城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

月別: 2023年2月

伊豆長浜城 − Izu Nagahama Castle

重須湊を武田水軍から守るため発端丈山から駿河湾へ延びた尾根上に築かれた長浜城

静岡県は沼津市内浦重須《ヌマズシ・ウチウラ・オモス》にあった長浜城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。は、伊豆半島の発端丈山から駿河湾[b]最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。へ向って延びた尾根先端にあり、深く入り込んだ重須湊を守るために、戦国時代には小田原北條氏が水軍の前線基地として運用していた。城の南側を除く三方は急峻で水深が深い海に接しており、安宅舟《アタケブネ》や小早舟といった軍船や海賊船として知られる関舟の停泊に適していたと云う。この時代の水軍の拠点としては、その多くが陸地から離れた島に置かれていたが、この城は山城の特徴を併せ持つ海城であった。すなわち、城域の最高地ある第一曲輪を中心に海側と山側に向って郭がL字型に配置され、陸側には敵の侵入に備えて、北條流築城術の特徴でもある土塁と堀切、そして畝を持つ空堀が設けられていた。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡した後に廃城となったが、昭和の時代に国の史跡に指定され、平成の時代には保存整備が進み、現在は戦国時代の姿が復元された史跡公園として市民に公開されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。
b 最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。

花崎城 − Hanasaki Castle

花崎城山公園は、かって居館が建ち周囲に濠を巡らした花崎城だった

北関東の大宮台地[a]現在の埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる洪積台地《コウセキダイチ》。と猿島台地[b]現在の茨城県南西部の古河市から坂東市・守谷市・取手市あたりに伸びる台地。に挟まれた加須《カゾ》低地にあって、周囲が湿地帯の微高地[c]微地形または埋没台地とも。小規模で微細な起伏を持つ地形。に築かれていた花崎城は、築城者や築城年代などは不詳であるが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿[d]江戸幕府が編纂した武蔵国の地誌で、文化7(1810)年から約二十年を費やして完成した。現在は国立公文書館蔵。』《シンペン・ムサシ・フドキコウ》によると、戦国時代には濠を巡らした居館が建っていたとされ、さらに近隣で「太田荘の総鎮守」として知られた鷲宮神社[e]花崎城跡の最寄り駅で東武伊勢崎線・花崎駅の隣駅が鷲宮駅。に伝わる『莿萱《ハリガヤ》氏系図』によれば、同時代に鷲宮神主を務めていた細萱(大内)氏[f]はじめ「細萱《ホソガヤ》」を名乗っていたが、のちに「大内」改めたと云う。の居城・粟原城《アワバラ・ジョウ》の支城であったと云う。この一族は、この時代の一つ転換点となった河越夜戦後、古河公方の勢力から小田原北條氏の傘下に入り、姓を改めて北関東攻略の一翼を担ったと云う。花崎城跡は、昭和の時代の発掘調査で北條流築城術の特徴とされる畝濠や障子濠などが検出した他、縄文早期の土器や平安時代の住居跡も出土したと云う。現在は花崎遺跡として埼玉県加須市の文化財(史跡)に指定され、城の遺構は花崎城山公園下[g]東武伊勢崎線によって分断された城跡公園もその一部。に埋没保存されている。

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a 現在の埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる洪積台地《コウセキダイチ》。
b 現在の茨城県南西部の古河市から坂東市・守谷市・取手市あたりに伸びる台地。
c 微地形または埋没台地とも。小規模で微細な起伏を持つ地形。
d 江戸幕府が編纂した武蔵国の地誌で、文化7(1810)年から約二十年を費やして完成した。現在は国立公文書館蔵。
e 花崎城跡の最寄り駅で東武伊勢崎線・花崎駅の隣駅が鷲宮駅。
f はじめ「細萱《ホソガヤ》」を名乗っていたが、のちに「大内」改めたと云う。
g 東武伊勢崎線によって分断された城跡公園もその一部。

私市城 − Kisai Castle

廃城後に耕地化が進んだ私市城跡で僅かに残る天神曲輪の土塁

埼玉県加須《カゾ》市根古屋633-2にあった私市城[a]これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。《キサイ・ジョウ》は利根川とその支流が注ぐ平野部に位置し、江戸時代に編纂された武蔵国各郡の地誌目録である『武蔵志』によると「城地平にして亀の甲の如し」と記され、沼沢《ショウタク》[b]浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。に浮かぶ要害であったと伝わる。築城時期は不詳であるが、城の名は武蔵七党《ムサシ・シチトウ》を構成する武士団の私市党《キサイ・トウ》に由来すると云われる[c]ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。。一方で、室町時代後期の歴史書『鎌倉大草紙《カマクラ・オオオゾウシ》[d]康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。』には、康生元(1455)年に古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に攻められて落城したとあり、これが歴史上の初見とされる。その後は、戦国乱世の関東にあって関東管領・山内上杉氏、古河公方・足利氏、小田原北條氏、そして越後上杉氏らによる争奪戦の舞台ともなった。現在残る遺構は江戸時代に立藩した私市藩の一部であるが、昭和時代の発掘調査で東西320m、南北260mの範囲に複雑な形状をした障子堀[e]豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。が広範囲に渡って発見された。

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a これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。
b 浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。
c ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。
d 康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。
e 豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。

深谷城 − Fukaya Castle

市の中心地にあった深谷城の遺構は失われ模擬城郭として公園化されている

唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。

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a 山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。
b 築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。
c 総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。

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