静岡県は沼津市内浦重須《ヌマズシ・ウチウラ・オモス》にあった長浜城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。は、伊豆半島の発端丈山から駿河湾[b]最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。へ向って延びた尾根先端にあり、深く入り込んだ重須湊を守るために、戦国時代には小田原北條氏が水軍の前線基地として運用していた。城の南側を除く三方は急峻で水深が深い海に接しており、安宅舟《アタケブネ》や小早舟といった軍船や海賊船として知られる関舟の停泊に適していたと云う。この時代の水軍の拠点としては、その多くが陸地から離れた島に置かれていたが、この城は山城の特徴を併せ持つ海城であった。すなわち、城域の最高地ある第一曲輪を中心に海側と山側に向って郭がL字型に配置され、陸側には敵の侵入に備えて、北條流築城術の特徴でもある土塁と堀切、そして畝を持つ空堀が設けられていた。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡した後に廃城となったが、昭和の時代に国の史跡に指定され、平成の時代には保存整備が進み、現在は戦国時代の姿が復元された史跡公園として市民に公開されている。
今となっては六年前は、平成29(2017)年の小暑《ショウショ》の候過ぎの週末[c]明治・大正期の小説家であり医者でもあった森鴎外の忌日(享年60)。に、伊豆半島西側の根本あたりにある長浜城跡を攻めてきた。この日は熱海経由で沼津へ到着したのが朝9時半ごろ。駅南口のコンビニで水と昼飯を調達してバスターミナルの乗り場⑧[d]執筆時現在、のりば③に変わっていた。から東海バス・多比(南アルプス登山口)経由大瀬岬・江梨・木負行き[e]執筆時現在、この路線名は別の名前になっていた。に乗車、10時半頃に県道R17沿いの「長浜城跡(城下橋)」停留所で下車した[f]時間は40分ほど、大人810円(当時)。。このバス停の眼の前が城跡である。
これは、バス停から陰野川《インノガワ》に架かる城下橋を渡った先(内浦重須方面)にある津波避難タワーから眺めた長浜城跡の遠景。この城跡がある独立丘の標高は39m(比高30m)ほど:
そして国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回巡ってきた郭跡や周辺情報を書き入れたものがこちら(赤色は主郭部、茶色は腰郭部にそれぞれ相当、位置は推定):
公園内の主郭部にはそれぞれ詳しい説明板が建っていた他、バス停から東側(内浦長浜方面)へ回り込んだ所にある公園入口には「長浜城跡模型(縮尺1/300)」と云ったジオラマも展示されていた。また市の教育委員会が作成した『国指定史跡・長浜城跡 〜北条水軍の拠点〜』(リンクはPDF)と云うリーフレットも置いてあった :
そして説明板の「長浜城跡の遺構」には推定縄張図が描かれていた(加筆あり):
今回の城攻めは、この図に加筆した郭を巡ってきた。少し残念だったのが、時期的に緑が茂って藪化している場所が多かったこと :
展示スペース → 遊歩道入口 → 堀切 → 第四曲輪跡 → 第三曲輪跡 → 土塁 → 堀切跡・虎口 → 第二曲輪跡 → 掘立柱建物 → 土塁 → 堀切・竪堀跡 → 櫓跡 → 第一曲輪跡 → 塀跡 → 駿河湾の眺望 → 曲輪A跡 → 曲輪B跡 → 曲輪C跡 → 曲輪D跡 → 岩場 → ・・・ → 曲輪J跡 → 曲輪K跡 → 竪堀跡 → 石積(復元) → 田久留輪跡 → 安宅舟平面復元物 → ・・・ → 津波避難タワー
ちなみに腰郭部の「曲輪A〜D跡」と云う名称は第一曲輪跡に近い方から便宜的にA、B、C、Dと付けているだけで特に意味はないとのこと。
展示スペースの先にある弁天社脇が遊歩道の入口で、「国指定史跡・長浜城跡」の碑が建っていた:
木組みの階段を登っていくと第三曲輪との間にある堀切に出るので、そこから第四曲輪跡へ。この郭は陸(重須)側からの寄手を迎撃する役割を担っていたらしい:
昭和時代の発掘調査によると、この郭では凝灰岩《ギョウカイガン》の岩盤を削り残して土塁の代用にし、その頂部から柱穴が確認されたことから、井楼櫓や板塀など何らかの防御施設があったと考えられている。
また、この郭は第三曲輪よりも8mほど低い位置にあるので、第三曲輪跡から眺めると堀切越しに、このように見える:
説明板によると、この第三曲輪跡は部分的に改変されているらしい。どうやら弁天社の祠は後世に郭を掘削・削平して建てられたようで、本来の第三曲輪は祠の脇に土居のようになっている場所なんだとか:
第三曲輪跡には土塁が残っていた。この土塁は陸(重須)側にだけ築かれていたようだ:
この土塁を楯に、陸地(重須)側からの寄手に対して横矢掛りの側面攻撃で迎撃できる仕組みになっていた。これも北條流築城術の一つである。
こちらは、第三曲輪と第二曲輪の間の堀切:
第三曲輪と第二曲輪の間の岩盤を深く掘り込んで作った堀切で、二つ郭を結ぶために跳ね橋[g]平時は橋を架けておき、有事の際は橋を跳ね上げることができた。が設けられていたらしく、その支柱が建っていた位置を丸太で示していた。
また発掘調査の結果、この堀切はのちに一部が埋められ、堀幅を狭くして第二曲輪の虎口に作り直されたと云う。跳ね橋があった位置には門が建っていたらしい:
こちらは第二曲輪跡から堀切越しに第三曲輪跡を眺めたところ:
この第二曲輪も陸(重須)側には土塁が築かれていたが、その一方で海側は遮るもの無く視界が開けていた:
この城でもっとも広い郭が第二曲輪で、発掘調査で掘立柱建物《ホッタテバシラタテモノ》跡が検出された。現在、第1号建物とそれに直交する第6号建物[h]名称や番号は発掘調査で定義されたもので実際のものではない😉️。跡を示す柱が建てられており、詳細は不明ながら、兵舎や食料庫といった建物であったと推測されている。
こちらは第一曲輪と第二曲輪との間の堀切で、谷側は竪堀に変化していた。堀切はコンクリートで固められていた:
この城の基盤となる独立丘は1千〜2百万年以上前に形成された凝灰岩層[i]火山灰が固まってできた岩石の層。《ギョウカイガン・ソウ》でできており、堀を穿つためには硬い岩盤を削るしかなかったと云う。ここで保存されている堀切は、寄手の侵入を防ぐために、竪堀に変化する場所に畝状の堀り残しが検出されたらしい。
たとえ寄手が畝を乗り越えて第二曲輪に侵入できたとしても、この堀切に直面するため、第一曲輪へは容易にはたどり着けない仕組みになっていたらしい。
これは第二曲輪にあったと推測される櫓を模擬したもの[j]模擬とはいえ、発掘調査で発見された柱穴の上に正確に建てられている。急角度で幅の狭い階段や半地下の構造も往時の状況を推定して再現したものらしい 😎️。:
第二曲輪跡の北東隅にあって、第一曲輪跡との境界線上に、半地下の構造を持つ掘立柱建物跡が検出された。これは岩盤を掘り込んで造られていたと推定されており、海側へ見通しがきくことから、周囲警戒や舟の運行監視などを行えるような井楼櫓などが建っていたと推定されている。
こちらが第一曲輪跡:
この郭にも周囲から見透かされないよう西側から北側にかけて、土塁がL字型に築かれている。また、発掘調査で柱穴が検出され、板塀などで囲まれた指揮所といった特別なエリアだった可能性があるとのこと。
こちらは第一曲輪跡から現在の内浦湾(駿河湾)の眺望(パノラマ)。かって甲斐の武田氏が拠点をおいた駿河国沼津の三枚橋城跡方面も見ることができた:
下総の里見氏と激しく対立し、小田原城を居城としていた北條氏綱やその子・氏康は、周辺の三崎や浦賀を支配下に入れ、そこを根拠地とする三浦水軍を組織して江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方で、今川義元亡き跡の駿河国に侵攻してきた甲斐の武田信玄に対しても伊豆の水軍を組織し、その脅威に備えたと云う。その伊豆における水軍根拠地の一つが、ここ重須湊と長浜城であった。
天正7(1579)年に氏康は紀州国出身の海賊頭[k]近年は、伊勢沿岸と駿河・相模・武蔵の各国とを結ぶ交易商人であったと云う説がある。であった梶原景宗《カジワラ・カゲムネ》に伊豆水軍を統括させ、往時、西国で多用されていた最新型の軍船である安宅舟の建造を命じ、きたる武田水軍との海戦に備えたと云う。
景宗は長浜城の陸側に現代の造船所に相当する舟掛場《フナカケバ》を、海側には往時もっともポピュラーな小型快速舟である小早《コハヤ》や中型船の関舟《セキフネ》の停泊場に相当する舟溜りを築いた。
このあとは第一曲輪下から海側へ延びた尾根筋の上に築かれていた大小の腰郭跡へ向かうために、第二曲輪跡まで戻り、模擬櫓から下りた:
こちらが曲輪A跡:
第一曲輪から海へ向って北東に延びる尾根上に、合わせて大小4つの郭が階段状に配置されていた腰郭の一つ。尾根を削平し、土を盛るなどして広いエリアを確保していた。柱跡は検出されたが、それ以外は不明とのこと。
次は曲輪B跡。そこから振り返って第一曲輪跡を見上げると段郭になっているのが分かる:
次は曲輪C跡。ここには矢穴の付いた石が落ちていた
曲輪C跡から、再び第一曲輪跡方面を振り返って見上げたところ。やっぱり段郭になっていた:
ちなみに、公園入口にあった「長浜城跡の遺構」の推定縄張図によると、左手の杜に小さな腰郭が設けられていたようだが確認できず。
ここからは崖道を下り曲輪D跡を経由して海岸へ:
城の北東に突き出た腰郭の先端は岩場であり、かっての舟溜りを想像させる地形になっていた:
そして、この岩場からは深く入り込んだ内浦湾を眺めることができる:
この湾は、伊豆半島の西から延びる長井崎《ナガイサキ》と沖にある淡島によって風が遮られ、周囲が強風であっても湾内の波は穏やかな上に水深も深く、現在でもヨットハーバーや養殖場として利用されていることからも、往時は軍船を係留するための舟溜りとしては最適な環境であったことが容易に想像できる。
こちらは内浦湾越しに眺めた富士山と淡島。この日は靄が多くて、残念ながらハッキリと眺めることはできなかった :
このあとは曲輪A跡まで戻り、遊歩道に沿って城の西側(内浦重須方面)にある田久留輪跡へ向かった:
曲輪J跡と曲輪K跡は共に第一曲輪下にある腰郭であるが、現在は公園の遊歩道によって改変されており、切岸には石積みんかもみられたが、おそらく後世の造物であろう。
曲輪K跡の少し先には、第一曲輪と第二曲輪との間の堀切から変化した竪堀を見上げることができる:
この上には、第二曲輪跡あたりで見たコンクリートに固められた堀切がある。山の斜面の岩盤を削って造られた竪堀は、第一曲輪を守る堀切の真下にあたる斜面に作られ、寄手が第二曲輪下の斜面がから横移動しながら、第一曲輪下へ侵入するのを防ぐ目的があったとされる。
この石積は往時のものだろうか。近くに矢穴の付いた巨石がおちていたので:
昭和時代の初め頃、旧三井財閥[l]かって日本最大の財閥であった。現在の三井グループ。の別荘が建っていたが財閥解体後に別荘は取り壊され、その後はしばらくは荒廃していたらしい。遊歩道脇にあった石積みは、もしかしたら、この時代のものかもしれない。
そして、このまま田久留輪跡へ下りると、その一部が安宅舟の展示エリアになっていた:
この郭も昭和の時代に発掘調査が行われ、石積みが検出されたらしい。実物は埋没保存され、その位置が分かるようにレプリカの石が置かれていた:
この郭もまた舟溜りがあったようで、現在は陰野川が往時の姿を残しており、川を挟んで内浦重須側の一部は埋め立てられてしまっているが、往時は今より広い入り江を利用した重須湊であり、陰野川との境界部には石積みの堤防が作られていたようだ:
こちらが田久留輪跡に作られた安宅舟の平面復元模型:
こちらが安宅舟の想像図。当時の最先端の技術を用いて建造された大型軍船:
戦国時代には紀伊国の伊勢から瀬戸内海にかけての海で使われ、後半になると東国の大名らも使っていたらしい。甲板を全周する装甲板に相当する楯板《タテイタ》の強固な防御力や、前面に設置した大筒などの火力で、敵を圧倒した。矢や鉄砲を放つための狭間や櫓があったとも。船倉には漕ぎ手が50人、甲板に戦闘態勢の武士が50人乗り込んでいた。
しかしながら、その巨大な構造から速度が劣るため、その周囲には高速な小早舟が配置されていた。この舟の漕ぎ手は10人程度で、素早く敵船に接近して攻撃したり、乗り込んだりする場面で活躍したと云う。
小田原北條氏の全体の戦力は不明であるが、安宅舟だけでも10艘はあったらしい。
ここ長浜城は、小田原北條氏が滅亡する天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置頃までは機能していたらしく、長浜城の伊豆衆は相模湾で豊臣勢の水軍との攻防戦が予想されたが、本家が小田原城に籠城する策をとったことにより実現せず、韮山城の開城後に廃城になったらしい。
ちなみに小田原城籠城中に長浜城を守ったのは、在地土豪の大川兵庫を中心とした地元住民だったと云う[m]大川兵庫の子孫は、内浦重須の網元として栄えたらしい。。
以上で長浜城攻めは終了。
伊豆長浜城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 長浜城史跡公園に建っていた案内板や説明板(沼津市教育委員会)
- 『国指定史跡・長浜城跡 〜北条水軍の拠点〜』(リンクはPDF / 沼津市教育委員会)
- 日本の城探訪(長浜城)
- 長浜城(伊豆国)~静岡県沼津市~(日本の城 > 東海 > 長浜城)
- Wikipedia(長浜城(伊豆国))
- 余湖図コレクション(静岡県沼津市/長浜城(沼津市内内浦長浜))
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
駿河湾海戦
『北條五代記』には、天正8(1580)年に駿河国の三枚橋城を拠点としていた甲斐武田氏の水軍が長浜城附近まで攻め込み、小田原北條氏の水軍も繰り出して応戦したことで、駿河湾海戦が始まったと記されている。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)上に、往時の駿河・伊豆国境附近にあったとされる小田原北條氏と甲斐武田氏の拠点とされる城跡を記したもの(位置は推定):
永禄3(1560)年に『海道一の弓取り[n]「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。』の異名を持つ駿河国の戦国大名・今川義元が尾張国の田楽狭間《デンガクハザマ》で斃れた後、甲斐の武田信玄がそれまでの甲相駿三国同盟を一方的に破棄して、駿河の今川領に侵攻、北條氏康・氏政父子との攻防の末、十年をかけてついに駿河国を支配下に置いた。
しかし元亀4(1573)年に信玄が病に斃れると、あとを継いだ武田勝頼は設楽原の惨敗から巻き返しを図るために興国寺城や長久保城の前衛として、小田原北條氏の支城である戸倉城の目と鼻の先に三枚橋城を築城した。
これに対抗して氏康は伊豆国の本城である韮山城の防衛のため、駿河国最前線で狩野川沿いにある戸倉城や泉頭城、そして大平城の備えを強化した。さらに駿河湾(江浦湾《エノウラ・ワン》や内浦湾)から韮山城に攻め込まれないように、海岸線沿いに獅子浜城や重寺城などを整備し、ここ長浜城には伊豆衆からなる水軍を配備した。
天正7(1579)年に、氏康の命で長浜城の普請と水軍の大将を任された梶原備前守景宗《カジワラ・ビゼンノカミ・カゲムネ》は元は紀伊国を本拠する海賊衆で、その手腕を買われて小田原北條氏に雇われたと云う。景宗は、それまで関東を含む東国にはなかった安宅舟の建造と運用の専門家であり、実際に江戸湾で下総の里見氏らが率いた水軍との戦いで戦果を挙げていた。
翌8(1580)年の春に、武田氏の水軍が駿河湾を南下して長浜城あたりまで侵入すると、小田原北條氏の水軍がそれに応戦したことで駿河湾海戦が勃発した。両水軍は翌年まで重須湊あたりで海戦(重須浦合戦)を繰り返していたが、決着をつけるまでには至らなかったと云う[o]なお、この二年後の天正10(1582)年に甲斐武田家は滅亡する。:
こちらは、かって武田・小田原北條両氏による重須合戦があった現在の内浦湾:
ここには長井崎と淡島によって作られた「天然の」水軍基地があった:
【参考情報】
- 長浜城史跡公園に建っていた案内板や説明板(沼津市教育委員会)
- 沼津市・城跡編(沼津市HP > 市政情報 > 沼津の文化財 > 城跡編)
- Wikipedia(梶原景宗)
参照
↑a | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。 |
---|---|
↑b | 最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。 |
↑c | 明治・大正期の小説家であり医者でもあった森鴎外の忌日(享年60)。 |
↑d | 執筆時現在、のりば③に変わっていた。 |
↑e | 執筆時現在、この路線名は別の名前になっていた。 |
↑f | 時間は40分ほど、大人810円(当時)。 |
↑g | 平時は橋を架けておき、有事の際は橋を跳ね上げることができた。 |
↑h | 名称や番号は発掘調査で定義されたもので実際のものではない😉️。 |
↑i | 火山灰が固まってできた岩石の層。 |
↑j | 模擬とはいえ、発掘調査で発見された柱穴の上に正確に建てられている。急角度で幅の狭い階段や半地下の構造も往時の状況を推定して再現したものらしい 😎️。 |
↑k | 近年は、伊勢沿岸と駿河・相模・武蔵の各国とを結ぶ交易商人であったと云う説がある。 |
↑l | かって日本最大の財閥であった。現在の三井グループ。 |
↑m | 大川兵庫の子孫は、内浦重須の網元として栄えたらしい。 |
↑n | 「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。 |
↑o | なお、この二年後の天正10(1582)年に甲斐武田家は滅亡する。 |
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