:

背後を岩盤と石垣で囲まれた庭園があったとされる場所

千畳敷跡

奥の発掘現場には金箔飾り瓦を葺いた建物があった

千畳敷跡

当時は千畳敷跡での発掘調査の様子を見ることができた:

当時は発掘調査が進められている最中だった

「信長公居館跡発掘中」

当時、庭園跡と金箔瓦建物跡ま未だ発掘調査の途中であった

「信長公居館跡発掘中」

こちらが、発掘調査の成果を示す説明板:

信長公居館跡の中枢部である千畳敷の発掘調査が行われ、いろいろ発見があった

平成28年度調査の成果

フロイスはまた、信長の案内で天守風の居館を見学しており、「一階には20程の座敷と6つ程の庭があり、二階には奥方と侍女らの部屋、三階には茶の湯の座敷、そして四階のからは城下町を一望できた」と記している。

こちらはロープウェイのゴンドラから見下ろした居館跡(発掘調査中):

ゴンドラから眺めたところ

城主居館跡

 

ちなみにロープウェイ下にある岐阜公園三重塔は居館跡とは関係はないが、大正時代に建てられた文化財の一つ:

城主居館跡とロープウェイを挟んで北側にあるエリアは岐阜公園の一部

岐阜公園(拡大版)

See Also岐阜城(稲葉山城)攻め (フォト集)
See Also織田信長居館攻め(2) (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 源頼朝死後の鎌倉幕府で「十三人の合議制」に加わった文官の一人。鎌倉の二階堂に居館があった。某大河ドラマでは野中イサオ氏が演じていた。
b 稲葉山、現在は満開のツブラジイで山全体が金色に輝いて見えることから金華山とも。
c 徳川家康が岐阜城を早々に廃城にしたのは、この不吉さがあったからかもしれない 😅️。
d 特に表記としては区別しないが、一度目は晴天、二度目は雨のち曇りという違いがある😄️。
e しかし Suica による支払いは不可で現金のみ。これは六年経った現在も同じだった😥️。
f 乗車時間は15分ほど。大人片道210円(当時)。
g 角岩《カクガン》とも呼ばれる堆積岩の一種。
h 大人・往復1,080円(当時)。
i 二度目の城攻めでは、化粧直しされて墨色に綺麗に塗り直されていた 😊️。
j 永禄10(1567)年の信長入城後に築かれた石垣のこと。
k 天文8(1539)年頃の斎藤利政(道三)から始まる時代から信長が入城するまでの間に築かれた石垣。
l 入場料は一般100円(当時)。
m 実物は三年前に特別公開していた大徳寺の総見院で観てきた。
n 松波庄五郎とも。斎藤利政(道三)の父とされる。
o 司馬遼太郎の原作をベースとした某大河ドラマ『国盗り物語』で知られる説。
p 室町幕府第十三代将軍・足利義輝《アシカガ・ヨシテル》に拝謁し左京太夫に任じられた直後に病死。享年33あるいは35とも。
q 美濃斎藤氏の重臣だった稲葉伊予守良通(一鉄)と安東(安藤)伊賀守守就、そして氏家常陸介直元(卜全)を指す後世に作られた総称。
r 栄華を極めたものも、必ず衰退すると云う道理。
s ちなみに犬山城天守からも岐阜城の復興天守を眺めることができる 😀️。