小金城の鬼門である艮の方角にあった達磨口跡には土塁が残る

下総国北部一帯にかかる下総台地から伸びた台地と利根川(現在の江戸川[a]戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。)に挟まれるように形成されたいくつかの丘陵に跨って築かれ、中世城郭として最盛期には下総国北西部において最大級の南北約600m、東西約800mに及ぶ広大な城域を有していた小金城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。《コガネ・ジョウ》は、16世紀前半に千葉氏の家臣であり東葛地方[c]東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。に勢力を誇った高城氏の居城であった。この平山城は15mほどの高低差と複雑に入り組んだ地形を利用して、高さ2mほどの土塁と深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、台地を削平して複数の郭を配していたと云う。戦国時代末には小田原北條氏の配下に入り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では東海道北上勢の浅野長吉[d]のちの浅野長政。《アサノ・ナガヨシ》に攻囲されて落城した[e]その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。。その後、関東に入封した徳川家康の五男・松平信吉[f]現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。が3万石で小金城に入城するも佐倉城に転封となった後に廃城となった。現在は宅地化で消滅した土塁や畝堀など一部の遺構が復元されて、大谷口歴史公園として公開されている。

今となっては六年前は、平成29(2017)年の小暑《ショウショ》の候過ぎの平日[g]漫画の日。旧暦だと徳川家三代将軍・家光の誕生日。父は二代将軍の秀忠、母は江《ゴウ》の名で知られる崇源院。に、千葉県松戸市にあった小金城跡を攻めてきた。この日は、まず野田市関宿にあった城跡を攻める予定であったが手違い[h]あらかじめ調べておいたバスがダイヤ改正で無くなっていた。せっかく平日に休みをとって早起きしたのに、乗車予定の駅で知る羽目に  😕️。で取り止めて、この城跡を攻めたあと帰りに立ち寄る[i]ホント気持ち的には時間に余裕があったら散策する程度に考えていた 😅️。予定だった小金城跡へ直行した。そして、最寄り駅である新松戸駅を出てたら、そのまま駅前通りを大谷口歴史公園方面へ北上した。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、小金城跡の城域として郭や虎口の他、今回巡ってきた場所にを書き入れたもの:

達磨口跡にあった説明図を現代の地図上に重畳したもの

小金城跡の城域(含む推定)

この図にあるとおり、現代の城跡はその大部分が宅地化の波に埋もれ消滅してしまっているが、大勝院の西側にある大谷口歴史公園内に遺構の一部が復元されている。

これは公園東側の達磨口跡に建っていた説明板の図。この図は『松戸市史』に掲載されている「小金城跡測量図」がベースになっている。水色部分が空堀(または低地)らしい:

小金城の城域を描いた図(「小金城達磨口跡」の説明板より)

小金城の城域(拡大版)

この図から、往時の小金城は、現在のJR北小金駅の北西一帯、西方の低地を臨む台地上に位置し、城域の南北二方に大きな谷が張り込み、その先端が湾曲することで城域東端の台地を狭め、周囲を谷に囲まれた独立性の高い地形を利用して築かれた巨大な城であったのが分かる。

まず新松戸駅から北上し高架をくぐった先に坂道が見えてくるが、この交差点あたりが小金城の虎口の一つである大谷口《オオヤグチ》:

城南側の虎口で、右手の丘が馬場山跡、坂の上が外番場跡

大谷口跡

虎口跡を過ぎたところのマンション脇[j]大谷口コーポと云うらしい。に「小金大谷口城跡」と彫られた石碑があった:

県道R280沿いの大谷口コーポのある交差点脇にある

「小金大谷口城跡」の石碑

この石碑の前が中城《ナカジョウ》跡。往時は工事中であったが、執筆時現在はその一角が児童公園になっている:

さらに、この先には本城跡がある

中城跡

中城跡を過ぎると、今度は緩やかな下り坂になり、その通りから逸れたところには大谷口鎮守・神明神社《シンメイ・ジンジャ》がある:

小金城の城鎮守として往時の馬屋敷の場所に建つ神社

大谷口・神明神社と馬屋敷跡

ここに建っていた由緒によると、この神社は小金城主の高城氏が戦国時代の天文年間(1532〜1554年)に、城の鎮守として馬屋敷の地に創建、廃城後に家臣団が帰農して大谷口村を興す時、この神社を村の鎮守としたと云う。現在の社殿は、江戸時代にこの地を任された旗本の後継者が明治時代に建てたものらしい。

さらに北上して公園南側の坂道を登り、番場跡にある真言宗・豊山派・大勝院《ダイショウイン》へ。この寺院は、はじめ根木内城《ネギウチジョウ》内にあった:

宅地化と道路敷設などで城郭の一部が破壊されているようだ

番場跡

根木内城の祈願寺から小金城内へ移転してきた

真言宗・豊山派・大勝院

戦国時代の享禄3(1530)年に根木内城主であった高城下野守胤吉《タカギ・シモツケノカミ・タネヨシ》と胤辰《タネタツ》父子が手狭になった根木内城に代わり、この高台の地に自然の谷[k]屹り立った高台は利根川(現在の江戸川)の氾濫によって形成されたという。を利用して堀や土塁を穿いて小金城を築いて新たな居城としたと云う。

ただ、最近の研究では高城氏が小金城を築いたのではなく、既に小金城は存在し、同じ千葉氏の家臣であった原氏が城主であって、のちに高城氏が城主になったと云う説もある。この時、原氏が城主の時代の小金城は高城氏の時代よりも規模は小さく、高城氏の居城であった根木内城の支城であったが、のちに高城氏が城主となった時に大規模な改修と整備が行われたと云うのだとか。

高城氏が小金城に移った際に城内の鬼門を案じ、ここ番場に大勝院を移転して天文6(1537)年に開山、以後、小金城主を務めた高城一族の祈願寺となり、遠矢山・大勝院と云う寺名が付けられたと云う。

しかし天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で、浅野長吉の軍勢に攻められ、大勝院は城と共に焼失した。その後、関八州を賜った徳川家康の五男・武田信吉が入城するも二年後の文禄元(1592)年には廃城になったため、寺運を十分に復旧することはできなかった。寺運が回復したのは明治時代に入ってからと云う。

このあとは坂を下り、堀跡であった道路を通って大谷口歴史公園の北側へ回り込む。ここは小金城北側にあった虎口の一つで、金杉口《カナスギグチ》跡にあたり、大谷口歴公園の碑があった:

ここは小金城に四つあった虎口の一つで金杉口跡

大谷口歴史公園の碑

碑の上に置かれた兜の前立は、小金城主の高城氏が、妙見由来の三日月と星一つをあしらった「月星紋」を家紋とする千葉氏の家臣であったこと表しているのだろうか。

こちらは園内に建っていた説明板から『金杉口跡復原図(田中祥彦氏作図)』に加筆したもの:

この図に描かれた場所が大谷口歴史公園の敷地になる

金杉口跡復原図(加筆あり)

小金城には城の東にある大手口、北東にある達磨口、北にある金杉口、南にある大谷口の四つの虎口があったと云われている。大谷口から城内へ入り、堀底道を進むと正面に高い城塁が出現するため北へ進まざるをえなくなる。そこにあるのが、ここ金杉口であり、三段の階段を登ると枡形虎口に至り、そこには門柱を建てた土壇で囲まれていたらしい。

それから公園入口から公園内へ移動する。階段を登った先が枡形虎口跡:

金杉口の枡形虎口を模擬していた冠木門

枡形虎口の金杉口跡

逆L字型の内枡形の虎口になっている

公園入口

この公園は児童公園の類とは異なり、入口に模擬の冠木門が建つ他、土塁や障子堀、畝堀といった小金城の遺構の一部が復原された歴史公園である。

こちらは虎口跡から見上げた番場跡の切岸。説明板によると、自然の斜面を削って急傾斜とし、さらに土を盛って人工的に造った空間(郭)とのこと:

発掘調査では、この左手に障子堀、右手に畝堀が出土した

番場跡の切岸

そして、この番場跡に上がる階段が奥にあるので、このまま腰郭跡を進んでいくと障子堀(復原)があった:

堀底の歩行を難しくするために、高さ2mほどの間仕切り(障子)がある空堀

検出された障子堀(拡大版)

復元された金杉口の障子堀(ほとんど風化していた)

堀(障子堀)

金杉口の虎口から約20mほどの腰郭に幅4m以上、深さ2.5mほどの空堀があり、堀底には高さ2mほどの間仕切り(障子)が一つ造られていた。堀底を進んできた寄手を、その障子で侵攻を遮るのが目的だった。また、この堀は砂地を掘り下げて造られているので、非常に水はけがよく、水濠にはならなかったらしい。

まぁ、実際に見ると復原されていた堀はだいぶ埋もれ、障子も風化していたが。

この先にある階段から番場跡へ。この階段からして意外と切岸は高い:

この上が番場跡(それほど急斜面ではないが)

階段

金杉口にある郭で、周囲は土塁が巡らされていた

番場跡

この郭の周囲には西側から北側にかけてL字状に土居が巡らされていた:

武者走り状の土居が取り巻いていた

土塁(土居)

その高さから、この土居は寄手の侵入を防ぐと云うよりも郭内の遮蔽を目的に設けられたと考えられている。城内では、他に粘土や関東ロームの赤土をそれぞれ突き固めて交互にt積み挙げた土居も確認されているのだとか。

ここには小金城(別称・大谷口城)跡の碑が建っていた:

碑文は文字が小さくて読みづらかった...🤐️

小金城(別称・大谷口城)跡の碑

小金城(大谷口城)は下総台地西端にあって、高低差が15mほどの複雑な地形を利用し、大規模な土木工事(削平・掘削・盛土)を施すことによって土居や空堀を縦横に巡らせ、台地上を区画し本城・中城・番場など多くの郭を連続して配した平山城であった。

城主の高城氏は千葉氏の家臣、または千葉氏の庶流である原氏の一族と云う説がある。戦国時代末期には東葛地方最大で、下総国で有数の領主であり、のちに小田原北條氏の他国衆に与した。

昭和の時代の10回に及ぶ発掘調査では、中国産や国産の陶磁器類、土鍋、石臼等の他、角釘《カククギ》、刀子《トウス》、銅銭《ドウセン》、弾丸、五輪塔の一部といったものが出土したのだとか。

その奥には畝堀が復原されているらしいが、その畝は風化していて見る影もなかった:

幅7m、深さ約3mの堀の底に畝が見つかった

発掘調査後の畝堀

復原されていたらしい畝は完全に無くなっていた・・・ 😐️

畝堀(復原)

この畝堀は、先の「金杉口跡復原図」にあるとおり、竪堀となって谷津(現在は道路)へ落ち込んでいた:

竪堀となって落ち込んだところも復原されていた

畝堀(復原)

このあとは公園を出て大勝院の南側にある病院脇の坂を東へ抜けた。この坂は小金城北東側の虎口方面へ向かう空堀跡になる:

達磨口方面にある坂や階段部分は空堀跡

空堀跡

達磨口方面にある坂や階段部分は空堀跡

空堀跡

坂を下りきったところで達磨口《ダルマグチ》跡の遺構を観ることができた:

私有地だったものが、松戸市に寄贈されて保護された遺構

達磨口跡

達磨口の大土塁:

さらにフェンスがあり、フェンスを越えて中には入れない

大土塁

ここ達磨口跡は私有地であったが昭和の時代に松戸市教育委員会へ寄贈されたもので、この大土塁は保護のためフェンスで囲われて立ち入りは不可で、公開されていたのは、この大土塁の真向かいにある櫓台風の小さい土塁。伝承によると昼は架け渡し、夜は回転させることが可能な木橋が造られていたらしい:

ここには跳ね橋があったらしいが詳細は不明

櫓台風の土塁

ベンチがあるので、それなりに改変(削平)されているかも

土塁上


戦国時代、東葛地方最大の領主であり小金城の城主であった高城家五代当主の胤辰《タネトキ》は、主君である千葉胤富《チバ・タネトミ》に従い、小田原北條氏の他国衆として臣従した。そして嫡男の胤則《タネノリ》は永禄9(1566)年に上杉輝虎[l]言わずと知れた、のちの上杉謙信が小金領に侵行した際、小金城に籠城して越後の精兵の攻撃をしのぎ、攻略が難しいとして囲みを解いた上杉勢は矛先を船橋へ転じ臼井城攻略へと向かったと云う。

この越後上杉勢の侵攻以来、高城氏最大の危機が天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置であった。この時は胤則は小田原城に籠城し、家臣が小金城に籠城したが、秀吉麾下の浅野長吉らに攻められて落城した[m]小田原城に籠城していた胤則が降伏・開城の命を出していたと云う説あり。。そして高城家は小田原北條氏に与したことを咎められ、小金城を含む所領は没収されてしまった:

緑円内が小金城(石田堤史跡公園に置かれていた説明図より)

「小田原征伐時の関東」(拡大版)

所領を失った高城勢の多くが帰農した中、胤則は蒲生飛騨守氏郷に預けられたのちに御家再興の機会を窺ったが果たすことはできなかった。しかしながら嫡男の胤重《タネシゲ》はのちに幕府の旗本に取り立てられて、家名を守ることができたと云う。

ちなみに胤則の妻は、織田信長の重臣の一人で権六の通称で知られた柴田修理亮勝家《シバタ・シュリノスケ・カツイエ》の養女[n]実父は北ノ庄城で主人である勝家を介錯して、その後に天守を爆破して殉死した家臣の中村聞荷斎《ナカムラ・ブンカサイ》と伝わる。である。


達磨口跡を南下して、いっきに谷津(堀跡)から坂を上がった先が大手口跡。こちらは、その大手口跡から天神山方面の谷津を見下ろしたところ:

大手口から坂を下った道路(堀跡)の先が天神山(向台館跡)

大手口跡から見下ろした谷津

大手口(手前)下の谷津の先が慶林寺方面

大手口跡から見下ろした谷津

大手口跡には現在、県道R280(白井流山線)が通っている:

県道R280沿いが大手口跡

大手口跡

最後は大谷口歴史公園にあった注意書き:

IMGP4937.resized

「花火禁止」

以上で、小金城攻めは終了。

See Also下総小金城攻め (フォト集)
See Also下総小金城支砦群 (フォト集)

【参考情報】

下総小金城支砦群と高城氏墓所

本稿の「下総小金城」を執筆中に、その城主を務めた東葛地方の雄・高城氏について情報を得てみると、小金城跡に対していくつかの見落としに気づいたので、昨日は令和5(2023)年の啓蟄の候すぎの週末[o]2011年に観測史上最大規模の東北地方太平洋沖地震が発生した日。旧暦だと初代天皇である神武天皇が没した日。甲斐武田家が滅亡した日。 に、支砦群や高城氏ゆかりの寺院を巡ってきた。

この日は朝9時過ぎにJR常磐線・我孫子行で馬橋駅に到着し、そこで流鉄流山線に乗り継ついで小金城趾駅で下車。そこから下総小金城を中心として反時計回りに北小金井駅を目指しながら支砦群などを巡ってきた。北小金駅へ到着後、さらに駅東口から徒歩10分ほどのところにある東漸寺《トウゼンジ》も足を延ばしてきた :)

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、小金城跡とその周囲にあって、その支城とも砦や出郭、あるいは館跡とも伝わる城跡の位置(推定含む)と関連ある施設名をで書き入れたもの:

支砦群跡の施設名も併せて記した(一部の城跡は後日攻めてきた)

小金城跡とその支砦群跡(含む推定)

図中の赤色破線のエリアが先に紹介した小金城跡の城域(含む推定)に相当する。根木内城跡前ケ崎城跡はそれぞれ最近攻めてきた城跡[p]城攻め当時は小金城との関係については殆ど知らなかったけど 😑️。

そして、今回の支砦群攻めでトレースしたGPSアクティビティがこちら。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は6.79km、所要時間は2時間16分(うち移動時間は1時間32分)ほど:

小金城趾駅からスタートして北小金駅近くの東漸寺がゴール

My GPS Activity

実際に巡ってきた支砦群や高城氏ゆかりの寺院はこちら:

小金城趾駅東口 → 広徳寺(中金杉城跡)・高城氏墓所貝塚公園(幸田城跡)殿平賀公園(殿平賀城跡)→ (小金城達磨口跡) → 天神山と向台館跡 → (大手口跡)→ 慶林寺 → (北小金駅)→ 東漸寺 → ・・・ → 北小金駅

曹洞宗・金龍山・広徳寺(中金杉城跡)と高城氏墓所

曹洞宗・金龍山・広徳寺とその北にある医王寺周辺は小金城の金杉口近くに築かれた支砦群の一つとされるが、明確な遺構は残っていない。しかしながら小金城主の高城氏にゆかりある寺院であり、居城を移した際[q]前述のとおり諸説あり。に栗ケ沢にあった広徳寺も移転してきたとのことで、居城近くの高台にあるのはそれなりに意味のあるのではないだろうか:

小金城主・高城氏の菩提寺で、他に中金杉城跡とも

曹洞宗・金龍山・広徳寺

境内の大部分は削平されており、城または砦であったことを示す遺構らしきものは残っていない:

御本尊はお釈迦さまで、時代を感じる鐘楼や本堂が建っていた

境内

広徳寺の開創は室町時代で、開基は高城下野守胤吉《タカギ・シモツケノカミ・タネヨシ》公で、御本尊はお釈迦さま。関東圏内に十ヶ寺ほどの末山寺院《マッサンジイン》があると云う。

境内へ入ってすぐ左手の高台上に高城氏の墓所(市指定史跡)がある:

江戸時代に、子孫の高城清右衛門胤親が建立したもの

高城氏の墓所

「下総国小金城主・高城治部大夫胤忠公、高城下野守胤吉公、高城越前守胤廣公」代々の墓で、江戸時代に幕府の旗本であった高城胤親《タカギ・タネチカ》が建立したもの。

東葛の覇者である高城氏は出自に謎が多い一族だそうで、現存する系図『寛政重修諸家譜』には紀州国出身で藤原姓二階堂氏の流れを汲む一族であったとか、紀伊国熊野新宮の地侍であったと云う説があるらしい。現代の専らな説としては平姓で下総国守護・千葉氏の流れを汲む族臣[r]一族に組み入れられていた家臣。とされ、往時、千葉家中を牛耳っていた原氏の重臣であったと云うもの。先に藤原姓を名乗ったのは、江戸時代に高城胤則《タカギ・タネノリ》の子・重胤《シゲタネ》が幕府の旗本に任官するに及んで、小田原で徳川氏と敵対した千葉氏の出身であることを隠したかったから、やむを得ず母方の藤原姓を名乗ったと考えられている。御家の勢いが最も大きかった四代当主の胤吉《タネヨシ》、五代当主・胤辰《タネトキ》、六代当主・胤則の系譜は確かであるが、それ以前は明確ではないらしい。

墓石に彫られた「高城治部大夫胤忠《タカギ・ジブノタユウ・タネタダ》」は高城家初代当主、「高城越前守胤廣《タカギ・エチゼンノカミ・タネヒロ》」は二代当主、「高城下野守胤吉《タカギ・シモツケノカミ・タネヨシ》」は四代当主である。なお胤忠は二階堂山城胤行の一男と記されていた。

 墓所入口前に建っていた「小金城主高城公ゆかりの弁財天」なる案内板に従って下りていくと弁財天像と石祠があった:

根木内城から移設され、江戸時代に建て直しされたもの

小金城主高城公ゆかりの弁財天

この石祠は高城胤吉が根木内城から小金城に居城を移した際に、約4cmほどの弁財天さまも一緒に移設したとのこと。江戸時代後期に建て直しされて現在に至る。

こちらは境内から小金城の金杉口跡にある大谷口歴史公園方面の眺め。現代の道路は堀跡だろう:

正面の杜が大谷口歴史公園で、その高低差から道路は堀跡だろう

境内から小金城金杉口方面の眺め

このあとは貝塚公園へ向って北上した。

貝塚公園(幸田第一公園)と幸田城跡

こちらは貝塚公園へ向かう途中にある緩やかな傾斜をもつ坂。これも古くに利根川(現在の江戸川)の氾濫によって形成された地形だろうか:

かって利根川の氾濫によって削られた地形だろうか

幸田城跡へ続く坂

広徳寺があった丘陵も低い場所に造成された高台が幸田第一公園《コウデ・ダイイチコウエン》こと貝塚公園:

発掘調査で縄文時代あたりの土器や住居跡が出土した

貝塚公園

城塁のような高台の中に貝塚や住居跡が保存されている

貝塚公園

昭和の時代に発掘調査が実施され、旧石器時代と縄文時代と古墳時代の土器や石器が検出された。その他にも縄文時代の竪穴住居跡が160軒以上検出され、全国的にも少ない集落跡とされ、平成の時代に「幸田貝塚《コウデ・カイヅカ》」として市指定史跡に認定された:

縄文前期の貝塚で、住居跡・土器・石器等が出土した

幸田貝塚の碑

この発掘跡地から幸田城《コウデ・ジョウ》跡の遺構は発見されておらず、史料にも登場しない城(または砦)であるが、小金城の北に位置し、標高18mの半島状に突き出た台地上に物見台や家臣団の住居などなんらかの施設があったと推測されている。

このあとは小金城の達磨口方面へ南下した。

殿平賀公園周辺と殿平賀城跡

殿平賀公園《トノヒラガ・コウエン》もまた縄文時代の環状貝塚で、住居跡や土杭の他、土器や石器、骨角器《コッカクキ》などが検出された:

現在は普通の児童公園で、城跡とは想像できない

殿平賀公園

環状貝塚の一つであるが、小学校造成に伴う工事で消滅した

殿平賀遺跡

貝塚があった台地は小学校造成のために削られ、その際に殿平賀遺跡の大部分が消滅したらしい:

本来はさらに広い高台だが小学校建設で削られた

殿平賀公園がある高台

貝塚同様に、この台地には小金城と同じ戦国時代に築かれた殿平賀城があったと云う説があるが、台地の先端部分の大部分が破壊されて存在しないため遺構は残っていない。ただ小学校の建設中に城郭の遺構が発見されたと云った話もあるらしい:

正面遠くに見える杜が大谷口歴史公園あたり

小金城の金杉口跡方面

貝塚や城があった台地を削って建てられた小学校

市立殿平賀小学校

台地が破壊されているが、公園がある高台から小金城金杉口を臨める距離にあり、往時は堀底であった通りを挟んで天神山と向かいあった立地であることから、堀底道を監視する何らかの施設があったことが推測できる。

天神山と向台館跡

小金城の達磨口と堀を挟んだ東側の舌状台地先端を天神山と呼び、そこは小金城の支砦群の一つである向台館《ムカイダイヤカタ》跡とされ、有事の際には砦にもなった家臣団の屋敷跡と考えられている。しかし他の支砦群と同様に遺構は確認できなかった:

手前の道路が堀跡、丘の上にある杜が天神山

天神山と向台館跡

現在はこの台地の一部を掘削して道路が敷かれ、台地先端には杜が残っていた:

この下にある堀跡(道路)からの高低差もなかなか

台地を掘削して造った道路

舌状台地の先端部にある杜を天神山と云らしい

天神山

現在は堀底跡とされる道路と天神山がある台地との高低差に、往時は小金城の一部であったことをうかがい知ることができた感じがする。

曹洞宗・熊耳山・慶林寺

こちらは小金城の大手口跡近くにある曹洞宗の寺院、熊耳山《ユウジサン》・慶林寺:

小金城主・高城氏ゆかりの寺院の一つ

曹洞宗・熊耳山・慶林寺

この寺院も、小金城主・高城氏ゆかりの寺院。開創は永禄8(1565)年。はじめは桂林寺の名だったが、天正18(1590)年の小田原仕置後に関八州へ移封された徳川家康より、御朱印10石を賜って慶林寺に寺名を改めた。

高城家四代当主の胤吉《タネヨシ》が、永禄8(1565)年に病没すると、公の妻がその菩提を弔うために髪を下ろして桂林尼《ケイリンニ》と号し、慶林寺が建つこの場所に庵を建てた。そして桂林尼の死後、子の胤辰《タネタツ》が母の御霊を弔うために桂林寺を建立したと云う。本堂裏手には桂林尼の墓所(市指定史跡)があるらしい。

浄土宗・佛法山・東漸寺

JR常磐線の北小金駅南口から徒歩7ほどのところにある佛法山・東漸寺《ブッポウザン・トウゼンジ》は浄土宗の寺院で、戦国時代初めの文明13(1481)年に高城氏が城主を務めた根木内城内に創建され、戦国時代後期の天文8(1537)年に小金城へ居城を移した際に、この寺も現在の場所へ移ったと考えられている:

根木内城・小金城の城主を務めた高城氏ゆかりの寺院

浄土宗・佛法山・東漸寺の総門

戦国時代、小金城は東葛地域の政治的、そして軍事的な中心にあり、東漸寺もまた高城氏の庇護のもとに発展した。寺宝の中に、小金城主高城氏が東漸寺の安全を保証するために発給した制札《セイサツ》が現存している。

こちらは江戸時代後期の享和4(1804)年建立の山門(仁王門):

江戸時代後期の建立

仁王門である山門

真っ直ぐな参道の先に建つ中雀門は明治時代初めの建立。参道を挟んで開山堂と対面にあるのが鐘楼:

まっすぐの参道の先に見えてくる門

中雀門

昭和の時代に他の門と同じく改修が施された

鐘楼

戦国時代末期に関八州を賜って江戸に入封した徳川家康は、ここ東葛地方も治めることになり、高城氏に代わって浄土宗の東漸寺も幕府の庇護を受けて寺領は大きく発展した。また、関東十八檀林《カントウ・ジュウハチダンリン》[s]他に武蔵国の増上寺(東京都港区)や伝通院(東京都文京区)、相模国の光明寺(鎌倉)などがある。と云う浄土宗学問所の一つに認定され、多くの堂宇と末寺を擁して大寺院へと発展した。

こちらは本堂と、堂内にある御尊像・阿弥陀如来さま:

江戸時代中期に再建、昭和の時代に改修された

本堂

浄土宗の御本尊

阿弥陀如来さま

この背景には、増上寺の第十七代住職・ 照譽了学《ショウヨ・リョウガク》の存在があると云う。この了学は小金城主・高城下野守胤吉の三男であり、若い頃に出家して東漸寺に入り、のちに家康の授戒師[t]仏の制戒を授ける者。《ジュカイシ》を務め、二代将軍・秀忠にも信頼が厚く、秀忠の葬儀では大導師を務めたのだと云う。

了学はまた、大多喜城主の本多平八郎忠勝に招かれて良信寺(現在の良玄寺)を創建した。忠勝が亡くなった際に葬儀を仕切ったのも了学である。

こちらは聖観音菩薩像が安置されている観音堂前に立つしだれ桜:

樹齢300年以上のしだれ桜

しだれ桜

以上で小金城支砦群攻めは終了。

See Also下総小金城支砦群 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。
c 東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。
d のちの浅野長政。
e その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。
f 現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。
g 漫画の日。旧暦だと徳川家三代将軍・家光の誕生日。父は二代将軍の秀忠、母は江《ゴウ》の名で知られる崇源院。
h あらかじめ調べておいたバスがダイヤ改正で無くなっていた。せっかく平日に休みをとって早起きしたのに、乗車予定の駅で知る羽目に  😕️。
i ホント気持ち的には時間に余裕があったら散策する程度に考えていた 😅️。
j 大谷口コーポと云うらしい。
k 屹り立った高台は利根川(現在の江戸川)の氾濫によって形成されたという。
l 言わずと知れた、のちの上杉謙信
m 小田原城に籠城していた胤則が降伏・開城の命を出していたと云う説あり。
n 実父は北ノ庄城で主人である勝家を介錯して、その後に天守を爆破して殉死した家臣の中村聞荷斎《ナカムラ・ブンカサイ》と伝わる。
o 2011年に観測史上最大規模の東北地方太平洋沖地震が発生した日。旧暦だと初代天皇である神武天皇が没した日。甲斐武田家が滅亡した日。
p 城攻め当時は小金城との関係については殆ど知らなかったけど 😑️。
q 前述のとおり諸説あり。
r 一族に組み入れられていた家臣。
s 他に武蔵国の増上寺(東京都港区)や伝通院(東京都文京区)、相模国の光明寺(鎌倉)などがある。
t 仏の制戒を授ける者。