鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城の長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏・越後上杉氏・甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。
今となっては六年前は、平成29(2017)年の芒種の候を過ぎた週末[d]傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。に、群馬県と埼玉県にまたがるJR上野東京ライン沿いで、遺構がほとんど期待できない城跡をいくつか攻めてきた。まずは倉賀野駅から徒歩15分ほどのところにある倉賀野城址へ。
なお六年前はほとんど遺構を期待することなく限定したエリアだけ巡ってきたのだが、古城塁研究家の山崎一氏が描いた「倉賀野城址」図(1969年)なるものを本稿執筆時に発見し、他にも巡る場所があることに気づいて、せっかくなので本稿を完成させる前に、今年は令和5(2023)年新春早々再び攻めてきた。よって本稿では主に今回攻めてきた倉賀野城跡を紹介する[e]一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して城址周辺の主な Landmarks(目印となる場所)を書き入れたもの:
県道R121は江戸時代の中山道で、江戸から26里の倉賀野宿にあたり、往時は本陣・脇本陣があった他、常夜灯が市指定重要文化財として残っている。ここに書き入れた情報の多くは、駅南口にある倉賀野小学校前に建っていた「歴史ある私達の倉賀野」なる案内板から引用した[f]同等の情報が『第一号・倉賀野めぐり ー歴史と景観−』(高崎市都市計画課/PDF)にある。。
そして、これに『新編高崎市史』(高崎市立図書館蔵)に掲載されたと云う『倉賀野城址』(作図・山崎一)の城郭部分を重畳させてみた(規模や位置は推定):
六年前に初めて攻めた際は二ノ郭や本郭跡にあたる雁児童公園とのその周辺のみであったが、今回は外郭にあった砦跡や出郭跡を含む城域全体をぐるりと巡ってきた。堀や土塁の類は、現在は道路になっているがその名残がある特徴的な形状になっていた。また永泉寺には倉賀野城主を務めた金井秀景《カナイ・ヒデカゲ》公夫妻の墓所がある。
こちらが、今回の城攻めでトレースしたGPSアクティビティ。実際に巡ってきた場所にはラベルと★を付与している。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は5.96km、所要時間は2時間4分(うち移動時間は1時間16分)ほど:
実際に巡ってきた城域の主な場所はこちら(六年前の城攻めを含む):
JR倉賀野駅南口 → 永泉寺(金井淡路守秀景公の墓所)→ 外堀跡 → 県道R121 → 西城堀跡 → 林西寺 → 倉賀野神社 → 雁児童公園 → 井戸八幡神社 → 外堀跡 → 倉賀野公民館前 → 外堀跡 → 冠稲荷神社 → 外堀跡 → JR倉賀野駅南口
こちらが先に紹介した「歴史ある私達の倉賀野」なる案内板。かって栄えた宿場町跡ともあって神社仏閣が多いのが分かる:
まずは倉賀野城の北側にあった永泉寺砦跡。現在は曹洞宗の大用山・永泉寺の境内になっている:
砦と云うことで周囲は堀と土塁で囲まれていたと推測でき、例えば境内脇を走る道路や北端にある用水路は堀跡と思われる:
砦跡だったであろう境内奥にある鬱蒼とした杜:
それから倉賀野城の西側にあった西城跡へ向かうために永泉寺を出て南下した。旧中山道で現在の県道R121の手前(北側)に並行して走る道路は往時の外堀跡とされる:
さらにR121を越えたところにある西城跡を手前(北)から奥(南)に縦断する道路もまた堀跡であったらしい:
真言宗の寺院・林西寺周辺が西城跡。ここも砦もしくは出郭として使われていたと思われる:
この寺の境内を巡る道路は、いかにも土塁跡に敷かれたであろうと想像できる鈎型になっていた:
境内奥の墓地の西端には、先の永泉寺同様に用水路になっていたが、こちらも堀跡であろう:
次は倉賀野神社へ。創建は古墳時代(3世紀後半〜4世紀前半)の崇神天皇《スジン・テンノウ》48年。鎌倉時代の建長5(1253)年に倉賀野氏が社殿を造営し、以後は氏神として崇敬された:
神社境内西側を走る屈曲した道路には、往時の外堀の名残があった:
倉賀野神社周辺は倉賀野城の總曲輪跡にあたる:
このあとは六年前にも訪れた雁児童公園《カリガネ・ジドウコウエン》へ。公園入口には説明板が建っていた:
ここは倉賀野城の總曲輪跡から二ノ郭、そして本郭跡に跨る東西に細長い公園であるが城址の碑が建っているくらいで遺構は残っていない:
公園内に建っていた「倉賀野城址」と由緒の石碑:
由緒と説明板によると、鎌倉時代は治承年間(1177〜1181年)に武蔵児玉党の余流である秩父三郎高俊がこの地に居館を構え倉賀野の地名を氏とした。南北朝時代は応永年間(1394〜1428年)に倉賀野三郎光行が居館を城郭化して倉賀野城とした。戦国時代に入ると倉賀野三河守行政は、西上野の国人衆と同様に関東管領の山内上杉憲政に仕えたが、のちに小田原の北條氏康との決戦となった河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で敗死、親戚筋にあたる倉賀野尚行《クラガノ・ナオユキ》が金井秀景をはじめとする倉賀野十六騎[g]この時代の倉賀野氏を支えた足軽大将16人の総称。と共に行政の嫡男・為広を助けた。
尚行は、「上州の黄斑」とその勇猛ぶりを謳われた箕輪城主・長野信濃守業政《ナガノ・シナノノカミ・ナリマサ》の下で「小豪族ネットワーク」を構築、さら越後へ陥ちた憲政の要請を受けて越山してきた長尾景虎に従って小田原城攻めに参陣するなど、引き続き小田原北條氏に抗った。
しかし、この関東騒乱に甲斐の武田信玄が加わると尚行ら西上野の国人衆は一層厳しい立場におかれることになった。無念にも業政が逝去すると、信玄による西上野侵攻が本格化し、箕輪城を中心とした小豪族ネットワークが徐々に瓦解する。その中、倉賀野家中でも分裂が始まり、倉賀野十六騎の一人であった金井秀景が武田に内通し、永禄8(1565)年に倉賀野城は開城、尚行は越後へ陥ちた。
そして秀景は倉賀野姓を名乗って新たに倉賀野城主となり、引き続き武田家に従った。そして武田家が滅亡すると織田家の滝川一益に従ったが本䏻寺の変後は小田原の北條氏直に仕えた。
天正18(1590)年の小田原仕置で倉賀野城は前田利家ら北国勢の包囲を受けて降伏・開城し、その後廃城となった。
ここで、倉賀野城跡に甲州流築城術の特徴は見つかっておらず、むしろ馬出や巨大な外郭などは小田原北條流築城術の特徴である。
城址南には烏川《カラス・ガワ》が流れ、倉賀野城の天然の外堀であった。現在、利根川水系の烏川は一級河川である:
こちらは城址南崖から烏川を眺めたところ。この先は群馬県富岡方面:
そして公園のお隣にある井戸八幡神社は二ノ郭跡にあたる:
ここに建っていた「八幡神社・修復記念碑」によると、正保3(1646)年に倉賀野城の三ノ郭跡[h]二ノ郭跡の間違いと思われる。に一夜にして出現した井戸に八幡大神が降臨したと云うのが由緒となっている。
この境内南側の河川敷あたりは往時の城塁と思わせる土手が残っていた:
さらに東へ向かい県道R173(金井倉賀野停車場線)を越えた先には、倉賀野城の外堀跡と思われる大きな段差が出現する:
堀底跡に住宅が建つほどの規模であった:
堀底跡から切岸を見上げたところ。かなりの深さであったことが容易に想像できる:
ここから倉賀野駅がある北へ向かい、県道R121を越えた先にある倉賀野公民館あたりも堀の面影を残していた:
ここにあった堀は現在は路地裏を通る道になっていたので、南向き、北向きの堀底道跡をそれぞれ歩いてみた。ちなみに現在は五貫堀と呼ばれているらしい:
県道R121に架かる太鼓橋をくぐった先にある冠稲荷神社下まで堀跡が残っていた:
公民館まで戻り、今度は北へ伸びる堀底道跡を歩いて駅南口へ戻った:
以上で倉賀野城攻めは終了。
倉賀野城攻め (フォト集)
倉賀野城攻め (2) (フォト集)
【参考情報】
- 雁児童公園などに建っていた案内板や説明板(高崎市・高崎市観光協会)
- 日本の城探訪(倉賀野城)
- 埋もれた古城(倉賀野城) 〜 三国相争う西上州の縮図
- 余湖図コレクション(群馬県高崎市/倉賀野城)
- 雁城(かりがねじょう)(隠居の思ひつ記 > カテゴリ> 倉賀野)
- 倉賀野城(風神ネットワーク > 歴史 > 古城を歩く > 倉賀野城)
金井淡路守秀景公墓所と大用山・永泉寺
倉賀野十六騎の筆頭として倉賀野城の北の守りである永泉寺砦を守備した金井淡路守秀景《カナイ・アワジノカミ・ヒデカゲ》は、倉賀野城主・倉賀野三河守行政《クガラノ・ミカワノカミ・ユキマサ》の重臣の一人で、清和源氏を祖とする新田氏(岩松氏)の庶流にあたる家柄である。
主人である行政が天文15(1546)年春の河越夜戦で討ち死すると、その嫡子・為広を助けるために秀景らは尽力した。永禄2(1559)年頃に為広が逝去したため親戚筋の倉賀野尚行が家督を継いだあともしばらくは倉賀野家を支えたが、永禄4(1561)年に長野業政が病死すると、倉賀野家を含む西上野の小豪族らに動揺がはしり、さらに信玄による水面下での調略もあって連携に翳りが見えはじめる。
このような状況下で秀景は信玄の調略にのり、永禄8(1568)年の武田軍の倉賀野城攻めで内応し開城させた。そして元亀元(1570)年に倉賀野秀景に改名して新たな倉賀野城主となった。
信玄死後も武田家に従い、武田勝頼の要請に応じて長篠城包囲軍に参陣、上州先方衆として久間山《ヒサマヤマ》)砦に布陣するなどした。
天正10(1582)年に武田家が滅亡したあとは関東へ進出してきた織田家の瀧川一益に仕え、それを補佐した。しかし本䏻寺の変後に一益が神流川《カンナガワ》で小田原北條氏に敗れ本国へ撤退していくと、眞田安房守昌幸と共に北條氏に降った。
天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では倉賀野城を重臣に任せ、秀景は自ら小田原城に籠城し早川口を守備、そして開城後に死去したと云う[i]死因は不詳。落城後に討ち死したとも自害したとも。。享年は不詳。
現在、金井(倉賀野)淡路守秀景とその夫人のものとされる墓が永泉寺砦跡に建つ永泉寺にある:
この曹洞宗の寺院は、倉賀野城主となった秀景が開基となり自らの菩提寺としたと伝えられている。本堂隣にある墓地中央に「倉賀野城主・金井淡路守墓所」があり、ここには秀景と夫人の五輪塔があった:
秀景公の戒名は「常照院殿前淡州月山清含大居士」、夫人は「長運院殿單窓妙全大姉」。この寺には夫人に纏わる不思議な伝承(幽霊石)がある。
なお最近の調査研究で、「倉賀野(金井)淡路守」の名跡は織田家に降った頃に秀景の養子である家吉(右源太)に継承されていたと云う説がある。この家吉なる人物は武田家に仕えた跡部氏の流れを汲む者とされている。
【参考情報】
- 永泉寺に建っていた案内板や説明板
- 永泉寺(高崎市倉賀野町)(群馬県:歴史・観光・見所 > 中山道 > 倉賀野宿 > 永泉寺)
- Wikipedia(金井秀景)
参照
↑a | 秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。 |
---|---|
↑b | 倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。 |
↑c | 五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。 |
↑d | 傘の日。慶長20(1615)年に茶人である古田織部が切腹した日(旧暦)。 |
↑e | 一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。 |
↑f | 同等の情報が『第一号・倉賀野めぐり ー歴史と景観−』(高崎市都市計画課/PDF)にある。 |
↑g | この時代の倉賀野氏を支えた足軽大将16人の総称。 |
↑h | 二ノ郭跡の間違いと思われる。 |
↑i | 死因は不詳。落城後に討ち死したとも自害したとも。 |
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