蔵王堂城跡で唯一の遺構は本丸南東隅の土塁と水堀跡である

越後国を流れる信濃川と柿川《カキガワ》の合流点に形成された河岸段丘上に、その昔、蔵王権現[a]金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。を祀る蔵王堂が建てられていたが、南北朝時代、この御堂に北朝勢力の中条氏が本陣を構えて砦化したことが蔵王堂城の始まりと伝わる。戦国時代初期、越後国守護・上杉氏に従って国入した長尾景忠[b]鎌倉幕府三代将軍・源実朝を暗殺した二代将軍・源頼家の次男・公暁《クギョウ》を討った御家人・長尾定景《ナガオ・サダカゲ》の孫。関東長尾氏四代当主。の三男・景晴《カゲハル》が古志《コシ》郡代となり、交通の要衝にある蔵王堂城を居城にした。景晴は越後長尾氏[c]長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。の分家にあたる古志長尾氏の祖となり、その後、古志長尾氏が栖吉城を居城にすると、長尾為重《ナガオ・タメシゲ》[d]長尾景虎の叔父にあたるらしい。が入城して本格的に改修したと云う。時が流れ慶長3(1598)年に越後上杉氏が會津若松へ国替えになると、代わって入国した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の弟・親良《チカヨシ》が蔵王堂城に入城、のちに養子[e]兄・堀秀治の次男。の鶴千代が継ぐが夭逝《ヨウセイ》したため、彼の後見人であった堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が居城の坂戸城とともに治め[f]当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。、長岡城移転後は廃城になり、現在は遺構の一部が残るのみである。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

二日目の予定は直江山城守兼続の居城である与板城跡本与板城跡と云った山城を攻めることにしていたが、朝からあいにくの雨。強くふったり弱くなったりでなんとも先の読めない降り方だったので、山登りは諦めて、代わりに平城跡を攻めることにした[g]単に雨宿りできる建物が建っていそうな城跡を選んだだけだけど 😉️。あと午後は晴れてくれた 😎️。

と云うことで、午前中は長岡市にある蔵王堂城跡、午後は新発田《シバタ》市にある新發田城跡をそれぞれ攻めることにした。平日のこの日はラッシュアワーを避けるように宿泊先から傘を借りて、最寄りの新潟駅からJR信越本線・長岡行きに乗車して北長岡で下車。無人駅の改札を出て蔵王堂城跡の蔵王公園まで雨が降る中を傘をさして徒歩で向かった。20分くらい歩いて到着した頃にはだいぶ小降りになっていた。

こちらは公園にある金峯神社《キンプ・ジンジャ》前に建っていた案内図に、一部加筆したもの。図中、水色が現存する堀跡(水堀)、濃緑色が現存する土塁をそれぞれ示している:

安永〜天面年間推定の城で、堀に囲まれた郭が三つ連なり土橋で結ばれていたと云う

蔵王堂城跡(拡大版)

廃城から四百年余り経過し、城跡の周囲は宅地化の波が押し寄せ、大部分の遺構が破壊されたと推測できるが、公園内には本郭の土塁が残り、本郭に巡らされていた堀が復元されていた。この図に加筆した緑色破線の領域(推定含む)が郭《クルワ》で、往時はそれぞれ水堀で囲まれ土橋で連結していたらしい。ここにあるように二ノ郭跡と本郭跡のそれぞれ一部が公園内で整備されているようだ。二ノ郭跡の一部は金峯神社の境内であり立ち入りは自由である一方で、本郭跡の一部である安禅寺の方は毘沙門堂はともかく、遺構が残る側は私有地として立ち入りが禁止されていた[h]こちら側の方が、良好な状態で土塁の一部が残されているように見えたのだが 😑️。。そして三ノ郭および二ノ郭の一部は宅地化されていて当然ながら遺構は期待できない状態だった。

他の Topics は次のとおり:

  • 堀丹後守直寄公像(個人的には、彼の実績として蔵王堂城にそれほど大きく貢献した人物には思えないのだが、城跡に立派な銅像が建っていた)

まずは二ノ郭跡から。蔵王公園入り口から金峯神社境内が二ノ郭の一部だった:

二ノ郭跡の一部が蔵王公園として整備されていた

蔵王公園入り口

神社が建つ二ノ郭跡にも城の遺構はない

金峯神社の拝殿

二ノ郭は城内で最も大きな郭であった。神社の境内に特に遺構は見当たらず。

土橋ならぬ石橋を渡って本郭跡へ。堀跡をそのまま公園の堀として利用しているのであろう。水堀の雰囲気がでていた:

本郭(左手)と二ノ郭(右手)の間に架かる玉橋

石橋

最近架け替えられた玉橋

石橋

本郭の周囲に巡らされていた水堀、そして唯一の遺構とも云える土塁。まずは本郭北東側:

本郭土塁が残っていたが、この先は工場の敷地になる

本郭北東側の水堀

そして本郭南側:

右手に見えるのが近世城郭の土塁

本郭南東側の水堀

左手に見えるのが近世城郭の土塁

本郭南側の水堀

こちらが本郭内から見た南側の土塁。土塁上に登れるように改変されているのが残念:

本郭は北と南側にそれぞれ土塁が設けられていたと云う

本郭南側土塁

ではあるが一応、土塁上に上がってきた。ここには櫓が建っていたらしい。今は城址碑が建っている:

ここには櫓が建っていたとされる

本郭土塁上

なぜか「蔵王城址」と刻まれていた石碑

城址の碑

こちらは土塁上から眺めた本郭跡。現在は安禅寺、毘沙門堂、そして観音堂などの建物がある:

正面の毘沙門堂裏(工場側)にも土塁が部分的に残る

本郭跡

堀秀治の弟である堀親良が蔵王堂初代藩主となり、秀治の次男である鶴千代が養子となり、幼少ながらも家督を継ぐがわずか9歳で早逝し二代で無嗣断絶となった。このあと鶴千代の後見人を務めていた坂戸藩主・堀直寄が幕府に願い出て、旧蔵王堂藩4万石は坂戸藩に編入された。

ここ蔵王堂城は、信濃川による河岸の侵食が長年すすみ、城郭の一部が破壊するなど維持が困難になってきたため、直寄は信濃川上流の大島庄平潟原に新城の築城を計画する。これがのちの長岡城である。

しかし直寄は兄との確執から内紛が勃発、兄が幕府に訴えて直寄を追放した。直寄もまた徳川内府《トクガワ・ダイフ》(徳川家康)に直訴し裁定を受け信濃飯山藩へ転封された(越後福嶋騒動)。蔵王堂城には新たに高田藩主となった松平忠輝《マツダイラ・タダテル》[i]徳川家康の六男。関ヶ原の戦い後に伊達政宗の長女・五郎八姫《イロハヒメ》を正室に迎えた。しかし大坂の陣で遅参して父の家康から勘当され、素行問題で兄の秀忠から改易・流罪を言い渡されて諏訪高島城の諏訪頼水に預けられ、表舞台から姿を消した。の家臣が入城し、直寄による長岡城の築城は中断となった。

直寄はのちに大坂の陣に参陣し功績あげ、高田藩主の忠輝が改易したあとに再び越後に復帰し、越後長岡藩8万石を立藩した。しかし長岡城の完成間近に越後村上藩10万石に加増転封となってしまった。

ここ蔵王堂城は長岡城完成後の元和2(1616)年に廃城となり城下町も長岡へ移った。


土塁の上部には石垣が残る:

近世城郭の本郭土塁に残る石垣

鉢巻石垣

この石垣は見逃さないように😀️

(拡大)

本郭跡に建つ蔵王毘沙門堂:

こには毘沙門天立像と不動明王立像が安置されている

蔵王毘沙門堂

この御堂には蔵王堂の北側にあった仏玄池から出土したと伝わる毘沙門天立像の他、伝来が不明な不動明王立像(共に市指定文化財・彫刻)が安置されているのだとか:

ともに長岡市指定文化財

毘沙門天流動(中央)と不動明王立像(左手)

毘沙門堂の裏手にまわると工場との間に本郭北側の土塁が出現する:

左手には道路があるため途中が切断されていた

本郭北側の土塁

工場側から眺めた本郭北側の土塁

本郭北側の土塁

こちらが蔵王堂城跡の西側を流れる柿川(信濃川)。往時は天然の外堀だったのだろうが、度重なる川の氾濫や城域侵食などが長岡城築城のきっかけとなったのだとか:

本流の信濃川は中洲の先にあり、その手前が支流の柿川

柿川(信濃川)

最後は本郭土塁上に置かれた蔵王堂城跡の標柱と幟:

信濃川により城郭が侵食される被害を受け長岡城築城となる

「蔵王堂城」

以上で蔵王堂城攻めは終了。このあと再び北長岡駅へもどって信越本線の東三条経由で新発田へ向かった。

See Also蔵王堂城攻め (フォト集)

【参考情報】

堀丹後守直寄公像

蔵王堂城の本郭跡に大きな銅像と顕彰碑があった:

直寄が蔵王堂城と関わったのは数年ほどだが立派な像があった

「丹後守・堀直寄公」像

堀丹後守直寄《ホリ・タンゴノカミ・ナオヨリ》は天正5(1577)年に美濃国の厚見郡茜部荘《アツミグン・アカナベノショウ》[j]現在の岐阜県岐阜市茜部地区あたり。に生まれた。父は、堀左衛門督秀政《ホリ・サエモンノカミ・ヒデマサ》の従兄弟で、家老の一人であった堀監物少輔直政《ホリ・ケンモツショウユウ・ナオマサ》[k]奥田直政とも。秀政から堀の姓を与えられて堀直政と名乗った。。天正18(1590)年、父とともに秀政に従って小田原仕置に参陣していた時に、豊臣秀吉に見出されて14歳で小姓として仕えた。

文禄元(1592)年の朝鮮出兵の折り、秀吉に従って肥前国の名護屋城へ出陣、慶長2(1597)年の出兵でも同じく参陣して秀吉から外征や外交について大いに学んだ。

慶長3(1598)年に上杉景勝が越後国から會津へ加増転封となった際に、代わって越前国から主君の堀秀治《ホリ・ヒデハル》が入国した。秀治は堀秀政の嫡男で父の死後に越前国北ノ庄城18万石を継いでいたが、越後国春日山城は30万石の加増である。そして直寄も秀吉の元を離れ、越後魚沼郡・坂戸城2万石を賜った。直寄22歳の時である。その後、蔵王堂城を吸収し居城としたが、信濃川による被害を懸念して長岡の地に新城築城を計画する。

慶長5(1600)年の関ヶ原の決戦時は會津上杉家の家宰・直江兼続の謀略煽動により、越後国領内で一揆が勃発したため、直寄らも一揆掃討を行った。

父の直政が亡くなった慶長13(1608)年、兄との間に政務上の確執が生まれ、それが原因で堀家の内紛に発展し兄ともども改易され、直寄は信州飯山城4万石に移封、長岡城築城は中断となった。

それ以降、直寄は徳川陣営に参陣して徳川家康や秀忠の信頼を得るようになり慶長19(1614)年からの大坂の陣では大功を拳げた。これにより家康死後の元和2(1616)年に、多年の功績により8万石をもって長岡城主に転封となった。このとき直寄40歳である。

長岡城の築城を再開し完成目前の元和4(1618)年には、越後村上藩10万石に加増転封となり長岡の地を離れることになった。村上では村上城の拡張、城下町の整備の他、検地や新田開発を積極的に進めた。

寛永16(1639)年、直寄は江戸駒込の藩別邸で一生を終えた。享年63。

See Also蔵王堂城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。
b 鎌倉幕府三代将軍・源実朝を暗殺した二代将軍・源頼家の次男・公暁《クギョウ》を討った御家人・長尾定景《ナガオ・サダカゲ》の孫。関東長尾氏四代当主。
c 長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。
d 長尾景虎の叔父にあたるらしい。
e 兄・堀秀治の次男。
f 当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。
g 単に雨宿りできる建物が建っていそうな城跡を選んだだけだけど 😉️。あと午後は晴れてくれた 😎️。
h こちら側の方が、良好な状態で土塁の一部が残されているように見えたのだが 😑️。
i 徳川家康の六男。関ヶ原の戦い後に伊達政宗の長女・五郎八姫《イロハヒメ》を正室に迎えた。しかし大坂の陣で遅参して父の家康から勘当され、素行問題で兄の秀忠から改易・流罪を言い渡されて諏訪高島城の諏訪頼水に預けられ、表舞台から姿を消した。
j 現在の岐阜県岐阜市茜部地区あたり。
k 奥田直政とも。秀政から堀の姓を与えられて堀直政と名乗った。