新潟県長岡市城内町二丁目にあるJR長岡駅は、かって越後長岡藩の藩庁が置かれていた長岡城跡にあたる。慶長3(1598)年に越後上杉氏[a]長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏。の會津若松への国替えに伴い、代わりに国入した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の与力で、又従兄にあたる堀直寄《ホリ・ナオヨリ》は、居城である蔵王堂城の城域が信濃川の流路変動や洪水で侵食や破壊が進んできたことから、信濃川上流にある大島庄は平潟原《ヒラガタハラ》[b]現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。に新城の築城を計画した。往時の平潟原は信濃川が形成した中洲で、直寄は水濠で囲まれ水運が利用できる近世城郭を目指したと云う。この地がのちの「長岡」である[c]その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。。しかし直寄の御家騒動[d]兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。で築城は中断、のちに大名として復帰し工事を再開したが完成間近に今度は越後村上藩に転封となってしまった。代わりに徳川家の譜代大名の一人である牧野忠成《マキノ・タダナリ》が入封し、ついに長岡城と城下町を完成させて長岡藩主となった。この城は戊辰戦争で全焼し廃城となったが、江戸中期にも火災で全焼し再建されている。
月別: 2022年12月
越後中郡《エチゴ・ナカゴオリ》[a]現在の新潟県の中越地方。は古志郡南部から蒲原郡三条へ連なる東山丘陵[b]現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。にあって標高335mほどの城山山頂に築かれていた栖吉城は、東西に伸びる二つの尾根を利用し、西側にある本城(主郭)と東側にある古城(詰郭)からなる一城別郭[c]分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。の造りであった。主郭の東・西・南の三方を囲むように二ノ郭を、その南には三ノ郭をそれぞれ配し、これらの高い切岸には畝状阻塞《ウネジョウ・ソサイ》を設けた。詰郭にはその周囲に段郭を配し、東へ伸びる尾根には堀切と畝状阻塞で寄手の侵入を防ぐと云う越後の中世城郭の特徴が多く見られる縄張である。築城期は定かではなく、戦国時代の永正《エイショウ》年間(1504〜1521年)に古志長尾家五代当主・長尾孝景《ナガオ・タカカゲ》が築き、それまでの蔵王堂城から居城を移して古志長尾氏の本拠とした。その後、古志長尾家は生母の実家として長尾景虎擁立を支え、長尾上杉家の一門衆として活躍するが、御館の乱後に滅亡。栖吉城は上杉家の會津への国替え後に廃城となった。
新潟県長岡市栃尾町の西方に位置し、標高227.7mの鶴城山《カクジョウサン》山頂に実城[a]読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。を持つ栃尾城は上杉謙信(長尾景虎)旗揚げの城として知られるが、現在見られる遺構は謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)の時のもの。その城域は、山頂周辺の本城域、千人溜りのある中腹の中城域、そして麓の根古屋域で構成され、本城域は二の丸を中心に二つある尾根のうち、北側の尾根筋に実城・松の丸・三の丸・五島丸・北の曲輪を、西側の尾根筋に中の丸・琵琶丸・烽火台を配していた。郭はそれぞれ空堀(空濠)で区分され、中でも三の丸から千人溜りまで320mにも及ぶ大空濠は山頂から落ち込んで長大な竪堀へと変化する。また枡形の虎口を巡る大手道は意図的に屈曲させていた。これら一連の縄張は謙信在城の時代には見られず、御館の乱の時代に景虎方の本荘秀綱《ホンジョウ・ヒデツナ》らによって整備・改修されたものと考えられる。栃尾城は景勝勢による足かけ三年にわたる攻城戦で落城した。
参照
↑a | 読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。 |
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