壬生城本丸跡南西側に残る横矢の折れを持つ城塁が復原されていた

栃木県下都賀郡壬生[a]読みは《トチギケン・シモツガグン・ミブ》。町本丸1丁目にある壬生町城址公園は、県内に残る数少ない近世城郭・壬生城の本丸跡である。この城の歴史は古く、戦国時代は文明年間(1469〜1486年)に下野宇都宮氏の家臣で壬生家二代当主である壬生綱重《ミブ・ツナシゲ》が思川《オモイガワ》と黒川に挟まれた台地に築いた平城であった。綱重は宇都宮氏の下で勢力を拡大し、鹿沼城を居城として壬生・鹿沼・日光山を領有、壬生城は子の頼房が居城とした。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、五代当主の義雄《ヨシカツ》は小田原北條勢に与して敗北、直後に病死[b]同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照に毒殺されたと云う説あり。して壬生家は無嗣断絶となった。このあと壬生城には結城秀康が入城、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後は目まぐるしく城主が替わった。そして壬生藩が立藩されたのち、正徳2(1712)年に鳥居忠英《トリイ・タダテル》が3万石で封じられると、明治維新までの157年間を鳥居氏八代が治めた。日光街道沿いの平城と云う立地から将軍による日光社参の宿城に使われたと云う。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の春分の候の連休中日に栃木県の城を攻めてきた。午前中は小山市の祇園城跡、午後は壬生城跡へ。この日は祇園城跡を攻めた後、お昼を摂ってから小山駅ヘ向かい、JR両毛線で栃木駅へ移動、栃木駅で東武宇都宮線・東武宇都宮行に乗り換えて最寄り駅の壬生駅で下車した。そこから壬生城跡の城址公園までは徒歩で移動した。

江戸時代から残る『日本古城絵図[c]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』に依ると、近世城郭の壬生城は本丸・二ノ丸・三ノ郭(三ノ丸)・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭(くるわ)からなり、これらの郭は馬蹄状に配置され、それぞれ土塁と堀で囲まれていたと云う。また、天守はもちろん櫓も建てられていなかったらしい。本丸には巨大な御殿が建っていたとのことで、壬生藩の政庁の他、徳川将軍家の宿城《シュクジョウ》[d]徳川将軍の日光社参《ニッコウ・シャサン》で、将軍が泊まる宿として使われた城のこと。としての役割も担っていたとされる。

こちらは、その絵図から東山道之部(5)の『下野国壬生城図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)に一部加筆・加工したもの:

(古絵図の一部を抜き出して、北を真上にしたもの)

『下野国壬生城図』(拡大版)

『日本古城絵図』に収録された近世城郭の時代のもの

コメント付き

そして、こちらは Google Earth® を利用して本丸跡にあたる城址公園(赤線)の範囲と、城絵図から推定した郭名を重畳したもの:

明治5(1872)年に廃城、平成元(1988)年に城址公園(赤線部)になった

壬生町城址公園とその周辺(Google Earthより)

明治5(1872)年の廃城後は農地化または宅地化され、大戦後の昭和の時代に二度の発掘調査が行われたあとは町立歴史民族資料館などが建てられて本丸跡もその南側を残すのみとなり、平成元(1988)年に城址公園として整備された。

ちなみに壬生城の古絵図は他にも『諸国城之図(3巻)』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)に収録されている。


二ノ丸虎口跡にあたる壬生町城址公園入口には模擬門が建っていた:

二ノ丸虎口跡に建つ模擬門

壬生町城址公園入口

門の脇には白塗籠の土塀風の塀が建てられ、その前にある大手門通りは二ノ丸の水濠跡。

そして公園入口を進んで公園内部に入った先には、本丸跡を囲む水濠が復元されていた:

往時は、本丸南側の虎口を固める土塁と水濠だった

本丸堀跡

こちらは本丸虎口跡。虎口周辺の基礎部が石垣風になっているのは公園化の施工の一つで、後世の造物:

本丸南側の虎口と土塁(下の石垣は後世の造物)

本丸虎口跡

そして虎口を固める本丸土塁の上から虎口跡を見ると:

虎口に架かる橋は車を通す道路になっていた

本丸南側の虎口

本丸虎口跡の左手に復原された横矢の折れを持つ城塁と水濠を本丸土塁上からみたところ:

対岸の二ノ丸跡は無駄に広い駐車場になっていた

屏風折れの城塁と水濠

こちらは整備前の城塁と水濠跡の写真。これを見る限り、かなりの規模の城塁が昭和の時代まで残っていたと云うことだろう:

「壬生城本丸址」の説明板に掲載されていた整備当時の写真

「改修前の城址」に映る本丸跡の城塁

虎口跡の橋を渡ると本丸跡である。虎口の脇には「壬生領榜示杭《ミブリョウ・ボウジグイ》」なる石標が立っていた:

江戸時代に建てられた領地の境界を示す石標

壬生領榜示杭(石標)

これは、江戸時代に領地の境界の印として立てられた石や木の柱。この杭には正面に「従是南《コレヨリミナミ》壬生領」、側面に「下野国 都賀郡 家中村」と刻まれており、家中村(現在の都賀町家中)に立てられ、家中村から南が壬生領であることを示していたものらしい。

本丸南側に残る城塁の一部(土塁):

本丸内部から見た土塁は意外と高さがあった

本丸土塁跡

こちらが本丸土塁上:

柵などを設けられ改変されていると思われる

本丸土塁上

こちら側からみると櫓台にも見えなくもないが、実際には土塁上には櫓は建っていなかったらしい:

櫓台のような規模だが実際には櫓は建っていなかった

本丸土塁

本丸跡に残る遺構はこの城塁や堀跡くらいで、それ以外の大部分は公園化に伴って建てられた民俗資料館や図書館、そして公民館といったものが占めていた:

本丸跡は公園化に伴う改変が著しかった

壬生町中央公民館と噴水

かっての壬生城本丸は約140m四方の規模[e]約1,688坪(5,580㎡)。の敷地の中に千畳敷の大御殿[f]約563坪(1,861㎡)で990畳と云う巨大な書院造りの御殿。が建っていたと云う。天守閣ではなく壮大な御殿が建てられた理由として、日光社参に向かう徳川将軍家の宿城という役割を担っていたと云うことがあげられる。

記録によれば、二代将軍・秀忠が2回、三代将軍・家光が5回、4代将軍・家綱が1回の計8回、壬生城を宿城として利用していたと云う。

この城攻めでは本丸跡以外の郭については実際に確認してこなかったが、機会があれば、宅地化されてはいるが、かっては城域であったエリアについても探索してみたい。例えば、三ノ丸土塁跡が残っているらしい。

さらに城址公園の北隣にある常楽寺には鳥居家累代の墓がある他、鳥居氏の祖・鳥居元忠の忠義を讃える精忠神社もある。

以上で壬生城攻めは終了。

See Also壬生城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 読みは《トチギケン・シモツガグン・ミブ》。
b 同じ小田原北條勢に与し、のちに豊臣勢に寝返った皆川広照に毒殺されたと云う説あり。
c 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
d 徳川将軍の日光社参《ニッコウ・シャサン》で、将軍が泊まる宿として使われた城のこと。
e 約1,688坪(5,580㎡)。
f 約563坪(1,861㎡)で990畳と云う巨大な書院造りの御殿。