室町時代に築かれ、近世城郭に改修された烏山城の吹貫門跡に残る石垣

室町時代は応永25(1418)年に、那珂川《ナカガワ》東岸にあって南北に伸びる標高200mほどの八高山《ハッコウサン》上に築かれた烏山城は、山の形が牛が寝ている姿に似ていることから臥牛城《ガギュウジョウ》の別名を持つ山城である。一説に、平安時代末期にあった讃岐国屋島での源平合戦[a]所謂、屋島の戦い。で、弓の神技を披露して名を馳せた下野国の御家人・那須与一《ナス・ノ・ヨイチ》[b]那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。の子孫[c]那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。が築いたと云う。東西約370m、南北約510mに及ぶ城域に、本丸・古本丸・北城・中城・西城・大野曲輪・常磐曲輪・若狭曲輪からなる五城三郭を配した梯郭式の縄張りを持っていた。この典型的な中世城郭の山城は下野国の名門・那須家の居城であったが、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に参陣せず所領没収とされたあとは忍城主だった成田氏長をはじめ多くの大名が入城し、幕末まで改修を重ねた末、明治時代に廃城となった。昭和の時代に入ると発掘調査が行われ、現在その城跡は栃木県立自然公園の一部になっている。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の清明の候近くの週末に栃木県那須烏山市にある烏山城跡を攻めてきた。ここは中世城郭と近世城郭の両方の遺構を残すと云われている山城で、約88ヘクタールと云う広大な城域の中に残る土塁、空堀、堀切、竪堀、そして石垣を見ることができた。

ただ残念なことに、この時に使用したカメラに搭載されていたHDRという撮影モードを多用したところ、合成された写真の多くがボケボケな仕上げになってしまったので:$、それから二年後の平成31(2019)年に再訪してきた。おもしろいことに昨今の城ブームが幸いしてか、その二年の間に城跡が予想以上に整備されていて、五年前に攻めた時よりも広い城域を巡ることができた ;)[d]初回に攻めた時は藪化が激しかったため巡ってこれる郭が限定された😕️。。本稿では主に二度目に攻めた時(すなわち今から三年前)の烏山城跡を紹介する[e]一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。

この日は朝10時にJR湘南新宿ライン・宇都宮駅に到着、すぐにホームを移動してJR烏山線・烏山行に乗り換え。そして烏山駅に着いたのが朝11時[f]烏山駅ではSuicaを利用できなかった。そのため烏山駅では現金で精算する必要がある。バスの時刻が近かったので焦った😕️。。コミュニティバスを使うと、麓にある三の丸跡近くまで移動できる。駅前から那珂川町コミュニティバス・馬頭烏山線のバスに乗車して「城山下」と云うバス停で下車する[g]所要時間は5分ほどで大人230円(当時)。徒歩だと15分くらい。帰りは徒歩で駅前まで戻ってきた😉️。

電柱脇が那珂川町コミュニティバスの「城山下」停留所

城址入口

城址入口には案内板が建っていたが、五年前同様に風化していて全く読めなかった :$ が、ちゃんと読める同じ案内板が本丸跡近くに建っていた。こちらが県立自然公園の一部となっている烏山城跡の案内図:

なぜか道路など現代の情報が古いが、描かれている縄張の内容は特に問題ないと思う(右が北方向)

案内図(拡大版)

烏山城は幕末まで使われていたこともあり、『正保城絵図[h]江戸幕府が正保元(1644)年に全国の諸藩に明治て作成させた城絵図を集めたもの。』と云った古絵図がいろいろ残っているが、上の図もそれらを参考に描いたもののようだ。

たとえば、こちらは『日本古城絵図[i]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』から東山道之部(5)『野州烏山城』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)を一部加工したもの:

『日本古城絵図・東山道之部(5) 172』に収録(上を北方向にした)

『野州烏山城』(拡大版)

八高山と呼ばれる喜連川《キツレガワ》丘陵の一支脈である独立丘陵頂部に、複数の郭を北から南へ配した連郭式の山城で、この古絵図にも描かれているように、関東の山城としては珍しく本格的な石垣が積まれているが、その石積みの技法の違いから近世城郭として改修が行われた時期が読み取れるのだと云う。

ちなみに烏山城の城絵図としては他に『諸国城之図(3巻)』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)や『正保城絵図《ショウホウ・シロエズ》』から『下野国烏山城絵図』(国立公文書館デジタルアーカイブ蔵)がある。

そして、こちらが今回の城攻めでトレースしたGPSアクティビティ。実際に巡ってきた郭にはラベルを付与している。Garmin Instinct® で計測した総移動距離は4.53km、所要時間は2時間36分(うち移動時間は1時間27分)ほど:

城址入口からスタートして郭跡をそれぞれ巡り、再び三の丸跡まで

My GPS Activity

実際に巡ってきた城内の主な遺構など:

城址入口 → 三の丸跡(下段)→ 寿亀山《ジュキサン》神社 → 三の丸跡(上段)→ 七曲口 → 七曲り → 分岐点A → 太鼓丸跡 → 車橋跡 → 常磐曲輪跡 → 吹貫門《フキヌケモン》跡 → 分岐点B   → 本丸内枡形跡 → 正門跡 → 空堀 → 坂虎口跡 → 腰曲輪跡 → ・・・ → 本丸跡 → 堀切 → 古本丸《フルホンマル》跡 → 堀切 → 中城跡 → 堀切 → 北城跡 → 櫓台跡 → 分岐点C → 西城跡(上段) → 西城跡(中段)→ (若狭曲輪跡)→ 西城跡(下段)→ ・・・ → 分岐点C → 空堀 → 大野曲輪跡 → 空堀 → ・・・ → 分岐点C → 分岐点D → 搦手口 → 桜門跡 →  塩倉跡 → 分岐点B → ・・・ 分岐点A → ・・・ → 三の丸跡(下段)→ 城址入口

なお那須烏山市のホームページには烏山城跡のリーフレットが用意されており、その中には現代の地図上に描かれた『烏山城縄張り図(作図・杉浦昭博氏)』が公開されていたが、今回の城攻めでも参考になった。せっかくなので My Activity を重畳させてみた:

那須烏山市のHPで公開されているリーフレットより(一部を加工している)

『烏山城縄張り図』(拡大版)

城攻めでトレースしたルートを実測の縄張り図に重畳してみた

『烏山城縄張り図』+ My GPS Activity

県道R10が走る東側麓から眺めた烏山城跡。ホント牛が寝ている形をしていた:

たしかに八高山は牛が寝ている姿に似ている

城址遠景

城址入口から登城道を進んだ先にあるのが三の丸跡で、構造的に神社が建つ郭が上段、その手前が下段のように見えたが、かって御殿が建っていたからだろう:

算木積・切込接の技法を使った江戸時代の石垣

三の丸石垣

藩主・堀親昌により築かれた三の丸には藩主の居館が建っていた

三の丸跡(下段)

ここ三の丸は算木積と切込接の技法を使った石垣で囲まれていたようだ。

そして寿亀山神社の参道。石段を上がった先が三の丸跡(上段):

大手道はここを左に折れる構造になっていた

寿亀山神社の参道

現在は寿亀山神社の拝殿が建っていた

三の丸跡(上段)

この神社の創建は廃城後の明治12(1879)年で、御神体は最後の城主を務めた大久保家で、下野烏山初代藩主だった大久保佐渡守常春《オオクボ・サドノカミ・ツネハル》公。常春は八代将軍・吉宗の下で若年寄と老中を務めた。この拝殿には公の厨子(宮殿)が祀られている。その側には顕彰碑の他、「佐渡柄杓《サドヒシャク》・枕返し」なる民話[j]http://beatlemacrocknstar.web.fc2.com/yama/2015-12-05_tsukushiyama/sadohishaku.htmlを案内する木があった:

名君を歌われる大久保佐渡守常春を讃える碑

大久保常春公顕彰碑

名君の大久保佐渡守常春公を讃える民話から

佐渡柄杓・枕返し

また拝殿の裏には三の丸池跡があった:

ここに御殿があったので庭園の一部と推測する

三の丸池跡

江戸時代中期の万治2(1659)年、往時の城主である堀親昌《ホリ・チカマサ》によって本丸に建っていた書院造の御殿をここ三の丸に移築して城主の居館を兼ねた烏山藩の藩庁としたらしい。

このあとは参道から分岐している大手道跡を通って七曲口《ナナマガリクチ》へ。古絵図では追手門が建っていた虎口(追手口)に相当する:

登城道の他、本丸跡などにも立っていた幟

「烏山城」の幟

往時は追手門が立っていた追手口で、現在の登城口

七曲口

この虎口から七曲りと呼ばれる坂を登って行くと分岐点に到達する。左手は烏山城の出郭があった毘沙門山に通じ、右手が烏山城の主郭部:

数えてみたら、本当に七曲がりあった

七曲りの坂

左手:毘沙門山、右手:太鼓丸跡

分岐点A

太鼓丸(鼓楼曲輪)を左手に見ながら主郭部へ向かう:

この先に見える土塁が櫓台跡

太鼓丸(鼓楼曲輪)跡

左手の土塁の上が太鼓丸(鼓楼曲輪)跡

主郭部へ

すると堀切が出現する。この先が常磐曲輪跡:

堀切を挟んで手前が太鼓丸跡、奥が常磐曲輪跡で、往時は堀切の上に滑車のついた引橋があった

堀切(拡大版)

車橋跡。往時は堀切上に滑車が付いた引き橋が架かっていたことが由来:

この堀切の上に滑車の付いた引き橋が架かっていた

車橋跡

堀底から谷津へ落ち込む堀切

堀切から竪堀

堀切を渡った先が常磐曲輪跡で虎口には常磐門と番所が建っていたと云う。ここは二の丸に相当する郭だった:

常磐曲輪の虎口で門が建っていた

常磐門跡

瓜型の常磐曲輪は二の丸相当の郭だった

常磐曲輪跡

常磐曲輪の先が本丸であるが、往時その手前に吹貫門《フキヌケモン》と云う櫓門が建っていたようで、現在も脇(台座)石垣が残っていた[k]平成23(2011)年の東日本大震災により石垣の一部が崩落したらしい。

吹貫門が建っていた台座石垣は野面積み

吹貫門の脇石垣

常磐曲輪は本丸より一段低い郭

吹貫門跡と常磐曲輪跡

この石垣は城内で最も古い技法である野面積み:

吹貫門が建っていた台座石垣は戦国時代からの野面積み

吹貫門の脇石垣

この門跡をすぎると本丸の腰曲輪跡であり登城道としての分岐点となる:

正面の本丸跡に向って左手が大手道、右手は搦手方面

分岐点B

ちなみに大手道をたどってきた寄せ手は左右二方向と正面にある本丸からの立体攻撃に遭遇する。

このまま大手道を登って本丸方面へ向かうと正門跡が出現する。本丸にたどり着く間に二つの折れを持つ本丸内枡形を通過することになるが、これが一つ目の折れとなる:

右手上の本丸を見ながら一つ目の折れを進む

内枡形の入口

こちらが内枡形の入口にあった正門跡とその石組の一部。枡形と云うことで土塁や土塀で囲われていたと推測できるが部分的に確認はできなかった:

この下は腰曲輪跡と若狭曲輪跡

正門の石組

ここから二回右へ折れると石垣の上にある本丸にたどり着く

正門の石組

本丸虎口を守備するために設けられた枡形は、本丸内に組み込まれることで内枡形を形成していた:

本丸側に埋め込まれた枡形である

本丸内枡形跡

ここで本丸跡へ向かう前に、本丸西側を防御するために設けられていた腰曲輪跡や空堀へ向かうため坂虎口を下りてみることにした:

本丸と若狭曲輪との間にある深さ8mほどの空堀

本丸西側の空堀

左手奥が若狭曲輪方面、右手上が本丸方面

本丸西側の空堀

こちらが本丸内枡形跡から下りてきた坂虎口跡、そして下りてから見下ろした腰曲輪跡

大手道のある内枡形の坂虎口を見上げたところ

坂虎口跡

腰曲輪跡を見下ろしたところ

腰曲輪跡

このあとは再び本丸内枡形跡へ戻って本丸跡方面へ向かう。

本丸切岸にも野面積みで石垣が積まれていた:

枡形内から見た本丸石垣(この奥が本丸跡)

本丸石垣

常磐曲輪から登ってきた寄せ手は内枡形の中で二回変針することになり、その度に横矢掛《ヨコヤガケ》による攻撃を受けることになる:

左手奥が本丸跡、正門跡を下りたところが常磐曲輪跡

本丸内枡形跡

本丸へたどり着く前に二度進路を変えることになる

本丸内枡形跡(コメント付き)

そして内枡形跡の先にある本丸跡。一部に土塁を確認することができた:

必ず枡形を通って入ることになる

本丸跡

中世城郭として室町時代の明応年間(1492〜1501年)に那須資実《ナス・スケザネ》が行った城域拡張の際に設けられた郭で、北側にある古本丸が使用されなくなると実質的な主郭となった[l]従って古本丸が健在であった築城当時は二の丸と呼ばれていた。。北辺が約40m、南辺が約70m、南北約65mの台形状した郭で、南西側にある石垣を利用した内枡形の虎口が大手口と考えられ、北辺中央附近には古本丸へつながる土橋状の遺構が残る。

さらに郭内から建物の礎石《ソセキ》が並んだ状態で発見され、複数の礎石建物跡が確認された他、瓦や釘といったものが発見されたと云う。


戦国時代の永正13(1516)年に、それまで分裂し対立していた上那須氏と下那須氏[m]所謂、兄弟喧嘩的な対立だった。がまとまり、烏山城は統一された那須氏の居城となる。そして永禄3(1560)年頃から下野国の覇権を争っていた宇都宮氏・塩谷氏の連合軍や「坂東太郎」こと佐竹義重にたびたび攻められることがあったが那須氏はこれを退けている。

天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、那須氏二十一代当主の資晴《スケハル》はかねてから同盟関係にあった小田原北條氏に与し、秀吉に対して小田原城に籠もるような直接的な敵対姿勢は見せなかったものの改易となった。

小田原平定後は一時、織田信雄が烏山城に入城したが秀吉の怒りを買って改易。その後は忍城主だった成田氏長と長忠らが入城するも後に御家騒動があってこれも改易された。その後も松下氏、堀氏、板倉氏が烏山城に入城した。そのあとは90年ぶりに那須氏が烏山城の城主に復帰した[n]但し那須氏の嫡流ではなく養子。が、のちに家督争いが起こってこちらも改易。その後も永井氏、稲垣氏、そして大久保氏らが城主となる。大久保氏が烏山藩主を務めてから明治時代に廃城を迎えた。


本丸北側1/4は一段高い鎌柄《カマツカ》状の土居があり、そこから古本丸を見渡すことができる:

北側には1.5mほどの高い鎌柄状の平坦部がある

本丸北側の土居

一段高い鎌柄状の土居から堀切ごしに古本丸跡を見る

土居ごしに眺めた古本丸跡

こちらが本丸と古本丸との間の堀切

堀切を挟んで手前が本丸跡、奥が古本丸跡

本丸と古本丸との間の堀切

そして古本丸跡。築城当時(中世城郭)の本丸。周囲には土塁が残っていた他、ここからも多くの出土品があり、旧地形の上に盛土して城を築いていたことが分かったらしい:

火災で居館を焼失した後は二の丸に本丸の機能が移った

古本丸跡

戦国時代の享禄年間(1528〜1531年)の火災で居館などの建物を焼失すると、その後は再建されることなく二の丸に本丸の機能が移ったと云う。

こちらは古本丸と中城との間にある堀切。城内の移動は堀底道を利用していたようなのので箱堀に近い形状で残っていた:

往時は本丸であった古本丸との高低差がよく分かる

古本丸と中城との間の堀切

左手が古本丸跡、右手が中城跡

堀底道

そして古本丸よりも低い郭である中城跡へ。この郭では特に土塁などは見られなかったが、往時は侍屋敷が建っていたらしい:

堀切を挟んで奥に見える高い切岸が古本丸跡

中城虎口跡

(初めて城攻めした当時よりも整備されていた)

中城跡

更に北へ進むと、今度は北城との間の堀切が出現。これも堀底道として利用されていたようだ[o]現在も城跡の散策路になっていた。

北城との高低差がよく分かる

中城と北城との間の堀切

左手が中城跡、右手が北城跡、正面奥が大野曲輪方面

堀底道

こちらが北城跡

初めて城攻めした当時よりも整備されていた)

北城跡

こちらも中城と同様に往時は侍屋敷が建っていたらしいが、違いは周囲に土塁が残っていたこと:

中城跡から堀切ごしに北城跡を見たところ

北城の土塁

さらに北端には櫓台跡が残り、更にその先にある堀切と腰曲輪跡をみることができた:

北城北端の土塁上にある

櫓台跡

北城の北側にある郭と、その間の堀切

堀切と郭跡

このあとは中城跡と北城跡の間にある堀底道に下りて西へ向かう。この先に西城方面と大野曲輪方面の分岐点がある:

左へ折れると西城方面、右奥が大野曲輪方面

分岐点C

まずは左に折れて西城跡へ。中城と古本丸を囲む横掘の堀底道を進む:

左手が中城の切岸、正面の切岸が古本丸、右奥が西城方面

堀底道

この堀底道から古本丸跡を見上げてみた:

堀底道を進む寄せ手に古本丸からの迎撃が行われる

古本丸の切岸

西城は三段の郭から形成されていた。こちらは上段:

この下に見えるのが中段

西城(上段)

ここで振り返って古本丸西側を見上げてみた:

左手は中城方面、右手は若狭曲輪方面で、高さがある迫力の切岸である

古本丸跡西側(拡大版)

そして中段と下段。ここも侍屋敷が建っていたらしい:

(初めて城攻めした当時よりも整備されていた)

西城(中段)

(初めて城攻めした当時よりも整備されていた)

西城(下段)

下段のさらに西側には複数の小さな腰曲輪跡が見えた他、若狭曲輪跡を遠望することもできた:

林の奥に見える郭が若狭曲輪跡

若狭曲輪跡の遠望

このあとは分岐点へ戻って、最後に大野曲輪跡へ。北城の西側を南北に走る空堀に架かる土橋を渡る:

左右に走るのが空堀で、土橋の先が大野曲輪跡

空堀と土橋

こちらが大野曲輪跡。ここも侍屋敷が建っていたと云う:

(初めて城攻めした当時よりも整備されていた)

大野曲輪跡

この曲輪の北端にも空堀が残っていた:

大野曲輪北端に残る空堀

空堀

このあとは分岐点を経由して大手方面へ戻って下山した。

こちらは北城と中城との間の堀底道を東へ向ったところにある搦手口。ここは搦手道方面と大手道方面の分岐点:

左手は十二曲りへと続く搦手道、正面が大手道方面

搦手口(分岐点D)

搦手道を左手下に見ながら大手道方面へ戻る途中には桜門跡があり、礎石も残っていた:

この下には井戸跡(湧水あり)がある

搦手方面

古本丸の搦手口に建っていた門で礎石も残っていた

桜門跡

また桜門から続く道は古本丸と中城との間の堀切(堀底道)であり、その先にも本丸と古本丸との間の堀切を真横から見ることができた:

本丸(左手)と古本丸(右手)との間の堀切

堀切と堀底道2

古本丸(左手)と中城(右手)との間の堀切

堀切と堀底道1

すると常磐曲輪跡まで戻ってくるが、ここは塩倉跡

ここは常磐曲輪跡で、この先が分岐点A

塩倉跡

こちらは県道R10沿いにある十二曲り口(搦手道)あたりから眺めた烏山城跡:

搦手口から十二曲りを下りてきたあたりから眺めた烏山城跡

烏山城跡の遠景(拡大版)

最後は烏山城の大手道跡に置かれていた注意書き:

IMGP3002.resized

「注意 マムシに注意して下さい」

以上で烏山城攻めは終了。このあとは駅へ戻るまでの間、大好きな映画のロケ地を巡ってきた ;)

See Also烏山城攻め (1) (フォト集)
See Also烏山城攻め (2) (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 所謂、屋島の戦い。
b 那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。
c 那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。
d 初回に攻めた時は藪化が激しかったため巡ってこれる郭が限定された😕️。
e 一部は初回の城攻め時の情報が含まれるが、特に表記として区別はしない。
f 烏山駅ではSuicaを利用できなかった。そのため烏山駅では現金で精算する必要がある。バスの時刻が近かったので焦った😕️。
g 所要時間は5分ほどで大人230円(当時)。徒歩だと15分くらい。帰りは徒歩で駅前まで戻ってきた😉️。
h 江戸幕府が正保元(1644)年に全国の諸藩に明治て作成させた城絵図を集めたもの。
i 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
j http://beatlemacrocknstar.web.fc2.com/yama/2015-12-05_tsukushiyama/sadohishaku.html
k 平成23(2011)年の東日本大震災により石垣の一部が崩落したらしい。
l 従って古本丸が健在であった築城当時は二の丸と呼ばれていた。
m 所謂、兄弟喧嘩的な対立だった。
n 但し那須氏の嫡流ではなく養子。
o 現在も城跡の散策路になっていた。