与板藩の陣屋はのちに與板城になり、現在その跡地に模擬の冠木門が建つ

新潟県長岡市与板町与板甲134にある与板陣屋跡は、寛永11(1634)年に与板藩が長岡藩の支藩として立藩した際、かって越後上杉氏の執政・直江兼続の居城で既に廃城となっていた与板城の麓に構えられた藩庁跡である。この時の初代藩主は、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成《マキノ・タダナリ》の次男・康成《ヤスナリ》[a]牧野忠成の父も同名。で、ここ越後国三島《サントウ》郡与板に1万石を領していた。元禄15(1702)年に二代藩主・康道《ヤスミチ》が信濃小諸城に転封されると、ここ与板は幕府の天領になったが、宝永2(1705)年に彦根藩・井伊氏の嫡流筋にあたる遠江掛川藩主・井伊直矩《イイ・ナオノリ》が2万石を与えられて移封されてきた。そして文化元(1804)年には六代藩主・直朗《ナオアキラ》が城主大名[b]近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。に格上げされて、陣屋を移して城郭化し、文政6(1823)年に完成して與板《ヨイタ》城と呼ばれた[c]したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。。幕末の北越戊辰戦争では戦火に巻き込まれて焼失、与板ふれあい交流センターとなった跡地には冠木門と板塀が復元されている。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

三日目は長岡市与板町にあった城跡・陣屋跡に加えて、城門が移築されている寺院にも立ち寄り、さらに与板歴史民族資料館(兼続お船ミュージアム)も鑑賞してきた。この日の午前中は越後上杉氏重臣・直江家ゆかりの中世城郭である与板城跡を攻め、午後は同じく直江家の居城であった本与板城跡へ向かう途中、近世城郭の「与板城」こと與板城跡を攻めてきた[d]と云ったら大袈裟か。ちょっと立ち寄ってきたって感じかなぁ 😅️。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回の城攻めで巡ってきた場所他を書き入れたもの:

本稿では近世城郭の與板(与板)城跡とその前身の陣屋跡について紹介する

与板・本与板城跡周辺図(TAKE2)

青色の★が本稿で紹介する場所。灰色文字黄色の★はこのあと巡ってきた場所ないし既に巡った場所。與板城跡近くの恩行寺には與板城の切手門が、そして与板歴史民族資料館脇の浄土宗本願寺派与新潟別院に大手門がそれぞれ移築されている。

こちらは與板城跡(現在は与板ふれあいセンター)に建っていた縄張推定図で、江戸時代末期の弘化2(1845)年頃のものらしい:

与板陣屋は井伊氏の時代に城郭化されて與板城と呼ばれた

「井伊家与板藩城と長丁」(拡大版)

近世城郭の与板城は、与板藩牧野氏の与板陣屋と、それを拡張した与板藩井伊氏の與板城(与板藩城)に相当する。ちなみに図中の「長丁《ナガチョウ》」とは町名を意味するもので、與板城があった時代には既に使用されていたらしいが、その由来には諸説あって 不明であるとか[e]「丁」は侍町を意味し、その町を取り仕切る「長」がこの辺りに多く住んでいたと云う説など。

まずは与板藩牧野氏が築いた与板陣屋跡。現在は長岡市役所・与板支所:

与板藩牧野氏が構えた陣屋跡で、現在は町役場

与板陣屋跡

「陣屋」とは江戸時代に大名が立藩した際、その藩庁が置かれていた屋敷または敷地[f]他に御公儀やその代官の詰所(代官所)や屋敷を意味する場合あり。のことで、通常の城郭と比べて施設は簡素化されており、中には完全に行政と居住のための施設しかない陣屋もあったらしい。また、堀や塀で囲った敷地内に藩政に従事する家臣らが住む長屋の他に本陣を置く場合もあったようだが、与板陣屋跡にはそのような建造物に関連する遺構は無く、往時の構えやその規模は不明とのこと。

ここ与板陣屋は、父である越後長岡藩主・牧野忠成から三島郡与板に1万石分地されて与板藩主となった牧野康成によって築かれとされるが、当の本人は与板藩を立藩した寛永11(1634)年から23年後の明暦3(1657)年に入部した。そして、その年の暮れに死去。享年41。

その後、康成の嫡男・康道《ヤスミチ》が二代藩主となり、三代藩主・康成《ヤスシゲ》の時代に信濃小諸藩に移封されたため、越後与板は幕府直轄の天領となった。

嘗て与板藩庁がおかれていたこの場所に現代の町役場が建っていることは概ね良しとして、当時役場の玄関で直江公をイメージ・キャラクタとした「よいたん」を見かけた時は少し違和感を覚えたことを思い出した :D

直江兼続公の愛の兜がトレードマークの元亀な男の子

よいたん@長岡市役所

このあとは町役場を離れ、民家が建ち並ぶ長丁跡を北上していくと板張りの塀に囲まれた冠木門が見えてくる。現在は長岡市与板ふれあい交流センターの敷地になっているその場所は、門前に建つ標柱「與板藩城館跡」にあるように、陣屋から格上げされた與板城跡にあたる:

なぜか彦根藩井伊家の家紋である彦根橘紋が掲げられていた

與板跡

目立って遺構はなかった

與板城址の碑

宝永2(1705)年、天領だった越後与板に遠江掛川藩主だった井伊直矩《イイ・ナオノリ》が移封され、近江彦根藩・井伊氏の嫡流筋が与板藩を継いだ。与板藩井伊直家十代当主・直朗《ナオアキラ》が六代藩主であった文化元(1804)年、参勤交代を行う城主大名に格上げされ[g]与板藩井伊家が掛川藩主の時代、二代藩主・直朝《ナオトモ》は城持ちの城主であったが暗愚《アング》な君主で、のちに御公儀から発狂していると判断されて掛川藩井伊家は改易処分となった。しかし先祖が井伊直政であることから、その他の条件を含めて、城無しの大名への格下げ処分に改められていた。、その嫡男で七代藩主の直陽《ナオハル》が現在の場所に陣屋を移して城郭化を進めて、文政6(1823)年に完成し與板城に改めた。

ちなみに、ふれあいセンターの建物には彦根藩井伊家の家紋である彦根橘が掲げられていた。

この敷地にある冠木門は模擬門であるが、與板城の大手門[h]本丸の表門にあたる。と切手門[i]本丸の裏門にあたる。は現存している。与板藩井伊家は慶應4(1868)年の北越戊辰戦争で新政府軍に恭順したため、會津藩ら旧幕府軍の攻撃を受け戦闘中に城の大部分は焼失した[j]一説に旧幕府軍の勢いに驚いた新政府軍が城に火を放ったのだとか。が、これらの門は焼失を免れ、明治時代の廃藩置県で廃城が決まったのちに移築されたと云う。

まず切手門は、與板城跡からほど近い真宗大谷派・月岡山・恩行寺の表門として移築されていた(市指定文化財):

鬼瓦には与板藩井伊家の家紋である井桁紋が掲げられている

與板城の切手門(長岡市指定文化財)

この門は、本柱二本の間に切妻屋根をかけ、控柱と門扉を付けて、主柱と控柱との間に小屋根が付く高麗門形式である。鬼瓦には与板藩井伊家の家紋・井桁(井筒)紋が焼きこまれてある。

もう一つの城門である大手門は与板歴史民族資料館隣りにある浄土宗本願寺派与板別院(現・新潟別院)の一の門として移築されていた(市指定文化財):

北越戊辰戦争の戦火を免れ廃城後に移築された

與板城の大手門(長岡市指定文化財)

門柱を礎石の上に直接建て、門扉には厚い鉄板が貼られている。屋根は切妻造、本柱と控柱の間に小屋根が付く高麗門形式。

こちらは別院の本堂:

往時は与板別院と呼ばれていた

浄土真宗本願寺派新潟別院

往時の与板別院と与板藩との関係は深いらしく、この別院は八代藩主・井伊直経《イイ・ナオツネ》が天保元(1830)年に建立した。さらに直経は与板八幡宮や直江家の菩提寺で破却されていた曹洞宗・徳昌寺も復興した御仁。

以上で与板陣屋と與板城攻めは終了。

See Also与板陣屋・與板城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 牧野忠成の父も同名。
b 近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。
c したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。
d と云ったら大袈裟か。ちょっと立ち寄ってきたって感じかなぁ 😅️。
e 「丁」は侍町を意味し、その町を取り仕切る「長」がこの辺りに多く住んでいたと云う説など。
f 他に御公儀やその代官の詰所(代官所)や屋敷を意味する場合あり。
g 与板藩井伊家が掛川藩主の時代、二代藩主・直朝《ナオトモ》は城持ちの城主であったが暗愚《アング》な君主で、のちに御公儀から発狂していると判断されて掛川藩井伊家は改易処分となった。しかし先祖が井伊直政であることから、その他の条件を含めて、城無しの大名への格下げ処分に改められていた。
h 本丸の表門にあたる。
i 本丸の裏門にあたる。
j 一説に旧幕府軍の勢いに驚いた新政府軍が城に火を放ったのだとか。