二俣城の本丸西側には石段を持つ野面積みの天守台が残る

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990にある城山公園は、天竜川と旧・二俣川[a]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。が合流する天然の要害に築かれた山城跡で、戦国時代中頃に遠江国を斯波氏から奪還した駿河国の今川氏輝[b]今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。が重臣の松井貞宗に命じて築かせたのが始まりとされる。ここ二俣の地は遠江の平野部と山間部の結節点に位置し、遠江各地への街道が交差する要衝であり、今川氏衰退後は甲斐国の武田氏と三河国の徳川氏による激しい争奪戦の舞台になった。この城は、北を除く三方が川によって形成された崖地だったので、搦手にあたる北側尾根筋を遮断するだけで守りに堅固な城になった。永禄11(1568)年に武田信玄が今川義元亡き駿河国へ侵攻、同時に徳川家康も遠江国で大井川を境に西側の領土を略して二俣城を手に入れた。しかし元亀3(1572)年には信玄が大軍を率いて家康領に侵攻を開始、山縣昌景ら別働隊が二俣城を包囲するも城の天嶮に阻まれ近寄ることができなかったが家康も後詰を送れず水の手を絶たれて降伏開城するに至り、城は武田氏の手に落ちた。

今となっては五年前は、平成29(2017)年の穀雨の候近くの週末に休暇を取って、静岡県浜松市にある城跡を攻めてきた。一泊二日の日程で、武田信玄の最後の会戦である三方ヶ原合戦にまつわる城跡や古戦場跡、そしてこの年の大河ドラマの主人公ゆかりの城跡や寺院も巡ってくる計画をたてた。

初日は、午前に家康の嫡男である岡崎三郎信康の御廟と二俣城の井戸曲輪にあった井戸櫓が復元されている清瀧寺を訪問してから二俣城跡を攻め、午後は鳥羽山城跡を攻めてきた。

この日は朝7時過ぎの東京駅発岡山行のJR新幹線ひかり461号に乗車[c]自由席は1〜5号車(当時)。して掛川駅で下車。JRの駅を出て隣りにある天竜浜名湖線[d]正式名称は「天竜浜名湖鉄道・天竜浜名湖線」で、通称は「天浜線」。旧国鉄の二俣線を引き継いだ第三セクター。に乗り換えて天竜二俣駅で下車した。そして駅構内にあった観光案内所で情報を入手してから清瀧寺へ向かったが、その前に駅で販売していた土日祝日限定の御当地弁当「遠州錯乱・直虎戦弁当」を購入して二俣城跡で食べることにした

清瀧寺から、標高90mほどの台地上に築かれた二俣城跡がある城山公園までは徒歩10分ほど[e]途中、徒歩でショートカットできる階段あり。で、こちらは公園入口に建っていた案内図:

清龍寺からは、中央下に描かれた階段をショートカットとして利用した(右手が北方面)

「城山公園案内図」(拡大版)

公園入口は北方面に向って手前と奥の二ヶ所あり、この案内図が建っている方は奥にある側で、それは二俣城の搦手口にあたる:

二俣城の搦手口が公園入口になっており城址碑も建っていた

搦手口跡

こちらは(若干見づらいが)縄張を描いた二俣城図。本丸跡に建っていた「浜松市指定史跡・二俣城址」の説明板より。標高90mほどの丘陵上に北側から北曲輪、本丸、二之曲輪、蔵屋敷、南曲輪がほぼ一直線上に配置されていたと云う:

標高90mの丘陵に築かれた山城で北側から郭が一直線に配置されていた

「二俣城図」(拡大版)

また主要な郭は今川氏と徳川氏の時代に形成され、その中で現存する石垣や天守台は豊臣方の堀尾氏の時代に築かれたものと云う。

そして Google Earth 3D を利用して二俣城跡とその周辺を俯瞰したものがこちら(位置は推定を含む)。旧・二俣川対岸には鳥羽山城跡がある:

往時は二俣川が城の東と南を囲み(旧・二俣川)、西の天竜川と共に天然の要害を形成していた

二俣城周辺俯瞰図(推定含む)

ちなみに清瀧寺のさらに北[f]現在は浜松市天竜区役所の庁舎が建つ場所周辺。には笹岡城跡があるようで、これと二俣城と鳥羽山城の三城は2km圏内の距離にあり、往時はここ一帯を「二俣郷」を呼んでいたらしい。そのため古文書に現れる「二俣城」がこれら三城のうちどの城を指しているのか特定できない場合もあるようだ。

これが現在の二俣川で、左手奥の丘陵が二俣城跡:

往時は、左手奥の二俣城南側を流れる大河だった

現代の二俣川

こちらは上の「俯瞰図」で黒色破線+青色塗りつぶしした二俣城跡を拡大し、先の「二俣城図」を参考に縄張や主な遺構(推定を含む)を Google Earth 3D 上に重畳させたもの。往時の二俣川も参考に描いておいた(位置は推定):

天竜川と旧・二俣川に囲まれた天然の要害だった

二俣城跡俯瞰図

今回の城攻めは藪化が激しかった南曲輪以外の郭を巡ってきた:

(清瀧寺)→(復元された井戸櫓)→ ・・・ → 搦手口跡 → 腰曲輪跡 → 堀切 → 北曲輪跡 → 馬出跡 → 喰違い虎口跡 → 本丸跡 → 天守台 → 枡形虎口跡(一之門・二之門跡) → 二之曲輪跡 → 堀切 → 蔵屋敷跡 → (南曲輪の堀切)→ 西曲輪跡 → 井戸曲輪跡 → ・・・ →(鳥羽山城跡)


こちらは搦手口下にある腰曲輪跡には石積みも残っていた[g]ここに限らず城のあちこちで石積みや石垣が用いられていた。

搦手口の下に設けられた郭

腰曲輪跡

腰曲輪跡には石積みが残っていた

石積み

北曲輪跡へ向かう散策路を南下していくと北曲輪と本丸との間に設けられていた堀切が出現する。ただし現在、旭ヶ丘神社が建つ北曲輪側には石橋が架かるなどしてかなり改変が進んでいた:

北曲輪(左手)と本丸(右手)の間にある堀切跡

堀切

北曲輪(手前)と本丸(奥)の間にある堀切

堀切

堀切は天竜川がある西側へ竪堀となって落ち込んでいた:

竪堀に変化して天竜川のある西側へ落ち込んでいた

堀切から竪堀へ

こちらが北曲輪跡。現在は旭ヶ丘神社が建っていた:

旭ヶ丘神社では日清・日露戦役以来の英霊を奉斎している

北曲輪跡

このあとは本丸跡へ。本丸には搦手(北)側と追手(南)側にそれぞれ虎口があり、搦手側のこちらには馬出が設けられた上に喰違い虎口になっていた:

馬出と本丸の間には喰違い虎口が設けられていた

馬出跡

喰違い虎口を本丸土塁上から見下ろしたところ:

本丸の搦手側に設けられた虎口で、その先に馬出があった

喰違い虎口跡

本丸の搦手側は土塁や虎口で防御され馬出もあった

コメント付き

虎口の先に見えるのが本丸跡。その形状は最大幅56mほどの不整形な五角形で、麓から比高40mほどの位置にある。西側は天竜川に削られて絶壁で、東側も険しい崖面である:

幅56mほどの五角形な本丸は土塁で囲まれていた

本丸跡

本丸を囲む土塁の他、東側には石積を確認でき、西側は天竜川を、南側からは鳥羽山城跡を望むことができた。さらに本丸の南側にある二之曲輪とは堀切で区切られ、2mほど高い位置にある。

また西側には高さ4.0m、上面が11m✕10mの平坦面を持つ小規模な天守台が残っていた:

野面積みされた天守台北側には石段と附櫓の突出部がある

本丸跡と天守台

興味深いことに二俣城の天守台は浜松城のそれと類似点が多いことが発掘調査で判明しているのだとか。例えば使用している石材が共通であるとか、野面積みだとか、あるいは天守台脇の石段と共に附櫓を設けるために突出部があるとか。これにより両城の天守台は同一の石工《イシク》集団によって築かれたとみるのが自然であろう:

石段上には附櫓状の小さな平場が設けられていた

現存する天守台

大きさは浜松城の方がひと回りほど大きいが、二俣城の天守台上には礎石が残っていない上に天守を描いた城絵図も残されていないため、実際に建造物が建っていたのかは不明である:

礎石の類は発見されておらず建物があったか不明である

天守台上面

現在この天守台は、天正18(1590)年の小田原仕置後の勲功で関東へ移封された家康に代わり、遠江国を拝領した豊臣方の堀尾吉晴《ホリオ・ヨシハル》の弟・宗光《ムネミツ》によって築かれたと云う説が有力。宗光は兄から遠江国北部を預かり二俣城主であった。


元亀3(1572)年、甲斐の武田信玄は京の足利義秋[h]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。が号令した信長包囲網に応えるため家康の遠江国へ侵攻した。この時、信玄は息子の勝頼を大将にし赤備の勇将・山縣昌景を先鋒とする別働隊に二俣城を包囲させた。

家康の命で二俣城を守備していた中根正照《ナカネ・マサテル》は、ここ天然の要害で迎撃し頑強に抵抗したが井戸曲輪にあった井戸櫓で天竜川から水を汲み上げていることを見抜かれ破壊されたことで、水の手を絶たれてしまい無念にも降伏し開城した。

二俣城を手に入れた信玄は信濃先方衆の依田信蕃《ヨダ・ノブシゲ》を城代に置き、三方ヶ原台地で家康と信長の援軍を痛破し浜松城へ潰走させた。しかし病魔に冒されていた信玄は翌4(1573)年に急死、甲軍もまた本国へ引き上げた。

一方、信玄の遺命を頑なに守り二俣城を改修して守備していた依田であったが、天正3(1575)年の長篠・設楽原合戦で若大将の武田勝頼が信長と家康の連合軍に惨敗すると、ついに家康の反撃が開始され、旧・二俣川対岸に附城(鳥羽山城ほか)を多数築かれて完全包囲された。さらに同じ遠江国の諏訪原城が徳川勢の猛攻で落城し、苦しい籠城戦のなか抵抗を続けるも勝頼ら本国からの後詰が期待できなくなると、ついに依田は降伏・開城して駿河田中城へ撤退した。

再び二俣城を手に入れた家康は側近の一人である大久保忠世《オオクボ・タダヨ》を城代として置いて対武田の最終防衛ラインとして守備させた[i]忠世が不在の時は、関ヶ原の戦後に前橋城主となる酒井重忠《サカイ・シゲタダ》が城代を務めた。

天正18(1590)年の小田原仕置後に家康が三河・遠江から関八州へ移封されると、同じ小田原仕置では山中城攻めと包囲軍に加わっていた堀尾吉晴が浜松城に入城し遠江12万石を拝領した。そして末弟にあたる堀尾宗光が二俣城主となって北遠地域を任されたと云う。

二俣城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に堀尾氏が出雲国の松江城へ移封された後、鳥羽山城と共に廃城となった。


このあとは本丸より一段低い二之曲輪跡へ。本丸追手側の虎口は一ノ門とニノ門によって形成された枡形虎口になっていたとされ、門跡には石垣が残されていた:

この先にが枡形虎口で、鉤の字に折れた先に二之門があった

一之門跡

正面に一之門、左手に二之門が建っていた

枡形虎口跡

武者溜のような二之曲輪の南側には土塁が残され、西側には城山稲荷神社が建っていた:

ここが虎口跡

二之曲輪(二の丸)跡

南側には土塁が残っていた

二之曲輪跡

こちらは二之曲輪東側にある虎口追手で、脇にある石垣上には往時は櫓が建っていたと云う:

右手の石垣は櫓台跡

虎口追手跡

櫓台跡から見下ろした虎口追手

虎口追手跡

虎口追手を下りて二之曲輪の南側したへ回り込んでいくと、その南側にある蔵屋敷との間の堀切を見ることができた:

手前が二之曲輪、堀切を挟んで向こう側が蔵屋敷

蔵屋敷との間にある堀切

そこは立ち入り禁止のようで堀切が綺麗に残っていた

(コメント付き)

こちらが堀切の先にある蔵屋敷跡。石垣も残っていた:

二之曲輪の南側下にあった郭

蔵屋敷跡

南曲輪との間にある土塁には石垣が残っていた

石垣

このあとは西曲輪跡へ。こんな散策路を下りていくので、蔵屋敷跡よりもかなり低い場所にある郭だったことが分かる:

手前の蔵屋敷跡と高低差がある西曲輪跡へ向かう

登城道を下りて西曲輪跡へ

登城道を下りながら左手に南曲輪の堀切を見ることができた:

ここは中世城郭の雰囲気を残す場所であった

南曲輪北端の堀切

ここが西曲輪跡。往時この下には旧・二俣川が流れ、対岸に家康が築いた鳥羽山城跡を眺めることができた:

往時、この下には旧・二俣川が流れていた

西曲輪跡

こちらは平成の時代の発掘調査で発見された西曲輪の石垣。ここ以外にも多数の石垣が発見されている:

白い石材を使用し見せるための石垣だったらしい

西曲輪の石垣

西曲輪跡の下段にある井戸曲輪跡。天竜川と旧・二俣川に最も近い郭だった:

奥に見えるのが現代の天竜川

井戸曲輪跡

往時、井戸曲輪の西端には天竜川から水を汲み上げるための井戸櫓が建っていたと云う。これは清瀧寺境内で復元されていた櫓。籠城していた徳川勢は滑車に縄をかけた釣瓶を使って天竜川から水を汲んでいたと云う:

往時、二俣城の井戸曲輪に建っていたものを復元したと云う

井戸櫓(復元)

滑車に縄をかけた釣瓶を使って天竜川から水を汲んでいた

井戸櫓

勝頼率いる甲軍が包囲した際、その櫓の存在が籠城勢の水の手であるとして、勝頼は天竜川上流から大量の筏を流して櫓を破壊させ降伏させることに成功したと云う。

こちらが現在の天竜川:

水の手曲輪跡から眺めた一級河川

天竜川

同じく井戸曲輪跡から眺めた鳥羽山城跡。往時は二俣城との間に旧・二俣川が流れていたらしいが、現在は天竜川側(写真右手)に堤防が築かれて涸水し川底跡が宅地化されていた:

手前の住宅街が旧・二俣川跡で、右手に見える堤防を渡って行った先に鳥羽山の登城口がある

鳥羽山城址(拡大版)

最後は散策路に置かれていた注意書き:

IMGP3205.resized

「マムシに注意」

以上で二俣城攻めは終了。このあとは旧・二俣川対岸に築かれていた鳥羽山城跡(鳥羽山公園)を攻めてきた。

See Also二俣城攻め (フォト集)

【参考情報】

信康山・清瀧寺と岡崎三郎信康公墓所

信康山・清瀧寺は京都の浄土宗知恩院の末寺《マツジ》にあたる。本尊は阿弥陀如来。

天正7(1579)年9月15日[j]これは旧暦。新暦では同年10月5日。に徳川家康の長男で嫡男であった岡崎三郎信康(松平信康)が二俣城で自刃した。亡骸は、はじめ二俣郷にある浄土宗の寺院にとのことであったが、実際には浄土宗の寺が無かったことから、この場所に庵室をおいて葬ったと云う。享年21。法名は騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門《トウウンインデン・ゼンサンシュウ・タツガンゼンツウ・ダイジョウモン》。その後、廟所、位牌堂、その他諸堂が建立された。そして二年後の天正9(1581)年に家康が来廟し、清水の湧き出るのを見て寺名を「清瀧寺」と名付け、信康にも清瀧寺殿と諡《オクリナ》をしたと云う。

こちらは寛文8(1668)年に建立された山門:

寛文8(1668)年に建立された

山門

そして本堂。鬼瓦には徳川家の葵紋があしらわれていた:

境内には駿府城にある家康公お手植えのミカンを分木があった

本堂

鐘楼堂:

ホンダの創業者・本田宗一郎ゆかりの鐘らしい

鐘楼堂

ここ二俣町は本田技研工業の創業者である本田宗一郎ゆかりの町でもあり、ここに架かる鐘も彼が二俣尋常高等小学校時代、正午を知らせる鐘を30分前に撞いて自ら早弁をしていたと云う話が残っている。

本堂脇にある信康廟への石段とそこを上がった先にある廟所入口。墓所は非公開で、この柵から先へは進めなかった:

本堂の左手にある「信康廟」へ続く石段

廟所入口

この柵の先に進むことはできなかった

信康廟前

この柵ごしに眺めた信康公の廟所・廟門:

柵から眺めた信康公の廟所・廟門

廟所

通常は非公開

信康公の廟門

松平信康こと岡崎三郎信康は、永禄2(1559)年に父・松平元康(のちの徳川家康)と母・築山殿《ツキヤマドノ》[k]今川氏の家臣・関口義広の娘で、今川義元の姪にあたる。の嫡男として駿府で誕生した。父がまだ駿河今川家の人質であった時代である。桶狭間の戦い後に岡崎城主になったことから、祖父の松平広忠と同様に岡崎三郎を通称とした。

今川家から独立し尾張国の織田信長と清須同盟を締結したのちの永禄10(1567)年に、信長の次女・徳姫と結婚[l]両者ともに9歳の子供である。、同年7月に元服して舅の信長より偏諱を与えられて信康と名乗った。初陣は天正元(1573)年、さらに同3(1576)年の長篠・設楽原合戦にも徳川勢の大将として出陣し軍功を挙げた。

天正7(1579)年8月に父の命で大浜城、堀江城、そして二俣城へ移動して蟄居となり、9月に自刃した。信康の首級は信長のもとに送られたと云う。母の築山殿も息子がいる二俣城へ護送中に佐鳴湖《サナルコ》の湖畔で殺害された。

この事件の背景については諸説あり、現在は三河物語の記録が通説となっている。それによると、母の築山殿が甲斐武田家に内通したことに加え、信康の粗暴な性格、そして何よりも築山殿が夫婦仲に水を差したことへの批判が妻の徳姫を通じて信長に伝わり、激怒した信長がそれとなく家康に伝え、家康は信康に切腹を申し渡すことになったと云うもの。

この時に処分を任されたのが天方山城守通経《アマガタ・ヤマシロノカミ・ミチツネ》と、信康の傅役を務めていた服部半蔵正成《ハットリ・ハンゾウ・マサシゲ》の二人であった。二俣城に蟄居していた信康が武田との関係を聞くと「儂が甲州方に味方することなど覚えの無いことだ。あとでよくよく父上に申し上げてくれ。」と言って見事に腹を切り、「半蔵、そちは馴染のある者だ。介錯を頼む。」と言ったが、半蔵は立ち上がろうとしたものの斬るに忍びない。ただむせび泣くばかりであったので、脇にいた天方が立ち上がり「手間取ってはお苦しみのほど恐れ入りますれば、てまえ御免被ります。」と云って介錯した。これを期に正成は信康の菩提を弔うために出家し、天方は徳川家から逐電して高野山で仏門に入ったが、それから随分たった後に還俗し越前松平家に仕えたという。また正成は、関東移封後の文禄2(1593)年に信康の菩提を弔うため江戸城四谷見附跡近くの西念寺に信康の供養塔を建立している:

服部半蔵が眠る東京都新宿区の西念寺にある

岡崎三郎信康公供養塔

なお浄土宗の西念寺は服部家の菩提寺でもある。


信康廟の柵の中には、信康切腹で殉死した吉良於初(初之丞)《キラ・オハツ》、当時の二俣城主・大久保忠世[m]墓所は他に神奈川県小田原市の大久寺《ダイキュウジ》にある。、そして三方ヶ原の戦いで討ち死した中根平左衛門正照《ナカネ・ヘイザエモン・マサテル》と青木又四朗吉継《アオキ・マタシロウ・ヨシツグ》らの墓所がある:

信康ゆかりの武将らの墓所があった

廟所入口脇にある墓所

こちらは信康堂に安置されていた信康公の木像:

清瀧寺惣門脇の信康堂に安置されていた

信康公の木像

最後は清瀧寺脇の諏訪神社境内にある清瀧の滝。これが清瀧寺に由来するとされる:

清瀧寺と本田宗一郎ものづくり伝承館の間にある諏訪神社

清瀧の滝

以上で清瀧寺参詣は終了。このあとは二俣城攻めへ向かった。

See Also岡崎三郎信康公の墓所 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。
b 今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。
c 自由席は1〜5号車(当時)。
d 正式名称は「天竜浜名湖鉄道・天竜浜名湖線」で、通称は「天浜線」。旧国鉄の二俣線を引き継いだ第三セクター。
e 途中、徒歩でショートカットできる階段あり。
f 現在は浜松市天竜区役所の庁舎が建つ場所周辺。
g ここに限らず城のあちこちで石積みや石垣が用いられていた。
h 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗《ゲンゾク》し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
i 忠世が不在の時は、関ヶ原の戦後に前橋城主となる酒井重忠《サカイ・シゲタダ》が城代を務めた。
j これは旧暦。新暦では同年10月5日。
k 今川氏の家臣・関口義広の娘で、今川義元の姪にあたる。
l 両者ともに9歳の子供である。
m 墓所は他に神奈川県小田原市の大久寺《ダイキュウジ》にある。