長尾駅近くのアオーレ長岡の敷地はかっての長岡城の二之丸跡にあたる

新潟県長岡市城内町二丁目にあるJR長岡駅は、かって越後長岡藩の藩庁が置かれていた長岡城跡にあたる。慶長3(1598)年に越後上杉氏[a]長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏會津若松への国替えに伴い、代わりに国入した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の与力で、又従兄にあたる堀直寄《ホリ・ナオヨリ》は、居城である蔵王堂城の城域が信濃川の流路変動や洪水で侵食や破壊が進んできたことから、信濃川上流にある大島庄は平潟原《ヒラガタハラ》[b]現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。に新城の築城を計画した。往時の平潟原は信濃川が形成した中洲で、直寄は水濠で囲まれ水運が利用できる近世城郭を目指したと云う。この地がのちの「長岡」である[c]その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。。しかし直寄の御家騒動[d]兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。で築城は中断、のちに大名として復帰し工事を再開したが完成間近に今度は越後村上藩に転封となってしまった。代わりに徳川家の譜代大名の一人である牧野忠成《マキノ・タダナリ》が入封し、ついに長岡城と城下町を完成させて長岡藩主となった。この城は戊辰戦争で全焼し廃城となったが、江戸中期にも火災で全焼し再建されている。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

最終日は新潟県長岡市で今回の Tour を締めくくった。午前中に同市栖吉町にある山城跡を攻めたあと、荷物を預けている長岡駅まで戻り、最後は駅前周辺が城跡だったと伝わる長岡城跡を攻めてきた[e]帰りの新幹線待ちの時間を利用して「散歩してきた」が正確かもしれない 😅️。

長岡城は、明治元(1868)年に始まった北越戊辰戦争で新政府軍による攻撃を受け、主郭部のほぼ全てを焼失したのちに、濠も埋め立てられて城郭の姿を完全に失ったまま廃城になった。かっての城跡は現在に至るまで鉄道が敷設されたり市街地化が進められてきたため消滅しているが、その中で「大手通」や「城内町」など地名にかっての面影を残すだけである。

と云うことで、現在は遺構そのものがほとんど期待できない一方で、実のところ多くの城絵図が残っているというのは興味深いところである。たとえば:

そして、こちらはお馴染みの『正保城絵図 〜 越後国古志郡之内長岡城之図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)をベースに、その一部分の向きを変えて加筆したもの[f]この絵図は、他の絵図とは異なり、城下町を含めて城として定義しているのが特徴。

幅広の水濠に囲まれた方形の郭が東西に連なる城郭と周囲に城下町を有す

『正保城絵図〜越後国古志郡之内長岡城之図』の一部(加筆あり)

いずれの城絵図も主郭部は幅広の水濠に囲まれた方形の郭が東西に連なる梯郭式平城で、中央に本丸、その西に二之丸、東に詰之丸が配され、それらを逆コの字型で囲む様に三之丸・西之丸・南之丸が配されており、さらにこれら主郭部の外側には水濠が巡らされている。さらに城域の西側には信濃川が巨流があり、北東南の三方にも信濃川支流である栖吉川が流れ、それぞれが天然の外濠であった。

こちらは『日本古城絵図〜北陸道之部(2). 233 越後国長岡之城図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)を、特に主郭部分を対象に加筆したもの:

幅広の水濠に囲まれた方形の郭が東西に連なる城郭を有す

『日本古城絵図〜北陸道之部(2).233 越後国長岡之城図』の一部(加筆あり)

この絵図に描かれたものから、三重の水濠で守られた本丸の周囲には主として土塁と土塀が築かれ、そこには御三階櫓と二重櫓(隅櫓)が築かれていたのが分かる。また本丸と木橋でつながっている二之丸と詰之丸も土塁の上に二重櫓(隅櫓)と土塀が築かれていたようだ。本丸の西と東に配されたこの二之丸と詰之丸は馬出としても使われていたかもしれない。そして、本丸の大手側(西側)には枡形虎口が設けられ櫓門と小門が建っていた他、二ノ丸虎口も枡形が設けられ、三之丸や西之丸、南之丸といった独立した郭はそれぞれ土橋で接続されていた。

外郭にある信濃川とその支流から水を引いた水濠が本丸をはじめとする主郭部を幾重にも取り囲んだことから、後年には「八文字の浮島城」呼ばれたと云う。石垣はほとんど使われず、天然の地形を土台に濠と土塁が多用されていた。

また、この図には描かれていないが、本丸内には御殿あるいは藩庁に相当する建物があったのであろうし、北西隅に建つ御三階櫓は天守の代用だったかもしれない。

ちなみに、享保13(1728)年に城下で発生した大火事では主郭部にある建物の大部分を焼失したが、この時にに本丸と詰之丸に建っていた御三階櫓も全焼した。しかし二十六年後の宝暦4(1754)年に再建されたのは本丸の御三階櫓のみ。従って『正保城絵図』には詰之丸に御三階櫓が描かれているものの、『日本古城絵図』の方には描かれていないのは、そういう背景があったからであろう。

長岡城は他にもいろいろな天災人災に遭遇している。例えば文政11(1828)年の三条地震[g]現在の新潟県三条市附近で発生したマグニチュード6.9(推定)の地震。では本丸を含む主郭部のほとんどの建物が大破した。あるいは弘化元(1844)年の火事では城門が延焼した。


こちらは本丸跡に建つJR長岡駅北口(大手口):

この辺は長岡城本丸跡にあたる

JR長岡駅北口

先の城絵図に現在の長岡駅を重ねてみると、こんな感じ(規模や位置は推定):

長岡駅は主郭部跡の敷地を再利用している

長岡駅と長岡城跡(推定)

廃城後、城跡は元藩主の牧野家が一時的に所有し公園として整備されていた。そして明治31(1898)年の旧・北越鉄道[h]明治28(1895)年に創立された新潟県内の私鉄。十数年後に国鉄に吸収され現在に至る。の開通に伴い、本丸跡・三之丸跡・南之丸跡の一部が駅舎の敷地として提供された。この時に廃城後も残っていた本丸土塁は全て破壊された。

駅北口(大手口)ターミナル脇には「長岡城本丸跡」の石碑がある:

往時の長岡城本丸は土塁で囲まれ御三階櫓などが建っていた

「戊辰史跡案内標柱・長岡城本丸跡」の碑

北越・戊辰戦争勃発時、長岡藩は中立の立場を堅持して新政府軍と旧幕府軍のどちらにも味方しない方針で藩中は決していた。藩の軍事総督を任されていた河井継之助《カワイ・ツギノスケ》はその旨を伝えるために、恭順を迫ってきた新政府軍との談判(小千谷談判《オダヤ・ダンパン》)に臨んだが、土佐藩の反対で交渉は決裂した[i]新政府軍は武器弾薬輸送の要である新潟港などの制圧が重要課題であったとする説あり。。継之助は、江戸藩邸の家宝や藩米を売却して蘭国(オランダ)から奇環砲(ガトリング砲)などの武器を購入、軍制を洋式に改め、練兵場を建ちあげるなどして新政府軍との全面対決に備えた。

北越戦争にあって最大の戦いとなった「長岡城攻防戦」で、圧倒的に不利な長岡藩勢は善戦し、一度は奪われた長岡城を奪還して新政府軍を敗走させた。しかし、この総力戦で継之助は足に銃撃を受けて戦線を離脱、新政府軍は軍艦を投入して戦況を逆転させ、ついに長岡城を落城させた。

重傷の継之助は、會津へ向かっていた途中破傷風により容態が悪化し、 まもなく危篤状態となって死去した。享年41。


こちらは駅北口の地下道入口に掲げられていた「長岡城・元旦年賀登城の図」:

長岡駅大手口にある地下道入口にかけられていた

「長岡城・元旦年賀登城の図」

雪が積もる中、藩主が居る本丸へ向かうため三之丸虎口へ向っているような構図。奥に見えるのが本丸の御三階櫓で、手前の二重櫓は二之丸の隅櫓であろうか。まさに長岡城の在りし日を偲ぶ図。

駅から城内通りを挟んで西側にある商業施設が二之丸跡:

現在はアオーレ長岡と云う商業施設になっている

二之丸跡

この施設の敷地内に「長岡城二の丸跡」と「長岡城址」の碑がある:

水濠を境に本丸の西側にあった二之丸には二重櫓が建っていた

「戊辰史跡案内標柱・長岡城二の丸跡」の碑

「今は跡形もないが」の下りが寂しいところ

「長岡城址」の説明碑

長岡城址

長岡城は元和三年堀直寄により築城され、翌四年堀氏の後に入封した牧野氏歴代二百五十年間治政した居城で、おひき形兜城又浮島城とも呼ばれた。明治戊辰の役に落城、後一度は奪回して長岡武士の気を吐いたが焼失し、明治に入り廃城、今は跡形もないが現長岡駅を中心に本丸があり、二の丸はこの碑の所にあった。

あと、往時の御三階櫓を模した長岡市郷土資料館の土台には、発掘調査で出土したとされる長岡城の石垣石材の一部が使用されているらしい。但し、長岡城は主に土造りの城で、石垣はほとんど使用されていないので、おそらくは土塁の土留めに用いられた腰巻石垣の類であろう。

以上で長岡城攻めは終了。

See Also長岡城攻め (フォト集)

【参考情報】

牧野駿河守忠成公墓所と普済寺

長岡藩・牧野家初代藩主の牧野駿河守忠成《マキノ・スルガノカミ・タダナリ》は、三河国は宝飯郡《ホイグン》牛久保村[j]現在の愛知県豊川市牛久保町。の生まれ。父は、はじめ三河国牛久保城主で、関白秀吉による小田原仕置後に関八州を与えられた徳川家康から上野国大胡城主を任された牧野康成《マキノ・ヤスナリ》[k]初めは今川氏の人質で、のちに徳川氏に従属した。こののちに大胡藩の初代藩主となる。

忠成は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際、父と共に上田城眞田昌幸信繁父子を攻めたが、昌幸の計略に釣られて、大将である徳川秀忠に無断で城攻めを行ってしまい、挙げ句に惨敗した。この責任を問われた康成は公然と反発して戦場から離脱した。これが秀忠の怒りを買い、父・康成は蟄居処分になった。その間、忠成は大胡城主を代理で務め、さらに父が死去したのちは大胡城をそのまま継承した。

忠成は、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で奮戦し大坂城落城で戦功を挙げたことで、越後国長峰に加増転封となり越後長峰藩の初代藩主になった。この時、長峰城築城と城下町の整備に務めたと云う。

元和4(1618)年には、さらに加増されて越後長岡へ転封となり、前藩主である堀直寄のあとを受け、藩の財源となる新潟町を整備して長岡城と城下町を完成させた。

また、忠成は三河時代からの藩風を保つため「牛久保の壁書」なる十八ヶ条の家訓を示し、武士の心意気として、戦場での辛苦を忘れず、今日の日の安息に感謝する気持ちで忠勤に励むことを説いた。そして長岡藩牧野家は、この精神を受け継ついで幕末まで十三代・二百五十余年続いた。

忠成は承応3(1654)年に江戸藩邸で没した。享年74。「長岡城下を見守りたい」との遺言から、城の東に位置する現在の長岡市栖吉町の普済寺《フサイジ》に墓所が建てられた:

牧野忠成公の菩提寺として知られる禅寺

曹洞宗・栖吉山・普済寺の山門

創建などは不詳。栖吉城主であった古志長尾家の菩提寺でもあったと云う。

本堂には公の木製坐像や長岡藩牧野家歴代の位牌が安置され、その屋根の棟や破風には牧野家の家紋「丸に三つ柏」があしらわれていた:

忠成公の木像や牧野家歴代の位牌が安置されている

本堂

破風には「丸に三つ柏」紋が掲げられていた

牧野家家紋

本堂裏の墓所奥にある石段の最上位には公の五輪塔がある:

公の両脇には殉死した家臣らの五輪郎が並ぶ

牧野忠成公の五輪塔

忠成公の五輪塔の両脇には殉死した能勢兵右衛門と渡辺七郎左衛門の他、織田信長の家臣であった池田恒興の甥で、のちに牧野家に召し抱えられた池田成興《イケダ・シゲオキ》の五輪塔が並ぶ。

ここ普済寺境内には他に、北越戊辰戦争で若くして散った少年隊士らの在名碑がある。


最後に忠成公のエピソードを一つ。

江戸幕府開府時、西国にはまだ豊臣恩顧の大名が数多く残っていた。特に安芸国広島藩主で四十九万八千石を領していた福島左衛門尉正則《フクシマ・サエモンノジョウ・マサノリ》は徳川家にとって極めて危険な大名であった。そこで、その取り潰しを謀った人物が牧野忠成であったと云う。忠成は、家康の養女となった妹の昌泉院を正則の継室に入れ、広島城の無断修善の事実を探らせた。昌泉院はその事実を兄の忠成に報告し、正則との間に生まれた二人の娘を残して広島から出奔したと云う。幕府は武家諸法度に違反した広島藩の取り潰しを決定、徳川秀忠はその通告を忠成と花房正成《ハナブサ・マサナリ》に命じ江戸愛宕下の広島藩邸へ遣わした。正則は上使の命を聞くと「今は詮無きこと。[l]現代語に訳すと「今となっては仕方のないことだ」。」と述べたと云う。幕府は忠成らから、正則の態度が神妙であったとの報告を聞き、謀反されては一大事と、改めて信濃国川中島四万五千石を与えたと云う。この時、正則は謀反の意思が無いことを示すため、馬廻りの精鋭20騎が着用していた甲冑「赤坊主」[m]この甲冑は現存する(小諸市所蔵)。のちに長岡藩から与板藩に分知されたが、与板藩牧野家が転封されるに伴い小諸藩へ渡った。【参考情報】のリーフレット表紙を参照のこと。を忠成に託したとされる。

See Also牧野駿河守忠成公の墓所 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏
b 現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。
c その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。
d 兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。
e 帰りの新幹線待ちの時間を利用して「散歩してきた」が正確かもしれない 😅️。
f この絵図は、他の絵図とは異なり、城下町を含めて城として定義しているのが特徴。
g 現在の新潟県三条市附近で発生したマグニチュード6.9(推定)の地震。
h 明治28(1895)年に創立された新潟県内の私鉄。十数年後に国鉄に吸収され現在に至る。
i 新政府軍は武器弾薬輸送の要である新潟港などの制圧が重要課題であったとする説あり。
j 現在の愛知県豊川市牛久保町。
k 初めは今川氏の人質で、のちに徳川氏に従属した。こののちに大胡藩の初代藩主となる。
l 現代語に訳すと「今となっては仕方のないことだ」。
m この甲冑は現存する(小諸市所蔵)。のちに長岡藩から与板藩に分知されたが、与板藩牧野家が転封されるに伴い小諸藩へ渡った。【参考情報】のリーフレット表紙を参照のこと。