祇園城の本丸跡と二ノ丸跡の間の堀切に架かっていた赤い祇園橋

平安末期に下野国《シモツケノクニ》最大の武士団を率い、藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[a]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔を称した小山政光《オヤマ・マサミツ》が思川《オモイガワ》東岸の河岸段丘に築いたとされる崖端《ガケバタ》城の小山城はのちの祇園城[b]城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。であり、小山氏の拠点として越後の上杉謙信や小田原の北條氏康らとの絶え間のない戦乱をくぐり抜けてきた。天正4(1576)年に城主の小山秀綱《オヤマ・ヒデツナ》が北條氏に降伏して開城したあと、小田原北條家で他国衆[c]小田原北條氏に降った外様大名らの総称。の取次を担当していた北條氏照が城代を置き、小山城も思川に沿って南北に本丸・二ノ丸(塚田曲輪)、北久保曲輪、北曲輪などを堀を使って連ねた連格式平山城に拡張・整備されたと云う。本丸にいたっては高い土塁と幅約20mに及ぶ空堀によって守られ、二ノ丸にはL字形の空堀を利用した馬出が設けられた。この祇園城は江戸時代に近世城郭としての縄張が完成し、現在は栃木県小山市城山町1丁目1番にある城山公園として市民の憩いの場となっている。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の春分の候の連休中日に栃木県の城を攻めてきた。午前中は祇園城跡。下野小山氏が全盛の時代は下野小山城と呼ばれていたが、南北朝時代後半からは祇園城に改称されたらしい。本稿ではタイトルや史料などからの引用以外は「祇園城」で統一する。

この日はJR東海道本線(上野東京ライン)の宇都宮行を利用して朝9時過ぎに小山駅に到着。まずは小山城の御殿が建っていたとされる小山市役所へ。ここは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの引き金となった小山評定跡でも有名である。それから県道R31沿いに思川方面へ歩いて、現在は城山公園となっている祇園城跡へ。

こちらは公園内の説明板に描かれていた『諸国古城之図[d]東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。』から「小山・下野」の写しで、その上に一部加筆したもの。祇園城跡は、現在の城山公園(ピンク色のエリア)に加えて市役所とその周辺の宅地化されたエリアが城域とされる:

広島藩浅野家が保有していた貴重な古絵図の中の一つ

『諸国古城之図』から「下野・小山」

城域でピンク色の範囲が城山公園に該当する(推定)

(コメント付き)

さらに公園入口の説明板に描かれていた案内図は、祇園城の城域のうち城山公園(上図ピンク色)のエリアを拡大したもの。この図に古絵図に記載されていた郭《クルワ》名などを重畳・加筆したものがこちら。連郭式の平山城でもある:

祇園城の一部で、現在の城山公園の部分

城山公園案内図(加筆あり)

今回の城攻めは主に城山公園内とその周辺、そして小山氏の菩提寺である天翁院《テンノウイン》が建つ北曲輪あたりを巡ってきた:

JR小山駅西口)→(小山評定跡と小山御殿跡)→(県道R31)→ 城山公園入口 → 三ノ丸跡 → 本丸跡 → (祗園橋) → 馬出跡 → (木橋)→ 二ノ丸跡 →(大銀杏)→ 二ノ丸虎口跡 →(木橋)→ 本祇園曲輪虎口跡 → 本祇園曲輪跡 →(鉄橋)→ 四ノ丸 跡 → 四ノ丸北の空堀 → 北曲輪跡 → 北曲輪馬出跡 → 天翁院 → 二ノ丸東側の空堀跡 → (中久保曲輪跡)→ 本丸東側の空堀跡 → 南久保曲輪跡 →(県道R31)→(観晃橋)→ 思川と小山城址 →(県道R31)→(安田製麺所)→(JR小山駅西口


こちらが城山公園入口。周囲を石垣風の建造物で固められ、やや強引に付けられた坂から高台にあることを見て取ることができ、まさに河岸段丘に築かれた崖端城の面影を残していた:

思川によって造成された河岸段丘に築かれたお山城

城山公園入口

公園入口を入った先が三ノ丸跡。三ノ丸と云う名称は江戸時代以降のもので、戦国時代はここを本丸跡とすると云う説もあるようだが、本稿では『諸国古城之図』の記載に従って三ノ丸跡とした。この郭の外周には土塁が残っていた:

ここを本丸と呼ぶ説があるが単郭にしては広すぎる

三ノ丸跡

この土塁上から公園西側を流れる思川を眺めることができる

土塁

その土塁にそって北へ進むと本丸(詰丸《ツメノマル》)跡になり、三ノ丸とは土塁で区切られていた:

土塁を境に左手が本丸跡、右手奥が三ノ丸跡

本丸と三ノ丸の間の土塁)



祇園城が小山城と呼ばれていた鎌倉時代、下野国の守護を務めた小山氏の居城・小山城を中心として、東の中久喜城、南の長福寺城と鷲城と連携して簡単には攻め落とせない要害地を築いていたが、南北朝時代に入って南朝の北畠顕家《キタバタケ・アキイエ》[e]南北朝時代の公卿であり武人。浪岡北畠氏の祖。「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した勇将。率いる2万の攻撃で落城した。その後、小山家中の内紛で著しく勢力が衰退し、下野国の実権を握った宇都宮氏の配下となる。しかし、それに反発した十一代当主・小山義政《オヤマ・ヨシマサ》が反旗を翻し、義政は小山城を改修して祇園城に改名したと云う。この乱はのちに義政の遺児で嫡男の小山若犬丸《オヤマ・ワカイヌマル》に託されたが、若犬丸が敗れ小山氏は滅亡した。その後、同族の結城家から養子を迎え十二代当主として下野小山氏を再興、さらに永享12(1440)年の結城合戦で下野国の守護に復帰した。しかし跡継ぎが途絶えて無嗣断絶の危機となったが、同族の山内家から再び養子を迎えて乗り越えた。その後も祇園城を居城とした小山氏は、鎌倉公方・関東管領、小田原北條氏、越後上杉氏らの勢力の狭間で御家の存続を図った。

しかし天正4(1576)年に北條氏照に攻められた十八代当主・秀綱は祇園城に籠城するも二年ごしの籠城で力尽きて降伏・開城し、常陸国の佐竹義重のもとに身を寄せて何度か祇園城奪還を試みたが果たすことができなかった。

これ以降の祇園城は小田原北條氏による北関東攻略の拠点として、北條流築城術で大規模に拡張・整備が施された。


この石段から本丸土塁上へあがってみる:

ここから土塁にあがることができる

石段

左手には思川を眺めることができた

本丸土塁の上

こちらは本丸北側虎口跡に遺っている土塁。土塁の高さは公園入口から三ノ丸と本丸へ向かうに従って高くなっていた:

虎口は破壊されているようだが土塁は遺っていた

本丸虎口跡

本丸跡と二ノ丸跡との間には巨大な堀切があり、そこに祗園橋なる朱色の橋が架かっていた:

手前が本丸跡、橋の奥が二ノ丸跡、橋の下が堀切跡

堀切跡に架かる祗園橋

こちらが祗園橋から見下ろした堀切跡:

左手が本丸跡、正面が思川方面、右手が二の丸跡

堀切跡

左手が二の丸跡、正面が南久保曲輪方面、右手が本丸跡

堀切跡

さらに堀底から見上げた祗園橋。左手が本丸跡、右手が二の丸跡、そして正面が思川方面:

往時も引き橋のような木橋が架かっていたのであろう

本丸と二ノ丸の間の堀切跡

堀底から橋までは高さ6m強、堀幅は10mほどか。ちなみに堀底道は日光東往還《ニッコウヒガシオウカン》の一部だった[f]日光東照宮参詣のために造られた日光街道の脇往還《ワキオウカン》。結城街道とも。

祗園橋を渡った先が二ノ丸跡であるが、その虎口附近が馬出(中曲輪)跡。なお、この郭を本丸とする説もある:

この郭はL字の空堀に囲まれ、中曲輪とも呼ばれた

馬出跡

この馬出の周囲はL字の空堀が巡らされており、現在でもしっかりとその面影をみることが可能だった:

空堀を境に左手が二ノ丸跡、右手が馬出跡

L字の空堀

空堀に架かる橋の上から見たところ

(コメント付き)

別の角度から:

空堀を境に手前が二ノ丸跡、奥が馬出跡

L字の空堀

二ノ丸跡から見たところ

(コメント付き)

こちらも別の角度から:

空堀の手前が二ノ丸跡、奥が馬出跡

L字の空堀

馬出の郭がしっかりと残っているのが分かる

(コメント付き)

こちらは二ノ丸跡。その中で西側にある郭の別名は塚田曲輪:

広く見えるが往時は複数の郭が土塁で区切られていた

二ノ丸(塚田曲輪)跡

なお本丸の北側は複数の小さい郭が空堀や土塁によって区画されていたようで、それらを総称して「二ノ丸」と呼んでいるが、さきほどの馬出も含め、それぞれに別の名前がついていた。例えば馬出は中曲輪、二ノ丸西側は塚田曲輪、東側は上段曲輪など。

この郭の外周には土塁が残っていた:

現在は芝生公園となっていた

二ノ丸の土塁

一部櫓台のような形をした土塁もあった

土塁上

こちらは、馬出跡との間の空堀前に立つ市指定文化財(天然記念物)の公孫樹(大銀杏《オオイチョウ》)。樹高15mの古木:

220年程前の古文書に「高さ三丈もある古木」と記されている

「城山公園の大銀杏」(公孫樹)

今から220年も前に書かれた旅行記にも『古井戸の堀たる近くに銀杏の樹あり。高さ三丈もある古木なり』とあり、二世紀前にはすでに古木であったらしい。また伝説によると、小山城落城の際に古井戸に身を投げて亡くなった城主の姫君の御霊がかたわらの銀杏に宿り、実を結ぶことが無くなったと云う。其れ以来、「実なし銀杏」と呼ばれていたのだとか。

こちらは二ノ丸の東側にある郭で上段曲輪跡。土塁が途切れるなど、公園化に伴う改変が大きい郭だった:

広い芝生公園(二ノ丸跡)のうち東側にある郭

二ノ丸(上段曲輪)跡

このあと、こんな通路の先にある橋を渡って二ノ丸の北側にある郭跡へ向かった。従って橋があるあたりが二ノ丸虎口跡だろう:

城郭風の造りをした後世の造物である

虎口風の通路

この模擬橋を渡って二ノ丸の北へ向かう

二ノ丸虎口跡

二ノ丸とその北にある本祇園曲輪との間にも大きな堀切があり、その一部には思川が流れ込んでいたあった:

西側の堀切には思川が流れ込んでいた

堀切跡

左手が本祇園曲輪跡、正面が中久保曲輪方面、右手が二ノ丸跡

堀切跡

堀切跡を渡った先には本祇園曲輪の虎口跡と、四ノ丸との間にある堀切跡がある:

左手が本祇園曲輪虎口、右手が四ノ丸との間の堀切

二ノ丸北側の郭跡

まずは虎口跡を通って本祇園曲輪跡へ。この虎口は枡形のようになっており横矢を懸けることが可能な構造として残っていた:

やや枡形の名残があり、横矢懸りを意識した構造だった

本祇園曲輪虎口跡

本祇園曲輪は塚田曲輪とも

(コメント付き)

本祇園曲輪は削平されてはいるが一部が凸凹になったり傾斜を持った広い郭であり、土塁も巡らされていた:

かなり凸凹した広い郭で、周囲には土塁が残っていた

本祇園曲輪跡

土塁がある側は北曲輪方面:

左手は堀切を挟んで北曲輪跡で、櫓台らしき場所があった

本祇園曲輪の土塁

そして、この郭と堀切を挟んで東側にあるのが四ノ丸(北久保曲輪)跡:

橋の下は堀切跡

四ノ丸跡を結ぶ橋

現在は城址の駐車場となっていた

四ノ丸(北久保曲輪)跡

ここで本祇園曲輪と四ノ丸の間にある堀切へ:

左手は本祇園曲輪跡、右手は四ノ丸跡、堀切は正面で空堀に変化

堀切跡

橋の下をくぐって、この堀切の堀底道を進んでいくと空堀にぶつかるが、その先が北曲輪跡である:

T字となった空堀は北曲輪と本祇園曲輪の堀切であった

堀切から空堀へ

思川がある西側には電波塔、反対の東側は天翁院脇のゲートボール場になっていた:

この先は思川であるが携帯の中継基地(電波塔)があった

空堀西端

現在はゲートボール場であるが、往時は沼地だった

空堀東端

この空堀には横矢懸りを意識した折れが設けられていた:

横矢懸りを意識した折れを設けていた空堀

空堀の折れ

北曲輪跡から見下ろした空堀の折れ

上から見たところ

このあとは天翁院が建つ北曲輪跡へ。この郭にも土塁が巡らされていた:

現在は天翁院が建っている

北曲輪跡

境内にある小山氏累代の墓所の裏手にあたる北曲輪跡西側へ向かうと馬出が残っていた:

この馬出は北條流築城術によるものであろう

北曲輪馬出跡

天翁院を訪問したあと公園東側の中久保曲輪跡あたりを通って再び公園入口を目指した。

こちらは二ノ丸跡東側にあたりで、かって空堀があったことを想像させるような地形が残っていた。右手は既に宅地化されているが中久保曲輪跡:

かって空堀があったであろうと想像できる地形であった

二ノ丸東側の空堀跡

同じく本丸跡東側で、こちらも本丸土塁と空堀跡が残っていた:

かって本丸に巡らされていた横堀跡

本丸跡東側の空堀跡

そして城山公園東側の南久保曲輪跡。公園の外にあった郭はほぼ宅地化されていた。この郭は近世に拡張されたものなので、もしかしたら地割や道路がその名残なのかもしれない:

城域東側の郭は完全に宅地化が進んでいた

南久保曲輪跡

そして最後は思川架かる観晃橋《カンコウバシ》から祇園城を眺めてきた。推測で城域を赤線で示してみた[g]上下が少しずれているが 😂️。

北曲輪跡ちかくに建っていた電波塔から

思川ごしに

三ノ丸跡の城山公園の入口まで

眺めた祇園城

天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で小田原北條氏が滅亡したのち、関八州に入封してきた三河の徳川家康の側近の一人であり、のちに老中となる本多正純《ホンダ・マサズミ》[h]家康の参謀を務めた本多正信の嫡男。父と家康が没したのちに二代将軍・秀忠の側近になるが専横による妬みと権力闘争に敗れて失脚した。が慶長13(1608)年に、ここ下野国小山藩3万余石の藩主となると、祇園城の拡張を行い東西約400m、南北約700mに及ぶ近世城郭として完成に至った。こののち元和5(1619)年に正純が同国宇都宮藩に加増転封されると、祇園城は廃城となった。

以上で祇園城攻めは終了。

See Also祇園城攻め (フォト集)

【参考情報】

祇園山・天翁院と下野小山氏累代墓所

祇園城の北曲輪跡に建つ曹洞宗の天翁院《テンノウイン》は下野国の豪族であった小山氏の菩提寺で、関東武者の祖である藤原秀郷の後裔を称した初代・小山政光の開基と伝わる。はじめ中久喜城内にあったが、十七代当主・小山高朝《オヤマ・タカトモ》が祇園城の北曲輪に移したと云う。天翁院の名は、高朝の法名「天翁考運」からきているのだとか。

こちらが拝殿:

祇園城の北曲輪跡に建つ

拝殿

天翁院が建つ北曲輪は別名が天翁院曲輪と呼ばれるように、周囲は土塁で固められていた:

境内をとりまくように土塁が残っていた

天翁院が建つ北曲輪跡

下野小山氏廟は拝殿脇から北曲輪跡へ入ったところにあった:

北関東の騒乱に翻弄された名族小山氏が静かに眠る

下野小山氏廟

平安時代は天慶3(940)年に平将門の乱を平貞盛《タイラ・ノ・サダモリ》と共に鎮圧した藤原秀郷の子孫が下野国や武蔵国など関東各地の武士団の先祖となった。このうち武蔵国太田荘を本拠とする太田行正の子(または孫)である政光が下野国小山荘を賜って小山姓を称した。これが小山政光で、彼は下野国最大の武士団の棟梁となり、祇園城の前身である小山城を築いたと云う。

政光の妻が、のちに征夷大将軍となる源頼朝の乳母だった縁で、頼朝に従って平氏打倒に協力した。その功で鎌倉幕府の有力御家人の一人となる。そして源義経追討では嫡男で二代当主・小山朝政《オヤマ・トモマサ》をはじめとする四兄弟を奥州征伐に参陣させて功をあげた。彼ら四兄弟は関東八屋形《カントウハチヤカタ》の称号を許されることになる小山氏、長沼氏、結城氏、そして宇都宮氏をそれぞれ継承した[i]関東八屋形の残りは小田氏、佐竹氏、千葉氏、そして那須氏。

南北朝時代になると南朝勢との対立、降伏して今度は北朝勢と対立、さらに家臣団の対立などあって勢力が著しく衰退し、下野の実質的な支配力が宇都宮氏に移ると、彼らとも争うことになった。十一代当主・義政とその嫡子は宇都宮氏に反旗を翻し当主・基綱を討ち、さらにその余勢をかって関東公方にも牙を向いた。そのため関東公方が率いる関東管領上杉氏ら連合軍から攻められ、祇園城に半年間籠城するも最後は降伏・開城した。しかし懲りない義政は再び兵を挙げて反抗したが敗れて自刃、嫡男の若犬丸もまた奥州まで追われたのちに自刃し下野小山氏は一度滅亡することになった。

一度は御家断絶となったが結城家の次男・泰朝《ヤストモ》が小山氏を継承し再興した。この結城氏系小山家は結城合戦で主家を討って再び下野国守護職まで復帰したが、次は跡継ぎ不在による困難に直面し、同族他家から養子を入れて御家存続に務めることになった。

結城政朝《ユウキ・マサトモ》の三男である高朝《タカトモ》もその一人で、小山氏十七代当主となると家臣団の統一に力を注ぎながら、周辺の勢力とは外交交渉を重ねて勢力の回復に務めた中興の祖である。さらに実家と連携して、結城氏の敵である宇都宮氏に対抗した。こののち古河公方の跡継ぎの件で小田原の北條氏康に同調した嫡男・秀綱とも対立したため隠居した。それでも永禄4(1561)年に越後の上杉謙信に味方して小田原城攻めに参陣したが、謙信の関東管領就任の場で同族の千葉氏に関東諸将の棟梁の座を奪われたことが不満で、のちに氏康と結んだために謙信の怒りを買った。

十八代当主の秀綱の時代、謙信に祇園城を攻められて降伏。しかし謙信が帰国すると再び北條氏に降るなど、御家存続のために度々主を変えた。北條氏に降伏したあとは佐竹氏に身を寄せ再起を図ったが、直接的には成功しなかった。

織田信長の勢力が拡大し、北條氏が領していた祇園城も織田家に接収されたのち秀綱に返されたが、その条件に北條氏への帰属があったため、本䏻寺の変後は一環して小田原北條氏に従った。そのため関白秀吉による小田原仕置で改易となった。その後は結城家に身を寄せ、慶長8(1603)年に死去。これにより下野小山氏は滅亡となった。

See Also下野小山氏菩提寺 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。
b 城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。
c 小田原北條氏に降った外様大名らの総称。
d 東北から九州に及ぶ日本各地の古城177箇所の城郭図を集めたもので、広島の浅野家から広島市立中央図書館に寄贈された。
e 南北朝時代の公卿であり武人。浪岡北畠氏の祖。「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した勇将。
f 日光東照宮参詣のために造られた日光街道の脇往還《ワキオウカン》。結城街道とも。
g 上下が少しずれているが 😂️。
h 家康の参謀を務めた本多正信の嫡男。父と家康が没したのちに二代将軍・秀忠の側近になるが専横による妬みと権力闘争に敗れて失脚した。
i 関東八屋形の残りは小田氏、佐竹氏、千葉氏、そして那須氏。