信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》丘陵にあって、標高98mほどの舌状台地上に形成された逆L字型の尾根筋に、複数の郭を連ねて築かれた本与板城[a]この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。の歴史は古く、一説に越後新田氏の一族である籠沢入道が南北朝時代の建武元(1334)年に築いた砦が始まりと云う。室町時代には越後国守護・上杉氏の重臣である飯沼氏の居城[b]有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。となった。そして越後永生の乱[c]読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。で、城主の飯沼定頼は長尾為景に攻められて敗れ、為景に下った飯沼氏の家臣・直江親綱《ナオエ・チカツナ》の子・景綱《カゲツナ》[d]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。が本与板城を居城にして三島郡を支配した。この典型的な山城は例にもれず、実城や二の郭や三の郭といった主郭には土塁を巡らし、深い堀切あるいは二重堀切で区画していたが、さらに下段には腰郭をおき、主郭を挟むように西と南の二つの郭で防御させ、東下段には堀切が三方を囲む独立した出郭があったと云う。婿養子の信綱が城主の時代に与板城を築き居城を移したのちも、その支城として本与板城は存続していたと考えられている。
今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。
三日目のこの日は長岡市与板町にあった城跡・陣屋跡を巡り、ゆかりある寺院の他、与板歴史民族資料館(兼続お船ミュージアム)にも立ち寄ってきた。まず午前中は越後上杉氏重臣・直江家ゆかりの中世城郭である与板城跡を攻め、午後は与板陣屋跡と與板城跡[e]城跡に遺構は無いが城門が移築されて現存している。に立ち寄り、そのまま三国街道《ミクニカイドウ》に沿って北上し、同じく直江家ゆかりの本与板城跡へ。
こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回の城攻めで巡ってきた場所他を書き入れたもの:
青色の★が本稿で紹介する場所。灰色文字と黄色の★はこの日、既に攻めてきた城跡と、帰りのバス待ちの時間を利用して鑑賞してきた資料館である。
そして与板城跡の登城口で手に入れたカラー刷りの縄張図がこちら。この時期の山城跡は藪化が激しいので、遺構を見落とすことがないように縄張図の類は必携である:
今更ながら、改めてこの図を見ていると城址の北と南に竪堀があることに気づいた。城攻め当時は全く知らなかったが、もし遺構として残っているとしたら見ておきたかった 。残念 。
これは県道R274沿いの「本与板城跡登り口」あたりに建っていた案内板に、今回巡ってきた遺構などを加筆してみた:
与板城攻めの時と同様に、この図に記した順番に従って城攻めしてきた:
(三国街道)→「本与板城跡登り口」→ ①登り口 → ②腰郭跡(万歳閣跡など)→ ③南郭(跡) → 畝状阻塞《ウネジョウ・ソサイ》跡 → ④分岐点 → ⑤堀切 → ⑥井戸趾 → ⑦実城(跡) → ⑧堀切 → ⑨堀切 → ⑩二の郭(跡) → ⑪三の郭(跡) → ⑫二重堀切 → ⑬虎口 → ⑭西郭(跡) → ・・・ → (①登り口) → ⑮堀切 → ⑯白山神社《シロヤマ・ジンジャ》 → ⑰堀切 → ⑱堀切 → ⑲圓満寺 → ⑳光西寺 → ㉑御館跡《オタテ・アト》 → (三国街道)
あと与板城跡の時と同様に、与板観光協会による本与板城跡を巡るコースの紹介も見つけた 。
本与板城跡の登城口を目指して県道R274(与板北野線)沿いを歩いている時に三国街道の標柱(東京・日本橋〜三国峠〜長岡〜与板〜地蔵堂〜寺泊迄)を見かけた:
三国街道は上野国、信濃国、そして越後国の国境をまたぐ三国峠《ミクニ・トウゲ》がその名の由来で、戦国時代には関東管領であった上杉謙信が甲斐の武田氏や小田原北條氏に対抗するための関東遠征で三国峠を越える越山行動をとっていたことで有名の他に、江戸時代には越後から江戸への参勤交代で利用する街道として整備され、高崎宿から寺泊《テラドマリ》宿まで三十五の宿場町があった。
県道R274を北上していくと「本与板城跡登り口」の案内板が見えてくるので、それに従って今度は田んぼを横目に西へ向かう。その途中、歩きながら本与板城跡の遠景を眺めることができた:
そして再び現れた案内板に従い、今度は坂道を登っていく:
そのうち坂道は林道になり、城跡利用者向けの駐車場を通り過ぎると実城へ向かう①登り口が見えてくる。この切通しに造られた石段を登って登城道を進む:
実城までの距離を示す標柱を確認しながら登っている途中、実城の東側下に設けられていた②腰郭跡を通ったが、そこは城址とは関係のない万歳閣《バンザイガク》なる建物跡[f]帝国時代の戦没者を慰霊する等の目的で万歳閣や紫雲閣など七堂伽藍が建立されていたらしいが、城攻め当時は全て存在していなかった。らしい:
実城の南側下を通ったとき③南郭跡の標柱を見かけたので、中に入って畝状阻塞《ウネジョウ・ソソク》[g]横堀の外側の土塁がいくつかに分断され、それによってできる「コブ」が連続している防御施設のこと。と呼ばれる「三重の横堀」を探してみたが藪化が激しくて正直なところよく分からなかった:
さらに進んでいくと実城方面とその他の郭方面との④分岐点に到達する:
まずは40m先にある実城方面へ向かうが、しばらくすると二の郭と実城との間に設けられた⑤堀切の堀底道となる:
向って左手が二の郭の切岸、右手が実城の切岸である。堀の深さは6mほどであるが、経年埋没を経てもなお幅は15mくらいある:
堀切北端には⑥井戸跡があるらしいが、こちらも藪化が激しくて確認できなかった:
堀切中央あたりから切岸を登って⑦実城跡へ:
部分的ではあるが土塁も残っていた:
この郭には城址の碑が二つあったが、その一つがこちら:
こちらは古そうで目立たなそうな感じに見えたが、もしかしたら他方は大河ドラマの影響で新たに建立されたものかもしれない。
さらに実城東側には東端へ向って伸びた尾根を断ち切るように⑧堀切が残っていた。その先の突端には、昭和の初めまでは紫雲閣《シウンカク》なる城址とは関係のない建物があったらしいが、本与板城時代も矢倉なんかが建っていたのかもしれない:
そのような場所なのか眺めがよく、ここから信濃川が流れる城址東側を遠望することができた:
本与板城主の直江大和守景綱《ナオエ・ヤマトノカミ・カゲツナ》は初め実綱と称し、上杉謙信の父・長尾為景の代からの家臣で、戦国時代にあってその器量にかける為景の嫡男である晴景《ハルカゲ》を廃して、次男・景虎(上杉謙信)の家督相続、そして越後国守護代への擁立を実現させた家臣の一人である。のちに謙信の右腕として内政や外交に手腕を発揮した。その功により、謙信から偏諱を受けて「景」の字を拝領し名を改めた。天正5(1577)年に病没。享年69。
景綱には男児が無かったため、上野国の総社長尾家より長尾藤九郎を一人娘であるお船の婿として迎え、直江信綱《ナオエ・ノブツナ》と名乗らせ本与板城主を継がせた。信綱はその後に、本与板城と目と鼻の先に新城として与板城を築き、直江家の居城とした。
謙信死後の家督争い(御館の乱《オタテノラン》)では、上杉景虎[h]小田原の北条氏康の七男で、上杉謙信の養子となった。謙信死後にともに養子であった上杉景勝と跡目争いして敗れて自刃した。側の本荘秀綱[i]本庄秀綱とも。を撃退した。信綱は、乱の恩賞を巡る諍い《いさかい》について春日山城内にて相談中に刀傷沙汰に巻き込まれて討たれてしまった。
こののち越後の名門・直江家の断絶を惜しんで、上杉景勝のとりなしにより、未亡人のお船に樋口与六(直江兼続)を婿入りさせて家名が存続することになった。
このあとは実城跡を出て④分岐点経由で、実城を守備するために設けられた二の郭・三の郭跡方面へ。こちら側の登城道からは城址南側の急斜面を見下ろすことができた[j]相変わらず藪化は激しかったが😁️。。
そして登城道は二の郭と三の郭の間の⑨堀切がなす堀底道に変わる:
だいぶ埋没しているしているが、それでも深さは5m近くあり、両側の切岸は急斜面だった[k]二の郭跡へ登ろうとしたら滑り落ちそうになったっけ 😖️。。
こちらが⑩二の郭跡:
実城よりも藪化が激しかったが、一応は土塁も確認できた:
こちらは三の郭から二の郭への侵入を防ぐように堀切側にコ字型をした土塁が設けられていた。
そして⑨堀切へ下りて、今度は⑪三の郭跡へ:
藪をこぎながら西側へ進んでいくと⑫二重堀切があった:
⑪三の郭側に幾分か屈曲した堀で、こちらも③南郭下にある(とされる)畝状阻塞と同じかもしれない。
そして、この先には西郭の⑬虎口跡があった。この虎口脇には堀と土塁がわずかに残っていた:
こちらが土橋を渡って入ってみた⑭西郭跡。この郭は、与板城の千人溜と同様の使い方をしていたかもしれない:
さらに、この郭もまた西側からの侵入を防ぐためにコ字型をした土塁が設けられていたらしいが、この先は藪化が激しくて確認できなかった。
ここまでで主郭部分は終了とし、①登り口まで戻って、城の東側の峰続きにあり三方を堀で囲んでいた砦(出郭)跡へ向かった。そして「お船の方・顕彰碑・直江屋敷」と云う案内板に従って、尾根を下って行くとすこし開けた平場に出た:
そして平場の奥にある⑮堀切を通って⑯白山神社《シロヤマ・ジンジャ》が建つ砦(出郭)跡へ。その砦は冬期のみ使用される「冬城」として使われていたとのこと:
御祭神は白山比女命《シロヤマ・ヒメノミコト》[l]蛇を抱いた神様らしい。、創建は不詳。本与板城主が直江景綱の時代から庭神様と呼ばれ祀られていたのだとか。
この社下には⑰堀切が残っていた:
ぐるりと砦(出郭)跡を迂回するように北へ向っていくと、実城からの尾根を断ち切るように設けられていた⑱堀切がある:
往時は搦手道として利用されていたであろう、この切通しを通って㉑御館跡方面へ向かった。
こちらは「本与板城城下町形成調査図」(本与板城址史蹟保存会)と云う説明板に描かれていた図:
これは、本与板城が築かれていた尾根東端下の城下町の町割りと、現代の地図を重畳させたもののようだ。中央の「御館」跡地に光西寺が建っている。
たとえば「谷向《タニムキ》」とは袋ガ谷に向っている土地であることが由来だとか。その「袋ガ谷《フクロガダニ》」は谷が袋のような形をしていることが由来で、本与板城も袋のような形をしている。「長山寺《チョウウザンジ》」はこの城下町の中心的なお寺だったとか(既に廃寺)。「門前谷《モンゼンダニ》」は長山寺の門前で、谷の入り口にあったことが由来。「表向《オモテムキ》」は八幡神社の東南にあたり、三国街道沿いにあり、御高札が建てられた城下町の玄関的な場所。「出雲田《イズモダ》」は刀剣を造らせるための鋼鉄を出雲国から仕入れていた場所。「御代官屋敷《オダイカンヤシキ》」は戦国時代から江戸時代にかけて代官の屋敷があった場所。
こちら御代官屋敷跡に建つ⑲園満寺:
そして⑳光西寺。幕末の北越戊辰戦争の戦火を受け本堂など建物はことごとく焼失し、のちに再建された:
光西寺が建っている場所は、本与板城主・直江家の㉑御館跡。兼続の正妻・お船の方の誕生の地でもあるとのことで、大河ドラマ「天地人」の原作者・火坂雅志《ヒサカ・マサシ》氏が書した「お船の方生誕御館跡」の石碑が建っていた:
御館は四方に土塁と堀を巡らせ、玄関にあたる虎口は枡形で、寄手に堀を渡らせないように橋を切り落とすことができ、その間に詰城である本与板城へ退避して籠城すると云う段取りになっていたと云う。
以上で本与板城攻めは終了。
本与板城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 本与板城跡とその周辺に建っていた案内板や説明板(長岡市教育委員会、本与板城址史蹟保存会)
- 鳴海忠夫『本与板城跡』
- 日本の城探訪(本与板城)
- 埋もれた古城(本与板城)
- 余湖図コレクション(新潟県長岡市(旧与板町)/本与板城)
- 与板観光協会
- Wikipedia(直江景綱)
参照
↑a | この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。 |
---|---|
↑b | 有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。 |
↑c | 読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。 |
↑d | はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。 |
↑e | 城跡に遺構は無いが城門が移築されて現存している。 |
↑f | 帝国時代の戦没者を慰霊する等の目的で万歳閣や紫雲閣など七堂伽藍が建立されていたらしいが、城攻め当時は全て存在していなかった。 |
↑g | 横堀の外側の土塁がいくつかに分断され、それによってできる「コブ」が連続している防御施設のこと。 |
↑h | 小田原の北条氏康の七男で、上杉謙信の養子となった。謙信死後にともに養子であった上杉景勝と跡目争いして敗れて自刃した。 |
↑i | 本庄秀綱とも。 |
↑j | 相変わらず藪化は激しかったが😁️。 |
↑k | 二の郭跡へ登ろうとしたら滑り落ちそうになったっけ 😖️。 |
↑l | 蛇を抱いた神様らしい。 |
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