城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

関宿城 − Sekiyado Castle

利根川の利点を活かして築かれ、利根川によって遺構が消えた関宿城

千葉県野田市関宿町[a]明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。にあった関宿城は、利根川と江戸川[b]江戸時代までは逆川《サカガワ》。が分岐する微高地上に築かれ、水運の要衝を押さえる城として中世から近世まで存続した。戦国時代には東国の中央という地理的な位置に加え、同じ下総国の小金城から栗橋城を経て、この時に関東を二分していた勢力の一人・古河公方[c]京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。がいる古河城の前衛と云う政治的な位置でも要の城であった。また、もう一方の勢力の小田原北條氏をして「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(喜連川文書)[d]現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。と云わしめた城でもあった。公方の片腕で関宿城主の簗田晴助《ヤナダ・ハルスケ》は形勢逆転を目論み、越後国の長尾景虎を頼るも、数度に渡る関宿合戦ののち北條氏政に屈した。そして小田原北條氏滅亡後、この城の位置付けを重要視した徳川家康は異父弟の松平康元に与え関宿藩を立藩した。明治時代に廃城となり、その後に繰り返された利根川改修と堤防建造により遺構は消滅したが、平成時代に建てられた県立関宿城博物館では城と利根川の歴史を今に語り継いでいる。

今となっては六年前は、平成29(2017)年の大暑《タイショ》の候の休日[e]テレビシリーズ「コンバット!」の主役俳優であるヴィック・モローが映画トワイライトゾーンの撮影中に事故死した日。に関宿城跡を攻めてきた。これに先立つこと一週間前、平日に休みをとってこの城跡を攻める計画だったが、直前のダイヤ改正により予定のバスに乗り合わせることができず残念な思いをしたので、今回は最新の時刻表を確認して仕切り直ししてきた次第:)

この日は前回と同様に、まず大宮駅へ向かい、そこから東武アーバンパークライン急行・柏行に乗り継いで川間駅で下車。そして駅北口にあるバスターミナルから朝日バスの関宿城博物館経由東宝珠花行きに乗車して[f]時間は35分ほど。大人片道520円(当時)。執筆時現在、路線名は「川間-県立博物館・関宿ターミナル-境車庫線」になっていた。、目的地の関宿城博物館前へ向かった。

ちなみに戦国時代を経て江戸時代を生き抜いた近世城郭・関宿城の絵図は複数あり、例えば『日本古城絵図[g]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)だと東海道之部(6)に『102 下総関宿城』と『101 総州関宿城図』の二つあり、『諸国居城之図集[h]主図合結記《シュズゴウケツキ》』(東京国立博物館蔵)の写本とされる。 』(金沢市画像オープンデータ蔵)にも『下総関宿城図』がある。

その中で『正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)の『下総国世喜宿城絵図』に主な郭や施設、そして町割りを重畳加筆して、北を上に回転させたものがこちら:

絵図左上に「牧野佐渡守」の署名があり、関宿藩主八代目にあたる牧野佐渡守親成の在任中に作成されたもの

『正保城絵図−下総国世喜宿城絵図』

昭和の時代に堤防が築かれる等して現在とは異なる城域になっている

(コメント付き)

この絵図は、江戸時代の正保元(1644)年に関宿藩を含む全国の諸藩に命じて作成させたもので、いわゆる「規格モノ」の一枚である。つまり、この絵図集は原則的に城郭に含まれる軍事施設に該当するもの(情報)を記載しなければならないとされる。

また、この絵図には「下総国世喜宿城絵図・牧野佐渡守」と明記されており、歴代の関宿藩主で八代目にあたる牧野佐渡守親成《マキノ・サドノカミ・チカナリ》の在任期間である正保4(1647)年から明暦元(1655)年の間に作成された関宿城の縄張図にあたる。

この絵図に加筆した情報は、大手門跡に建っていた説明板の「関宿城周辺概念図(江戸後期)」を参考にした:

大手門跡に建っていた「関宿城大手門と城を囲む土塁・堀」より

江戸時代後期の関宿城周辺概念図

現在は、廃城後に行われた江戸川の河川敷拡張と堤防工事のため、絵図やこの図のような城域は留めていないが、関宿町の街並みや寺院の場所などにその面影を残している。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、関宿博物館周辺にあって今回巡ってきた関宿城に関連する遺構や寺院にを書き入れたもの。また、今回の城攻めには含まれていないが廃城後に移築された門がいくつか現存する:

地形は改変され城跡も消滅しているが関宿城に関連する遺構がわずかに残る

関宿城博物館周辺図

この中で耕地化した本丸跡や大手門跡の土塁の他、博物館には往時本丸に建っていた御三階櫓を意図したものであろうか、模擬三階櫓が建っていた:

バス停「関宿城博物館前」→ 関宿城博物館(関宿城のジオラマ+模擬三階櫓)→ 鬼門除け稲荷 → 本丸跡(関宿城址の碑) → (三ノ丸跡)→ 大手門跡 → 関宿関所跡 → (スーパー堤防)→ 史跡・処刑場跡 →  實相寺 → 宗英寺 → 光岳寺 → ・・・ → バス停「関宿台町」

【以下は後日の城攻めにて】

まず関宿城博物館へ。この建物は平成7(1995)年に千葉県最北端で江戸川と利根川が合流する位置に築かれたスーパー堤防上に建てられ「河川とそれにかかわる産業」をテーマに、河川改修や水運、そして関宿城と関宿藩の歴史に関する史料が展示されている。入館は有料。大人200円(当時):

「河川とそれにかかわる産業」をテーマに史料が展示されている

千葉県立関宿城博物館

展示の中には近世城郭である関宿城のジオラマがあった:

利根川が流れる城址東側から俯瞰したところ

関宿城のジオラマ(拡大版)

利根古河のある本丸南側から俯瞰したところ

関宿城のジオラマ

本丸跡に建つ御三階櫓もちゃんと再現されていた:D。その内部は展示室兼展望室になっている:

手前の御殿風の建物は展示室と管理事務所

博物館と模擬三階櫓

この模擬三階櫓は三層四階の鉄筋コンクリート製で、往時の詳細な外観は不明だったために江戸城富士見櫓を模したものらしい[i]実際、江戸時代にも一度再建されたが、その際も江戸城の富士見櫓に倣ったものだったらしい 😑️。

江戸城の富士見櫓を真似て三階櫓を模擬していた

模擬三階櫓

こちらは最上階の展望室から本丸跡を眺めたところ。空気が澄んでいれば筑波山を拝めることができる:

正面の堤防手前あたりが本丸跡(右手は江戸川方面)

本丸跡の眺望

この城の始まりは、およそ室町時代の長禄元(1457)年に鎌倉公方[j]鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。の家臣であった梁田河内守満助《ヤナダ・カワチノカミ・ミツスケ》、あるいはその孫で古河公方の家臣であった梁田成助《ヤナダ・シゲスケ》が築いたとされ、以降は簗田氏の居城となったと云う。

この頃の関宿城は水運を生業とする河川町を抱え、城の南を流れる大利根川と西を流れる小利根川一帯の水運権益はとても大きかった。梁田氏は公方から関宿の舟役を託され利根川から公方の居城である古河へ向かう商人の安全も保証されていた。往時は、この地を得れば一国に値すると云われるほどで、これが梁田氏の家格と実力を上げ、周辺にいる名族(相馬氏や一色氏)との深い繋がりもまた、公方の威光あってのものであった。

しかし満助から数えて梁田家五代目の晴助とその嫡男である持助《モチスケ》の時代にくると、かれらの絶対的支配に対抗する新興勢力が現れる。それが小田原北條氏であった。往時、北條氏の当主であった氏康の父・氏綱は武蔵国における権力闘争に介入することで武名を挙げ、古河公方・足利晴氏の重臣に登りつめて大きな発言力を手に入れた。さらに自分の娘である芳春院《ホウシュンイン》殿をを晴氏の御台とさせることに成功した。ただし晴氏の正妻は晴助の妹で、既に長男(のちの足利藤氏《アシカガ・フジウジ》)が居たが、芳春院殿もまた男子(のちの足利義氏《アシカガ・ヨシウジ》)を産んだ。このような状況に、公方・晴氏の宿老筆頭であった晴助[k]晴の字は晴氏からの偏諱である。は眉を潜め、氏康をはじめとする小田原北條氏の台頭に警戒感を強めた。だが彼らの実力は関東に並ぶ者が無く、晴助が独力で抗うことはできなかった。

すると氏綱が亡くなった天文10(1541)年、晴助に大きな転機が訪れることになった。ここで公方とその宿老たちは、かって敵対した勢力ではあるが、反小田原北條氏の姿勢を貫く関東管領・上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》と共闘することを決断した。そして既に芳春院殿との間に男子が生まれていたにも関わらず、公方・晴氏もまた覚悟を決めてその「大連合」の陣営に加わった。

しかし五年後の天文15(1546)年の河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で憲政と晴氏らが率いる大連合は無残な大敗北を喫し、対する氏康は亡き父以上の権勢を手に入れるに至った。ただし氏康としては父が敬い続けた古河公方を廃するわけにはいかず、晴助が主人に代わって氏康に頭を下げ、この合戦の主犯は憲政であったことにして、公方側にとって穏便に処理されることになった。

天文21(1552)年、公方・晴氏は芳春院殿との間に生まれた足利義氏に家督を譲らされ、氏康の圧迫に負けた足利藤氏は廃嫡となった。彼は晴助の甥である。氏康はついに晴助ら簗田氏を引きずり下ろしたのである。彼は先の合戦を主導していた者の一人が晴助であると睨んでいたであった。一方、この仕打ちに我慢できなかった晴氏と藤氏の父子は氏康を討つべく挙兵したが、この時は晴助の協力を得られず即座に降伏した。

しかし「腐っても鯛」、晴助は越後国の守護代・長尾景虎を小田原北條氏に対する最終兵器とし、北條政権に不満を持つ国衆らに働きかけて、関東から小田原北條勢を駆逐する計画を密かに立てていた。

永禄3(1560)年に、河越夜戦で敗れて越後に逃避した上杉憲政の意を受けた長尾景虎が、小田原北條勢を討伐するために越後の精兵を率いて越山して関東に入り、太田資正ら旧上杉勢らと合流して小田原城を目指し古河城へ入城した。この状況を知った古河公方・義氏は居城である関宿城を捨てて下総小金城、そして上総佐貫城に逃れた。小田原城を包囲したあと関東管領を拝領し、長尾景虎改め上杉政虎が越後へ引き上げた永禄5(1562)年、氏康は政虎に奪われた城を奪還すべく動き出し、関宿城も奪還され、簗田晴助が入城した。

永禄8(1565)年、関宿城主の晴助はかねてより政虎の軍事力を期待していたが、彼が率いる越後の精兵による小田原城攻めを目の当たりにして、この機会を逃さず小田原北條氏に反旗を翻した。これに対し、氏康より家督を譲られて小田原北條家四代当主となった氏政は岩付城主・太田氏資[l]この前年に小田原北條氏に内通し、父であり岩付城主であった太田資正を追い出した。を先鋒に、そして江戸城からは自らが関宿城攻めに出陣した。関宿城に籠城した晴助は伏兵を用いて氏資を退け、氏政の攻撃をかわして越後の上杉政虎改め輝虎の越山を待った。そして越軍来るの報に接した氏政は撤退した(第一次関宿合戦)。

永禄11(1568)年に氏政の弟で滝山城主・氏照は下総栗橋城を拠点に再び関宿城へ押し出した。関宿城に籠もった晴助は越後の輝虎に援軍を要請するも、すぐには越山できない事情が関東周辺で起こっていた。甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟《コウソウスン・サンゴクドウメイ》を破棄して駿河国の今川領へ侵攻、これに対抗して氏康は武田との同盟を破棄し[m]今川家の当主・氏真の正妻は氏康の娘・早川殿である。、越後の上杉氏と相越同盟を結んだのである。これにより小田原北條勢による関宿城攻めは中止となった(第二次関宿合戦)。

元亀元(1570)年に北條氏康が没すると氏政は父の遺言[n]自分の息子を養子(のちの上杉景虎)に出してまで同盟を締結したが上杉謙信は一向に氏康との盟約(援軍派遣)を実行しなかったため。に従って相越同盟を破棄し信玄と相甲同盟を復活させた。そして天正2(1574)年、氏政は三たび関宿城攻めを開始、栗橋城を拠点として弟の氏照と玉縄城の北條氏繁と共に出陣し関宿城を包囲した。関宿城に籠城する晴助は越後の上杉輝虎改め上杉謙信と「坂東太郎」こと佐竹義重らに援軍を要請、謙信が越山して氏政を牽制した。しかし佐竹氏と上杉氏との連携に翳りが出た[o]佐竹義重は相越同盟が気に入らなかったと云う説が専ら。このわだかまりのために謙信との同陣を拒んだ。のに加え、寄手の総攻撃、そして兵糧・弾薬不足などで、晴助は佐竹氏を仲介として降伏開城を決意した(第三次関宿合戦)。この結末に激怒した謙信は反転帰国し、ふたたび三国峠を越えて関東へ侵攻することはなかった[p]この四年後、謙信は越山して小田原北條氏と決戦したあとに再び上洛する計画であったが、その直前に帰らぬ人になった。。こののち関宿城とその周辺は、小田原北條氏直轄の軍事拠点となり、関東全域の流通体系に大きな影響力を有することになった。


こちらは関宿城の鬼門除け稲荷。関宿城の本丸から艮《ウシトラ》(北東)の方角に位置し、博物館からだど南東側にあたる:

本丸北東端である艮《ウシトラ》の方位に位置する

関宿城の鬼門除け稲荷

このあとは江戸川沿いの土手(スーパー堤防)沿いに歩いて本丸跡へ。本丸跡には「関宿城址」の碑と説明板が建っていた:

この「空き地」の周囲には堀跡と思われる段差があった

本丸跡

本丸を含む郭跡は耕地化されて残っていない

「関宿城址」の碑

本丸跡の周囲にはかっての堀を思わせる段差が残っていた:

杜にある本丸跡ごしに眺めた模擬三階櫓

本丸跡

さらに南下して行ったところが大手門跡であるが、「関宿城大手門と城を囲む土塁・堀」なる説明板がたっていた:

この周囲に残いた土塁は発掘調査で8m程の幅があった

大手門跡に建つ説明板

こちらが大手門土塁の痕跡。ここは枡形虎口でもあった:

発掘調査で見つかった大手門の土塁の痕跡跡

大手門跡の土塁

江戸時代には日光東往還《ニッコウ・ヒガシ・オウカン》[q]日光東照宮参詣のために造られた日光街道の脇往還。この城下町に関宿宿《セキヤド・ジュク》があった。が関宿城に接する表玄関であった。

大手門跡の近くに「関宿関所跡の碑」と「川のフィールドミュージアム・関宿関所と棒出し」の説明板が建っていた。但し、実際の関所跡は堤防先の河川敷で、この碑が建つ場所は江戸町跡にあたる:

実際の位置は現在の堤防があるあたり

「関宿関所跡」の碑

利根川改修と堤防建造によって関所の位置は堤防あたり

関所跡は堤防の先

江戸時代、江戸と地方を往来する舟は必ずこの関宿を通ることから、ここに関所を置いて船の積み荷や人改めを厳しく行ったと云う。この関所を通るには通行手形が必要だった。

往時、関所は江戸川流頭部の堤防が突き出た、いわゆる「棒出し」と呼ばれる施設に置かれ、関宿藩が管理していた:

この棒出しに関宿藩が管理する関所があった

棒出し跡

川の両側から数千本の丸太棒を川底に打ち川幅を狭めた場所

江戸川流頭部「棒出し」

江戸川が利根川に合流する先端(流頭)部の両岸の川底に丸太棒を数千本打って川幅を狭めて、利根川・逆川・江戸川への水量を調節していたのに加え、関宿藩士がそこを通行する舟を監視した。棒出しが設けられたのは天保年間(1830〜1843年)で、明治時代には丸太棒から玉石積み、そしてセメントを使った角石積みに改良された。明治43(1910)年の大洪水後に実行された利根川と江戸川の本格的な改修工事を経て昭和4(1929)年に棒出しは撤去された。

このあとは関宿城下にあった寺町跡などをいくつか訪問したが、その中で「処刑場跡」という珍しい史跡をみかけた:

江戸時代の処刑場と伝えられる場所

史跡「処刑場跡」

ここに建つ石碑には享和元(1801)年の建立で南無妙法蓮華経と刻まれていた。但し、その年代に処刑場があったのか、それ以前のものなのかは不明。また実際に処刑した場所は利根川の河岸で斬首した首を埋葬したのがこの場所と云う説もあるらしい。


小田原北條氏が関宿城を直接管轄下に置くと在番衆として直臣衆を派遣し、大道寺政繁、北條氏繁、そして北條氏秀といった御一家衆や家老が相次いで城代を務め、武蔵岩付城の奉行衆が派遣され実務を担当した。

天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では抗戦の構え[r]豊臣軍の他に、秀吉の命で佐竹氏・結城氏らの北関東勢にも攻められる可能性があった。を見せていた関宿城も開城し、小田原北條氏に代わり、この城のある下総国が、関八州を賜った徳川家康の領有になると彼の異父弟である松平康元が二万石で関宿城に入城した。康元は関宿藩を立藩、かっての領主がそうしたように利根川水運の重要拠点として扱い、そして関宿は江戸から14里(56km)の距離にあり、扇の要にも似た重要な外郭都市であることから、その後も家康の信頼が厚い譜代諸侯である松平氏、小笠原氏、牧野氏、板倉氏、久世氏らが歴代の藩主を務めた[s]歴代藩主8家から老中22名、京都所司代3名を輩出したことから、関宿城は「出世城」とも呼ばれた。。関宿城は久世氏の時代に改修されたが、利根川などの氾濫が多発し、それによる補修で藩の財政が悪化したと云う。

近世城郭の関宿城には関宿藩の藩庁が置かれ、本丸には御三階櫓が建っていた。この櫓はのちに破損したため、久世家初代当主の久世廣之《クゼ・ヒロユキ》が城主であった寛文11(1671)年に御公儀と交渉して、江戸城の富士見櫓を模した櫓を再建したことが古文書に記録されている[t]「寛文十一年辛亥世喜宿・・・公儀御願相済富士見御櫓之形ヲ以建直ル・・・」と記されている。。この櫓、台座石垣を含めるとその高さは18mにも及び、事実上の天守であったとされる。


明治4(1871)年の廃藩置県により関宿城も廃城となり、城内にあった建物の殆どは破却され、明治時代以降の河川改修と堤防建築により遺構の大部分は改変された上に堤防の下に埋もれている。

以上で、関宿城攻めはひとまず終了。このあとは城下町跡でゆかりの場所を散策した。

See Also関宿城攻め (フォト集)

【参考情報】

関宿城跡はそのような状況ではあるが、廃城後に移築現存している遺構が県内外を含めていくつかある:

日蓮宗・宝樹山・實相寺と本丸御殿

まず、かっての城下町であった野田市関宿町にある日蓮宗の寺院、宝樹山・實相寺(実相寺)《ホウジュサン・ジッソウジ》には本丸御殿の一部が移築されている。この寺院の創建は奈良時代の神亀元(724)年で、はじめ常陸国で法相寺として開山し、のちに日蓮宗から真言宗に改宗し、室町時代に再び日蓮宗に改宗して現在に至る。

関宿城が築かれた長禄元(1475)年頃に、城主・簗田氏が本領の水海[u]現在の茨城県古河市水海で、ここ千葉県野田市関宿町からは利根川を挟んで北へ4kmほどの場所。からこの地に移したと云う:

関宿城が築かれた頃に常陸国水海から移されたと云う

日蓮宗・宝樹山・實相寺

これは中雀門と呼ばれる唐破風形式の山門と、大きな袴をはいた鐘楼堂:

唐破風形式の中雀門

山門

大きな袴のような台座が特徴的

鐘楼堂

山門をくぐって境内に入り本堂を正面にして右手にある建物が、廃城後の明治4(1871)年に本丸跡から移築された本丸御殿の客殿:

宝暦6(1709)年に建造された千葉県下唯一の本丸建築遺構

本丸御殿の一部(現存)

この客殿は江戸時代中期の宝暦6(1756)年に建造されたもの。ここ實相寺は、その頃の関宿城主・久世《クゼ》家の菩提寺でもあり、久世家歴代の城主と奥方の御位牌が安置されている他、墓地内には久世家に仕えた家老らも眠っているのだとか。そういうこともあり、屋根の鬼瓦や昇殿部のガラスには久世家の「久世鷹の羽」紋があしらわれていた。

See Also関宿城攻め (フォト集)

【参考情報】

移築城門(薬医門)@逆井城公園

関宿城本丸跡から北東へ8kmほどのところにある逆井城跡公園(茨城県坂東市)には、関宿城内にあったと伝えられる門が移築されている。この城門は、本柱が中心線上から前方にずれている薬医門形式:

鏡柱と控え柱をまとめて一つの大きな屋根で覆った薬医門

移築城門(薬医門)

この門も明治6(1873)年の廃城後に民間に払い下げられ、同県猿島町(現在の坂東市)の町人宅にあったものが坂東市に寄与されて現在に至る。薬医門は武家屋敷の正門などに代表される格式の高いものなので、城内でもおそらく本丸や二ノ丸あたりの虎口に建っていた門ではないかと推測する。

See Also移築城門(薬医門) (フォト集)

【参考情報】

  • 逆井城公園に建っていた案内板や説明板(坂東市教育委員会)

移築城門(大手門)@栃木県下野市

こちらは関宿城本丸跡から北へ36kmほどのところにあるとんかつ屋の敷地(栃木県市下野市)に移築されている大手門:

薩長と戦する戦費捻出のために売却された大手門と伝わる

栃木県下野市にある移築城門

とんかつ屋にあった由緒によると、これは京都所司代や老中をを務めた関宿藩久世家四代当主の久世出雲守廣明《クゼ・イズモノカミ・ヒロアキラ》が城主だった江戸時代中期に建造された大手門で、幕末時代に同家八代当主の久世隠岐守廣文《クゼ・オキノカミ・ヒロフミ》が、幕命により薩長倒幕軍との戦費を調達するために、城内にある門や物資を近村に売却した際に、利根川対岸の豪商に売り渡したもの。明治の時代に解体されて埼玉県鷲宮あたりに移築されたのち昭和の時代に、ここに移築され、土塀などと一緒に再建されたものとのこと。

令和の時代になっても冠木や門扉は良好な状態であった:

りっぱな冠木と、門扉両脇には潜戸がある

(伝)大手門

往時、扉脇の部屋は家臣や下僕の居所・物置として使われた

(伝)大手門

屋根の鬼瓦には、なぜか関宿藩牧野家のものと思われる「丸に三つ柏」紋があしらわれていた[v]牧野氏が最後の城主を務めたのは二代藩主の牧野成春《マキノ・ナリハル》。このあと久世家が歴代の城主となる。

鬼瓦には関宿藩主・牧野氏の「丸に三つ柏」紋があしらわれていた

(伝)大手門

さらに大手門の脇に建っていた薬医門形式の門も移築された類だろうか:

本柱と控柱を備えた格式高い薬医門形式の城門(?)

移築城門

See Also移築城門(大手門と薬医門) (フォト集)

【参考情報】

  • とんかつ合掌の店内に掲げられていた案内板や説明板(店主)
  • 埋もれた古城(関宿城) 〜 一国にも等しい戦略価値の要衝

移築城門(埋門)@千葉県野田市

最後の現存遺構は関宿城歴史博物館と同じ千葉県野田市で、本丸跡から南東へ4kmほどの場所にある埋門《ウズメモン》(市指定有形文化財)。ちょうど川間駅からバスで博物館へ向かう途中にある[w]「関宿はやま工業団地行き」だと「工業団地入口」が最寄りのバス停(当時)。

野田市指定有形文化財で、県内にいて数少ない建造物の一つ

千葉県野田市にある移築城門

脇に建っていた説明板によると、この門は関宿城の三ノ丸にあったもの。平時は通用門として使用し、戦になると門の裏側を2/3ほどの高さまで土を盛り、寄せ手の侵入を防ぐような使い方をするものらしい。

他の現存遺構と同様に、関宿城の廃城に伴って民間へ払い下げられ、この場所に移築された:

一間一戸・薬医門・切妻造り・桟瓦葺・両袖塀付

移築城門

移築門の形式は一間一戸の薬医門形式、屋根は切妻造で桟瓦葺《サンガワラブキ》。両袖塀付《リョウソデベイ・ツキ》。門の規模は、間口が2.7m、奥行1.8m、棟高4.3m、塀延長10.6m:

間口2.7mm,奥行1.8m、棟高4.3m、塀延長10.6m

移築城門

門の両袖には板塀が付いている

移築城門

門の鬼瓦には江戸時代中期の寛文9(1669)年から幕末まで関宿藩主と務めた久世氏の「久世鷹の羽」紋があしらわれていた:

関宿城主であった久世家の家紋

「久世鷹の羽」紋があしらわれた鬼瓦

See Also移築城門(埋門) (フォト集)

【参考情報】

曹洞宗・観照山・花林院・宗英寺

ここ宗英寺《ソウエイジ》は、関宿藩初代藩主で徳川家康の異父弟にあたる松平康元が開基した寺院:

慶長元(1596)年創建の禅宗の寺院

曹洞宗・観照山・花林院・宗英寺

慶長元(1596)年創建の禅寺で、山門の柱にある葉彫《ハチョウ》は創建当時のもの。境内には康元公と古河公方・足利晴氏公の墓の他、関宿藩士で経済と土木の学者であった船橋随庵《フナバシ・ズイアン》の墓もある。随庵は「随庵堀」と呼ばれた水路をひいて治水工事を行った御仁。そのおかげで藩内での水害が激減したと云う。

松平印旛守康元公墓所

こちらが宗英寺境内にある康元公の墓所:

初代関宿藩主で、母は家康と同じ於大方(傳通院殿)

松平康元公の墓

天文21(1552)年に尾張国で、久松佐渡守俊勝《ヒサマツ・サドノカミ・トシカツ》の次男として誕生。母は、徳川家康の母でもある於大方(傳通院殿)。したがって康元と家康は異父兄弟である。初名は勝元で、家康と対面した際に松平姓と偏諱を受けて康元に改名した。

その後は兄の家康に従って各地を転戦、天正18(1590)年に家康が関八州を賜ったおりに2万石を拝領して、ここ下総国関宿城に入城、関宿藩を立藩した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは江戸城で留守居を務めた。13年間この地を治め、慶長8(1603)年に死去。享年52。関宿藩は嫡男の忠良《タダヨシ》が継いだ。

古河公方・足利晴氏公墓所

同じ宗英寺の境内には晴氏公の五輪塔があった:

家督争いや小田原北條氏と戦いを繰り返し、晩年は関宿に幽閉された

古河公方・足利晴氏の五輪塔

戦国時代の永正5(1508)年に下野国で生まれ、元服時に室町幕府第十二代将軍・足利義晴《アシカガ・ヨシハル》から偏諱を受けて晴氏と名乗る。享禄4(1531)年に第四代の古河公方《コガ・クボウ》[x]京に居る足利将軍の代理として関東へ派遣された、いわゆる副将軍であり、補佐役の関東管領と共に関東の豪族らと取りまとめる武家社会のリーダー役であった。に就任するが、関東管領・山内上杉氏と新興勢力・小田原北條氏らによる関東での覇権争いに巻き込まれ、戦いに明け暮れる日々を送った。

下総国の古河城を居城とし、彼の側近であり、そして正妻の兄にあたる簗田晴助には古河城の前衛の城である関宿城を任せていたが、直臣が少なかったため上杉憲政や北條氏綱・氏康といった有力勢力に頼るという戦略しかなく、彼等の力を借りて自らの天敵である下総の小弓公方・足利義明《オユミ・クボウ・アシカガ・ヨシアキ》を破るなどしたが、その後は北條氏との関係が悪化するなどし、果ては河越夜戦で大敗して公方としての求心力を失った。

天文14(1546)年に家督を、氏康の妹・芳春院殿《ホウシュンインデン》との間に生まれた義氏《ヨシウジ》に譲って隠居したが、のちに義氏打倒の陰謀が発覚し、ここ関宿で幽閉同然の生活を送ったのち永禄3(1560)年に死去した。享年52。

See Also関宿城攻め (フォト集)

【参考情報】

浄土宗・天機山・傳通院・光岳寺

三ッ葉葵を寺紋とする光岳寺《コウガクジ》は徳川家康の異父弟の松平康元が、関宿城主となった天正18(1590)年に、母の於大方(傳通院殿)の孝養《コウヨウ》と子孫繁栄などを祈るために建立した。建立当時は弘経寺《グキョウジ》と称していたが、周辺に同名の寺がある[y]下総国に飯沼、結城、大鹿、そして関宿の四つ。のは紛らわしいとのことで、徳川家康より於大の方の戒名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」からとって光岳寺に改めるようにとの命に従って改名し、以後は於大の方菩提所に定めたと云う:

鏡柱には徳川家の家紋「三ッ葉葵」紋があしらわれている

山門

山門にあしらわれていた「三ッ葉葵」紋

山門の鏡柱

境内には、康元が於大の方のために建立したと伝わる地蔵菩薩像が建つ:

戦時供出したため昭和の時代に造り直された

於大の方御守佛地蔵菩薩像

現在は延命子育地蔵尊として信仰されている像は、唐金製御丈七尺、台座は二重で高さ六尺、重量は五十貫目もある。先の大戦中に供出され終戦後に残った部材を修復したが腐食が著しかったため、昭和の時代に新たに造り直された。

牧野半右衛門康成公の供養塔

光岳寺の山門脇には、関宿藩牧野家初代藩主である牧野信成《マキノ・ノブシゲ》が父である牧野康成《マキノ・ヤスシゲ》[z]大胡藩主の牧野康成《マキノ・ヤスナリ》とは同姓同名の別人(読みが異なる)。のために建立した供養塔がたっている:

関宿城主・牧野信成が父のために建立した供養塔

牧野康成供養塔

はじめ康成は正勝を名乗っていたが、桶狭間の戦い後に家康より偏諱を受けて康成に改めた。三河国東部の有力国人の一人で駿河国主である今川家に仕えていた。今川義元が斃れたのちに家康にいち早く内通して三河平定に寄与した。小田原北條氏が滅亡し、家康が関八州を賜って関東に入封した際は直参となって仕えた。

See Also関宿城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。
b 江戸時代までは逆川《サカガワ》。
c 京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。
d 現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。
e テレビシリーズ「コンバット!」の主役俳優であるヴィック・モローが映画トワイライトゾーンの撮影中に事故死した日。
f 時間は35分ほど。大人片道520円(当時)。執筆時現在、路線名は「川間-県立博物館・関宿ターミナル-境車庫線」になっていた。
g 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
h 主図合結記《シュズゴウケツキ》』(東京国立博物館蔵)の写本とされる。
i 実際、江戸時代にも一度再建されたが、その際も江戸城の富士見櫓に倣ったものだったらしい 😑️。
j 鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。
k 晴の字は晴氏からの偏諱である。
l この前年に小田原北條氏に内通し、父であり岩付城主であった太田資正を追い出した。
m 今川家の当主・氏真の正妻は氏康の娘・早川殿である。
n 自分の息子を養子(のちの上杉景虎)に出してまで同盟を締結したが上杉謙信は一向に氏康との盟約(援軍派遣)を実行しなかったため。
o 佐竹義重は相越同盟が気に入らなかったと云う説が専ら。このわだかまりのために謙信との同陣を拒んだ。
p この四年後、謙信は越山して小田原北條氏と決戦したあとに再び上洛する計画であったが、その直前に帰らぬ人になった。
q 日光東照宮参詣のために造られた日光街道の脇往還。この城下町に関宿宿《セキヤド・ジュク》があった。
r 豊臣軍の他に、秀吉の命で佐竹氏・結城氏らの北関東勢にも攻められる可能性があった。
s 歴代藩主8家から老中22名、京都所司代3名を輩出したことから、関宿城は「出世城」とも呼ばれた。
t 「寛文十一年辛亥世喜宿・・・公儀御願相済富士見御櫓之形ヲ以建直ル・・・」と記されている。
u 現在の茨城県古河市水海で、ここ千葉県野田市関宿町からは利根川を挟んで北へ4kmほどの場所。
v 牧野氏が最後の城主を務めたのは二代藩主の牧野成春《マキノ・ナリハル》。このあと久世家が歴代の城主となる。
w 「関宿はやま工業団地行き」だと「工業団地入口」が最寄りのバス停(当時)。
x 京に居る足利将軍の代理として関東へ派遣された、いわゆる副将軍であり、補佐役の関東管領と共に関東の豪族らと取りまとめる武家社会のリーダー役であった。
y 下総国に飯沼、結城、大鹿、そして関宿の四つ。
z 大胡藩主の牧野康成《マキノ・ヤスナリ》とは同姓同名の別人(読みが異なる)。

2 個のコメント

  1. ミケフォ

    今回の投稿から Google Map Plugin の使用を止めることにした。
    Pay Free での使用だとすぐに
    Geocode was not successful for the following reason: OVER_QUERY_LIMIT
    となって何も表示されなくなる上に、編集中も警告が出てうるさい。
    これからは Google Dependency を排除する方向で。

    • ミケフォ

      この投稿で使用している OSM plugin の機能はまぁまぁ。
      但し、同じ投稿内で使用することが可能なマーカー数は一つだけなのが痛い。すなわちこの投稿の中に複数の地図を表示できるが、マーカーは一つだけ(最後に作った地図だけ)にか表示されない。ふm。

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