信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》丘陵にあって、標高98mほどの舌状台地上に形成された逆L字型の尾根筋に、複数の郭を連ねて築かれた本与板城[a]この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。の歴史は古く、一説に越後新田氏の一族である籠沢入道が南北朝時代の建武元(1334)年に築いた砦が始まりと云う。室町時代には越後国守護・上杉氏の重臣である飯沼氏の居城[b]有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。となった。そして越後永生の乱[c]読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。で、城主の飯沼定頼は長尾為景に攻められて敗れ、為景に下った飯沼氏の家臣・直江親綱《ナオエ・チカツナ》の子・景綱《カゲツナ》[d]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。が本与板城を居城にして三島郡を支配した。この典型的な山城は例にもれず、実城や二の郭や三の郭といった主郭には土塁を巡らし、深い堀切あるいは二重堀切で区画していたが、さらに下段には腰郭をおき、主郭を挟むように西と南の二つの郭で防御させ、東下段には堀切が三方を囲む独立した出郭があったと云う。婿養子の信綱が城主の時代に与板城を築き居城を移したのちも、その支城として本与板城は存続していたと考えられている。
月別: 2022年10月
新潟県長岡市与板町与板甲134にある与板陣屋跡は、寛永11(1634)年に与板藩が長岡藩の支藩として立藩した際、かって越後上杉氏の執政・直江兼続の居城で既に廃城となっていた与板城の麓に構えられた藩庁跡である。この時の初代藩主は、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成《マキノ・タダナリ》の次男・康成《ヤスナリ》[a]牧野忠成の父も同名。で、ここ越後国三島《サントウ》郡与板に1万石を領していた。元禄15(1702)年に二代藩主・康道《ヤスミチ》が信濃小諸城に転封されると、ここ与板は幕府の天領になったが、宝永2(1705)年に彦根藩・井伊氏の嫡流筋にあたる遠江掛川藩主・井伊直矩《イイ・ナオノリ》が2万石を与えられて移封されてきた。そして文化元(1804)年には六代藩主・直朗《ナオアキラ》が城主大名[b]近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。に格上げされて、陣屋を移して城郭化し、文政6(1823)年に完成して與板《ヨイタ》城と呼ばれた[c]したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。。幕末の北越戊辰戦争では戦火に巻き込まれて焼失、与板ふれあい交流センターとなった跡地には冠木門と板塀が復元されている。
信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・船の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。で上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本荘秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。
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