栖吉城の主郭虎口に設けられた外枡形は馬出として使われた

越後中郡《エチゴ・ナカゴオリ》[a]現在の新潟県の中越地方。は古志郡南部から蒲原郡三条へ連なる東山丘陵[b]現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。にあって標高335mほどの城山山頂に築かれていた栖吉城は、東西に伸びる二つの尾根を利用し、西側にある本城(主郭)と東側にある古城(詰郭)からなる一城別郭[c]分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。の造りであった。主郭の東・西・南の三方を囲むように二ノ郭を、その南には三ノ郭をそれぞれ配し、これらの高い切岸には畝状阻塞《ウネジョウ・ソサイ》を設けた。詰郭にはその周囲に段郭を配し、東へ伸びる尾根には堀切と畝状阻塞で寄手の侵入を防ぐと云う越後の中世城郭の特徴が多く見られる縄張である。築城期は定かではなく、戦国時代の永正《エイショウ》年間(1504〜1521年)に古志長尾家五代当主・長尾孝景《ナガオ・タカカゲ》が築き、それまでの蔵王堂城から居城を移して古志長尾氏の本拠とした。その後、古志長尾家は生母の実家として長尾景虎擁立を支え、長尾上杉家の一門衆として活躍するが、御館の乱後に滅亡。栖吉城は上杉家の會津への国替え後に廃城となった。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

最終日の五日目は、前日に続いて新潟県長岡市にある城跡を二つ攻めてきた。一つ目は、昭和38(1963)年に県史跡に指定された栖吉城跡。
この日は宿泊先をCOしたあと、最寄りの新潟駅からJR信越本線で長岡駅へ移動し、荷物をコインロッカーに預け、駅東口から越後バス・栖吉線に乗車して国道R352沿いにある栖吉中央と云う停留所で下車[d]料金は片道が大人250円(当時)。。そこから登城口がある栖吉神社へ向かった:

R352沿いから遠望した城山山頂が城跡

栖吉城跡

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回巡ってきた城跡とその周辺の場所(黄色の)を記したもの:

栖吉神社裏に登城口がある他、普済寺裏には長岡藩初代藩主の墓所がある

栖吉城跡とその周辺図

青色線で囲ったところが栖吉城域であるが、今回は馬場跡は巡らず。栖吉神社境内も城域の一部(出城)として利用されていたとされ、そこに主郭方面へ向かう登城口があり、そこから整備された登山道を登って行く。その途中にはいくつか分岐点があり、その一つは麓の普済寺《フサイジ》へ向かう登山道[e]当時、途中に大きな倒木などがあって、こちら側の登城道はあまり整備は行き届いていなかった 😕️。があり、城攻めを終えて下山する時に利用した。

そして今回巡ってきた遺構などを、主郭跡に建っていた「栖吉城跡の縄張図」に追記したものがこちら:

オリジナルの図で北方向を上にし、巡ってきた遺構に番号を付与したもの

栖吉城跡の縄張図(加筆あり)

基本的には、この図に追記した順番に従って城攻めしてきた次第:

(栖吉神社境内)→ (出城・堀切跡)→ 登城口 → (分岐点1)→ ①本荘清七郎の墓 → (分岐点2)→ ②畝状阻塞跡 → ③ 虎口跡 → ④ 三ノ郭跡 → ⑤堀切と土橋 → ⑥ 二ノ郭跡 → ⑦横掘 → ⑧馬出跡 → ⑨主郭跡 → ⑩堀切 → ⑪腰郭跡 → ・・・ →(分岐点2)→ ⑫腰郭跡  → ⑬木戸跡 → ⑭堀切 → ⑮腰郭跡 → (⑯詰郭跡)→ ⑰木戸跡 → ⑱堀切群 → ・・・ →(分岐点1)→ ・・・ (普済寺)


こちらが栖吉神社の参道。奥に見える杜が城跡:

この神社の社殿裏に登城口がある

栖吉神社

石段を登り、かっては栖吉城の出城であったとされる境内へ。往時、この出城は三段構えであったと云う:

ここは三段構えの出城の二段目にあたる削平地だった

出城(二段目)跡

鳥居をいくつかくぐって社殿が建つ出城最上段へ:

出城(三段目)跡には栖吉神社の社殿が建つ

鳥居

出城(一段目)跡には栖吉神社の社殿が建つ

社殿

社殿脇を下りていった先に登城口があるが、その手前の道路は堀切跡である:

栖吉神社(手前)が出城跡、堀切跡の先が登城口

堀切跡と登城口

堀切跡の先が栖吉城の本城(主郭)方面

(コメント付き)

この堀切跡を渡った先が登城口。云わば栖吉城の大手口であり、登山道は大手道に相当する。ここからは本城方面へ向って緩急のあるこの大手道跡を登って行く:

「城山コース」と呼ばれるトレッキングの登山口でもある

大手口跡

初めは緩やかな坂だが、本城へ近づくにつれて急坂になる

大手道跡

しばらく登山をしていると分岐点1に至る。標柱が建つあたりから左手へ下っていくと普済寺である(第二の登城道):

普済寺には長岡藩初代藩主・牧野忠成公の墓所がある

分岐点1

このまま本城方面へ向けて登って行くと、登城道脇に①本荘清七郎の墓が建っていた:

栃尾城主であった本荘(本庄)実乃の嫡男・秀綱の墓碑

「栖吉城・本庄清七郎の墓」

本荘(本庄)清七郎とは本荘秀綱の幼名である[f]なぜ幼名を墓標にしたのだろうか? もしかしたら秀綱の嫡男の墓だとか?😐️。父は栃尾城城主で、長尾景虎と名乗っていた時代から上杉謙信を支えた重臣の一人である本荘実乃《ホンジョウ・サネヨリ》。秀綱は謙信の越山に従い上野国の沼田城に詰めるなど、父同様に謙信の信任が篤かったと云う。

謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)では、景虎方につき[g]秀綱の主人・長尾景信《ナガオ・カゲノブ》ら古志長尾氏は、景勝を支えていた上田長尾氏とは犬猿の仲だった。、景勝方であった直江信綱の居城・与板城を攻めるなどした。しかし御館が落城し景虎が敗死すると、秀綱は栃尾城で一年に及ぶ籠城の末に降伏開城し、その後は越後国から追放されたと云う。

ただし御館の乱当時、秀綱は栃尾城ではなく栖吉城に在城していたと云う説があるそうで、それがここに墓標が建てられている理由なのだとか。


さらに大手道跡を進んで行くと次は分岐点2に至る。まずは本城(主郭)方面へ:

ここから本城の城域で、左手へ進むと三ノ郭・二ノ郭・主郭方面

分岐点2

右手奥へ進むと城域の南側へ回りこんで八方台・栃尾城方面となる

(コメント付き)

ちょうど三ノ郭跡の手前で、切岸にいくつか残る②畝状阻塞跡をわずかながらに確認することができた:

大手道脇の大部分が藪化していて標柱にも気が付かないかも

畝状阻塞

標柱が建っている土塁の向こう側に竪堀と土塁が連なっている

(コメント付き)

三ノ郭のやや緩やかな切岸は藪化し、経年埋没もあって竪堀や土塁が分かりづらくなっているが、見る角度によってはその存在を確認できる:

ちょうど真下あたりから見上げる角度で

畝状阻塞

二つの竪堀が土塁を挟んで連続しているのが分かる

(コメント付き)

さらに隣りにある畝状阻塞:

真下あたりから見上げる感じが最も分かりやすかも

畝状阻塞

二つの竪堀が土塁を挟んで連続しているのが分かる

(コメント付き)

これら畝状阻塞は、越後の中世城郭で見られる最も特徴的な防御施設の一つである。

このまま左右に折れた大手道跡を進んで行くと三ノ郭の③虎口跡が出現する:

三ノ郭の切岸を横目に主郭方面へ登って行く

大手道跡

往時は向って正面に櫓門が建っていたと云う

三ノ郭虎口跡

主郭へ向って大手道をグネグネ登ってきた寄手は三ノ郭から横矢を受けつつ、虎口に建っていた櫓門から正面攻撃を受けることになる。

虎口跡の先が④三ノ郭跡

二ノ郭の南を覆うように「くの字」に配された郭

「栖吉城・三の丸跡」の標柱

「くの字」をした三ノ郭跡には土塁が残っていた:

この土塁が往時のものかどうかは不明

土塁

三ノ郭の先には二ノ郭があるが、その間には⑤堀切と土橋が残っていた:

堀切を挟んで三ノ郭(手前)と二ノ郭(奥)がある

堀切と土橋

土橋上から二ノ郭に向って左手の堀切:

藪化はしているが良好な状態で残っていた

堀切1

三ノ郭(手前)と二ノ郭(奥)の間の堀切

(コメント付き)

同様に右手の堀切:

藪化はしているが良好な状態で残っていた

堀切2

三ノ郭(手前)と二ノ郭(奥)の間の堀切

(コメント付き)

そして土橋を渡り、二ノ郭虎口跡から⑥二ノ郭跡へ:

内枡形の構造を持ち、往時は櫓門が建っていた

二ノ郭虎口跡

右奥に見える主郭をL字に囲む郭だった

二ノ郭跡

虎口はだいぶ経年埋没が進んで窪みが浅くなっているが、往時は内枡形の坂虎口を形成し櫓も建っていたと思われる。ここでも三ノ郭と同様に寄手は正面頭上から迎撃されることになる。そして、先に見える主郭をL字型に囲んでいた二ノ郭は小さな斜度を持つ削平地だった。あるいは二段構えだったのかもしれない。

その一方で、二ノ郭北端側は急斜面になり険しい切岸を形成していた:

意外と大きな斜度を持つ切岸を形成していた

二ノ郭北側

このまま主郭跡へ向かうと二郭との間にある⑦横掘をかろうじて見ることができた:

二ノ郭(手前)から見て主郭(右手上)を囲む横堀

主郭の横掘1

経年埋没のため、かろうじて横掘と確認できるレベル

(コメント付き)

この横掘は、むしろ二ノ郭から主郭へ土橋状に伸びる外枡形を挟んで反対側の方が状態が良好だった:

主郭(上)と二ノ郭の間にある横堀(空濠跡)

主郭の横掘2

そして主郭前に設けられた土橋状の外枡形跡は⑧馬出跡

二ノ郭跡側から眺めた横堀と、主郭前にある外枡形

土橋状の外枡形

右手奥の主郭前面に設けられた外枡形は馬出として利用された

馬出(外枡形)跡

馬出跡の先が、往時は櫓門が建っていたとされる主郭虎口跡であり、⑨主郭跡である。城内で最も広いこの郭には、往時は居館が建っていたと考えられる:

往時、ここにも櫓門が建っていたと思われる

主郭虎口跡

外周には数多くの削平地や堀切が残っているが藪化が激しい

主郭跡

古志長尾家五代当主・長尾孝景の子で栖吉城主を継いだ房景《フサカゲ》は、のちに守護代・長尾為景の継室《ケイシツ》となり長尾景虎の生母となる青岩院《セイガンイン》[h]小説や伝説では虎御前《トラゴゼン》の呼び名でも知られるが、本名は不詳。の父として、虎千代改め長尾景虎を大いにもり立てて守護代の座に付かせることに尽力した。なお、青岩院の父が長尾肥前守顕吉《ナガオ・ヒゼンノカミ・アキヨシ》とする史料や小説があるが、顕吉は上田長尾氏の家系であり古志長尾氏でも栖吉城主でもない(果ては房景と顕吉を同一人物であるとする説もあるらしい)。

長尾上杉家一門の筆頭を務めた房景の子・十郎景信《ジュウロウ・カゲノブ》もまた景虎を支えた人物[i]後年は上杉姓を名乗り、「越の十郎」または「古志の十郎」の通称を持つ。娘婿は本荘繁長である。で、為景死後の内乱で一時、虎千代を栃尾城下に匿っていたことがあったと云う。しかし謙信死後の御館の乱では上杉景虎方につき、居多浜の戦いで討死。古志長尾氏の本流は滅亡した。

その後、上杉景勝は古志長尾氏の名跡を河田長親《カワダ・ナガチカ》に継がせたが、河田は織田信長麾下の柴田勝家・佐々成政ら北陸方面軍と対陣中に急死、彼の嫡男も早逝して、古志長尾家は完全に滅亡した。

その後、栖吉城は遺臣の古志衆が城番を務めていたが、慶長3(1598)年の越後上杉家の會津移封で廃城となった。


主郭ががある尾根は東側に伸び、その先には⑩堀切⑪腰郭跡が連なっていた:

主郭東側の尾根筋を断ち切るように堀切と腰郭が連続する

堀切と腰郭

堀切の先にみえるのが腰郭跡で、往時は三段構えだった

(コメント付き)

この堀切の堀底までは行くことができたが、残念ながらその先にある腰郭跡は藪化が激しくて立ち入れず:

堀切の堀底で、左手が主郭跡、右手が腰郭跡

堀切の中

このあとは分岐点2へ戻り、古城(詰郭)方面へ。左手に本城域南側の切岸を見ながら這うようにして東側へ続く登城道を進む:

城域の南側を這うようにして延びる登城道を東へ

分岐点2から

本城南側の切岸を横目に城址東側へ向かう

古城方面へ

ここは本城と古城の境目にあたり、長大な堀切があるようだが当時は藪化が激しくて確認できず:

左手上には巨大が堀切と腰郭があるようだが確認できず

本城と古城の境目

さらに古城方面へ進むと、古城南側下の⑫腰郭跡に至る。ここと左上にある腰郭、そして右下にある腰郭が階段状に配されていた:

左手上の腰郭から右手下に向かって小郭が階段状に連続していた

腰郭跡(二段目)

複数の腰郭が階段状に配されていた

腰郭跡(三段目以降)

これは腰郭跡の八方台方面に残っていた⑬木戸跡。こちら側が搦手になるのであろう:

城域の搦手側に設けられた虎口で土塁が残っている

木戸跡

木戸跡を過ぎると⑮腰郭跡⑯詰郭跡と分断する⑭堀切がある:

左手が腰郭跡、右手が詰郭跡

堀切

登城道から見上げた堀切と腰郭、そして切岸

腰郭跡と堀切

詰郭跡の下を通ってさらに 進むと再び⑰木戸跡があった。流石に搦手側は厳重な守りになっている:

搦手(八方台)方面にある木戸の一つ

木戸跡

木戸跡を抜けると尾根筋になるが、それに伴って連即した⑱堀切群を見ることができた:

堀切が連続する搦手側の尾根筋

堀切群

堀切が連続する搦手側の尾根筋

(コメント付き)

経年埋没を考慮しても、この深さはかなりの規模だったと予想できる:

堀切はこの先で竪堀に変化して尾根から落ち込んでいた

堀切

こちらは逆側から眺めた堀切群:

振り返って見た連続する堀切

堀切群

振り返って見た連続する堀切

(コメント付き)

以上で栖吉城攻めは終了。

このまま分岐点1まで戻り、普済寺方面の登城道を下った。その途中、こんな感じで行く手を阻む倒木が多くて難儀した:|

行く手を遮る倒木

See Also栖吉城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在の新潟県の中越地方。
b 現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。
c 分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。
d 料金は片道が大人250円(当時)。
e 当時、途中に大きな倒木などがあって、こちら側の登城道はあまり整備は行き届いていなかった 😕️。
f なぜ幼名を墓標にしたのだろうか? もしかしたら秀綱の嫡男の墓だとか?😐️
g 秀綱の主人・長尾景信《ナガオ・カゲノブ》ら古志長尾氏は、景勝を支えていた上田長尾氏とは犬猿の仲だった。
h 小説や伝説では虎御前《トラゴゼン》の呼び名でも知られるが、本名は不詳。
i 後年は上杉姓を名乗り、「越の十郎」または「古志の十郎」の通称を持つ。娘婿は本荘繁長である。