長尾駅近くのアオーレ長岡の敷地はかっての長岡城の二之丸跡にあたる

新潟県長岡市城内町二丁目にあるJR長岡駅は、かって越後長岡藩の藩庁が置かれていた長岡城跡にあたる。慶長3(1598)年に越後上杉氏[a]長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏會津若松への国替えに伴い、代わりに国入した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の与力で、又従兄にあたる堀直寄《ホリ・ナオヨリ》は、居城である蔵王堂城の城域が信濃川の流路変動や洪水で侵食や破壊が進んできたことから、信濃川上流にある大島庄は平潟原《ヒラガタハラ》[b]現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。に新城の築城を計画した。往時の平潟原は信濃川が形成した中洲で、直寄は水濠で囲まれ水運が利用できる近世城郭を目指したと云う。この地がのちの「長岡」である[c]その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。。しかし直寄の御家騒動[d]兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。で築城は中断、のちに大名として復帰し工事を再開したが完成間近に今度は越後村上藩に転封となってしまった。代わりに徳川家の譜代大名の一人である牧野忠成《マキノ・タダナリ》が入封し、ついに長岡城と城下町を完成させて長岡藩主となった。この城は戊辰戦争で全焼し廃城となったが、江戸中期にも火災で全焼し再建されている。

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参照

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a 長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏
b 現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。
c その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。
d 兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。