村上城跡の二ノ丸跡には二層二階の櫓が建っていた出櫓の台座石垣が残る

新潟県村上市大字本町字田口979[a]所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。にある村上城跡は、標高135mの臥牛山《ガギュウザン》に築かれた山上部と山麓の居館部からなり、戦国時代には揚北衆[b]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。《アガキタシュウ》の領袖《リョウシュウ》であった本荘繁長[c]名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。《ホンジョウ・シゲナガ》の居城で中世城郭の本荘城[d]本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。であり、安土桃山時代には堀秀治《ホリ・ヒデハル》[e]織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。の家臣・村上頼勝《ムラカミ・ヨリカツ》が石垣を用いて改修し村上城と改称した近世城郭であった。そして江戸時代には村上藩主の堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が望楼型三層三階の天守櫓を建て、町割りをして城下町を整備した。天守櫓はのちに播磨国から国替えとなった松平直矩《マツダイラ・ナオノリ》が建て替えたが[f]理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。、落雷によりわずか四年で焼失し以後再建されることはなかった。明治時代の廃藩置県で廃城が決まり、北越戊辰戦争のおりに居館部を焼失したものの、城内の門や石垣はほぼ無傷で残っていたが悉く破却された。中世と近世の城郭遺構が混在する城跡は平成5(1993)年に国の史跡に指定された。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。

初日は新潟県村上市にある村上城跡。この日は朝8時前に東京駅から Maxとき 305号・新潟行に乗車[g]上越新幹線E4系Max。全車両2階建て。自身はじめての乗車。惜しまれつつ令和3(2021)年10月1日に20年の運行の歴史に幕をおろした、新潟駅には朝10時前に到着。さらに快速きらきらうえつ・酒田行[h]新潟と酒田間の臨時快列車。令和元(2019)年9月29日に18年の運行の歴史に幕をおろした。全席指定。に乗り継いて村上駅には昼11時前に到着した。駅構内のコインロッカーに荷物を預け、駅前にある観光案内所で情報収集してから村上城跡へ向け徒歩で移動した。途中、北海道の豚一家も食した肉屋で腹ごなしして、藤基神社《フジモト・ジンジャ》に立ち寄り、本日の城攻めと新潟ツアーの無事を祈願した。

こちらは Google Earth 3D を利用して、城跡がある臥牛山西側を中心とした周辺を俯瞰したもの:

村上駅と村上城跡の間にある市街地の大部分は往時の武家屋敷にあたる

村上城跡周辺図.(拡大版)

JR村上駅から臥牛山麓まで実際に歩いてきたエリアは城下町の一部であった。長い道路が整然と敷かれた中に町割りの面影が残り、鈎の字に折れた道路は往時の枡形を想像させるものがあった。

戦国時代を経て、江戸時代を生き抜いた近世城郭・村上城の絵図は複数あり、例えば『諸国城之図(5巻)』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)や『日本古城絵図[i]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』(同蔵)の北陸道之部(2)の『村上之城絵図』などがあり、みな城下町を含む山上部と山麓部が描かれたものである。

その中で『正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》』から『越後国村上城之絵図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)に主な郭や施設、そして町割りを重畳加筆したものがこちら。先の周辺図とほぼ同じ向きに回転させてある:

江戸時代の正保元(1644)年に全国の諸藩に命じて作成させたもの

『正保城絵図−越後国村上城之絵図』

ある一定の基準で城郭と軍事施設(天守・櫓・塀など)、関連する情報(郭名など)が記載されている

(コメント付き)

この絵図は、江戸時代の正保元(1644)年に村上藩を含む全国の諸藩に命じて作成させたもので、いわゆる「規格モノ」の一枚である。つまり、この絵図集は原則的に城郭に含まれる軍事施設に該当するもの(情報)を記載しなければならないとされる。

こちらは三ノ丸跡に建っていた「国指定史跡・村上城跡」の案内図:

臥牛山頂と西側は近世城郭の村上城、東側に中世城郭の本荘城が残る

「国指定史跡・村上城跡」(拡大版)

この図にあるように、近世城郭と中世城郭の両方の遺構を巡ることができるよう整備されていた。ただし一応は中世遺構散策コースを歩いてきたが、この時期は藪化が激しくて遺構をほとんど見ることができなかった[j]総合的に山城跡に共通することだが、この城攻めは季節を考慮した方がよいであろう 😉️。

ということで、本稿で紹介する Topics は次のとおり:

近世城郭の村上城跡

まずは標高135mの臥牛山を、往時は侍町であった西側の住宅街から眺めてみた。山頂を眺めると本丸石垣を見ることができた。ちなみに国史跡になった村上城の石垣は廃城後に積み直しされて復元されたものである[k]一部は現存石垣もあるようだが。

標高135mの山頂に、かって村上城の城郭が築かれていた

臥牛山

臥牛山の山頂に残る村上城の本丸石垣

本丸石垣

藤基神社から村上城跡の登城口へ向かう途中に中ノ門跡[l]飯野中ノ門とも。がある:

以前は標柱が建っていたようだ

中ノ門跡

道路が特徴的で、地図を上から見るといかにも枡形虎口跡って感じがする。昔は標柱が建っていたらしいが、城攻め当時は無かった。大手門や一文字門に次ぐ規模の内枡形門だったと云う。

そして臥牛山の麓にある村上城跡の登城口へ。登城口周辺は往時の一文字門跡であり、周辺には石垣が残っていた:

麓の居館や山頂の本丸へ行くには必ず通る内桝形門だった

「一文字門跡」の碑

櫓門と多聞櫓などで囲まれた内桝形門だった

一文字門の石垣

この門は三層の隅櫓と二層の櫓三棟を土塀でつないだ多聞櫓、そして石垣とコの字形の深い堀で囲まれた内枡形門であり、虎口には跳ね橋が架っていたと云う。江戸時代初期の元和6(1620)年頃、村上藩主が堀直寄の時代に完成したと云う。

一文字門からは山麓の城主居館跡と山頂の本丸へ向かう七曲り道に分岐する。本稿執筆現在、村上城/本荘城の縄張図と現在の地図を重畳した図(PDF)が村上市HPで公開されている[m]自分が城攻めした時代には、こんな素晴らしい縄張図はなかったが 😐️。ので、城攻め前に入手しておくことをオススメする。

こちらが城主居館跡。最盛期には総面積1千坪を越える御殿や政庁などの建築物があったらしい。現在は城山児童公園(公衆トイレ付き):

往時は藩主の居館や御殿、政庁などが建っていた

城主居館跡

次は城址碑脇にある七曲り道を登って山頂の本丸跡を目指した。石段も遺構の一つである[n]公園化と文化財保護のため改修されているらしい。

登城口から登ると七曲り道の石段が三の丸跡まで続く

七曲り道

この九十九折れ《ツヅラオレ》の山道は戦国時代の本荘城から大手道として使われていた。さらに、この道の斜面には戦国期のものとされる竪堀が残っているらしいが、藪化が激しくて確認できなかった。

登りはじめて10分あたり、最後の折れをすぎると四ツ御門の台座石垣が見えてくる:

最後の折れを過ぎると三の丸の石垣が見えてくる

七曲りと三ノ丸石垣

三ノ丸石垣と三ノ丸の虎口にあたる四ツ御門跡

四ツ御門跡

四ツ御門は三ノ丸虎口であり、左右の石垣の上には多聞櫓(北御多聞と南御多聞)が建てられ、枡形の中には四方向に門扉《モンピ》を持つ櫓門が建っていた:

この両側の石垣上に多聞櫓が建っていた

四ツ御門の台座石垣

ここに変則的な構造を持つ櫓門が建っていた

三ノ丸虎口

その櫓門は一つの門で、大手道(七曲り道)と搦手道の二本と、南側の二ノ丸と北側の三ノ丸への続く二本が交差する十字路をまとめて守備する変則的な構造になっていた。現在は礎石が残るのみ。

こちらが三ノ丸跡。城内で一番大きな郭で、往時は調練場や武具蔵があった:

城内で一番大きな郭には、往時は武具蔵や調練場があった

三ノ丸(調練場)跡

城内で一番大きな郭には、往時は武具蔵や調練場があった

三ノ丸(武具蔵)跡

往時、三ノ丸北側には二層の靭櫓《ユキヤグラ》が建っていたようで、台座石垣が残っていた:

三ノ丸北側には、往時は二重櫓が建っていた

靱櫓跡

こちらが靭櫓の台座石垣:

これは松平直矩の時代のものらしい

靱櫓の台座石垣

この石垣の上に二層の櫓が建っていた

靱櫓の台座石垣

但し、先の『正保城絵図 − 越後国村上城之絵図』には描かれていない櫓であり、櫓そのものは寛文3(1663)年の村上藩主・松平直矩が建てたものと予想されている。

また靱櫓跡の下には、本荘城時代の竪堀が残っているらしいが藪化していて分からなかった。他にも帯郭などがあるようで近世城郭に改修されても残されて利用されていた施設の一つである。

同じく三ノ丸にあった玉櫓跡。こちらも二層の櫓:

ここにも台座石垣が残っていた

玉櫓跡

玉櫓跡近くには麓から延びたモノレールがあった。平成12(2000)年から続く石垣の修復工事で石材の運搬に使用されているものらしい:

この下には中世城郭の遺構が残っているらしい

運搬用モノレール

再び大手道跡へ戻り二ノ丸跡を目指して緩い坂を登っていくと御鐘御門《オカネゴモン》跡が見えてきた:

二ノ丸の枡形虎口に建つ(手前の石垣が東多聞、奥が西多聞)

御鐘御門跡

この三ノ丸側に張り出した外枡形虎口には東多聞と西多聞に連結して御鐘御門が架かっていたらしいが、この門も村上藩主が松平直矩の時代に増築されたものらしい。先の『正保城絵図 − 越後国村上城之絵図』をよく見ると門が描かれていないが、現在は礎石が残っていた:

西多聞と東多聞の台座石垣の間に御鐘御門の礎石が残る

枡形虎口

ここの大手道は傾斜がついていたからか周囲の眺望がすばらしかった。こちらが城址東側の朝日・飯豊連峰《イイデ・レンポウ》の山々:

二ノ丸跡から城址西側に聳える西旭岳と大朝日岳の眺め

二ノ丸跡からの眺望(拡大版)

南北に細長く緩やかな傾斜を持つ二ノ丸跡と、その先に見えるのが出櫓跡:

緩やかな傾斜を持つ郭の先に見えるのが出櫓跡

二ノ丸跡

大手道右手の土壇上に聳える高石垣が本丸防備の要となった出櫓の台座石垣:

往時、この上に二層の櫓が建ち、背後の本丸を防備する要であった

出櫓の台座石垣(拡大版)

大手道を本丸へ向って進む寄せ手に対し出櫓から横矢を掛けるために設けられた設備であり、石垣沿いの大手道は黒門を起点に切岸と石垣によって上り(上通り道)と下り(下通り道)に区切られ、攻撃を受けた寄せ手は戻るに戻れず、一列縦隊で本丸へ進まざるを得ないのだと云う[o]いわゆるキルゾーン。

一列縦隊進む寄せ手に対し、守り手は横矢懸りを仕掛ける

大手道と出櫓跡

大手道には出櫓の石垣に連結するように黒門が建ち、本丸へ向って登ってきた寄せ手を一時停止させ、出櫓からの横矢掛りを最大限に活かす構造になっていた。また黒門には上り(上通り道)と下り(下通り道)ごとにそれぞれ門扉を持つ特殊な城門だったらしい:

登城道が往時の大手道で出櫓から横矢掛けできる構造だった

出櫓跡と大手道

細い大手道を塞ぐように二つの別々の門扉を持も門だった

大手道と黒門跡

黒門跡をすぎると本丸に巡らされていた帯郭跡になり、その南東隅には平櫓跡があった:

この上にL字形の櫓が建っていた

平櫓の台座石垣

石垣が膨らんでいて石垣崩落防止の補強材が付いていた

平櫓の台座石垣

残っている台座石垣はその内部が膨らんで変形しており崩落防止のフェンスがついていた。

そして帯郭跡から見た本丸の高石垣:

石垣の上が臥牛山最高所にあたる本丸跡

本丸石垣

本丸石垣は打込接の布積み[p]本丸南東隅には築城当時を窺わせる野面の乱積みが見られる。、隅石は算木積で、高いところで7mを越えるとも:

廃城後に積み直し復元された石垣

本丸石垣

櫓があったところは台座石垣を含めて特徴的な形状をしていた:

多聞櫓が建っていたところの石垣

本丸石垣

本丸の帯曲輪跡から見た本丸の石垣

本丸石垣

こちらは埋門《ウズミモン》跡。緊急時に城から脱出する搦手的な位置づけにあったとされるが、現在は「中世遺構散策コース」の入り口になっていた:

内枡形状の石垣が残るが、門の目的は不明である

埋門跡

ここ埋門跡から始まる散策コースは三ノ丸の四ツ門跡が終点であり、中世遺構と冠しているものの本荘城の遺構はほんの少しだけ[q]この時期は藪化が激しくて案内板にあった遺構は確認できなかった。。コース後半は村上城の坂中門跡や馬冷やし場(千貫井戸)などをみることができた:

搦手道が通る郭に置かれていた門の一つ

坂中御門跡

村上城で最大規模の「水の手」とされる

馬冷やし場

このあとは冠木御門跡を通って本丸内へ:

ここが本丸虎口で、階段を登った先は枡形で高麗門があった

冠木御門跡

本丸虎口は外枡形と内枡形の二重構造になっており、外枡形と内枡形の境界には二ノ門として渡櫓門が建っていた。そして外枡形の一ノ門には高麗門が、内枡形の一ノ門には別の門がそれぞれ設けられていた。そのため虎口は逆コの字型をしていた。

こちらが冠木門の礎石と外枡形部分:

外枡形の冠木御門を形成していた門

冠木門の礎石

左右の石垣に渡櫓門が架かり、その奥が内枡形

外枡形と内枡形

今度は逆に本丸虎口の内枡形から眺めたところ。二つの枡形の間には渡櫓門があったらしい:

左右の石垣に渡櫓門が架かり、その奥が外枡形

内枡形と外枡形

この本丸虎口は外枡形と内枡形の二重枡形を形成していた

コメント付き

さらに渡櫓門の台座石垣の上から本丸跡を眺めてみる:

本丸虎口の櫓台台座石垣の上から見たところ

本丸跡

本丸跡から日本海方面(城址西側)の眺め。往時の城下町、そして惣構えを想像しながら眺めてみるのも良いだろう[r]運が良ければ日本海越しに佐渡島を眺めることができるらしい。

正面に日本海、眼下には村上市役所、郷土資料館、武家屋敷、そして右手に三面川が見えた

城址西側の眺望(拡大版)

本丸南西隅には天守台石垣が復元され、天守建造物の礎石が残っていた。天守台は野面積みであった:

天守台は野面積みであった

天守台石垣

ここに三層の白亜の天守が建っていたが後に焼失した

天守跡

先の『正保城絵図−越後国村上城之絵図』にも描かれているが、ここには三層・白亜の天守が建っていた。城下からも天守台上にある天守は目立っていたようだ。

そして村上城の別称である舞鶴城址の碑:

裏面には歴代城主の名前が刻まれていた

「舞鶴城址」の碑

元和4(1618)年に入場した村上藩主・堀直寄が初めて天守を建て、寛文3(1663)年に往時の藩主・松平直矩がさらに豪華な白亜の天守(二代目)に改築したと云う。現在残る天守台石垣は二代目の改築時にあわせて築き直されたと考えられている。しかしながら二代目は落成後わずか4年で落雷により焼失した。高所に建てた建造物がその原因とされ、以後は天守は再建されることはなかったと云う。村上市では、この二代目の天守の復元が検討されているのだとか。

こちらは天守台から伸びる本丸土塁と本丸跡。これも天守を見せるための演出の一つであろう:

右手の天守台から伸びる土塁は石垣の上に設けられていた

本丸南側(拡大版)

先の大戦中には米軍機の監視哨が本丸跡にあったらしい。本丸跡北端から出櫓跡を見下ろしてみた:

本丸跡北端から見下ろしたところ

出櫓跡

このあとは中世遺構散策コースを歩いて本荘城時代の遺構を巡ってから四ツ門跡から下山し、村上城の惣構えを形成していた遺構を見てきた。

武家屋敷がある村上市郷土資料館方面へ北上した場所に下渡門《ゲドモン》跡があった。この門は二ノ丸の北東側を守備するための門で、別名は勘定門:

河岸段丘を利用し二層の櫓が建っていたと云う

下渡門跡

他には、武家屋敷の旧藤井家住宅から村上歴史文化会館の間あたりの場所に袋門跡があり、その側を流れていた水路は内堀の名残とされる:

村上城の惣構えを形成していた門の一つらしい

袋門跡

袋門跡の近くに流れていた水路

内堀跡

最後は飯野門跡。こちらは村上税務署の向かいにある小峰神社。追手門ともに城内で壮大な規模を誇る門だった:

三ノ丸南端を固める櫓門が建っていたらしい

飯野門跡

往時、この門は三ノ丸の南端にあって羽黒門とコの字で連結されていたらしい。

See Also村上城(本荘城)攻め (フォト集)

【参考情報】

村上藩武家屋敷

村上市内にある郷土資料館やまいづる公園周辺には江戸時代以来の武家屋敷が整備・保存されている。多くは市の重要文化財に指定されている。それらの屋敷は寄棟造《ヨセムネ・ヅクリ》の茅葺き平屋建で、中級武士の住まいであった。

こちらは旧・藤井家住宅。江戸時代後期の建築物で、所有者の重野氏は村上藩で奉行を務めるなど中級上位の家柄だった:

江戸時代後期の住宅で村上藩・重野氏の屋敷

旧・藤井家住宅

こちらは旧・岩間家住宅。もとは長屋形式であったがのちに一戸建てに改築したとされる:

江戸時代後期の住宅で村上藩・岩間氏の屋敷

旧・岩間家住宅

最後は旧・嵩岡家住宅。間取りは玄関・茶の間・座敷といったシンプルなものであった:

中級武士の嵩岡家はのちに江戸藩邸詰になった家柄

旧嵩岡家住宅

See Also村上藩武家屋敷 (フォト集)

中世城郭の本荘城跡

近世城郭・村上城の前身である本荘城もまた標高約135mの臥牛山に築かれた山城であった。築城時期は明確ではないが16世紀頭には既に築城されていたと見られ、越後の国人衆であり揚北衆を取りまとめていた本荘氏の居城として知られている[s]従って、室町時代の本荘房長《ホンジョウ・フサナガ》あるいは、その嫡子で本荘繁長の祖父にあたる本荘時長《ホンジョウ・トキナガ》の築城と考えられている。。この城は臥牛山の地形を巧みに利用した天然の要害で、堀切や竪堀といった防御施設を持つ典型的な山城であった。

本荘氏第三十一代当主の本荘越前守繁長は越後国の守護代・上杉政虎(のちの上杉謙信)の重臣の一人であったが、永禄11(1568)年に独立を目論み、甲斐国の武田晴信(のちの武田信玄)の計略に呼応して反旗を翻し、本荘城に籠城した。当時、相模国の北條氏康と対陣していた政虎は本荘城を包囲するだけで積極的な城攻めができなかったが、その隙に乗じて繁長は同じ揚北衆の色部勝長《イロベ・カツナガ》を夜襲して討ち取るなど猛烈に反抗した。一年余の籠城に耐えるも、本荘城の防備が限界に近づくと繁長は政虎と講和して従属を誓い、再び幕閣の一人に復帰している。こののち本荘城は直江山城守兼続の弟である大国実頼《オオクニ・サネヨリ》が預かり、城代として春日元忠《カスガ・モトタダ》が入城した。

この時の本荘城は江戸時代に村上城として改修を受けたのちも、その一部が残されて再利用されたことで、現代も臥牛山東側の斜面を中心に遺構が良好に残っているとのこと。

今回、村上城を攻めた際に「中世遺構散策コース」なる案内を見て堀切や竪堀といった中世時代の山城の遺構を見ることができるものと期待して巡ってきたが、この時期にでは藪化が激しくて今ひとつであった。

こちらが案内図。遺構が残る東側斜面の一部を巡ってくるコースになっていた:

中世遺構散策コースとして一部の遺構を見れるらしいが…

「戦国時代の村上城」の図(拡大版)

散策コースの入り口とされる埋門跡[t]この門は近世城郭・村上城の遺構である。から東側の斜面を下りる:

ここが散策コースのスタート地点

埋門跡

ここから二ノ丸の下にある帯曲輪へ下りる

東側斜面の石段

下りた先が中世城郭の遺構の一つである帯曲輪跡:

この下にも斜面を削平して複数の帯曲輪跡が残っていた

帯曲輪跡

このまま複数の帯曲輪跡を抜けながら散策路を進み、ときおり斜面を覗き込むようにして遺構を探してみたが藪化が激しくて確認できなかった。

最後は本丸跡から眺めた下渡山《ゲドヤマ》。本荘城跡の臥牛山と向き合う山で、謀反した本荘繁長を包囲するために上杉政虎が本陣を置いた山で、陣城(下渡ヶ嶋古城)跡があるらしい:

本荘城を包囲するために上杉政虎が本陣を置いた山

下渡ヶ嶋古城の眺め

以上で本荘城攻めは終了。機会あれば、涼しい季節に藪を気にせず中世遺構を確認したい。

See Also村上城(本荘城)攻め (フォト集)

【参考情報】

  • 村上城跡に建っていた案内板や説明板(村上市教育委員会)
  • 『国指定史跡・村上城跡』(村上市教育委員会)

参照

参照
a 所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。
b 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。
c 名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。
d 本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。
e 織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。
f 理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。
g 上越新幹線E4系Max。全車両2階建て。自身はじめての乗車。惜しまれつつ令和3(2021)年10月1日に20年の運行の歴史に幕をおろした
h 新潟と酒田間の臨時快列車。令和元(2019)年9月29日に18年の運行の歴史に幕をおろした。全席指定。
i 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
j 総合的に山城跡に共通することだが、この城攻めは季節を考慮した方がよいであろう 😉️。
k 一部は現存石垣もあるようだが。
l 飯野中ノ門とも。
m 自分が城攻めした時代には、こんな素晴らしい縄張図はなかったが 😐️。
n 公園化と文化財保護のため改修されているらしい。
o いわゆるキルゾーン。
p 本丸南東隅には築城当時を窺わせる野面の乱積みが見られる。
q この時期は藪化が激しくて案内板にあった遺構は確認できなかった。
r 運が良ければ日本海越しに佐渡島を眺めることができるらしい。
s 従って、室町時代の本荘房長《ホンジョウ・フサナガ》あるいは、その嫡子で本荘繁長の祖父にあたる本荘時長《ホンジョウ・トキナガ》の築城と考えられている。
t この門は近世城郭・村上城の遺構である。