与板城は舌状台地北端にある比高70mの山頂に築かれた山城である

信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本荘秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

三日目は長岡市与板町にあった山城跡を二つ、そして江戸時代の陣屋跡を二つ巡り、さらに与板歴史民族資料館(兼続お船ミュージアム)も鑑賞してきた。平日のこの日は宿泊先最寄りの新潟駅からJR信越本線で長岡駅へ移動し、駅北口の大手口バスのりば12番から越後交通の「長岡駅前=槇下・成沢=与板=小島谷駅前線」に乗車して上与板で下車[e]料金は片道が大人450円(当時)。。この日一番は与板城跡攻め。このバス停から県道R69沿いにある登城口前までは徒歩10分ほど[f]途中、天地人通りにある綺麗なトイレで用を足した。

こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回の城攻めで巡ってきた場所他を書き入れたもの:

本稿では直江山城守に関係ある与板城跡と民族博物館について紹介する

与板・本与板城跡周辺図(TAKE1)

青色の★が本稿で紹介する場所。灰色文字黄色の★はこのあと巡ってきた場所。「直江兼続館跡」なる場所は、城攻め当時は無かったと思うが一応は記しておいた。

与板城跡は、中世の山城跡にしては登城道や説明板などよく整備されていてハイキング気分で攻めることができた[g]そういえば登っている時に、地元風の女学生らのハイキングに遭遇したっけ😊️。。登城口である八坂神社前には説明板の他に、現地で大変参考になったカラー印刷の縄張図を入手することができた[h]他にも、同じような印刷物で『本与板城跡』も入っていた。感謝。。それもこれも某大河ドラマの影響だろうか[i]と思ったが、登城道は山頂に建つ城山稲荷神社の参道でもあるので、城跡とは別に整備されていてもおかしくはない 😅️。

登城口前の説明板脇にある「ご自由にお持ち下さい」箱に入っていた

『与板城跡』(鳴海忠夫氏原図)

この図に記されているものが主な遺構になるが、今回はそれに加えて、主郭群南側にある斜面15mほどの大堀切によって守られた千人溜《センニンダマリ》の、さらに奥にある(この図だと下にある)のろし台跡まで足をのばしてきた。

こちらは実城(本丸)跡に建つ説明板に描かれていた城山の案内図に、今回見てきた遺構を加筆したもの:

(スタート地点ではなくゴールに案内図があるっていうのはどう云う了見なんだろうか?)

城山案内図(加筆あり)

基本的には、この図に記した順番に従って城攻めしてきた次第。山頂にある実城跡には城山《ジョウヤマ》稲荷神社が建っているので、図中赤色の登城道は参道に相当する:

八坂神社 → ①竪堀 → 登城道 → ②堀切 → ③腰郭跡 → ④おせん清水 → ⑤門跡 → ⑥帯郭跡 → ⑦実城(跡)→ ⑧城の一本杉 → ⑨(本丸)土塁 → ⑩堀切 → ⑪二の郭(二ノ郭)跡 → ⑫堀切 → ⑬三の郭(三ノ郭)跡 → ⑭堀切 → ⑮竪堀 → ⑯大堀切(大濠) → ⑰千人溜(兵溜)跡 → ⑱のろし台跡 ・・・ ⑲「人日」の碑 → ⑳大手口(跡)

ちなみに今回の城攻めの終点となった大手口跡は、登城口の八坂神社から220mくらい先にある信号なしの交差点近くで、鳥居が建つ場所。ここも城山稲荷神社の参道入口。

あと城攻めした当時は見た覚えがないが、与板城跡を巡るコース与板観光協会が紹介しているページを見かけた。こちらも事前に確認しておくとよいだろう。


県道R69沿いにある法立寺(左)と八坂神社(奥)

城山登り口

まず登城口の一つである八坂神社。参道下には「与板城跡(直江城跡)」の説明板の他、カラー刷の縄張図が置いてあった:

石段を上がった先に御堂右脇から登る

登城口がある八坂神社

御堂に向って右手奥にハイキングコース入口(登城口)が見えてくる。山頂にある実城跡まで460mとある[j]距離?(そんな訳ないが)高度?一般的にはおおよその所要時間の方が親切だと思うが😐️。

実城まで460m、約20分ほど登ることになる

登城口

登城道を進んでいくと正面に①竪堀があるので、鉤の手に折れて実城跡を目指す:

威勢よく直進していくと、この先の竪堀に落ちてしまう

登城道

竪堀を回避した寄せ手は右手に折れて実城を目指すことになる

竪堀

たとえば正面から威勢よく寄せてきた場合、この先にある竪堀と折れが見えないので、あたかも行き止まりかのように錯覚してしまいそうなところである。

こちらがその竪堀。台地や山の斜面に、等高線と直角に彫られた空堀で、斜面の横移動を妨害するための障害物:

山城では必須の防御施設の一つ

竪堀

だいぶ藪化していたが、かなりの深さを持つ竪堀

(強調付き)

竪堀前を鉤の手に折れたら、さらに登城道を登る。この道は往時は実城などに兵糧や矢玉などを運ぶための糧道として使われていたらしい。また、実際のところ両側は藪化して分かりづらいが、この道は小さな腰郭が連続する斜面を縦断するように造られていた:

城山稲荷神社の参道でもあり、整備が行き届いてた

登城道

そういう地形なので、寄手の侵入を阻止するため、登城道を遮断するように堀切が設けられていた:

登城道のすぐ脇で、藪化していて分かりづらいが・・・

堀切の標柱

標柱周辺は藪化して良くわからないが、登城道からそれて中に入ると、郭《クルワ》と郭の間に設けられた②堀切が良好な状態で残っていた:

・・・少し中に入ると腰郭の間に良好な状態で残っていた

堀切

本来はもっと鋭角で深さのある薬研堀だったのだろうか

(強調付き)

ちなみに城跡で確認されている17ヶ所の堀切のうち、ほとんどが堀幅の狭い薬研堀《ヤゲン・ボリ》ではなく、幅広の箱堀であったと云う。鉄砲を使った戦を想定して、兼続の時代に大掛かりな普請を行って改良されたと考えられる。

登城道へ戻り実城跡を目指すと、比較的に平坦な場所が見えてくる。この辺だと階段状に連続する③腰郭跡を見ることができる:

比較的に広く平坦な郭が階段状に連続していた

腰郭跡

登城道から見下ろすと小さい郭が残っているのがわかる。

さらに進むと④おせん清水なる標柱が見えてくる。登城道からそれて、この標柱が指す方向に下りていくと「おせん清水」なる井戸がある郭に至る:

案内板に従って下りていくと「おせん清水」が残る郭がある

「おせん清水」の標柱

わかりづらいが、石積井戸のようなものがあった

おせん清水

直江山城守兼続の「姉さん女房」お船が、この井戸の清水で茶と点てていたと云う。これ以外にも石積みで囲まれた小さな池跡を見かけた。

登城道へ戻って進むと⑤門跡なる標柱が建っていた。特に説明はなかったが、この登城道は大手道ではないので木戸か何かだろうか:

右手奥の高台上に見える鳥居が実城跡

門跡

藪化してわかりずらいが、この先の高台上に鳥居が見える。そこが実城跡なので、この腰郭周辺に門があってもおかしくはない。

ほどなくして実城下の⑥帯郭跡に到着。正面上が実城跡。実城へ向かうには右手へ迂回することになり、その間に頭上から攻撃を受けることになる:

もうすぐ眼の前(上)が本丸に相当する実城である

帯郭跡

そこへ向かうには迂回する必要あり、手厚い迎撃を受ける

コメント付き

こちらは実城の下にある⑥帯郭跡。左手に見えるのが実城の切岸:

一段下がった位置で実城を囲むように設けられた郭

帯郭跡

この先の鳥居をくぐり、大手道跡との分岐点を越え実城の切岸を登った先が(当然だが)⑦実城跡:

与板城の本丸に相当する守りの要となる郭

実城跡

104mの山頂にあり、城内で最も重要な郭。有事の際は指揮所や司令塔が置かれた。広さ197㎡のこの場所に往時は建物が建っていたと考えられる。

現在は城山稲荷神社の鳥居や社の他、城址の碑などが建っていた:

背後の建物が城山稲荷神社の社

「史跡・与板城址」の碑

「天と地」の作者・海音寺潮五郎氏による揮毫《キゴウ》

「直江山城守旧城跡本丸」の碑

この郭跡で最も目立っていたのが[k]某大河ドラマとタイアップした兼続とお船の顔出し看板ではなく 😁️。、兼続ゆかりの「城の一本杉」なる老木[l]一説に樹齢400年余とされる。

會津移封にあたり植樹した五本の杉のうちの一本とされる

城の一本杉

越後上杉氏の會津移封にあたり、兼続が植樹した五本の杉のうちの一本。木の幹が大きく裂けていた。

そして社の背後には⑨土塁が残っていた:

実城北側に残る土塁

土塁

実城北側の土塁上で、右手下には横掘りが残っていた

土塁上

このあとは二ノ郭跡へ。ここは実城の二ノ郭側の虎口:

実城の二ノ郭方面虎口で、この下に堀切がある

実城虎口跡

虎口下には実城と二ノ郭との間の⑩堀切があった:

実城(手前)と二ノ郭(奥)との間の堀切

堀切

深く、幅広い良好な状態で残っていた

(強調付き)

実際に堀底まで下りてみると、意外と良好な状態で残され、幅広く深さもあった:

実城(左上)と二ノ郭(右上)との間にある幅広で深い堀切

堀底

このまま堀底に設けられていた散策路を登ると⑪二ノ郭跡:

実城を守るための郭

二ノ郭跡

広さ252㎡のこの郭から三ノ郭、千人溜など主郭が一列に配され、それぞれ土塁を巡らし、実城方面へ伸びる尾根筋を深さ4m〜9mの堀切で分断されていた。

このまま三ノ郭方面へ向かうと⑫堀切が出現する:

二ノ郭(手前)と三ノ郭(奥)との間の堀切

堀切

土橋も残っていた

(強調付き)

こちらが⑬三ノ郭跡。広さは268㎡:

実城へ伸びる尾根筋を削平し堀切で分断して造られた郭

三ノ郭跡

三ノ郭跡周辺は藪化が激しいが、東側下には腰郭がいくつか残っていた。

また南側に伸びていた尾根筋には堀切や竪堀が残っている。まずは⑭堀切

三ノ郭(手前)と千人溜方面の尾根筋(奥)との間の堀切

堀切

この堀底道を使って東側の尾根に下りていたと云う

堀底

堀底から三ノ郭跡を見上げてみたのがこちら。百年単位で経年埋没が進んでいる中で、これだけの高さを持つ切岸が残っていることから、多分に往時の規模の凄さが想像できる:

堀底から三ノ郭側を見上げたところ

三ノ郭の切岸

堀底道をとおって尾根筋を南(千人溜方面)へ進んで行くと堀切が連続している場所があるが、そこには⑮竪堀があった:

堀切が連続し、竪堀が残る尾根筋

竪堀

この竪堀は、この先にある千人溜方面への移動を防ぐもの

(強調付き)

散策路によって部分的に改変ないし破壊が見られるが、状態は良好な方だろう。

そして堀切のの連続を過ぎた先にあるのが城内で最大規模の⑯大堀切(大濠):

堀底の幅が10m近くある大規模な空堀

大堀切

まるで小さな郭のようみ見える

大堀切

いきなり平坦な場所にでるので郭跡かと思うぐらい幅広な堀切で、大堀切の東側には搦手道の他、馬場や弓場があったとされ、その下にある郭には土蔵、兵糧庫、そして火薬庫があったとされる。

藪化もあって、その規模を把握しづらいが、その先にある千人溜あたりから見下ろすのが分かりやすいかも:

千人溜側が見下ろした堀底10m規模の空堀

大堀切

こちらが⑰千人溜(兵溜)。城内で最も広い520㎡の規模を誇る郭:

奥に見える尾根が土塁の代用だった

千人溜

非常時には村人などの非戦闘要員を避難・収容したとも

千人溜

この郭は窪地状の地形になっており、周囲にある尾根が土塁の代用として機能していたらしい。

この郭の西側にあるのろし台跡へ向かう:

千人溜跡の西側にはのろし台があるらしい

案内板

千人溜跡の背後にある林道を400mほど進む

林道

途中、山道(車道)を横断して山道を登っていった先に⑱のろし台跡があった:

のろし台方面へ向かう分岐点

分岐点

小さな堀切や削平地、切岸地形などが残る

のろし台跡

ただし、ご覧のとおり、周囲は藪化していて見晴らしは良くなかったが。

このあとは実城跡まで戻って大手道跡を下ることにした:

実城下の大手道と糧道の分岐点

分岐点から大手道跡へ

緩やかな糧道に対し急坂の大手道跡を下りていくと兼続が詠んだ漢詩を刻んだ⑲「人日」の碑があった:

与板城主・直江兼続漢詩(米沢市林泉寺所蔵)の写し

「人日」の碑

正月7日(人日)の題で詠んだ直筆の漢詩を転刻したもの

漢詩「人日」

人日
人日 江城 更に幾回ぞ 

園林に春至りて興多き哉
料り知る 次第に 東風好きを
二十四番 纔かに梅を過ぐ 

これは兼続が人日《ジンジツ》[m]五節句の一つで、1月7日のこと。七草粥を食べる七草の節句とも。の題目で詠んだものらしく、米沢市林泉寺所蔵の兼続直筆の漢詩を転刻したものらしい。

文武兼備の勇将として知られる兼続は、往時『宋版史記』や『漢書』などを収集し、深い教養とその見識が現在でも評価されている御仁である。

島森哲男著『宮城教育大学紀要 〜 直江兼続漢詩校釈』による現代語訳を引用すると:

正月七日の人日を迎えて、ふとこれからあと何回この江戸の町で人日を迎えることになるのかと思う。春はようやくこの庭園にもやって来て、まことに趣深い。季節の推移に従って春風もやがていい具合に吹いてくれるだろうが、いまはまだ春にようやく入ったばかり、二十四番の花信風もやっと第一候の梅花が過ぎたばかりだ。

この本には作詩年次未詳とあった。ただ起句に「江城」とあることから、「北の関ヶ原」と呼ばれた慶長出羽合戦で敗れてのち徳川家に下ったあと、米沢藩の江戸藩邸に詰めていた時代に詠んだ詩ではないかと個人的に推測した。兼続が江戸に詰めていた時は、徳川秀忠の命で江戸城の天下普請を行っていたとされ、さらに病気で亡くなったのは江戸藩邸の屋敷であったと伝わる。もしかしたら公の晩年、病床で詠んだものかもしれない。

そしてここが⑳大手口跡:

ここも城山稲荷神社の参道口にあたる

大手口跡

与板城は、慶長3(1598)年の越後上杉氏の會津移封に伴って廃城となった。そして昭和の時代に新潟県文化財(史第16号)に指定され、城山と呼ばれて現在に至る。

このあと他の城跡を巡った後に、帰りのバス待ちの時間を使って与板歴史民族資料館を観覧してきた。兼続はもちろん、他に与板地域の歴史や偉人らの史料がいろいろ展示されていた[n]個人的には、 日本初の国産ビール醸造技師として知られる中川清兵衛《ナカガワ・セイベエ》が勉強になった。氏はサッポロビールの前身となる醸造所で醸造技術を学んだとのこと。

こちらは駐車場脇に建っていた直江山城守兼続公像:

与板歴史民俗資料館の駐車場脇に、平成の時代に建立された

「直江山城守兼続公」像

天正9(1581)年に与板城主となった直江兼続公

ズーム

直江兼続が与板城主になったのは天正9(1581)年で、謙信死後の家督争いである御館の乱の論功行賞《ロンコウコウショウ》に対する不満から起きた事件に、当時の城主・直江信綱が巻き込まれて刺殺されたのちである。景勝が直江家の存続を望み、近習として仕えていた樋口兼続に直江家を継がせたことによる。

与板城主となった兼続は城下の農・工・商業の発展に尽力し、与板の繁栄の基礎を作った。また主君・景勝を百万石[o]上方の在京領を除いた120万1,200石余。級の大大名にのし上げ、その第一の股肱として力を発揮した。兼続を支える直属の家臣は百二十一名の与板衆で、兼続は彼等に検地惣奉行、知行地宛奉行、蔵入地奉行、はては庄内代官や佐渡代官といった要職を与えて城下町の繁栄に力を注いだ。他にも水利事業による農政をはじめ、産業の振興など越後全土にわたる国造りに貢献した。

兼続は幼年より学を好み、施政繁忙の中でも和漢の学びをひもとき、少閑あればよく詩を詠んだ高雅な人柄だった。また秀吉ら豊臣の家臣らと誼を結び、上洛の度に多くの文化人と接触し、その才を披露する機会を得た他、五山文学を中心に禅僧との交流も深め、中国の史書や古典などを積極的に収集した。文禄元(1598)年の朝鮮の役の際も貴重な書物を持ち帰ってきたと云う。まさに文武を兼ね備えた英傑の一人とされ、豊臣秀吉には「最も信頼にたる武将の中に兼続あり」と云わしめた。

以上で与板城攻めは終了。

See Also与板城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。
b はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。
c 惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。
d 謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。
e 料金は片道が大人450円(当時)。
f 途中、天地人通りにある綺麗なトイレで用を足した。
g そういえば登っている時に、地元風の女学生らのハイキングに遭遇したっけ😊️。
h 他にも、同じような印刷物で『本与板城跡』も入っていた。感謝。
i と思ったが、登城道は山頂に建つ城山稲荷神社の参道でもあるので、城跡とは別に整備されていてもおかしくはない 😅️。
j 距離?(そんな訳ないが)高度?一般的にはおおよその所要時間の方が親切だと思うが😐️。
k 某大河ドラマとタイアップした兼続とお船の顔出し看板ではなく 😁️。
l 一説に樹齢400年余とされる。
m 五節句の一つで、1月7日のこと。七草粥を食べる七草の節句とも。
n 個人的には、 日本初の国産ビール醸造技師として知られる中川清兵衛《ナカガワ・セイベエ》が勉強になった。氏はサッポロビールの前身となる醸造所で醸造技術を学んだとのこと。
o 上方の在京領を除いた120万1,200石余。