新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。
今となっては五年前は、平成29(2017)年の「黄金週間」に新潟県にある城跡を攻めてきた。人生初で念願の新潟県入りであり、四泊五日の日程で主に北越あたりの古城巡りを楽しんできた。
二日目は朝から雨だったので当初の予定を変更し、午前中は長岡市にある蔵王堂城跡、午後は新発田市にある新發田城跡へ。ありがたいことに午前中には雨が上がってくれた。そして、午前中の城攻めを終えて最寄りの駅からJR信越本線と羽越本線を乗り継いで新発田駅へ向ったのだが、運悪く信号機トラブルに遭遇し途中駅で40分近く待たされて[e]ちなみに前日の城攻めの帰りは人身事故で新発田駅で1時間近く待たされたっけ 🤬️。、昼過ぎにお腹ペコペコ状態で新発田駅に到着。まずは腹ごなしの情報を収集するため駅前の観光協会へ。新発田市は「アスパラ」が名物らしく、特にアスパラ「みどり」カレーは新発田市のB級グルメになっているらしい。さらに新發田城跡として整備されている新発田城址公園への行き方を教えてもらった。
と云うことで観光案内所で貰ったパンフレットに掲載されているお店でカレーを食べて城攻めのエネルギーを補給した。ちなみに、お店は三ノ丸跡にあるので、店を出たらすぐに城攻めを開始することができた。
こちらは城址公園内の土橋門跡に建つ説明板に描かれていた「新発田城城郭図(江戸末期)」。往時の縄張と現代の地図を重畳したもの:
三ノ丸跡など宅地化されているエリアを含め城域に該当する場所には、ほとんどの場合、指標の他、説明板や案内板が建っており、この図に類似したものもいくつか目にした。この城跡を巡るのであれば、この類の図を事前に確認しておくことをオススメする[f]類似した図は、他に「新発田城下町略図」とか「新発田城周辺地図」など。観光協会で入手できれば良いのだが、入手できたのは『新発田観光散策マップ』(リンクはPDF)なるガイドマップだったが 🤐️。。
近代城郭・新發田城の絵図は複数あり、例えば『諸国城之図(5巻)』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)や、『日本古城絵図[g]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』(同蔵)からは北陸道之部(2)の『越後国新発田城』 があるが、個人的にもっとも分かりやすかったのは『正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》』の『越後国新発田之城絵図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)。この図を利用して、今回巡ってきた現在の新発田城址公園のエリアを抜粋し、往時の建物名などを重畳させたものが、こちら:
この絵図は、江戸時代の正保元(1644)年に新發田藩を含む全国の諸藩に命じて作成させたもの。
あと、こちらは国土地理院が公開している地理院地図(白地図)を利用して、今回の城攻めで巡ってきた場所他を書き入れたもの:
紺色の★(城跡)と赤茶色の★(寺院)が今回巡ってきた場所、灰色は今回は巡ってこれなかった(指標ありの)場所、黄色の類は市内の施設やエリア名、深緑色の★はお昼を頂いたお店。
ということで、本稿で紹介する Topics は次のとおり:
近世城郭の新發田城
三ノ丸跡から城攻めをスタート。裁判所の敷地は大手櫓跡:
往時ここには大手門を守備するために二層二階の櫓が建っていた。溝口家三代当主・宣直《ノブナオ》が城主だった寛文8(1668)年と四代当主・重雄《シゲカツ》が城主だった享保4(1719)年に大火で焼失したが、その都度再建されて廃城を迎えたらしい。
この大手櫓跡から道路を挟んだ向かいにある警察署の敷地が、大手門[h]別名が大手口門または追手門。跡:
初代当主・秀勝の時代は櫓門のみであったが、寛政7(1795)年頃には高麗門を併設する内桝形門に改められた。こちらも二度の大火により焼失したが、都度再建されたそうだ。
このまま県道R21に沿って二ノ丸跡へ向かった先の交差点附近が大手中ノ門跡:
二ノ丸虎口に建つ大手中ノ門は、一ノ門が高麗門、二ノ門が櫓門である枡形虎口を形成していた。寛文8(1668)年に焼失したが元禄13(1700)年頃には再建されていたらしい。
次は西櫓門跡。大手中ノ門跡の交差点から城址公園駐車場へ向かう途中にある:
ここは二ノ丸南東隅にあたり二層二階の櫓が建っていたと云う。ちなみに大手中ノ門跡からここまでに至る道路は外濠跡である。この櫓も一度焼失し再建されたのだとか。
西櫓門跡のすぐ先が菅原門跡:
西櫓が建つ二ノ丸とは外濠を挟んで向かいにある三ノ丸の門で、鍛冶口門と呼ばれていた。この門も二度の焼失と再建を経験しているらしい。
このまま外濠跡にあたる道路を北上し城址公園の駐車場へ。ここは二ノ丸跡南側:
こちらは二の丸跡から内濠ごしに眺めた本丸の三階櫓:
この櫓は、内濠に囲まれ不整形な形状をした本丸の四隅に置かれていた櫓の一つ。築城当時から天守と呼ばれる建物は無いが、本丸南西隅に建つこの三階櫓が天守の役割を果たしていたと云う。廃城後に取り壊しになって現存しないが平成10(1998)年の「溝口秀勝公入封400年記念事業」の一環で、その翌年から5年の歳月を費やし平成16(2004)年に本丸南東隅の巽櫓とともに復元された。
古文書・古絵図・古写真などの史料や発掘調査の結果によって廃城前の姿を忠実に復元した櫓には現代の匠の技が随所に盛り込まれているのだとか:
三つの鯱を戴いた[i]南西側の一頭が雌、あとの二頭が雄。雄は牙が3本、雌は2本の違いがある。櫓として知られる現代の三階櫓は、三方入母屋と呼ばれる丁字型《チョウジ・ガタ》をした唯一無二の本瓦構造が復元されている:
特徴的な屋根を持つ往時の三階櫓は延宝(1679)年に完成した。江戸幕府や親藩にあたる會津藩に遠慮して「天守」と云う名称は用いずに三階櫓(御三階櫓)と称した。櫓の構造は一層目が正方形に近い矩形で、二層目以上は規則的に逓減《テイゲン》した層塔型天守建造物に準ずる。これにより装飾用の入母屋破風を必要とせず、すっきりとした形状を持ち、外装は白漆喰塗、各層の腰壁は海鼠壁《ナマコ・カベ》で仕上げている。これが天守でありながら、天守には見えない三階櫓の所以である。
ただ残念ながら三階櫓を含む本丸跡の大部分や二ノ丸(古丸)跡北側が陸上自衛隊の敷地になっているため、二ノ丸跡側からしか外観を眺めることができない。駐屯地側に見学を申請すれば、日本最古の兵舎「白壁兵舎」を含む古丸跡や本丸跡から見た三階櫓を眺めることができるらしい[j]事前申し込みは必要ないらしい。それを知っていたら立ち寄ったのに〜 😕️。。
このあとは、二ノ丸跡南側の城址公園駐車場から内濠沿いに本丸跡へ向かった。
こちらは本丸の内濠越しに眺めた本丸北西側の石垣と鉄砲櫓跡:
三階櫓から鉄砲櫓跡までの本丸石垣は入隅と出隅を繰り返し、横矢掛けするために屏風折れしていた。寛文9(1669)年の大地震で大半が崩落したが、のちに修復された。その際に野面積みから切込接の布積み、隅石は算木積に改められた。積み直しでは江戸から職人を呼び寄せ、石材には五十公野《イジミノ》で産出された「古寺石《フルデライシ》」と呼ばれる硬い粗粒玄武岩《ソリュウ・ゲンブガン》を使用した。完成した本丸石垣の全長は350mにも及ぶ見事なものだったとか。
本来、本丸の四隅に置かれた櫓の一つである鉄砲櫓は廃城後に破却されて現存しないが、現在は二ノ丸隅櫓を移築したものが建っている。破風は無く一層目の腰壁が海鼠壁になっている:
移築された隅櫓は表門と共に現存遺構で、もとは二ノ丸北西隅(駐屯地の敷地内)に建っていた乾櫓で、廃城後は旧帝国陸軍の施設として利用されていたようだ。昭和32(1957)年に国の重要文化財に指定されたあと解体修理が行われ、駐屯地の敷地から現在の場所に移築されたらしい。
二ノ丸隅櫓の屋根の棟には溝口家の掻摺菱《カキズリビシ》紋があしらわれていた:
こちらは隅櫓の腰壁にあしらわれていた海鼠壁:
平瓦を壁面に沿って並べて貼り、瓦と瓦の間の目地(継ぎ目)には漆喰を蒲鉾状に盛り付け、低温による破損を防ぎ補強する日本独特の技法で、白と黒のコントラストが美しい。蒲鉾状の漆喰がナマコに似ていることが由来とされる。
二ノ丸隅櫓の内部がこちら。手前が身舎《モヤ》、柱の外側が武者走:
本丸の内濠沿いを歩いて本丸跡へ向かうと土橋門跡があり、石垣と土塁が残っていた:
ここで、本丸を囲む帯曲輪南西隅に置かれた薬医門形式の土橋門と、本丸の表門および鉄砲櫓(さらには辰巳櫓)、そして本丸内濠から構成される「擬似的な」桝形虎口により、本丸大手を最大限に防備する機能を確立していたのだと云う。例えば、先の『正保城絵図〜越後国新発田之城絵図』上に表すと、赤色矩形がまさに Kill Zone [k]「キルゾーン」。現代軍事用語の一つで、効果的な射撃で寄手を殲滅するために設定した空間のこと。となる(含む推測):

本丸疑似枡形虎口(推測)
土橋門跡から帯曲輪へ入ると見えてくるのが現存の表門(国指定重要文化財)。現在は帯曲輪と土橋で接続されているが、往時は古写真にあるように木橋が架けられていた:
表門は二階建の櫓門であり、腰壁は他の櫓と同様に海鼠壁である:
門両脇の石垣上から門前にいる寄手に対して横矢掛りを行うことができるように、石垣の先端から一間ほど[l]メートル法に換算すると約1.82m。後退した位置に櫓が建っており、さらに往時は古写真にあるように土塀が設けられていた。
表門の先には、三階櫓と同じく平成の時代に復元された辰巳櫓がある。本丸から見て辰巳(南東)の位置に建つ隅櫓である:
復元された辰巳櫓は白漆喰総塗籠《シロシックイ・ソウヌリゴメ》の二層二階で、一層目の二面には切妻出窓《キリツマ・デマド》が、さらに屋根の切裏甲《キリグラゴウ》[m]茅負《カヤオイ》の上に載せる化粧材のこと。のみ黒色で塗られ、一層目の窓と二層目の窓の上部には長押形《ナゲシ・ガタ》[n]柱と柱の間に水平部材を渡し強度を高めたもので装飾の一部とされる。を付けて格式をあげると云った演出が施されていた:
こちらが辰巳櫓の一階と二階の内部:
ちなみに、現代でも赤穂浪士四十七士の一人として知られる堀部安兵衛《ホリベ・ヤスベエ》の父は、新發田藩溝口家の家臣であり、辰巳櫓の管理責任者だった。しかし櫓が大火で焼失した際の責任をとり脱藩して浪人となった。その後、父は亡くなり、安兵衛は家名再興のために江戸へ出て、高田馬場の敵討ちで名を挙げるほどの剣客となったと云う。
ここで再び表門へ向かい本丸跡へ向かった:
こちらが国指定重要文化財である表門の構え。冠木と鏡柱、そして潜戸《クグリド》も現存である:
当時、表門二階は展示室になっており、新發田城の古写真の他に石落としも観ることができた:
表門をくぐった先が本丸跡(の一部):
廃城後、本丸跡と二ノ丸跡の一部は旧帝国陸軍・歩兵第十六連隊の兵営となり、戦後は城址公園と陸上自衛隊駐屯地になっている。
こちらは辰巳櫓前の踊り場から眺めた本丸跡。本丸跡の大部分が陸上自衛隊・新発田駐屯地の敷地になっているのがよく見てとれる:
往時の本丸には表門の他に搦手門として裏門があり、四隅に三階櫓、鉄砲櫓、折掛櫓《オリカケ・ヤグラ》、辰巳櫓が建っていた。さらに城主の居館や庭園、そして新發田藩の政庁として杮葺き《コケラブキ》の屋根を持つ本丸御殿が建っていたらしい:
最後は、城址公園から出て旧・城下町の中に復元されていた足軽長屋:
写真に収めるのを忘れたが、この長屋の眼の前にある名勝・清水園は、新發田藩主・溝口家の下屋敷で清水谷御殿と呼ばれていた庭園だったらしい。他にも新發田資料館なんかもあるのだとか。
以上で近世城郭・新發田城攻めは終了。
新發田城攻め (フォト集)
【参考情報】
- 新発田市内および新発田城址公園に建っていた案内板や説明板(新発田城を愛す会 / 新発田城復元の会 / 新発田市教育委員会)
- 『新発田城』パンフレット(新発田市教育委員会)
- 日本の城探訪(新発田城)
- 埋もれた古城(新発田城)〜 「百三十二年ぶりに蘇る、三匹の鯱」
- タクジローの日本全国お城めぐり(新潟 > 越後 新発田城(新発田市))
- 週刊・日本の城<改訂版> (DeAGOTINE刊)
溝口伯耆守秀勝公と溝口家菩提寺の廣澤山・宝光寺
新發田藩初代藩主の溝口伯耆守秀勝《ミゾグチ・ホウキノカミ・ヒデカツ》は尾張国中島郡西溝口村[o]現在の愛知県稲沢市西溝口町あたり。の生まれ。はじめ丹羽長秀に仕えていたが、のちに織田信長に才を認められて直臣として仕えて若狭国高浜城主となった。本䏻寺の変後は羽柴秀吉に仕え、長秀の与力の一人として加賀国大聖寺城に入城した。長秀死後は堀秀政の与力大名となり秀吉による北陸支配の一翼を担った。
慶長3(1598)年に秀吉の命で新発田6万石を与えられた。新発田に入封した秀勝は、はじめ五十公野《イジミノ》城跡に居を構え新しい藩領の支配を始めたが、かって越後上杉家に謀反して滅亡した新發田氏の館跡[p]この場所は中世城郭の新發田城と云われ、近世城郭では二ノ丸の一部となって古丸と呼ばるようになった。に築城を開始し、城下町を整備した。
入封当時の藩領は大小の河川や沼池が散在した湿地帯であったが、治水・新田開発など推し進め、その政策は廃城まで代々の藩主に受け継がれ、現在のような穀倉地帯「蒲原平野」の基礎が作られた。
なお、近世城郭の新發田城が完成したのは、秀勝入封から56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直の時代である。
秀吉死後の慶長5(1600)年、會津上杉家の家宰・直江兼続の謀略煽動により発生した越後上杉遺民一揆を鎮圧し、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に与した。この功により所領を安堵されて新發田藩を立藩、初代藩主となった。
こちらは寺町通り沿いにある新發田藩主・溝口家の菩提寺の曹洞宗・廣澤山・宝光寺:
総門をくぐった先には市の有形文化財に指定されている山門が出現する:
本堂とその屋根の棟にあしらわれていた溝口家の掻摺菱《カキズリビシ》紋:
秀勝は慶長15(1610)年に死去。享年63。
秀勝の遺骨は境内の墓塔に納められているとのことだったが、当時は参詣時間が過ぎていたため、歴代藩主の墓所とともに参詣することができなかった。
なお新發田藩は幕末を生き残り、明治4(1871)年の廃藩置県によって溝口家十二代、274年にわたる歴史を閉じたが、江戸時代にあって外様大名でありながら他国へ移封されることがなかったことは注目に値する。
最後は新發田城の二ノ丸帯曲輪跡に建っていた堀部安兵衛武庸《ホリベ・ヤスベエ・タケツネ》像:
どこぞに「藩祖・秀勝公の曾孫にあたる」とあったが全くの他人である[q]母方の父の先妻が秀勝公の五女・糸姫であるが、生母は父と後妻の間に生まれた女子であり血縁関係はない。。父親が新発田藩溝口家の家臣だったが、のちに父子ともども脱藩しているので、生誕地以外に語るほど新発田藩とゆかりが大きい訳ではない。むしろ赤穂藩浅野家の藩士としての活躍の方が有名だろう。
新發田重家公墓所と新發田藩溝口家菩提寺 (フォト集)
【参考情報】
- 『新発田城』パンフレット(新発田市教育委員会)
- Wikipedia(溝口秀勝)
- Wikipedia(堀部武庸)
新發田重家公と菩提寺の菩提山・福勝寺
かっての城下町の景観を復元した現在の寺町にある菩提山・福勝寺は、戦国乱世の時代に越後国蒲原郡の新發田城を拠点に、揚北衆の一人として越後上杉氏に仕え、後に謀反し、六年にわたって反抗した新發田因幡守重家《シバタ・イナバノカミ・シゲイエ》公を開基とする曹洞宗の禅寺であり、公の菩提寺である:
山門前には重家公の坐像があった:
重家は、源頼朝《ミナモト・ノ・ヨリトモ》が伊豆国へ配流されていた頃から仕え、その後の挙兵にも従い忠勤を抜きん出ていた近江国蒲生郡佐々木荘《オウミノクニ・ガモウグン・ササキノショウ》一帯[r]戦国時代あたりだと、例えば六角家・京極家・蒲生家・浅井家など多くの支流を生んだ。で勢力を成していた宇多源氏《ウダゲンジ》佐々木氏の棟梁・佐々木秀義の三男で、のちに越後国加地荘を拝領した盛綱[s]他に兄弟は長男の定綱、次男の経高、四男の高綱、五男の義清らがいる。の末裔(佐々木加地一族の支流)である。
戦国時代初期、加地荘で有力な国人衆の一人、加地春綱《カジ・ハルツナ》は同じ揚北衆[t]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。で佐々木党の本荘房長、鮎川清長、水原政家《スイバラ・マサイエ》、黒川清実、中条藤資《ナカジョウ・フジスケ》、五十公野景家《イジミノ・カゲイエ》、新發田綱貞《シバタ・ツナサダ》、そして竹俣昌綱《タケノマタ・マサツナ》らと合力して守護代の長尾為景に激しく抗した。のちに春綱らは為景と和し、その子・景虎にも仕え重用された。
ここで加地春綱、柿崎景家、竹俣清綱、本荘繁長、色部勝長、そして中条藤資らと共に謙信七手組大将[u]総大将の下で一軍を率いる侍大将の別称。を務めた新發田長敦《シバタ・ナガアツ》は重家の実兄である。
重家は新發田綱貞の次男で、はじめ治長《ハルナガ》を名乗った。嫡男で兄の長敦が新發田家を継ぐと、治長は五十公野家の養子となり五十公野治長と称した。兄弟は他に実弟の盛喜、妹の婿で義弟にあたる長澤三条道如斎《ながさわ・さんじょう・どうじょさい》(信宗)がいる。
福勝寺の境内に入り、本堂に向かって左手奥へ進むと新發田重家公と一族郎党の墓所がある:
新發田長敦・治長兄弟は上杉謙信に従って多くの戦場に参陣した。信濃国八幡原で甲州武田氏と激戦を繰り広げた第四次川中島合戦で、新發田勢は海津城備《ソナエ》を務め、甲軍の諸角虎光《モロズミ・トラミツ》を討ち取る功をあげた他、対武田の前線基地である信濃国飯山城の城番や春日山城の門番を務めるほど謙信からの信任が厚かった。特に七手組大将の長敦は内政や外交にも活躍した。
天正6(1578)年冬、謙信が死去したあと起こった越後上杉家の家督争い(御館の乱《オタテノラン》)で、新發田兄弟は他勢力とはやや遅れて上杉景勝を支持、実弟の上杉景虎を後詰すべく小田原の北條氏政の意を受けた甲斐の武田勝頼[v]設楽原合戦で惨敗した勝頼は北條氏政と甲相同盟を締結。織田信長と徳川家康に対抗するため一層の支援が必要だった。が越後に兵を向けた際は持ち前の外交力で越甲同盟締結を助けた。一方の治長は景勝を軍事面で助け、感服を拝領した治長は重家に改称した。この同盟により勢いづいた景勝は景虎に攻勢をかけ、新發田兄弟とその一族の軍事・外交の貢献もあって、二年の長きの内戦は景勝勝利に終わる。
しかし家督争いの余波は越後国内に広がり依然として安定するまでには長きを要した。そして、ここまで景勝を助けてきた新發田一族への恩賞が滞っていた中[w]恩賞の多くは景勝を一番に支えていた父方の上田衆や直江兼続麾下の与板衆に渡っている。、失意のうちに兄の長敦が没した。享年42。
長敦の死により治長は新發田家を相続し新發田重家となる。同時に、義弟の長澤三条道如斎が五十公野家を継いで五十公野信宗に改めた。
重家は、もとより景勝の家臣になるつもりはなく、あくまでも協力者の立場で関係を築いてきたつもりであり、それが揚北衆の一員であると云う自負があった。恩賞が無ければこの関係は無である。そんな自身の不満と兄の無念を思うと景勝に対する憤りが日増しに大きくなった。その最中、越中を手中納め越後上杉領への侵攻を進めていた織田信長と北陸方面軍の柴田勝家と佐々成政が重家に調略の手を伸ばしてきた。
「来る年、右府公御自ら信濃国と甲斐国を討伐するため出馬します。既に小田原北條家、會津蘆名家、米沢伊達家に誼を通じておれば越後上杉が滅ぶは明白。新發田殿に揚北一帯をお任せ致すと申されており、貴殿が北へ版図を広げるのも切り取り次第。いかかでござろう。」
天正9(1581)年、重家は織田の調略にのって景勝に反旗を翻した。織田と蘆名の支援を受けて重家は破竹の勢いで新潟津を奪取、沼垂《ヌッタリ》を占領し、さらに版図を拡大する動きを見せる。一方、景勝は重家討伐に出陣できない情勢に巻き込まれていた。この年の春に信長の信濃侵攻は始まり、甲斐武田家は滅亡し、もはや景勝に味方はいない。新發田討伐どころか春日山城の防備で手一杯であった。
しかし重家の思惑は本䏻寺の変で一変した。織田勢は越中、信濃、甲斐、上野といった支配国から逃げるように引き上げた。信長の死はまさに青天の霹靂であったが、重家は反抗の手を緩めなかった。それもそのはず景勝が討伐しにくるかと思いきや、空白地となった北信濃の争奪戦に勤しんでいたのである。
景勝が揚北へ兵を差し向けたきたが、重家は蘆名家の支援[x]重家の正室・於栄の父は蘆名家臣で、赤谷城主の小田切三河守貞遠《オダギリ・ミカワノカミ・サダトオ》である。を受け、新発田川の本流と支流を取り込んで天然の外堀とし、幅広の内堀に守られた新發田城に籠城して迎撃する。城の外郭は田んぼが広がる湿地帯である。重家と信宗らは、周囲の砦と五十公野城・浦城・加地城・赤谷城と連携して応戦した。
ここに重家と景勝の一騎討ちの話がある。
ある夏の夜、景勝と兼続が嵐のような強い風雨の中を陣払いし始めたとの報せに、浦城に籠もっていた重家はこの機会を逃すまじと猛烈に追撃し、殿を務めていた水原満家《スイバラ・ミツイエ》を鮮やかに討ち取り、手を緩めずに景勝の居る本陣を目指した。そして遂に法正橋(放生橋)《ホウショウバシ》辺りで、川の氾濫で立ち往生していた本陣に達し、眼の前に紫糸威伊予札五枚胴具足《ムラサキイト・オドシ・イヨザネ・ゴマイ・ドウグソク》[y]上杉神社所蔵で米沢市上杉博物館の写真へのリンク。を着用し、木製立物《モクセイ・タテモノ》は雲上の日輪が金箔仕上げで「摩利支尊天」、「毘沙門天」、「日天大勝金剛」の文言を鋲で留めた黒い巾着形の兜を冠っている騎馬武者と遭遇した。これぞ上杉景勝と見定めた重家は刀身三尺三寸[z]約99cm。の備前兼光で近くの馬廻り衆を薙ぎ倒して景勝の背後に迫った。景勝もここぞと踏みとどまって一騎打ちに応じ、闇の中で剣戟《ケンゲキ》が響き青火《アオビ》が飛ぶ。体格では重家より二回りも小さい景勝は一撃のたびに圧され、そのうち体勢を崩した。「その首、貰った!」と太刀を振り上げた時、重家の背後から景勝の重臣・上条宜順《ジョウジョウ・ギジュン》[aa]上条政繁。号して宜順斎。御館の乱では景勝に味方したが、のちに景勝と対立し、上杉家を出奔し秀吉の直臣となる。新發田重家とは懇意にしていたとされる。が現れて重家が騎乗する染月毛の馬の尻を槍で突いた。馬は棹立ちとなって脇の深田を疾駆する。荒げた愛馬を落ち着かせた頃には景勝の姿は無かったと云う。
重家ら新發田勢は五年と四ヶ月もの間、景勝ら越後上杉氏に頑強に抵抗した。景勝が豊臣秀吉から討伐のお墨付きを受け、討伐に本気になって攻めてきたときも重家らは度々、撃退し決着は付かなかった。
しかし、それまで重家を支えていた蘆名家と伊達家が対立した[ab]伊達家の当主が伊達政宗に代替わりしたことによる。ことで、新發田勢も日を追う毎に兵糧や玉薬が乏しくなり、また上杉側の調略を受けて寝返る者や逃亡する者が多くなって戦力が低下していた。
天正15(1587)年秋、関白秀吉の支援を受けた上杉勢1万が三条城を出陣、新發田城と連携していた支城をつぎつぎと攻略、義弟・信宗が籠もる五十公野城も、内応した家臣が上杉勢を城内に引き入れた上に、背信した家老に信宗が討ち取られるとほどなく陥落した:
① 天正9(1581)年 新發田重家が上杉景勝に反旗を翻す
② 天正9(1581)年 新發田重家が新潟津を奪取する
③ 天正10(1582)年 上杉景勝が討伐に出陣するも法正橋(放生橋)の戦いで大敗
④ 天正11(1583)年 上杉景勝が出陣し八幡表で新發田重家と激戦となる
⑤ 天正14(1586)年 上杉景勝が新潟津を奪還する
⑥ 天正14(1586)年 上杉景勝が出陣し五十公野城城下を焼き討ちする
⑦ 天正15(1587)年 上杉景勝が水原城を攻略する
⑧ 天正15(1587)年 上杉景勝が新發田城の支城を落とし、新發田城を包囲、重家討ち死
景勝ら上杉勢6千が孤立した新發田城を水を漏らさぬように取り囲んで夜討ちを始めた。「小癪な!」と重家は金箔壇《キンパクダン》の鎧を身につけ、金の福禄寿《フクロクジュ》の兜を冠り、腰には愛刀の備前兼光を下げて、搦手門から染月毛の愛馬に跨って敵がひしめく中に駆け込んだ。敵中を縦横無尽に駆け回り、搦手あたりに群がる上杉勢を切り捨て、薙ぎ払い、騎馬で跳ね飛ばして屍の山を築いた。
しかし重家が出撃した隙に、上杉勢に内応した猿橋和泉守が上杉勢の藤田信吉《フジタ・ノブヨシ》を城内に引き入れていた。こうして城内の新発田勢は他の郭を捨てて本丸へ逃げ込んだ。これを見た重家も本丸に退き、内堀に架かる曳き橋を上げた。
本丸へ戻った重家は覚悟を決め、残った者共らを主殿に集め、鼓を打ち鳴らし舞を披露して最後の酒宴を開いた。ほどなく最後まで残った忠臣らと別れの盃を交わし、亡き謙信公から許された朱柄の軍配を持ち、白地に「馗《オオジ》」の字を染め抜いた指物を背負い、染月毛の愛馬に跨って、内堀に降ろされた曳き橋を渡って真っ先に本丸から討って出た。群がる上杉勢を次々と斬り捨てていると、藤田信吉が槍を突け、夏目定吉の穂先が重家の腕を貫く。周囲では重家に最後までつき従った家臣らが討ち死していく。わずかに残る馬廻りが重家に自刃の時を稼ごうとしている。
「もはやこれまで。是非もなし。」
妹が嫁いでいる義弟・色部長実《イロベ・ナガザネ》の旗を見つけると、その陣に駆け込み、馬乗のまま鎧を外し兜を脱ぎ捨て「親戚の故をもって、我が首を与えよう。我が首をとって手柄と致せ!」と叫んで真一文字に腹を掻き切った。「お見事なる最期。我は色部修理大夫が家臣、嶺岸佐左衛門《ミネギシ・サザエモン》也。御介錯仕る。」と叫んで太刀を下ろし、重家の首級《シルシ》を高々と挙げた。
上杉景勝と直江兼続に最後の最後まで抗った揚北の雄、新發田重家は誇りを胸に自刃した。享年42。
首実検後、重家の亡骸は城近くの福勝寺に葬られた。法名は「菩提寺殿一声道可大居」。
現在、福勝寺には溝口氏が新發田城に入城してから建立した墓の他、重家公の御霊を慰める御堂「因幡様」が建っている他、宝物殿では重家公の肖像画や武具などを観覧できるらしい。
新發田重家公墓所と新發田藩溝口家菩提寺 (フォト集)
【参考情報】
- 福勝寺の墓所前に建っていた由緒
- Wikipedia(新発田重家)
- 近衛龍春『戦国最強・上杉武将伝 〜 新発田重家/揚北の剛勇』(PHP文庫)
- 竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』(宮帯出版社刊)
- 新発田重家の乱(埋もれた古城 〜「おのれ景勝、敵わぬまでも一矢報いん」)
- 風雲戦国史 〜 戦国武将の家紋 「加地氏」(TOP > 戦国武将の名字 > か行)
- 週刊・日本の城<改訂版>(DeAGOSTINI刊)
参照
↑a | これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。 |
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↑b | 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。 |
↑c | 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。 |
↑d | 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。 |
↑e | ちなみに前日の城攻めの帰りは人身事故で新発田駅で1時間近く待たされたっけ 🤬️。 |
↑f | 類似した図は、他に「新発田城下町略図」とか「新発田城周辺地図」など。観光協会で入手できれば良いのだが、入手できたのは『新発田観光散策マップ』(リンクはPDF)なるガイドマップだったが 🤐️。 |
↑g | 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。 |
↑h | 別名が大手口門または追手門。 |
↑i | 南西側の一頭が雌、あとの二頭が雄。雄は牙が3本、雌は2本の違いがある。 |
↑j | 事前申し込みは必要ないらしい。それを知っていたら立ち寄ったのに〜 😕️。 |
↑k | 「キルゾーン」。現代軍事用語の一つで、効果的な射撃で寄手を殲滅するために設定した空間のこと。 |
↑l | メートル法に換算すると約1.82m。 |
↑m | 茅負《カヤオイ》の上に載せる化粧材のこと。 |
↑n | 柱と柱の間に水平部材を渡し強度を高めたもので装飾の一部とされる。 |
↑o | 現在の愛知県稲沢市西溝口町あたり。 |
↑p | この場所は中世城郭の新發田城と云われ、近世城郭では二ノ丸の一部となって古丸と呼ばるようになった。 |
↑q | 母方の父の先妻が秀勝公の五女・糸姫であるが、生母は父と後妻の間に生まれた女子であり血縁関係はない。 |
↑r | 戦国時代あたりだと、例えば六角家・京極家・蒲生家・浅井家など多くの支流を生んだ。 |
↑s | 他に兄弟は長男の定綱、次男の経高、四男の高綱、五男の義清らがいる。 |
↑t | 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。 |
↑u | 総大将の下で一軍を率いる侍大将の別称。 |
↑v | 設楽原合戦で惨敗した勝頼は北條氏政と甲相同盟を締結。織田信長と徳川家康に対抗するため一層の支援が必要だった。 |
↑w | 恩賞の多くは景勝を一番に支えていた父方の上田衆や直江兼続麾下の与板衆に渡っている。 |
↑x | 重家の正室・於栄の父は蘆名家臣で、赤谷城主の小田切三河守貞遠《オダギリ・ミカワノカミ・サダトオ》である。 |
↑y | 上杉神社所蔵で米沢市上杉博物館の写真へのリンク。 |
↑z | 約99cm。 |
↑aa | 上条政繁。号して宜順斎。御館の乱では景勝に味方したが、のちに景勝と対立し、上杉家を出奔し秀吉の直臣となる。新發田重家とは懇意にしていたとされる。 |
↑ab | 伊達家の当主が伊達政宗に代替わりしたことによる。 |
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