東西は急峻な切岸を成し、南北に細長く弓形をした栃尾城の実城跡

新潟県長岡市栃尾町の西方に位置し、標高227.7mの鶴城山《カクジョウサン》山頂に実城[a]読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。を持つ栃尾城上杉謙信(長尾景虎)旗揚げの城として知られるが、現在見られる遺構は謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)の時のもの。その城域は、山頂周辺の本城域、千人溜りのある中腹の中城域、そして麓の根古屋域で構成され、本城域は二の丸を中心に二つある尾根のうち、北側の尾根筋に実城・松の丸・三の丸・五島丸・北の曲輪を、西側の尾根筋に中の丸・琵琶丸・烽火台を配していた。郭はそれぞれ空堀(空濠)で区分され、中でも三の丸から千人溜りまで320mにも及ぶ大空濠は山頂から落ち込んで長大な竪堀へと変化する。また枡形の虎口を巡る大手道は意図的に屈曲させていた。これら一連の縄張は謙信在城の時代には見られず、御館の乱の時代に景虎方の本荘秀綱《ホンジョウ・ヒデツナ》らによって整備・改修されたものと考えられる。栃尾城は景勝勢による足かけ三年にわたる攻城戦で落城した。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

四日目は、かって上杉謙信が長尾景虎と名乗っていた時代に過ごした栃尾市街近くにある栃尾城跡の他、栃尾の町にある謙信公ゆかりの場所も巡ってきた。ちょうど端午の節句の時期ともあって秋葉公園周辺には町主催の出店がたち、大勢の人たちで賑わっていた。

この日は宿泊先最寄りの新潟駅からJR信越本線で長岡駅へ移動し、駅東口から越後バス・快速(新榎経由)栃尾線に乗車して中央公園前と云う停留所で下車[b]料金は片道が大人560円(当時)。。そして西谷川沿いに歩いて登城口の一つである三光口を目指した:

栃尾城下を流れる刈谷田川の支流(往時はここも刈谷田川)

西谷川

鶴が舞ったような尾根を持つ標高227.7mの鶴城山が城跡

栃尾城跡

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回巡ってきた場所など(黄色の)を書き入れたもの:

午前中は栃尾城跡攻めを堪能し、午後は城下町を満喫してきた

栃尾城跡と栃尾町周辺図

まず栃尾城跡は、中世の山城跡にしては登城道や説明板などよく整備されていてハイキング気分で攻めることができた。こちらは『上杉謙信公ゆかりの史跡』なるパンフレットに描かれていた「栃尾城跡図」。図中、「千人溜り」から「金銘水」あたりが急斜面のように見えるが、実際そのあたりから登城道が急坂になっていた。:

基本的に根古屋域以外、この図を見ながら攻めてきた(松の丸へは本丸下を通るので注意)

栃尾城跡図(拡大版)

城攻め当時は、この図を観ながら山登りしてきたわけだが、本稿執時だと散策やウォーキング向けの情報がいろいろ発信されていた。たとえば:

そして、こちらが Google Earth 3D を利用して城跡がある鶴城山を俯瞰した地形に、今回巡ってきた遺構などを重畳したもの(位置は推定を含む):

三光口から大手道跡を通り山頂にある二つの尾根筋を巡ってきた

栃尾城跡俯瞰図(位置は推定を含む)

複数ある登城口のうち、今回は城址北東側にある三光口から城攻めを開始。ここが往時の大手口だったらしい。そして石段を上がって行くと諏訪神社の社が見えてくる:

四カ所ある登城口の一つで、推奨の散策コースのスタート点

栃尾城跡・三光口

古くは栃尾城の鎮守として置かれたと云う説あり

諏訪神社

また社殿脇には「栃尾城址図」なる大きな案内図[c]「栃尾市教育委員会」と刻まれていたので、長岡市に編入されて栃尾町になった平成18(2006)年より前に建てられたものであろう。金井曲輪と後藤曲輪の位置が逆だった。があった。このあとは社殿奥の大手道跡を登って行く:

現在の散策路は整備されていて登りやすい

大手道跡

すると八幡社の石祠《セキシ》が建つ場所に至るが、ここが金井曲輪跡:

ここが金井曲輪跡

八幡社の石祠

実城方面の段曲輪の一つが後藤曲輪跡(右手の杜あたり)

金井曲輪跡と段曲輪

金井曲輪北端には竪堀が残っていた:

このまま鶴城山の麓方面へ落ち込んでいた

竪堀

金井曲輪の上(実城方面)には段曲輪がいくつかあるが、その一つが後藤曲輪跡[d]後藤曲輪跡は、実城跡から下山して登城口の岩神口へ向かう途中に寄ってきた 😀️。

大手道が貫通している段曲輪の一つ

後藤曲輪跡

段曲輪の一つで平坦に削平された状態で残っている

後藤曲輪跡

金井曲輪跡から屈曲しながら実城方面へ伸びる大手道跡をさらに登って行くと、階段状に設けられていた腰曲輪跡がある:

左手上が馬場で、その下に腰曲輪が階段状に置かれていた

馬場下の腰曲輪跡

さらに登って行くと、もう一つの登城口である岩神口へ降りる分岐点1に至る。ここは大手道が通過する往時の枡形跡:

往時は大手道が通過する枡形だった

枡形跡(分岐点1)

手前が馬場・実城方面で、石動神社へ向かうと後藤曲輪跡

案内図

さらに大手道跡を登っていくと馬場(馬責め場)跡がある。土居の上の平地で軍馬の調練が行われたところで、幾重かある馬場の最上段には池跡があった:

この城塁上に広い馬場があった

馬場跡

何段か細長い馬場を登ったところにあった窪地

馬洗い池跡

馬場の規模は2,900㎡に及んでいたと云う:

馬を調練するために細長い平場が幾重かあった

馬場跡

馬場跡を過ぎると大空壕(大壕)跡が出現する:

向って左手下が麓の根古屋方面、右手上が三の丸がある実城方面

大空壕跡

口幅15m、深さ7m、長さは300mの長大な空壕

コメント付き

向って右手から左手へ空濠が走っているが、これは山頂尾根に築かれた松の丸と三の丸の間の堀切が竪堀となって麓の馬場方面へ落ち込んできたもので、その口幅は15m、深さ7m、長さは320m近くあり、防戦用に重要な施設であったと共に三の丸や実城がある山頂への通路としても利用されていたと云う:

堀底から見下した大空壕跡は谷津に向って落ち込んでいた

麓方面の大空壕跡

掘った土を土塁として積み上げて、一段と濠を深くしている

千人溜りと馬場の間の大空壕

壕を穿って《ウガッテ》出た土を土塁として積み上げていくことで壕そのものを深くし、堀底を平坦にして[e]所謂、箱堀。通路としても利用できるようになっている。

そして大空壕が区分している郭が千人溜り跡:

城内一の広さを誇る大きな郭

千人溜り跡

3000㎡に及ぶこの千人溜りの平地は将兵の調練場だった

千人溜り跡

千人溜りがある位置から城址東側の眺めがよかった:

眼下には秋葉公園や栃尾美術館、遠くには雪が残る大岳や守門岳を眺めることができた

城址東側の眺望(拡大版)

眼下には謙信公坐像がある秋葉公園、そして謙信廟のある長岡市栃尾美術館が見えた他、遠くには標高1400mクラスの大岳や守門岳《スモンダケ》を眺めることができた。

そして、ここの辺りから山頂に向けて斜面がきつくなり、斜度を小さくするよう(刻むように)幾重もの段曲輪が配されていた。それと共に登城道も急坂に変化する:

ここから山頂に向けて急坂と段曲輪が連続する

大手道跡と段曲輪跡

もくもくと大手道跡を登っていくと、鬱蒼した杜がぱっと開け、実城の切岸が眼前に現れた:

高さは優に20mはあると思われる

実城の切岸

実城の腰回りには野面積みの石垣を巡らせていたようだが、現在確認できるのは東側(こちら側)ではなく西側とのこと。また大手道跡は切岸のすぐ下を通っているので、実城から石なんかを落とされたら一溜まりもない:

当時は5月頭ではあったが未だ雪が残っている場所があった

大手道跡と実城の切岸

そう云えば、大手道を実城の真下に通して横矢掛りを仕掛ける構造を与板城でも見た。これぞ越後の上杉流築城術。

この他にも、地下水が実城下の谷津に向けて集まっているようで、城の水源として地下水を利用していた痕跡が残っていた。こちらは金銘泉《キンメイセン》と呼ばれる水の手の一つで、雪解けの水を湛えていた。ちなみに二の丸跡の手前には銀銘泉なる井戸があった[f]傍にあるトイレで使う水を汲み上げるためのポンプが付いていた。

残雪の脇にあった、今なお水をたたえる栃尾城の水源の一つ

金銘泉

雪解けの水で涸れることがない水の手

金銘泉

こちらは実城下の大手道跡から中城域の谷津を見下ろしたところ。下から実城の切岸を見上げると、どれだけ急峻な「壁」だったのかが現在でも想像がつく:

大手道跡から中城域(千人溜り方面)を見下したところ

実城下の谷津

このあと更に急坂になった大手道跡を登っていき、別の登城口(岩の鼻口)へ降りる分岐点を過ぎ、さらに実城跡と二の丸跡の分岐点を越え、実城跡へ続く大手道跡を登って行く:

いくつか分岐点を越えて山頂にある本城域へ向かう

実城跡へ向かう坂道

ここが実城の虎口跡。この先が標高227.7mの鶴城山山頂に築かれた栃尾城の本丸に相当する:

鶴城山の頂にある8✕50mの細長い削平地

実城(本丸)跡

東西は高く急斜面な切岸となっていた:

正面には堀切を挟んで松の丸跡や三の丸跡がある

実城東側の切岸

実城から見下した切岸と大手道(腰巻き石垣は確認できず)

実城東側の谷津

北側から振り返ってみると実城が弓形をした平坦な郭であることがよく分かる:

往時は居館が建っていたとされる

実城跡

こちらは弓形をさらに強調してみた実城跡からのパノラマ:

左手が松の丸・三の丸方面、右手が二の丸方面、正面下が栃尾の城下町

栃尾城東側の眺望(パノラマ)

実城跡からは、かって栃尾城の天然の外堀であった刈谷田川《カリヤタガワ》や謙信公ゆかりの秋葉神社がある秋葉公園を遠望することができた:

城下を流れる西谷川もまた往時は刈谷田川だった

刈谷田川

謙信公が遷したと伝えられる秋葉三尺坊大権現がある

秋葉公園

栃尾城の始まりは、一説に南北朝時代の正平年間(1346〜1370年)に下野国の武士団であった宇都宮氏の家臣・芳賀高名《ハガ・タカナ》[g]出家して芳賀禅可《ハガ・ゼンカ》とも。が越後国の守護代として、縄張りをして築いた要害堅固な山城であったされる。

室町時代に入り上杉氏が守護職になると、共に相模国から国入りし守護代を務めた長尾氏一族が蔵王堂城を拠点とし中郡《ナカゴオリ》[h]栃尾城があった古志郡三条《コシグン・サンジョウ》、蔵王堂城があった刈羽郡《カリワグン》一帯。現在の中越地方。を所領とした。その後、長尾景晴《ナガオ・カゲハル》が古志長尾《コシ・ナガオ》家初代当主として栖吉城に居城を移すと、栃尾城は長尾氏の被官・本荘氏歴代の持城となった。

室町時代末期、越後国守護の上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》とその兄で関東管領の上杉顕定《ウエスギ・アキサダ》[i]山内上杉家十一代当主。同時代に稀代の築城軍略家であった太田道灌がいる。に下剋上して、越後国の支配権を掌握した守護代の長尾為景《ナガオ・タメカゲ》が没すると、跡を継いだ嫡男の晴景《ハルカゲ》を侮った国人衆や地侍が反乱を起こし、本荘実乃《ホンジョウ・サネヨリ》ら二千が守備する栃尾城もまたその標的となった。病身の晴景にこれを鎮圧するだけの才覚はなく、林泉寺で仏門に入っていた弟の虎千代を還俗させ、元服して名を改めた14歳の平蔵景虎《ヘイゾウ・カゲトラ》を栃尾城へ派遣した。

越後中郡を占める古志、蔵王、蒲原南部一帯は、南北朝の内乱の際、地侍連中の間で最も激しい合戦が繰り返された場所であった。栃尾城へ進軍する際に立ち寄った三条城で、少年が大将を務めることに不安の色を隠せない城代の山吉行盛《ヤマヨシ・ユキモリ》に対し、景虎は

儂はいまだ合戦の場を踏みし数も少ないが、戦わば必ず勝つのじゃ。何となれば、毘沙門天の化身ゆえじゃ。

と語り、進軍中に受けた地侍どもの襲撃を難なく撃破し、危なげなく栃尾城に入城した。栃尾城代の実乃は、山下の柵門前でこれを出迎え、この時三十を半ば過ぎた歳であったが、少年・景虎の雄々しい《オオシイ》馬上の姿を見て涙を流して喜んだ。

実城にて指揮をとる景虎は将兵らを前に

ここら辺りの奴輩《ヤッパラ》には骨身にしみて辛き目にあわせたうえ、捻じ倒さねば、そうやすやすと従うまい。

として、実城や二の丸の拠る尾根の斜面に巨大な畝状の竪堀を数多く穿ち、堀底を縦列で這い登ってくる寄手に巨石や巨木、煮えたぎった油、はては車菱や撒き菱を浴びせるなどの策をとって容赦のない反撃を行った。あるいは撤退すると見せかけて景虎勢による追撃戦を待ち伏せしようと目論む地侍連中の裏をかき、油断している敵に対し疾風《ハヤテ》の如く夜討ちをかけるなどして散々に打ち負かした。

はじめ幼年の景虎を侮っていた地侍や越後下郡《エチゴ・シモゴオリ》[j]現在の下越地方。から遠征してきた揚北衆[k]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。ら猛者どもは昼夜を問わず城に攻めかけたが、景虎の軍略を前に連敗を喫し、自軍の将兵を失うにつれ、改心して景虎の下に降伏するものも出てきた。その一方で、景虎麾下の軍兵は合戦ともなれば必ず勝利すると云う信念が芽生えていた。

栃尾城に拠って一年がたった頃には、長尾景虎の勢威は越後全土に広まり、城兵も降伏してきた地侍連中を含めて一万を越えていた。

そして春の訪れが始まったとある朝、城下におびただしい軍勢が現れた。聞けば、揚北衆随一の強豪と云われた安田長秀《ヤスダ・ナガヒデ》が景虎とじかに談合いたしき由とのこと。てっきり和睦の交渉にきたものと思った実乃は「願いの儀あらば、長秀一人にて城内へ参れ」と伝えた。城兵がひしめきあう中、おそれる色もなく単身で二の丸から実城への坂を登ってきた安田は、景虎を前にして太刀を外して平伏し「これは府中守護代家の若殿さまにござりまするか。只今それがしが推参いたせしは、これまでお手向いたせし罪をお詫び申し上げ、こののちは御家来衆の端にお加え下さるよう、お頼みいたしたき為にござりまする」と言上した。傍で聞いていた実乃ら幕僚たちは、安田の口から「降伏」の言葉が出てきたことに驚きを隠せなかった。即座に応じた景虎が「よかろうず。御辺がさように望まれるなら、只今より我らが手につき、中郡の賊徒征伐に力を貸してくれ」と云うと、長秀は「ありがたき仰せを頂戴いたし、長秀この上の幸せもござりませぬ」と返した。

歴戦の勇士である長秀が、景虎に臣従を誓ってきたのはただ事ではなかった。長秀は、越後の諸侍が景虎を高く評価しなければ、決して降伏してくるような男ではなかったのである。これを期に揚北衆だけではなく、越後国中の侍どもが景虎の器量を認めるに至るのであった。


このあとは実城跡から、安田長秀も歩いた坂を下って二の丸跡へ向かった。ちなみに実城北側にある松の丸や三の丸へは西側の尾根筋を攻めた後に、実城西側下の山道を通って行くことにした[l]さすがに実城の高い切岸を転げ降りるわけにはいかない 😆️。

こちらが二の丸虎口跡:

二の丸は本丸である実城に次いで重要な郭だった

二の丸虎口跡

そして二の丸跡。複数の段から構成され周囲は堀で区切られていたとされ、独立した防衛施設という位置づけだったらしい:

周囲には堀が巡り、徳立した防衛施設として使われた

二の丸跡

長尾景虎あらため上杉政虎から号して謙信に至る間、栃尾城には城代が置かれ、さらに栃尾衆と呼ばれる家臣団が編成された。天正6(1578)年に謙信が没すると御館の乱が勃発し、城代の本荘秀綱は上杉景虎を支持して上杉景勝と戦ったが、翌7(1579)年に景虎が敗死、さらにその翌年には景勝らの軍勢によって栃尾城は落城した。

栃尾城は引き続き越後上杉氏の番城として、景勝麾下の諸将が交替で在城したと云う。

慶長3(1598)年、景勝が會津へ国替となると、新しい領主である堀秀治の家臣・神子田長門守政友《ミコダ・ナガトノカミ・マサトモ》が在城した。慶長15(1610)年に堀氏の改易に伴い、栃尾城は廃城となった。


このあとは、二の丸跡を出てトイレがある分岐点へ戻り、そこから中の丸跡へ:

二の丸と同じ尾根筋だが、中の丸の方が低い位置にある

中の丸跡

これは中の丸と、さらにその下にある琵琶丸との間の堀切と、その堀底から双方の郭跡を見上げたところ。それぞれの切岸の高さがよく分かる:

この堀底から中の丸跡を見上げたところ

中の丸の切岸

左手が中の丸跡、右手が琵琶丸跡

中の丸と琵琶丸の間にある堀切

この堀底から琵琶丸跡を見上げたところ

琵琶丸の切岸

こちらが琵琶丸跡。二の丸から西側に伸びる尾根筋には削平して築かれた比較的小さな郭が連続する:

堀切で尾根を断ち切り削平された郭だった

琵琶丸跡

その琵琶丸西側に残る堀切と土橋:

土橋を渡った先は狼煙台詰郭(馬つなぎ場)跡

琵琶丸西側の堀切

二の丸から伸びる尾根筋には、このような堀切が多い

琵琶丸西側の堀切

さらに尾根筋を西へ向って行ったところにあるのが狼煙台詰郭(馬つなぎ場)跡。奥に高い土塁が残る:

往時は馬つなぎ場と呼ばれていた、やや広めの郭

狼煙台詰郭跡

この郭西側にある堀切(大空濠)と土橋:

奥にあるのが狼煙台詰郭跡、手前が尾根筋西側

堀切と土橋

こちらの尾根筋は、このような堀切が多く残る

堀切(大空濠)

狼煙台跡へ続く尾根道の両側は急崖。そして尾根筋西端にある狼煙台:

狼煙台へ続く尾根道の両側は急崖であった

尾根道

往時は近くの城との連絡には狼煙を使ったと云う

狼煙台跡

このあとは、再び二の丸跡前のトイレがある分岐点へ戻り、実城跡の下を通って松の丸・三の丸跡方面へ向かった:

ちょうど実城跡と二の丸跡の間にあるトイレが目印

二の丸跡近くの分岐点

右手上に実城の切岸を見つつ実城の北側へ

実城下の山道

途中、実城西側の切岸を見上げてみたが、かなり藪化していて腰巻の石垣は確認できなかったが、野面積みされていた石材らしきものが落ちていた:

東側同様に急斜面で高さのある切岸であるが藪化が激しい

実城西側の切岸

山道には石材と思われる大きな石が落ちていた

腰巻きの石垣?

そのまま進むと実城北側にある堀切跡に合流する。往時の堀切の深さならば、そうやすやすと松の丸には上がれないが経年埋没のおかげでそれほど苦労せずに松の丸跡へ:

実城の北側にある尾根を削平して作った細長い郭

松の丸跡

松の丸は実城から続く尾根を堀切で断ち切り、無理やり削平したかのような小さな郭だった。

さらに北へ向かうと、三の丸との間にある、これまた(経年埋没を考慮しても)深い堀切が出現する:

手前が松の丸で、堀切の先の切岸を登った先が三の丸跡

松の丸と三の丸の間の堀切

この松の丸と三の丸の間にある堀切が竪堀となって馬場あたりまで落ち込み、そこで大空濠に変化する:

三の丸と松の丸の間にある堀切が竪堀に変化して、

堀切から竪堀へ

馬場がある中城域あたりで大きな空堀に変化する

竪堀から大空壕へ

そして切岸を登って三の丸跡へ:

尾根を削平した台形型の郭

三の丸跡

そして、次は三の丸との間にある堀切を越えて五島丸跡へ:

このあたりは尾根筋の末端近くなので堀切も小さい

三の丸と五島丸の間の堀切

この郭も尾根筋の残り分のような狭い郭だった

五島丸跡

小さな五島丸跡の北側にも堀切があり、この尾根北端にある北の曲輪跡へ:

尾根末端近くなので堀切も小規模になっていた

五島丸と北の曲輪の間の堀切

二の丸から伸びた尾根の北端にある小さい郭

北の曲輪跡

このあとは分岐点1まで戻り、登りとは別の登城口である岩神口へ向けて下山。その途中に後藤曲輪跡も巡ってきた:

四カ所ある登城口の一つ

栃尾城跡・岩神口

以上で栃尾城攻めは終了。

最後は栃尾城跡で見かけた注意書き:

IMGP4036.resized

「キケン・クマ出没注意! 長岡市」

実城跡や北の曲輪跡に熊よけの鐘が建っていて、たまに何処からとも無く鐘の音が聞こえた時があったが、初め知らずに聞いた時は本当に熊が出たのかと思った:D

See Also栃尾城攻め (フォト集)

【参考情報】

上杉謙信公坐像と謙信廟

栃尾城跡を攻めたあと西谷川対岸の、謙信公坐像がある秋葉公園へ:

左手に数珠、右手に軍扇、佩刀した「越後の虎」謙信公

上杉謙信公坐像

ここには公園名に由来する秋葉神社が建っている:

秋葉三尺坊拝殿《アキバ・サンジャクボウ・ハイデン》とも

秋葉神社

謙信公が平蔵景虎を名乗っていた天文20(1551)年に、楡原岩野《ニレハラ・イワノ》にあった蔵王権現を祀る岩野蔵王堂(現在の長岡蔵王堂金峯神社の前身)を公がこの地に遷座したものと伝わる。御祭神は秋葉三尺坊《アキバ・サンジャクボウ》大権現と云う火防《ヒブセ》の神様。江戸時代に入り、秋葉信仰における「日本総本廟」の称号が与えられた。秋葉三尺坊の命日にあたる七月二十四日には「秋葉の火祭り」が開催されるのだとか。

秋葉神社近くの野宴広場:

公園は謙信公広場と野宴広場、そして秋葉神社からなる

野宴広場

公園の栃尾城跡側が謙信公広場。ここに昭和の時代に建立された「謙信公」坐像と由緒碑があった:

台座にある「謙信公」の字は田中角栄氏によるもの

「謙信公」坐像

台座の上で左手に数珠、右手に軍扇を持ち、腰に刀を差して「越後の虎」と呼ばれていた風貌を再現していた坐像。「謙信公」の題字は当時・大蔵大臣だった田中角栄氏によるもの。

こちらは「虎千代の隠れ岩」。平成の時代に往時の街道脇からこの地に移設されたもの:

虎千代が刺客に襲われそうになった時に隠れて難を逃れたと云う

「虎千代の隠れ岩」(移設)

謙信公が虎千代と呼ばれていた幼年時代、越後国内の内乱で一時、伯父で古志長尾家当主だった長尾景信《ナガオ・カゲノブ》[m]別名は越(古志)の十郎景信。娘婿は本荘繁長の栃尾城に逃れ、瑞麟寺《ズイリンジ》で門察和尚《モンサツ・オショウ》に禅門の教えを受けていたと云う。

そんな時、敵の刺客に襲われそうになったので庶民の子供と服を取り替え、この岩の影に隠れて難を逃れたと伝わる。他に「一夜梅の碑」と呼ばれる伝承碑があった。

こちらは公園がある高台下の曹洞宗・清瀧山・常安寺

謙信公が開基となり創建し寄進したお寺

清瀧山・常安寺

この曹洞宗の寺院は、謙信公が平蔵景虎と呼ばれていた青年時代、栃尾城に在城していた頃、師と仰いだ瑞麟寺五世・門察和尚の開山。県指定文化財として謙信公直筆による五言対句や、和尚に贈った紙本著色上杉謙信並び二臣像、そして米澤上杉家から公の位牌と共に贈られた公愛用の「飯縄権現(飯綱権現)御建物《イヅナゴンゲン・オンタテモノ》」と呼ばれる兜の前立など、貴重な遺品を数多く所蔵する。

本堂屋根の鬼瓦には関東の名門・山内上杉氏から譲り受け、越後上杉氏の家紋となった「竹の葉に向い雀」紋があしらわれていた他、山門前の秋葉賓前(手水鉢)には不動明王像が建っていた:

桓武平氏秩父氏流を受け継ぐ家紋

「竹輪に二羽飛び雀」紋

常安寺参道脇の秋葉賓前(手水鉢)に建つ

不動明王像

公園近くの高台にある長岡市栃尾美術館には謙信公と公の師・門察和尚の廟がある。こちらは美術館前にある「上杉謙信公像」:

栃尾城址を背に、颯爽と太刀を掲げる謙信公の騎乗像

「上杉謙信公像」

ちなみに台座にある題字は某大河ドラマで上杉謙信を演じた石坂浩二氏のもの。

そして美術館奥にある謙信廟(右手)と門察和尚の墓所(左手):

謙信廟は秋葉山頂からの移設

門察和尚の墓と謙信廟

謙信廟は明治時代から始まった謙信祭10周年記念事業により大正時代に秋葉山に建設されたものを移設したもの。

See Also謙信公ゆかりの史跡 (フォト集)

【参考情報】

  • 秋葉公園と常安寺に建っていた案内板や説明板(長岡市教育委員会/長岡市栃尾地域ふるさと創生基金事業・実行委員会/常安寺)
  • 謙信ゆかりの地を訪ねて(長岡市HP > 観光 > 歴史・文化 > ゆかりの偉人・先人 > 謙信ゆかりの地を訪ねて)
  • 栃尾観光のおすすめコース(新潟県長岡市栃尾地域・栃尾観光協会)

伝・鬼小島彌太郎戦傷地

栃尾城跡下を流れる西谷川沿いの小高い丘上に、謙信公が平蔵景虎と呼ばれていた青年時代から仕えていた近習の一人で、越後で剛勇無双と恐れられたことから「鬼小島彌太郎《オニ・コジマ・ヤタロウ》」の通称で知られる小島貞興《コジマ・サダオキ》[n]他に小島彌太郎平一忠《コジマ・ヤタロウ・タイラノカズタダ》や鬼小島彌太郎貞弘、あるいは雲井戸田新兵衛とも。が刺客に襲われたのちに自刃したと伝わる場所がある:

西谷川にかかる天神橋から眺めたところ(正面の建物裏)

鬼小島彌太郎戦傷地がある丘

小説や伝説に登場する彌太郎であるが、本当に実在していたかどうかは異論が多い人物で、この戦傷地も彼のものかどうか不明である。他に、彌太郎が亡くなったのは謙信死後 の天正10(1582)で享年61、墓所は長野県飯山市の英岩寺あるとの説や、越後国乙吉城《エチゴ・オトヨシ・ジョウ》主を務め、新潟県長岡市の龍隠院に墓所があるといった説がある。

ちなみに先に訪問した常安寺所蔵の「紙本著色上杉謙信並び二臣像」で、謙信公と共に描かれた二人の家臣のうち一人が鬼小島彌太郎と伝わるのだとか。

こちらが戦傷地に建つ石祠と石碑:

仇討ちに遭って深手を負い、ここで自刃したと伝わる場所

鬼小島弥太郎戦傷地に建つ石碑

この地に建っていた説明板によると、彌太郎は背丈六尺二寸(186cm)で、その腕力は三十人力であった。齢17の時に長尾家に見出されて景虎の近習となり、槍の名手として多くの合戦で活躍した。永禄3(1560)年の刈谷田川合戦では三条方の広瀬十郎と一騎打ちを行い、これを討ち取って味方を勝利に導いたと云う。その帰途、討ち取った広瀬十郎の子息にここ天神橋近くで不意打ちに遭い斬り伏せたものの、自らも深手を負ったため割腹したと云う。

他には第四次川中島の合戦で武田方の山縣昌景と一騎打ちした伝説がある。信濃国川中島の八幡原で両軍が激突した際、彌太郎が自慢の槍を持って信玄が居る本陣へ向かうと、赤い甲冑に身を包み四尺三寸(129cm)の大太刀を振りかざして上杉の兵を蹴散らしている剛勇が目に入った。彌太郎が「儂は関東管領・上杉政虎が家臣・小島彌太郎なり。いざ勝負」と名乗ると、赤備えの侍《モノノフ》は「おう、鬼小島か。儂は甲斐・信濃の守護・武田信玄が家臣・飯富源四郎昌景じゃ」と返して彌太郎に向ってきた。彌太郎も勇んで山縣と鑓をつける。相手はさすがに武田家中に山縣ありと聞こえし勇士である。彌太郎と山縣との一騎打ちは四半刻にも及ぶが、双方が豪傑であるためそう簡単には勝負は付かない。そんな中、山縣は信玄の嫡男・太郎義信が上杉勢に囲まれて危うい光景を目にした。「いかにや彌太郎殿、暫く待ってたべ。ご覧のとおり我が主の御曹司様が多勢に取り囲まれ、甚だ危うし。何卒、主の危難を助けたし。侍の情にてこの勝負は許し給われ」と声高に主張する。これに彌太郎は「主を思うは侍の倣い。許し難きことなれど、貴殿の忠節に免じて、この勝負は御縁次第と致そう」と返した。山縣は「ぬしは華も実もある侍《モノノフ》や。鬼小島とは誰が名付けしぞや」と礼を云い義信救援に向かったと云う。

やや出来すぎた感は否めないが、真に強き勇士を讃え、その姿を後世に残す意味としては悪くない話である。

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【参考情報】

参照

参照
a 読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。
b 料金は片道が大人560円(当時)。
c 「栃尾市教育委員会」と刻まれていたので、長岡市に編入されて栃尾町になった平成18(2006)年より前に建てられたものであろう。金井曲輪と後藤曲輪の位置が逆だった。
d 後藤曲輪跡は、実城跡から下山して登城口の岩神口へ向かう途中に寄ってきた 😀️。
e 所謂、箱堀。
f 傍にあるトイレで使う水を汲み上げるためのポンプが付いていた。
g 出家して芳賀禅可《ハガ・ゼンカ》とも。
h 栃尾城があった古志郡三条《コシグン・サンジョウ》、蔵王堂城があった刈羽郡《カリワグン》一帯。現在の中越地方。
i 山内上杉家十一代当主。同時代に稀代の築城軍略家であった太田道灌がいる。
j 現在の下越地方。
k 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。
l さすがに実城の高い切岸を転げ降りるわけにはいかない 😆️。
m 別名は越(古志)の十郎景信。娘婿は本荘繁長
n 他に小島彌太郎平一忠《コジマ・ヤタロウ・タイラノカズタダ》や鬼小島彌太郎貞弘、あるいは雲井戸田新兵衛とも。