駿河と相模の国境にある足柄城一の郭跡から霊峰・富士の眺め

静岡県駿東郡小山町竹之下にある足柄城址は、かっては駿河国と相模国の境目にあって、標高759mの箱根外輪山から派生した尾根上にある足柄峠と箱根の街道を押さえるために小田原北條氏が整備したとされる。この城の築城者とその年代は不詳であるが、かなり早い時代から戦略上の要衝として軍事的な施設が設けられていた形跡があると云う。戦国時代には北條氏康が駿河今川氏と甲斐武田氏の来襲に備えて相模国三田郷[a]現在の神奈川県厚木市。から人夫を出させて普請したと云う記録も残っており、その後も改修が続けられた。永禄11(1568)年に甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を破って武田信玄が駿河国へ侵攻すると、北條氏の最前線であった深沢城も攻撃を受け[c]信玄は力攻めはせず、甲斐国から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら北條勢の戦意が落ちるを待ち、降伏開城させた。のちに云う「深沢城矢文」。、城代の北條綱成はここ足柄城へ退いた。また関白秀吉による小田原仕置に備えて大改修を施したが、天正18(1590)年には隣城の山中城が一日で落城したことで城主・北條氏光《ホウジョウ・ウジミツ》[d]この城には交替で城主を務める当番衆が置かれていたとも。小田原城へ退却、山中城を陥落させた徳川家康勢に攻撃され足柄城は落城し、のちに廃城となった。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の春分の候が近づくもまだ肌寒い週末に神奈川県と静岡県の県境にある足柄城址を攻めてきた。

この日は小田原駅から伊豆箱根鉄道大雄山線《イズハコネテツドウ・ダイユウザンセン》に乗って終点の大雄山駅で下車し、駅の隣にある箱根登山バスのバス停「関本」から「地蔵堂」まで移動。予定では、ここから「足柄万葉公園」行きのバスに乗り継いで、下車して10分ほど歩けば城址に至ると云うものであったのだけれど、どうやら季節運行のバスらしく[e]現地について初めて知った。当時 4月・5月・10月・11月のみ運行だった。、当時は運行していなかった :$。仕方がないので県道R78の足柄街道沿いを一時間近くひたすら登って行くことにした。現在の街道は、古来の足柄古道とは異なり完全に舗装された道路であり、斜度もキツくはないがグネグネとカーブが多い道であった。地蔵堂から城址前あたりまで1時間くらい歩いた記憶がある:|

まず『日本古城絵図[f]鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。』から「東海道之部・相州足柄之城図」(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)に加筆したもの。他に江戸時代に発刊された『諸国古城之図』にも足柄城の古絵図が含まれている:

五つの郭が連なった連郭式の山城(北:相模国 / 南:駿河国)

『日本古城絵図・相州足柄之城図』(加筆あり)

そして Google Earth 3D を利用して城跡周辺を俯瞰した時の主な地名の位置関係()と、この絵図を参考に縄張をそれぞれ重畳させたもの(推定を含む)。改めて描いてみたのは、城址近くに置かれていた「足柄城址遊歩道案内図」があまりにもボロボロで分かりづらかったので:

足柄峠周辺を北側から俯瞰したところで、かつては東海道の街道が通っていた

城跡周辺図(Google Earthより)

国境となる足柄峠の尾根上に郭を連ね空堀を巡らせた山城であった

足柄城の縄張図(推定)

さらに国境に築かれた足柄城は、足柄峠を取り囲むように通っていた東海道の箱根路(足柄古道)を抑える拠点でもあり、現在でも数カ所に郭《クルワ》跡、空堀跡(水色の破線)、土塁、井戸跡、蔵屋敷跡、そして矢倉跡がみられる。

さらに小田原北條氏の本拠・小田原城を守備する支城ネットワークの一部を担っていた:

「境目の城」周辺の城

ということで、こちらが今回の城攻めルート:

(足柄街道) → (足柄の関跡)→ 南郭跡 → 木橋(復原) → 一の郭跡 → 堀切 → 二の郭跡 →堀切 → 三の郭跡 → 横堀 → 井戸跡 → 四の郭跡 → 堀切 → 五の郭跡 → 空堀 → (足柄街道 R78) → 虎口跡 → (新羅三郎義光吹笙之石)→(足柄の関跡) → (足柄古道)→ 明神郭跡 → (足柄古道)


足柄の関跡を過ぎて、足柄山聖天堂前あたりに南郭[g]一部のメディアで「山の神郭」とするものがあるようだが、本稿は『日本城郭体系6 』に記された「南郭」を使用する。跡へ登る入口がある:

左手奥に南郭跡へ上がる入口がある

足柄峠の標柱

物見台と伝わる高まりがあるらしい

南郭跡

この郭には物見台があったらしいが、遊歩道以外は藪化していて確認できず。主郭跡との間には足柄街道が通り、その上に木橋が復原されている:

手前の南郭跡と奥の一の郭跡をつなぐ木橋

復原された木橋

足柄街道(足柄古道跡)は往時の堀切の堀底道に相当する:

木橋の下を通る足柄街道は堀切跡

堀切跡

左手の一の郭と右手の南郭の間にある堀切と木橋

堀切跡

木橋を越えて足柄城址に入った先が一の郭跡。城内の主郭の一つであり、最も標高が高く最も広い郭。緩く傾斜がついていた:

郭中央に見える土盛は根石列(土塀跡)

一の郭跡

この郭の西端には、特に城址とは関係のない歌碑[h]明治から昭和にかけて歌人・小説家として活動した生田蝶介の歌碑。が建っていたが、このあたりから富士山を眺めることができる:

このあたりは物見台とされる土塁の高まりがあった

一の郭跡西端から霊峰富士の眺め(拡大版)

石碑が建てられて改変はされているようだが、物見台のような施設が建っていたと思われる土塁の高まりを確認することができた。

また、この郭には玉手ヶ池《タマテガイケ》なる池があったようだが、城攻め当時は涸れていて確認できず:

この時期は水は無く枯れていた

玉手ヶ池

この池は「底知らずの池」とか「雨乞いの池」と呼ばれ、池の底が小田原城に通じているとかいないとか。池の名前は足柄峠の守護神である足柄明神玉手姫が由来とされる。往時は井戸として利用していたのかもしれない。

このまま遊歩道を進んで二の郭跡へ。途中に堀切と土橋がある:

一の郭(手前)と二の郭(奥)の間にある堀切

堀切

現在は遊歩道になっている

土橋跡

これらを二の郭跡からみると、こんな感じ:

二の郭跡から見た一の郭との間にある堀切と土橋

堀切と土橋

二の郭は南北に細長い郭だった:

一の郭と三の郭とはそれぞれ堀切で隔てられている

二の郭跡

これが二の郭(手前)と三の郭(奥)との間にある堀切:

二の郭(手前)と三の郭(奥)の間にある堀切

堀切と土橋

二の郭(左手)と三の郭(右手)の間にある堀切

堀切

そして三の郭跡。ここは小さな方形状の郭である:

小さく方形の郭である

三の郭跡

三の郭跡と四の郭跡の間には横堀があった:

手前が四の郭跡、右手奥が三の郭跡

横堀跡

この堀底には古城絵図にも記載されている井戸跡があった。ここを過ぎた先が四の郭跡となる:

枠の中は完全に埋没していて、井戸跡かどうか分からなかった

井戸跡

三の郭同様に、ここも方形の郭である

四の郭跡

四の郭と五の郭との間にも堀切と土橋が残っていた:

手前が四の郭跡、堀切の先が五の郭跡

堀切と土橋

土橋を渡った先が五の郭跡:

この郭の足柄古道側には虎口跡が遺る

五の郭跡

五の郭の北側には長大な空堀が残っており、その堀底道を通って足柄街道出ることができる:

五の郭を囲む長大な堀跡

空堀

五の郭の北側に設けられた横堀

空堀の堀底道

五の郭の先は深い谷になっていた:

五の郭を囲む長大な堀の外側は急崖だった

深い谷

このあとは足柄街道へ出て一の郭跡方面へ戻ることにした。

こちらは街道沿いから見た五の郭の虎口跡。この他にも街道沿いには矢倉台跡や見張台などがあるらしい:

足柄街道(足柄古道跡)から見た五の郭跡

五の郭の虎口跡

足柄城址の碑は一の郭跡の下にある:

足柄城は天正18(1590)年の小田原仕置の後に廃城になった

「足柄城址」の碑

足柄城は、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で、山中城を陥落せしめた余勢をかって攻めてきた徳川家康勢の井伊直政らに攻められた。兵6百で守備していた北條氏光[i]北條氏康の実弟・北條氏尭《ホウジョウ・ウジタカ》の子で、父が死去したあと伯父にあたる氏康の養子となった(諸説あり)。は小田原城へ退却し、足柄城は落城した。廃城となった時期は不詳であるが、家康が関八州に加増転封された頃と思われる。

ここから足柄古道から足柄明神が建つ明神郭跡へ。ここは神社跡であり、本来の足柄神社は別の場所にある[j]神奈川県南足柄市刈野274

『古事記』にも記載がある足柄郡の村の鎮守

足柄明神跡

足柄明神は日本最古の歴史書である『古事記』にもでてくる神で、日本武尊《ヤマトタケルノミコト》が東国征討へ向かった時、ここ足柄峠で足柄明神が白い鹿の姿で現れて邪魔をしたが、日本武尊に倒されたことで東国が平定されたと記されているのだとか。現在ある祠は明治時代に建てられたもの。

この祠が建つあたり帯郭跡で、その背後の土居が明神郭跡。この脇に空堀があったようだが埋もれてしまっていて、よく分からず[k]標柱が建っていなければ、全く気付かない😐️。

右上から空堀があり、正面奥が明神郭跡

帯郭跡と空堀跡

以上で足柄城跡攻めは終了。

See Also足柄城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 現在の神奈川県厚木市。
b 善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。
c 信玄は力攻めはせず、甲斐国から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら北條勢の戦意が落ちるを待ち、降伏開城させた。のちに云う「深沢城矢文」。
d この城には交替で城主を務める当番衆が置かれていたとも。
e 現地について初めて知った。当時 4月・5月・10月・11月のみ運行だった。
f 鳥羽藩の稲垣家が所蔵していたもので城郭絵図の他に城下町や古戦場絵図が含まれている。
g 一部のメディアで「山の神郭」とするものがあるようだが、本稿は『日本城郭体系6 』に記された「南郭」を使用する。
h 明治から昭和にかけて歌人・小説家として活動した生田蝶介の歌碑。
i 北條氏康の実弟・北條氏尭《ホウジョウ・ウジタカ》の子で、父が死去したあと伯父にあたる氏康の養子となった(諸説あり)。
j 神奈川県南足柄市刈野274
k 標柱が建っていなければ、全く気付かない😐️。