花崎城山公園は、かって居館が建ち周囲に濠を巡らした花崎城だった

北関東の大宮台地[a]現在の埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる洪積台地《コウセキダイチ》。と猿島台地[b]現在の茨城県南西部の古河市から坂東市・守谷市・取手市あたりに伸びる台地。に挟まれた加須《カゾ》低地にあって、周囲が湿地帯の微高地[c]微地形または埋没台地とも。小規模で微細な起伏を持つ地形。に築かれていた花崎城は、築城者や築城年代などは不詳であるが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿[d]江戸幕府が編纂した武蔵国の地誌で、文化7(1810)年から約二十年を費やして完成した。現在は国立公文書館蔵。』《シンペン・ムサシ・フドキコウ》によると、戦国時代には濠を巡らした居館が建っていたとされ、さらに近隣で「太田荘の総鎮守」として知られた鷲宮神社[e]花崎城跡の最寄り駅で東武伊勢崎線・花崎駅の隣駅が鷲宮駅。に伝わる『莿萱《ハリガヤ》氏系図』によれば、同時代に鷲宮神主を務めていた細萱(大内)氏[f]はじめ「細萱《ホソガヤ》」を名乗っていたが、のちに「大内」改めたと云う。の居城・粟原城《アワバラ・ジョウ》の支城であったと云う。この一族は、この時代の一つ転換点となった河越夜戦後、古河公方の勢力から小田原北條氏の傘下に入り、姓を改めて北関東攻略の一翼を担ったと云う。花崎城跡は、昭和の時代の発掘調査で北條流築城術の特徴とされる畝濠や障子濠などが検出した他、縄文早期の土器や平安時代の住居跡も出土したと云う。現在は花崎遺跡として埼玉県加須市の文化財(史跡)に指定され、城の遺構は花崎城山公園下[g]東武伊勢崎線によって分断された城跡公園もその一部。に埋没保存されている。

今となっては六年前は、平成29(2017)年の小暑《ショウショ》の候すこし前の週末[h]南北朝時代にあって朝廷に仕えた忠臣の一人、新田義貞が討ち死した日(旧暦)。享年38。に、埼玉県は加須市にあった城跡をいくつか攻めてきた。午後は同市花崎にあった花崎城跡。午前中に攻めた私市城跡前からバスで東武伊勢崎線の加須駅へ向かい、そこからお隣の花崎駅へ移動した。

しかしながら残念なことに城跡である公園の名前を勘違いし、駅から全く逆方向にある公園へ向ってしまい、時間も体力[i]この日の埼玉県内はどこも真夏日で暑かった〜。も無駄にしてしまった:0。そう云う事情もあって、本当の城跡である花崎城山公園へたどり着いた時には集中力が切れてしまった上に、城跡の規模の小ささも相まって軽く巡ってくる程度で切上げてしまった。

で、いざ訪問記を書こうとしてもいい具合の資料を用意できなかったので、本稿執筆直前は令和5(2023)年の立春の候を過ぎた週末に再び攻めてきた。と云うことで本稿では主に今回攻めた時の花崎城跡を紹介する[j]一部は六年前の情報も含まれるが、特に表記として区別はしない。。また追加で巡ってきた、大内氏の本城・粟原城跡と関係が深い鷲宮神宮についても紹介する。ただ再訪した前日の関東地方は大雪の大荒れの天候で、城攻め当日は雪が残っていた公園を歩き回る羽目に :|。まぁ前日から打って変わって快晴となった上に、午後から暖かくなってくれたのが救いか。

この日はJR宇都宮線・久喜駅でTOBU伊勢崎線に乗り換え花崎駅で下車。駅北口から、まずは六年前は疲れ果てて巡り忘れた花崎城の馬出跡とされる花崎城跡公園へ向かった。それから線路を境に南側にある花崎城山公園へ。そのあとは花崎駅へ戻ってお隣の鷲宮駅へ移動し、そこから鷲宮神社を参詣して、その後ちょっと小腹が空いたので茶屋で一服してから、青毛堀川を渡って粟原城跡を攻めてきた。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、この日に巡ってきた主な場所を青色太字で書き入れたもの。六年前の花崎城攻めで間違った公園も一応記しておいた :D

(六年前は粟原城の存在もその場所も知らなかったのだが😅️)

花崎城跡と粟原城跡(拡大版)

こちらが今回の花崎城攻めでトレースしたGPSアクティビティ。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は1.44km、所要時間は36分ほど[k]なお城跡公園から城山公園までは、この図にあるような線路横断ではなく、遠回りに移動している。

(注意)線路北側の城跡公園から南側の城山公園へは遠回りで移動した

My GPS Activity

また、今回の城攻めでは公園前の説明板に印刷されていた「花崎遺跡」の上空写真を参考にした。この写真から分かる濠跡の位置を推測しながら現地を巡ってきた:

城の遺構に見えた濠跡などを加筆してみた(位置や規模などは推定を含む)

「花崎遺構」の上空写真(加筆あり)

これらの遺構の大部分は埋没保存されているが、現在の公園無内には赤色太字で示した内濠水濠跡を見ることができた。

こちらが花崎城山公園(東側入口):

入口は他に南側にもある

公園東側の入口

そして外濠にあたる場所は公園周囲の道路であろうか:

公園南側の道路

外濠跡

公園東側の道路

外濠跡

公園北側の道路

外濠跡

公園東側には平坦な広場があるが、ここには線路のある公園北側へ向って伸びていた畝濠が埋没保存されていると推測する:

現在の園内の杜を囲むように畝濠が伸びていたと思われる

公園東側の広場

現代版の木橋を渡って公園中央へ向って行くと、そこにあった郭跡のような場所を囲むように内濠跡が残っていた。水は郭跡の北側に溜まっていたが、南側は空堀状態であった:

公園中央部に残る郭跡を囲むように残る濠跡

内濠跡

公園中央にある郭跡

郭跡

公園中央部に残る郭跡を囲むように残る濠跡

内濠跡

この内濠跡は公園西側近くまで伸び他の水濠跡に分岐していたが、発掘当時の状態に合わせているのかもしれない:

公園中央部に残る郭跡を囲むように残る濠跡

内濠跡

水は溜まっていないが、内濠から分岐して北側へ伸びていた

水濠跡

公園西端も水濠跡であるが、こちらは現在でも水が溜まっていた。また周囲には僅かながら土塁跡もあった:

堀の周囲には若干ながら土塁跡も残っていた

水濠跡

堀の周囲には若干ながら土塁跡も残っていた

水濠跡

水濠とはいっても底はだいぶ埋没しており、一般的な公園の池ほど深くはなく、ただの水溜まりである:

堀底は経年埋没して堀とも池とも云えない水溜まりだった

水濠跡

これが上空写真にある水濠とすると、公園の外の道路あたりの地下には障子濠が眠っているのかも。そして、このまま公園中央の郭跡を時計回りに一周するように歩く。

こちらが公園中央にある郭跡。本郭に相当するものかどうかは不明:

公園中央にある広場は本郭に掃討する郭なのだろうか

郭跡

鷲宮神社の神主で、神社に隣接する粟原城主の細萱光仲《ホソガヤ・ミツナカ》は、はじめ古河公方の勢力下にあり、足利晴氏ら歴代の公方との結びつきが強かったが、天文15(1546)年の河越夜戦で古河公方と山内・扇ヶ谷両上杉氏ら連合軍が小田原北條氏に惨敗したあとは、その軍門に下ったと考えられる[l]その経緯は不明。古河公方・足利晴氏と北條氏康の娘との間に生まれた義氏が五代古河公方に就任し小田原北條氏による支配力が強まったからだろうか。

河越夜戦で敗れて越後に逃避した関東管領・上杉憲政の意を受けた上杉政虎が、永禄3(1560)年に北條氏康ら小田原北條勢を討伐するために越後の精兵を率いて越山し、太田資正ら旧上杉勢らと小田原城を目指して北條勢に与する支城を次々と攻略していったが、この時に光仲の粟原城と花崎城が長尾勢1千[m]一説に、景虎の家臣で木戸宮内少輔《キド・クナイショウユウ》なる者が大将だったらしい。に攻められて落城の憂き目にあった。往時、光仲は城兵70騎と小田原城に詰めており、居城の粟原城には光仲の嫡男・泰秀《ヤスヒデ》が重臣の針谷宗造《ハリガヤ・ムネゾウ》[n]はじめ「莿萱《ハリガヤ》」を名乗っていたが、のちに「針谷」に改めた。光仲と小田原城に籠城したが、途中で引揚げて粟原城へ戻った。らと籠城して防戦したもののかなわず、宗造の手引きで鷲宮神社に匿まわれたのちに、光仲の叔父にあたる大乗院秀全にあずけられて助かったが、粟原城とここ花崎城は焼き払われてしまったと云う。


この郭跡から北側に遊歩道が伸びているが、おそらくこの下には公園東側の広場あたりから伸びた畝濠が埋没保存されているのではないだろうか:

左手の線路奥に見える杜が馬出跡の城跡公園

公園北側の遊歩道

本来はもっと広く深いものだったのだろう

内濠跡

現在の花崎城跡は東武伊勢崎線によって南北に分断されてしまっているが、その線路を境に「城山公園」の北側にある「城跡公園」が花崎城の馬出跡らしい:

花崎城の馬出跡らしいが、他と同様に目立った遺構は無し

花崎城跡公園

馬出跡にしては南北に長い公園だった。その周囲にある道路は濠跡だろう:

城跡公園脇を走る道路は水濠跡だろう

濠跡と馬出跡

公園内は部分的に囲いがあったり土壇のようなものがあった。昭和の時代に発掘調査が行われた際、小さな畝や障子を残す7条の濠と2基の井戸などが検出されたらしいが、それに関係するのかも:

右手は自動車学校の敷地

馬出跡

ここで検出された畝濠は台地の端に沿って西から南へ巡り、東側で障子濠と平行し北側へ伸びていたと云う。さらに濠底からは16世紀前半の陶磁器が出土したとのこと。

ここ馬出跡から線路越しに主郭部の城山公園を眺めたのが、こちら:

城跡公園から線路を挟んで南側にある城山公園を眺めたところ

線路越しに城山公園

最後は城山公園にあった注意書き:

IMGP4452.resized

「ここにゴミをすてないで!!」

ひとまず、以上で花崎城攻めは終了。

See Also花崎城攻め (フォト集)
See Also花崎城攻め (2) (フォト集)

【参考情報】

鷲宮神社と粟原城(鷲宮城)

戦国時代の北関東における勢力図が大きく変わった河越夜戦から数十年後の天正2(1574)年、鷲宮神社の神主で、小田原北條氏から社領を安堵され、姓を細萱から大内に改めた晴泰《ハルヤス》[o]これを細萱光仲とする説あり。は、新たに小田原城の直轄領となった岩付城に入城し城代として支配を始めた北條氏繁[p]御一家衆の一人で、「地黄八幡」の勇将として知られる北條綱成の嫡男。の麾下に加わることとなった。これにより神社に隣接する晴泰の居城・粟原城(鷲宮城)とその支城である花崎城は、小田原北條氏の北関東攻略の最前線に位置づけられ、鷲宮神社を含め軍事的兵站基地としての働きを担うこととなった。

この鷲宮神社は、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡[q]国の重要文化財。現在は国立公文書館蔵。』にも登場する関東の古社である:

参道にそびえ立つ鳥居

「武蔵國・鷲宮神社」の鳥居

鳥居をくぐり参道を真っ直ぐ進んだ先に拝殿と本殿がある:

銅板屋根葺き替えが行われる前の拝殿

拝殿

本殿は明治の時代の建替え

拝殿と本殿

社名「鷲宮《ワシノミヤ》」の由来には複数の説があり、現在でも不明である。祭神は天穂日命《アメノホヒノミコト》と武夷鳥命《アケヒナトリノミコト》で、本殿と並んだ位置にある神埼社の祭神が大己貴命《オオナムヂノミコト》。

拝殿前にある燈籠型の記念碑は寛保治水碑と呼ばれ、埼玉県指定史跡である:

利根川改修に携わった長門国萩藩主・毛利宗広が奉納したもの

寛保治水碑

江戸時代の寛保2(1742)年に利根川が氾濫した際、江戸市中にも洪水が及んだため、幕府は西国の諸大名に堤防の修復を命じたが、羽生・私市《キサイ》領を含めた利根川右岸を担当したのが長門国萩藩の毛利家であった。工事は困難を極め、100万人にのぼる人足を要したと云う(いわゆる「寛保2年江戸洪水の手伝い普請」)。この碑は、堤防完成後に藩主で毛利家二十代当主の毛利宗広《モウリ・ムネヒロ》が鷲宮神社に奉納したもの。

鷲宮神社の参詣を終えたあと、神社と青毛堀川を挟んで西側にあったとされる粟原城跡へ向かった:

右手が鷲宮神社、左手が粟原城跡

青毛堀川

鷲宮神社の西側にの台地上に築かれていた粟原城は鷲宮城とも呼ばれ、小田原北條氏による北関東攻略の最前線に位置づけられ、神主である大内氏は城主としての軍役も担い、鷲宮在城衆と云う国衆の扱いとなっていたらしい。

こちらは鷲宮神社参詣と粟原城攻めでトレースしたGPSアクティビティ。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は1.99km、所要時間は45分ほど:

鷲宮神社をスタートして粟原城跡を一周してきた

My GPS Activity(TAKE2)

現在の城跡はほぼ完全に耕地化され、民家が建ち私有地のため立ち入ることはできず、遺構などを見ることは期待できないと思ったが、周囲を散策しながら地形からその名残を見て取れた:

城跡を含め周囲は平坦で遺構などは期待できなさそうだが…😐️

粟原城跡

例えば城跡外周に通る道路や用水路は濠跡と推測できる:

周囲より一段高く、屈曲した道路は濠跡だろうか

道路

お隣の道路と同様に濠跡だろうか

用水路

城跡を遠目に眺めると大木が見えたが、これも粟原城があった時代から生えていたと考えると「遺構」の一つなのかも知れない:

城跡の東側には大木が残るが、これも遺構かも

粟原城跡

青毛堀川沿いには土居らしきもの(あるいは改変跡)があったが、いかに:

この辺は意外と改変されていないのかも

土居跡?

以上で粟原城攻めは終了。

See Also鷲宮神社と粟原城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在の埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる洪積台地《コウセキダイチ》。
b 現在の茨城県南西部の古河市から坂東市・守谷市・取手市あたりに伸びる台地。
c 微地形または埋没台地とも。小規模で微細な起伏を持つ地形。
d 江戸幕府が編纂した武蔵国の地誌で、文化7(1810)年から約二十年を費やして完成した。現在は国立公文書館蔵。
e 花崎城跡の最寄り駅で東武伊勢崎線・花崎駅の隣駅が鷲宮駅。
f はじめ「細萱《ホソガヤ》」を名乗っていたが、のちに「大内」改めたと云う。
g 東武伊勢崎線によって分断された城跡公園もその一部。
h 南北朝時代にあって朝廷に仕えた忠臣の一人、新田義貞が討ち死した日(旧暦)。享年38。
i この日の埼玉県内はどこも真夏日で暑かった〜。
j 一部は六年前の情報も含まれるが、特に表記として区別はしない。
k なお城跡公園から城山公園までは、この図にあるような線路横断ではなく、遠回りに移動している。
l その経緯は不明。古河公方・足利晴氏と北條氏康の娘との間に生まれた義氏が五代古河公方に就任し小田原北條氏による支配力が強まったからだろうか。
m 一説に、景虎の家臣で木戸宮内少輔《キド・クナイショウユウ》なる者が大将だったらしい。
n はじめ「莿萱《ハリガヤ》」を名乗っていたが、のちに「針谷」に改めた。光仲と小田原城に籠城したが、途中で引揚げて粟原城へ戻った。
o これを細萱光仲とする説あり。
p 御一家衆の一人で、「地黄八幡」の勇将として知られる北條綱成の嫡男。
q 国の重要文化財。現在は国立公文書館蔵。