鳥羽山城は堀尾氏が改修し道幅6mを越えていたとされる大手道が残る

元亀3(1572)年に甲斐国の武田信玄が大軍を率いて遠江国の徳川家康領に侵攻を開始、兵数で劣る家康の手勢を分散させるため、守備の薄い城を次々に陥落させることで掛川城諏訪原城、そして浜松城といった家康の拠点を孤立させた。つづいて信玄は自軍の補給路を確保するために二俣城を包囲するも、この城の天嶮に阻まれて近寄ることができなかったが[a]もちろん家康も後詰を送れずにいた。、ついには水の手を絶つことに成功し降伏開城させた。こののち信玄は三方ヶ原台地で家康と織田信長の援軍を痛破し東海道を押し進む動きをみせたものの、翌4(1573)年に急死して上洛戦は幻となった。そして機山公[b]武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。の喪が明けた天正3(1575)年に、跡目を継いだ四郎勝頼が信長ら連合軍に無二の決戦を挑んだ長篠・設楽原合戦で惨敗すると[c]これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。、ついに家康の反撃が開始され、二俣城奪還のため旧・二俣川[d]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。対岸に鳥羽山城を築き、周囲の附城と共に包囲網を形成したと云う。この城は、現在は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある鳥羽山公園として市民の憩いの場になってる。

続きを読む

参照

参照
a もちろん家康も後詰を送れずにいた。
b 武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。
c これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。
d 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。