武蔵国の本庄城跡と伝わる城山稲荷神社前には城址の碑が建つ

埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北条氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。

今となっては六年前は、平成29(2017)年の芒種の候を過ぎた週末[d]傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。に、群馬県と埼玉県にまたがるJR上野東京ライン沿いで、遺構がほとんど期待できない城跡をいくつか攻めてきた。午後は本庄駅から徒歩15分ほどのところにある本庄城址で、事前の調査どおり遺構は土塁の一部や堀跡が確認できるくらいであった :0

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して城址周辺の主な Landmarks(目印となる場所)を書き入れたもの:

駅北口から城山稲荷神社へ向かう途中の主な目印を書き入れたもの

本庄城周辺図(拡大版)

城址と云っても城域は宅地化されていてるため、目的地は城跡の一部に建つ城山稲荷神社。そして、この地図上に古城塁研究家の山崎一《ヤマザキ・ハジメ》氏が記した縄張図を重畳させてみたのがこちら(推定を含む):

利根川と烏川が形成した段丘の一つを利用して築かれた連郭式平城

本庄城跡(推定)

この城の北を流れていた元小山川《モトコヤマガワ》は現在も健在[e]埼玉県北部を流れる一級河川。かっては小山川と呼ばれていた。な一方、城東側の現在は台町八坂神社が建つ丘陵下にかって流れていた久城川(久城堀)は道路になっている。また城南側にある圓心寺の境内も城域とする説もある。


こちらが城山稲荷神社の参道口。鳥居前に建っているのが城址の碑。この周辺が本郭跡:

ここは本郭跡で、鳥居をくぐった先に説明板が建っている

城山稲荷神社の参道口

御由緒によると御祭神は宇迦之御魂神《ウカノミタマノミコト》。実忠が城の守護神として西本庄の地にあった椿稲荷明神を城内に勧請したのが城山稲荷神社であるらしい[f]境内にあるヤブツバキ(市指定文化財)はこれにちなんで植えられたとも。。小田原仕置の際に落城し社殿を焼失したが、のちに城主となった小笠原掃部大夫信嶺《オガサワラ・カモンタユウ・ノブミネ》が再興した。現在の社殿は江戸時代の天保15(1844)年に再建したもの。

大手道跡とされる参道を社殿へ向って北上していく。大手道は本郭を縦断し、右手は大手東となる:

ここが本郭跡で、建物がある右手が大手東にあたる

本郭跡と大手道跡

そして本郭北東側の一段下がった郭が、現在の境内にあたる:

本郭の北東側にある腰郭跡が神社の境内

本郭下の腰郭跡

この高い切岸が本郭の土塁跡となる

本郭土塁跡

境内には、築城時に植えられたとされる欅の大木(埼玉県指定天然記念物)がある:

樹高30m、樹齢は約400年と推定される県指定天然記念物

欅の大木

樹高24.5m、幹回り6.4m、根回り6.9mの大木[g]平成9(1997)年の台風などの被害で天然記念物指定時より測定値が小さくなっているとのこと。で樹齢はおよそ400年と推定される。とりわけ欅の木は先の大戦で強制的に供出されており、この規模の欅が残っているのは珍しい。

こちらが元小山川:

往時の小山川にあたる利根川水系の一級河川

元小山川

城山稲荷神社の東側にある城下公園は東郭跡。廃城後は鬱蒼した木立に包まれ夜は大人でも近寄りがたい場所であったらしい:

本郭の東側にあった郭で、現在は城下公園

東郭跡

廃城後は鬱蒼した木立であったが現在は公園化されている

東郭跡

一方、本庄市役所が建つ場所は西郭跡:

本郭の西側にあった郭で、現在は市役所の敷地

西郭跡

本庄市役所から城山稲荷神社の間が本郭跡で、現在は私有地(のため立ち入り不可):

現在は私有地で立ち入り不可であった

本郭跡

そして本郭跡を城山稲荷神社と私有地の境界から見たのが、こちら:

この先は私有地(竹林)のため立入不可

本郭跡

本庄城は城域の北を流れる利根川と烏川に削られた段丘上に築かれ、北側の段丘直下を小山川(現在の元小山川)が流れ、南東は久城堀(久城川)で断ち切られた天然の要害であったと云う。

小田原北條氏に従った父の実忠が没し、家督を継いだ嫡男の本庄隼人正近朝《ホンジョウ・ハヤトノショウ・チカトモ》は、天正10(1582)年の織田信長による関東征伐の折りに滝川一益に服属したものの、信長が横死し神流川の戦いで滝川勢が小田原北條氏に敗れたあと再び北条氏に降った。そして天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で近朝は小田原城に籠城し、重臣が城代として鉢形城からの援軍と共に本庄城に籠城した。しかし前田利家ら北国勢の攻撃で本庄城は開城降伏、それを伝え聞いた近朝は小田原城開城後に自刃し、ここに児玉党本庄氏は滅亡した。

その後、徳川家康の家臣で信濃国松尾城主だった信嶺が本庄城主となって本庄藩を立藩し、その(養嗣)子の信之が初代藩主となった。この信之が下総古河藩に加増移封されると本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。

今から460年以上前に本庄実忠が城と共に築いた城下町は、こののちに本庄宿として(家数や旅籠数において)中山道[h]中山道は69次67宿。ここ本庄宿は江戸日本橋より出発し10宿目となる。最大規模の宿場町へと発展した。


こちらが東郭跡の土塁上に建つ台町[i]廃城後の侍町のことを「侍所臺村」、そして「臺新田町」と呼んでいたが、これが短縮されて「臺町(台町)」となった説が専ら。八坂神社:

東郭の東隅にある土塁上に建てられていた

台町八坂神社

創立は弘治2(1556)年で、本庄実忠が城下町の疫病除けとして本庄城の築城と共に勧請したと伝わる。廃城後の明暦2(1656)年に本殿が再建されたと云う。御祭神は建速須佐之男命《タケハヤ・スサノオ・ノ・ミコト》。

境内となっている土塁と空堀跡が、こちら:

城址東端の土塁上に八坂神社が建つ

土塁

八坂神社境内の土塁上から見下ろしたところ

空堀跡

そして東郭内部を区切っていたとされる堀跡。左手が台町八坂神社、右手が城下公園:

八坂神社側(左手)と城下公園(右手)の間の段差は堀跡

東郭内の堀跡

こちらは市役所の南にある浄土宗・要行山先救院・圓心寺(円心寺)。ここも本庄城の城域と云う説あり:

背後の墓地を含め、北にある本庄城の城域とも

圓心寺の本堂

御祭神は阿弥陀如来さま。本稿執筆中は令和5(2023)年新春に(他の城攻めのついでで)巡ってきた。建立は天正年中(1573〜1591年)とされ、小笠原氏が在城していた桃山時代が有力。このときの城主・小笠原信之が実父で「徳川家四天王」の一人である酒井忠次のために堂宇を建立したのが始まりらしい。また、この地はもともと本庄城の外郭であった可能性もある。

一方、山門である仁王門は江戸時代の建立であったが、明治の時代に焼失し再建され現在に至る:

柱間が三つで、真中が開いている三間一戸の鐘楼山門

山門である仁王門(市指定文化財)

柱間が三つで、真中が開いている三間一戸《サンケンイッコ》の鐘楼山門で赤門とも。昭和の時代に本庄市指定文化財になった:

江戸時代の建立だが明治時代に二度再建されている

阿像

江戸時代の建立だが明治時代に二度再建されている

吽像

以上で本庄城攻めは終了。

See Also武蔵本庄城攻め (フォト集)
See Also武蔵本庄城攻め (2) (フォト集)

【参考情報】

小笠原信嶺・信之公墓所と開善寺

埼玉県本庄市中央2丁目8-26にある畳秀山《ジョウシュウザン》・開善寺《カイゼンジ》は天正19(1591)年に本庄城主・小笠原掃部大夫信嶺が開基し建立した臨済宗・妙心寺派の禅寺で、寺号は父が信濃国に再興した寺に由来し、松尾小笠原家の新たな菩提寺とした:

臨済宗・妙心寺派の禅寺

畳秀山・開善寺

開山した球山宗温和尚《キュウザン・ソウオン・オショウ》は信嶺の夫人・久旺院尼《クオウイン・ニ》の兄にあたり、武田信玄の実弟である遥軒信廉《ショウヨウケン・ノブカド》の子で、甲斐国より招かれたとされる。この寺に伝わる境内図によると、江戸時代は現在の寺域の五倍にも及んでいたと云う。また明治時代には本庄市で最初の小学校が開かれたとも。

信嶺公と夫人・久旺院尼の墓所は本堂がある境内と通りを挟んで南側の墓所にあり、夫妻の墓石にあたる宝篋印塔は古墳の上に建っていた。昭和の時代に市指定史跡となった:

夫妻の宝篋印塔は古墳の上に築かれていた

小笠原掃部大夫信嶺公夫妻の墓

本庄藩小笠原家の藩祖である信嶺は、信濃国は松尾城主・小笠原信濃守信貴《オガサワラ・シナノノカミ・ノブタカ》を父に持ち、小笠原氏庶流にあたる松尾小笠原家を継ぐ国人衆の一人で、本家で信濃国の守護を任されていた小笠原長棟《オガサワラ・ナガムネ》やその嫡子の長時《ナガトキ》ら府中小笠原家とは対立関係にあったことから、父と共に甲斐国の武田信玄率いる信濃先方衆《シナノ・サキガタシュウ》[j]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣団(国人衆)のこと。の一人として働いた。信玄死後は武田勝頼に仕え三河の長篠城や遠江の井伊谷城で徳川家康に対抗した。天正10(1582)年に織田信長による甲州征伐が始まると織田方に降り、仁科盛信が籠もる高遠城攻めに参陣した。この時、信嶺は武田家への人質になっていた母を失っている。

同じ年に信長が本䏻寺で斃れたあと、「空白地」となった信濃国で勃発した天正壬午の乱《テンショウジンゴノラン》で信嶺は家康方につき酒井忠次の配下に入った。こののちは忠次に従って各戦に参陣、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置の功により関八州に入封した家康から、滅亡した本庄氏に代わり武蔵国児玉郡本庄に1万石を賜った。信嶺は本庄城を改修し城下町を整備し開善寺を建立した。

慶長3(1598)年に江戸藩邸で逝去。享年52。法名は徹抄道也大居士。

小笠原家の家督は養嗣子の信之が継いだが、その墓は本堂側境内の墓地にある:

酒井忠次の三男で、小笠原信嶺の養子となった

小笠原信之公の墓所

信之は酒井忠次の三男で、信嶺の娘を娶って信嶺の養嗣子となった。松尾小笠原家の本庄藩初代藩主。そして慶長17(1612)年に下総国古河藩へ加増移封されると本庄藩は廃藩となった。

慶長19(1614)年に逝去。享年45。法名は龐巌了温。家督は嫡男の政信が継いだ。

See Also小笠原信嶺公墓所と開善寺 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。
b 鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。
c 一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。
d 傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。
e 埼玉県北部を流れる一級河川。かっては小山川と呼ばれていた。
f 境内にあるヤブツバキ(市指定文化財)はこれにちなんで植えられたとも。
g 平成9(1997)年の台風などの被害で天然記念物指定時より測定値が小さくなっているとのこと。
h 中山道は69次67宿。ここ本庄宿は江戸日本橋より出発し10宿目となる。
i 廃城後の侍町のことを「侍所臺村」、そして「臺新田町」と呼んでいたが、これが短縮されて「臺町(台町)」となった説が専ら。
j 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣団(国人衆)のこと。