唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。
今となっては六年前は、平成29(2017)年の芒種の候を過ぎた週末[d]傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。に、群馬県と埼玉県にまたがるJR上野東京ライン沿いで、遺構がほとんど期待できない城跡をいくつか攻めてきた。この日の最後は深谷城跡。こちらもこの日攻めてきた他の城跡同様に、街の中に埋もれてしまっていて遺構はほとんど期待できず、模擬石垣や模擬濠のある城址公園周辺を巡る程度で、この時に見た遺構と云えば冒頭に挙げたように、公園と唐沢川の間にある富士浅間神社の境内を囲んでいた外濠跡くらいだった。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して城址公園周辺の主な Landmarks(目印となる場所)を書き入れたもの。六年前に攻めた際は縄張図と云った城域の分かる資料を持ち合わせていなかったので、この図にある深谷城址公園と富士浅間神社を巡ってきただけだった:
現在はその頃よりも参考となる情報が充実しているようで、全国遺跡報告一覧と云うサイトで『埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書27:深谷城跡(第3次)』(1991年 / 埼玉県深谷市教育委員会)なる資料を発見した。この中にある「深谷城跡推定図(1/5,000)」(P17)が推定縄張図と市街地とを重畳したもので、まさに街に埋もれてしまった城の痕跡を追跡する際に役立ちそうな図だった。但し、あくまでも発掘調査の結果を反映したものなので、実際の城域とは違っているかもしれないが。
この城跡推定部と、上の図とを重畳させてみたのがこちら。推定城域のうち濃い色が土塁、薄い色が濠跡である(規模や位置は推定):
この「深谷城跡推定図」から、六年前の城攻めでは見ていない遺構が現在も残っているらしいことを知ったので、本稿を完成させる前に今年は令和5(2023)年の大寒の候過ぎの週末[e]慶應2(1866)年に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれた日。に再び攻めてきた。また深谷城とゆかりある深谷上杉家の菩提寺・昌福寺《ショウフクジ》にも足を運んできた。加えて、こちらは別の日になるが、深谷上杉家六代当主・上杉憲賢《ウエスギ・ノリカタ》公夫妻の墓所と深谷城の土塁が残る高臺院(高台院)《コウダイイン》にも行ってきた。
こちらが今回の城攻めでトレースしたGPSアクティビティに「深谷城跡推定図」を重畳させたもの。実際に巡ってきた場所のうち、本稿で紹介する場所には①や②などの番号を付与してみた。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は3.52km、所要時間は1時間10分(うち移動時間は46分)ほど。なお⑯土塁がある高臺院は今回とは別の日に巡ってきた:
そして本稿で紹介する主な場所はこちら(六年前の城攻めを含む)。但し、あくまでも街に埋もれてしまった城跡なので遺構と思われている④と⑤と⑪と⑯以外は、すべて推定した痕跡[f]道路や暗渠の形など。である:
JR深谷駅北口 → ・・・ → ①外濠跡 → ②追手(大手)跡・外濠跡・掃部郭跡 → ③外濠跡 → ④土塁(管領稲荷神社) → ⑯土塁(高臺院)→ ⑤土塁跡(墓地) → ⑥外濠跡 → ⑦外濠跡 → ⑧外濠跡・搦手 → ⑨越中郭跡 → ⑩唐沢川 → ⑪外濠跡(富士浅間神社) → ⑫深谷城址公園 → ⑬本郭の内濠跡 → ⑭本郭跡 → ⑮外濠跡 → ・・・ → JR深谷駅北口
これは⑫深谷城址公園に建っていた説明板の「深谷古城図」。東に唐沢川が流れ、南に中山道・深谷宿とあるので江戸時代の深谷城だろう:
戦国時代に築かれた深谷城は、この武蔵国の利根川沿いにあった他の城[g]例えば、六年前の同じ日に攻めてきた武蔵本庄城とか。と同様に、徳川家康が関八州に入封したあとすぐには廃城にならず、家臣らに与えられて城下町や街道の整備、そして武蔵国全体の発展に寄与した。この城が廃城になったのは江戸時代の正保元(1644)年である。実に築城から180年以上も存在していた城であった。なお、この城の古絵図としては他に『諸国古城之図[h]東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。』に収録されている。
六年前は⑫深谷城址公園の周辺を巡ったが、二度目の今回は「深谷城跡推定図」に描かれた城域をなぞるように歩いてきた。
この日はまずJR深谷駅北口を出て北上し国道R17近くの住宅街へ。ドラッグストアとマンションの間にある暗渠と、道路を挟んで反対側に伸びる用水路は①外濠跡と思われる:
次は国道R17を渡って住宅街の路地裏へ。この辺りが②追手(大手)跡であるが、その痕跡としては道路を斜めに横切る暗渠だろうか。そうなると、この道路は土橋跡かもしれない:
横切った先を見てみると暗渠は完全に土中に埋もれていたが、おそらくこの先真っ直ぐに伸びているとすれば、ここも②外濠跡だろう:
そして追手跡と通りを挟んだ向こう側(北側)が②掃部郭《カモン・カク》跡[i]あるいは掃部屋敷跡。だろう:
この道路とコンクリート塀は外濠跡と土塁跡と見てもよいだろう。さらにその先の家が建つ場所には、往時は櫓が建っていた:
この外濠跡の道路を西へ向かって行くと深谷小学校通りにぶつかる[j]左折するとJR深谷駅北口方面、右折すると深谷小学校。真っ直ぐ進むと高臺院。が、ここも③外濠跡であろう:
このまま通りを小学校へ向って歩いていく。通り右手が②掃部郭跡で、④土塁で囲まれていたようだが、その一部が通りの路地裏に残っており、現在は管領稲荷神社が建っていた。土塁は道路によって寸断され、崩落防止なのかコンクリート壁で補強されていた。往時、この土塁の向こう側が掃部郭だった:
当時は深谷小学校通りへ戻って⑤土塁跡へ向かったのだが、その前に高臺院の境内に残る⑯土塁を紹介する。通りを挟んで西側にあるこの曹洞宗の寺院には、深谷城主で深谷上杉家六代当主であった上杉憲賢《ウエスギ・ノリカタ》とその夫人の供養塔がある他、深谷城外郭部(西郭?)の土塁が残っている:
こちらが本堂裏手の墓所近くに残る土塁:
室町時代に築かれた深谷城の土塁は、江戸時代に石垣で補強されたようで「寄進石垣・深谷宿・(某)」と刻まれた銘板が埋め込まれていた。しかし経年により内部で土塁が崩れ石垣が膨らんでいたが。
あと、ここに建つ永明稲荷神社は、深谷城築城時に深谷上杉家の家臣・高橋永明が創建し、城の戌亥《イヌイ》の方角(北西隅)を守護するために祀ったと伝わる:
ここからは城攻めに戻って、深谷小学校通りを小学校へ向って歩いていくと、校門手前左手のすこし高くなった場所に墓地があるが、ここは西郭の⑤土塁跡とされている。但し、だいぶ改変された上に削平されていたが:
そして深谷市立深谷小学校の正門。この敷地のうち左手奥が西郭跡、正面の校舎あたりが二ノ郭跡だった:
次に墓地脇の、往時は管領池と呼ばれていた⑥外濠跡(道路)に沿って歩いて小学校脇へ。ここから眺めた小学校の敷地が西郭跡である:
さらに歩いて小学校の北側へ回り込む。ちょうど学校北側の校門前が⑦外濠跡。小学校の敷地は西郭跡、二ノ郭跡にあたる:
さらに、この交差点角にある深谷生涯学習センターは櫓跡:
さらに⑦外濠跡に沿って道路を北上する。この特徴ある暗渠もまた⑧外濠跡だろう:
この通りにある駐車場は、深谷市によって発掘調査が行われたところであり、そこから障子濠が発見されたらしい。現在は埋没保存され、その上が駐車場になっている:
次は北郭跡の住宅街を抜けて深谷市民文化会館・深谷コミュニティセンター方面へ。これらの周辺にある住宅街は⑨越中郭跡で、文化会館が建つあたり東郭跡だろうか:
さらに城の東側を南北に流れていた⑩唐沢川[k]利根川水系の一級河川。へ。この川は天然の外濠であったろう:
そして、川沿い側道から富士浅間神社へ。この神社を遠景すると外郭土塁上に建っているのが分かる:
こちらが神社の参道正面。勧請は深谷城築城前の永享12(1440)年。鎮守として深谷城内に祀られた五つの社の一つ:
境内には他に稲荷神社、弁天社、琴平神社がある。江戸時代の寛永年間に深谷藩主で深谷城主だった酒井讃岐守忠勝《サカイ・サヌキノカミ・タダカツ》[l]家康の家臣・酒井備後守忠利《サカイ・ビンゴノカミ・タダトシ》の嫡男。徳川三代から四代将軍の時代の老中と大老を務めた。が再興し智形神社《チカタ・ジンジャ》と呼ばれ、明治時代に富士浅間神社に社号を改めたらしい。
深谷城廃城後も社を巡る外濠は池や水路として残り、現在も神社の境内を囲むように⑪外濠跡(市指定文化財)を見ることができた:
神社境内に残る外濠跡:
富士浅間神社の隣に⑫深谷城址公園がある:
公園には江戸時代の深谷城を模擬した塀や石垣などを見ることができる:
先の「深谷城跡推定図」によれば、公園化されているのは本郭跡の一部と東郭の一部にあたり、例えば深谷市民文化会館・深谷コミュニティセンターは東郭跡に建っている:
芝生広場の傾斜は郭や土塁の名残であろう:
公園東口へ伸びる遊歩道も位置的には⑬本郭の内濠跡で、右手にはその名残と云える用水路があった[m]寒いこの時期は、水は流れていなかったが。:
享徳の乱で古河公方らの侵攻に備えて、深谷上杉家の上杉房憲が築城した深谷城は、唐沢川や福川などに囲まれた低湿地を利用した沼城(平城)で、その地形を利用して深い濠や高い土塁を巡らしていたと云われ、その形状から木瓜城《ボケ・ジョウ》とも。
その後も深谷城は、常に北関東の騒乱の渦中に置かれたが小田原北條氏の傘下に降り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置によって開城するまで、憲清・憲賢・憲盛・氏憲と約134年間にわたり、上杉方の支城であった。
秀吉による小田原仕置の時、深谷上杉家八代当主の氏憲は本城の小田原城に籠城し、ここ深谷城は家老である秋元越中守長朝《アキモト・エッチュウノカミ・ナガトモ》[n]深谷上杉氏の家老の一人で、伊原家と岡庭家と共に武州深谷三人衆として知られた。のちに徳川家康に仕え館林藩秋元家初代、館林城主となる。と杉田因幡守、そして鉢形城からの応援勢が守備した。しかし鉢形城が陥落し、さらに前田利家や浅野長吉《アサノ・チョウキチ》[o]のちの浅野長政。ら北国勢の大軍が武蔵本庄城を攻撃するに及んで、長朝は深谷城の開城を決断、降伏した。しかし深谷上杉家は小田原北條氏に与したことを咎められ、深谷城を含む所領は没収されてしまった:
なお、深谷上杉氏の時代には深谷城を防衛するために東方城(深谷城の東約2.5㎞)、皿沼城(同北約0.8㎞)、曲田城(同西約2.0㎞)、秋元氏館(同南約1.6㎞)といった出城を四方に築いていた。
徳川家康の関東入封後は、長澤松平家の松平康直《マツダイラ・ヤスナオ》が城主となり、その後は家康の息子ら[p]家康の七男・松千代は6歳で早逝、六男・忠輝。が継ぎ、さらには櫻井松平家の松平忠重《マツダイラ・タダシゲ》、譜代家臣の酒井忠勝が城主を務めるも、忠勝が移封となると深谷藩は廃藩となり、寛永11(1634)年に深谷城は廃城となった。
廃城後の元禄5(1692)年くらいには城跡の開墾が許され、その後は土塁や濠の一部を残して殆どが耕地化されてしまったらしい。それでも昭和時代初め頃まではその形状を用留めていたが。現在は宅地化がさらに進んでごくごく一部の遺構しか残っていないが、近年の発掘調査では障子濠などが発見されている。
城址公園東側の入口と公園通りを挟んだところに断つ深谷市立図書館も⑭本郭跡:
こちらは城址公園通りと深谷市立小学校通りの交差点から眺めた⑭本郭跡。その大部分は小学校のグランドであった:
最後は城址公園通りを南下し再び国道R17を渡って、その先にあるラーメン屋近くへ。ラーメン屋の駐車場脇を流れる用水路は⑮外濠跡であろう。この先は①外濠跡につながっていると思われる:
以上で深谷城攻めは終了。
深谷城攻め (フォト集)
深谷城攻め (2) (フォト集)
深谷城攻め (3) (フォト集)
【参考情報】
- 深谷城址公園に建っていた説明板(深谷市)
- 富士浅間神社に建っていた説明板(深谷上杉顕彰会)
- 高臺院・永明稲荷神社に建っていた説明板(深谷上杉顕彰会 / 神社奉賛会)
- 『埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書27:深谷城跡(第3次)』(深谷市教育委員会)
- 『中世の城館跡 ー埼玉県大里・北埼玉地方ー』(埼玉県立歴史資料館)
- 日本の城探訪(深谷城)
- タクジローの日本全国お城めぐり(埼玉 > 武蔵 深谷城)
- 余湖図コレクション(埼玉県深谷市/深谷城)
- Wikipedia(深谷城)
- 上杉憲賢室高泰姫の墓-高台院-(埼玉県深谷市)(四季・めぐりめぐりて > 史跡・遺跡・文化財)
深谷城主・上杉房憲公墓所と昌福寺
埼玉県深谷市人見1391-1にある曹洞宗の人見山・昌福寺は、JR高崎線の深谷駅南口から徒歩30分ほどのところの仙元山公園近くにあり、深谷上杉家五代当主で、深谷城を築いた上杉右馬助房憲《ウエスギ・ウマノスケ・フサノリ》が父祖の冥福を祈るために創建した禅寺である。のちに房憲公と七代当主の上杉左兵衛佐憲盛《ウエスギ・サヒョウエノスケ・ノリモリ》公の墓が置かれ、現在は深谷上杉家累代の墓所になっている:
境内の背後に聳えているのが仙元山で、その山頂には深谷城内にもあった富士浅間神社が建っているのだとか。
仁王門である山門をくぐると右手に鐘楼が建っていた:
「昌福禅寺」と揮毫《キゴウ》された扁額が掲げられていた本堂:
本堂屋根の棟や鬼瓦、さらには鉄燈籠には五七桐紋があしらわれていた。なお、この紋が越後上杉氏の名跡を持つ長尾景虎(のちの上杉謙信)が上洛した際に室町幕府第十三代将軍・足利義輝《アシカガ・ヨシテル》から下賜され、それを深谷上杉氏も使用していたと云う説があるが、下賜されたのは五七桐紋ではなく菊桐紋《キクキリ・モン》が正しい[q]菊桐紋と並んで五三桐紋は天皇家で使われた。上洛時に景虎は後奈良天皇に拝謁している。。やはり深谷上杉家は関東管領上杉家の「竹に二羽飛び雀」紋を使用し、この紋は宗紋(寺紋)であると見るべきであろう。
深谷上杉家累代の墓所は本堂に向って左手奥にある:
石壇上に並ぶ供養塔(宝篋印塔)のいずれかが房憲公と憲盛公の墓(市指定文化財)であるようだが、脇の石碑に刻まれた文字が読めず詳細は不明:
深谷上杉家の始まりは、室町時代から関東に広く土着し、将軍足利家との血縁から得た大きな権力を背景に、世襲により勢力を広げていった武士団の中にあって、関東管領を拝命されるなど最も栄えていた山内上杉家である。山内上杉家初代当主・上杉憲顕《ウエスギ・ノリアキ》の子・憲英《ノリヒデ》が深谷上杉の祖であり、はじめ庁鼻和城《コバナワ・ジョウ》を居城としていたことから「庁鼻和上杉」と称していた。彼の曾孫で五代当主である房憲が、当時、敵対していた古河公方らの勢力に対抗するために築いた深谷城に入城すると「深谷上杉」に改めたと云う。
室町幕府から副将軍として関東へ派遣された鎌倉公方、のちに下総国の古河城へ拠点を移してから古河公方と呼ばれた足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を謀殺し、関東管領勢と関東を二分して争った享徳の乱が始まると、深谷上杉家の房憲も関東管領勢に加わって武蔵国の五十子城《イカッコ・ジョウ》に参陣し、各地で合戦を繰り広げた。
幕府から古河公方追討の綸旨[r]天皇の意思を伝える文書。が出され、将軍・足利義政《アシカガ・ヨシマサ》の弟・政知《マサトモ》が新たな鎌倉公方として派遣され[s]但し、鎌倉入りできず伊豆国の堀越に留まったため「堀越公方」と呼ばれた。、扇ヶ谷上杉家の家宰で稀代の築城軍略家であった太田道灌による攻勢が続く中、若くして関東管領職を拝命した山内上杉家の上杉顕定《ウエスギ・アキサダ》に反抗して武蔵国の鉢形城で反旗を翻した長尾景春《ナガオ・カゲハル》[t]伊藤潤作の『叛鬼』(講談社文庫)の主人公である。が古河公方勢と連携するなど、多くの複雑な要因がこの乱を長期化させることになった。
しかし30年近くに亘って関東各地を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱は、古河公方と室町幕府、そして関東管領・山内上杉氏との間で和睦が進み、一応の終結をみた。
その後も戦国時代の北武蔵にあって深谷城を拠点とした深谷上杉氏は、関東管領家であり一族の嫡流である山内上杉氏を支え、関東征伐に邁進していた小田原北條氏と争うなどした。しかし六代当主の憲賢《ノリカタ》の時代に上杉勢は河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で敗れ、小田原北條氏に降ることになった。
その後は、小田原北條氏の他に、越後の長尾景虎(上杉謙信)や甲斐の武田信玄と云った戦国大名が北関東を舞台に覇権を争った間《ハザマ》にあって、時には長尾(上杉)勢に与し、時には小田原北條氏に与するなど、巧みに主を変えて深谷上杉家の生き残りを図っていった[u]謙信の越山は領土獲得ではなく小田原北條氏や甲斐武田氏を征伐することが目的で、敵を駆逐すると帰国してしまい、結局は「イタチごっこ」だったため、主を変えざるを得なかった。。
深谷上杉家菩提寺 (フォト集)
【参考情報】
- 昌福寺に建っていた説明板(深谷上杉顕彰会)
- 昌福寺-深谷上杉氏菩提寺-(埼玉県深谷市)(四季・めぐりめぐりて > 神社仏閣)
- 『関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将』(埼玉県立文書館)の展示リーフレット
- 黒田基樹、他『シリーズ・中世関東武士の研究 第22巻・関東上杉氏一族』(戎光祥出版)
- Wikipedia(深谷上杉家)
深谷城主・上杉憲賢公墓所と高臺院永明寺
深谷上杉氏六代当主で深谷城主であった上杉憲賢公とその妻・高泰姫《タカヤスヒメ》が眠る高臺院は曹洞宗の寺院で山号は深谷山。憲賢の家臣・高橋永明の創建で、戦国時代末期の永禄年間(1558〜1569年)に高泰姫が夫・憲賢の菩提を弔うために再興開基し、姫の法号をとって高臺院永明寺と称した:
門前の石標には「深谷城主・上杉憲賢公 / 室・高泰姫 / 墓所・高臺院」と刻まれていた。
山門をくぐって境内に入ると正面に本堂が建つ:
屋根の棟や扉には山内(深谷)上杉氏の「竹に二羽飛び雀」紋があしらわれていた:
本堂に向って左手奥に「深谷城主上杉公夫妻之墓」(市指定史跡)があり、その背後に見えるのが深谷城の土塁の一部:
正面に置かれた宝篋印塔が高泰姫の墓で、塔身と基礎の四面に月輪で囲ん種子を配している。その右手の宝篋印塔が憲賢公の墓と云う。公の戒名は「義竹庵殿雲岑静賢大居士霊位」で永禄3(1560)年の逝去、室の戒名は「高泰院殿梅室元芳大姉霊位」で元亀4(1573)年の逝去。
憲賢は同族で関東管領家であった山内上杉氏を支え、上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》方の一将として小田原北條氏らと北関東の覇権を争った。天文14(1545)年の河越夜戦で敗れた後もしばらくは深谷城を守備したが、周囲の国衆らが小田原北条氏に降っていくに従い、憲賢とその嫡男の憲盛は北條氏康に降伏した。
憲賢が危篤となった折り、小田原北條氏に抗っていた上野国の新田金山城主・由良成繁《ユラ・ナリシゲ》が深谷城下に侵攻、憲盛は防ぎきれずに所領の一部を失った。
その後は、小田原北條氏の他に、越後の長尾景虎(上杉謙信)や甲斐の武田信玄と云った戦国大名が北関東を舞台に覇権を争った間《ハザマ》にあって、時には長尾(上杉)勢に与し、時には小田原北條氏に与するなど、巧みに主を変えて深谷上杉家の生き残りを図っていった。
元亀4(1573)年に憲盛は北條氏政・氏邦と和睦の誓紙を交わし、ついに深谷上杉氏は鉢形城主・北條氏邦の傘下に入ることとなった。この時、憲盛の嫡子・氏盛は北條氏政の娘[v]北條氏繁の娘で、氏政の養女。を娶っ氏憲《ウエスギ・ウジノリ》と改めた。これにより深谷上杉氏は完全に小田原北條氏に帰属したため、深谷城は小田原北條氏北條氏と敵対した上杉謙信や武田勝頼に攻められたと云う。
上杉憲賢公墓所と高臺院 (フォト集)
【参考情報】
- 高臺院に建っていた説明板(深谷上杉顕彰会 / 深谷市教育委員会)
- 『中世の城館跡 ー埼玉県大里・北埼玉地方ー』(埼玉県立歴史資料館)
- 上杉憲賢室高泰姫の墓-高台院-(埼玉県深谷市)(四季・めぐりめぐりて > 史跡・遺跡・文化財)
- 武蔵深谷 関東管領上杉氏庶流で河越合戦敗北を機に小田原北条氏の軍門に下った深谷上杉憲賢室開基の『高台院』散歩(4travel.jp > 国内 > 関東地方 > 埼玉県 > 深谷・寄居 > 深谷・寄居・旅紀行)
- Wikipedia(深谷上杉家)
参照
↑a | 山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。 |
---|---|
↑b | 築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。 |
↑c | 総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。 |
↑d | 傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。 |
↑e | 慶應2(1866)年に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれた日。 |
↑f | 道路や暗渠の形など。 |
↑g | 例えば、六年前の同じ日に攻めてきた武蔵本庄城とか。 |
↑h | 東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。 |
↑i | あるいは掃部屋敷跡。 |
↑j | 左折するとJR深谷駅北口方面、右折すると深谷小学校。真っ直ぐ進むと高臺院。 |
↑k | 利根川水系の一級河川。 |
↑l | 家康の家臣・酒井備後守忠利《サカイ・ビンゴノカミ・タダトシ》の嫡男。徳川三代から四代将軍の時代の老中と大老を務めた。 |
↑m | 寒いこの時期は、水は流れていなかったが。 |
↑n | 深谷上杉氏の家老の一人で、伊原家と岡庭家と共に武州深谷三人衆として知られた。のちに徳川家康に仕え館林藩秋元家初代、館林城主となる。 |
↑o | のちの浅野長政。 |
↑p | 家康の七男・松千代は6歳で早逝、六男・忠輝。 |
↑q | 菊桐紋と並んで五三桐紋は天皇家で使われた。上洛時に景虎は後奈良天皇に拝謁している。 |
↑r | 天皇の意思を伝える文書。 |
↑s | 但し、鎌倉入りできず伊豆国の堀越に留まったため「堀越公方」と呼ばれた。 |
↑t | 伊藤潤作の『叛鬼』(講談社文庫)の主人公である。 |
↑u | 謙信の越山は領土獲得ではなく小田原北條氏や甲斐武田氏を征伐することが目的で、敵を駆逐すると帰国してしまい、結局は「イタチごっこ」だったため、主を変えざるを得なかった。 |
↑v | 北條氏繁の娘で、氏政の養女。 |
現在は見るべき姿はほとんど残っていないが、深谷上杉氏に関する史料や史跡に関連して往時の深谷城の姿を想像するのも悪くない。