泉頭城で柿田川沿いにある西曲輪跡には貴船神社が建つ

永禄11(1568)年に甲相駿三国同盟[a]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を破り、甲斐国の武田信玄が三河の徳川家康と共に駿河国の今川領へ侵攻すると、相模国小田原の北條氏康は相駿同盟[b]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視し信玄に対抗するため、嫡男の氏政と共に駿河と伊豆の国境に出陣した。一方、信玄は駿河国境で氏康らの軍勢を牽制しつつ、その裏をかいて2万の軍勢で上野国の碓氷峠から武蔵国へ侵攻、北條氏の支城を攻撃しながら南下して小田原城を囲んだ。急報を聞いた氏康らが小田原へ取って返すと信玄は囲みを解いて引揚げを開始、氏康の命で先回りした北條氏照氏邦らと三増峠で激突するが小田原勢を退けて帰国した。この時、氏康は駿河国を手中に入れた武田勢に備えるため、国境に接する駿河田中城、蒲原《カンバラ》城、興国寺城三枚橋城駿河戸倉城、獅子浜城、長久保城、そして泉頭《イズミガシラ》城の七つの城に兵を配置し城の改修を命じて小田原へ帰陣したと云う[c]北條五代記』には、「氏康は信玄逃げ行く由聞き、これら七つの城に人数を篭め置き、氏康父子小田原へ帰陣せり」とある。。その一つの泉頭城は、現在の清流柿田川水源地にある柿田川公園として市民の憩いの場となっている。

今となっては四年前は、平成29(2017)年の雨水《ウスイ》の候にあって春一番が吹き、やっと暖かさが伺えるようになったとある週末、一層の暖かさを求めて静岡県三島市周辺にあった城跡を攻めてきた。午前中は清水町の本城山公園にあったとされる駿河戸倉城へ。午後は最寄りのバス停「下徳倉」から東海バスの三島行に乗って「柿田川湧水公園前」で下車し、泉頭城跡で、名水百選に選定された上に国指定天然記念物[d]「地質鉱物」の枠で指定された。となっている柿田川《カキタガワ》沿いの公園を巡ってきた。

こちらは園内に建っていた「泉頭城復原見取図」(上が北方向):

現代は「小田原北條vs甲斐武田」ではなく「家康の幻の隠居城」がウリらしい

泉頭城復原見取図

説明板には、この公園が泉頭城の一部であったこと、そして城の背景としては「小田原北條氏と甲斐武田氏の戦いの舞台」ではなく「徳川家康が自分の隠居城にしようとしていた」と云うことが書かれていた :|

そして公園案内図に泉頭城跡の郭名を加筆したものこちら(右が北方向):

柿田川周辺に宅地化の波が押しよせ環境保護・保全のために公園化したらしい

公園案内図(加筆あり)

当時は城跡として目立った遺構はなく、柿田川湧水群の一部を観察できる展望台や遊歩道には多くの観光客がいたと記憶している。あと本曲輪跡の駐車場には大型バスが何台も止まっていたし。ここの公園化は昭和61(1986)年4月で、柿田川周辺に宅地化の波が押しよせてきたため自然の保護・保全とコミュニティ広場の確保がその目的だったと云う[e]したがって泉頭城跡に関しては特に言及はなし。

柿田川の上流部に環境の保護・保全などを目的に開園した

「柿田川公園」の碑

国道R1側から公園に入り、まずは柿田川の水源(最上流)にある第一展望台へ:

柿田川の最上流であり湧水を観察できる

柿田川の水源

ここには、富士山や愛鷹山《アシタカヤマ》に降った雨や雪が地下水となって国道R1下あたりから忽然と湧き出る大小数十箇所の「わき間」がある。

狩野川がある下流へ流れる柿田川:

「東洋一の湧水量」と云われ、清水町以外の市内各地に送水されている

柿田川

かっては「東洋一の湧水」と知られた柿田川は1日約100万トン[f]50m級プールでおよそ1000杯分。の湧水量を誇り、水道水の種別で云うと一級に相当するほど綺麗な水で、水温は年間を通じて15℃前後と一定なのだとか。そのため柿田川流域には貴重な生態系が根付いており、水生植物、陸上植物、陸上昆虫や魚などが生息している。

そして公園中にあるある第二展望台へ。かって紡績工場が井戸として利用していたもので、陽の光と砂が思わぬ水の色を作り出していることで有名:

この湧き水はかって紡績工場が井戸として利用していた

柿田川の水源

この展望台があるあたりが泉頭城の西曲輪跡:

芝生公園に改変されているため遺構はまったくない

西曲輪跡

さらに進んだところには貴船《キフネ》神社がある:

京都市貴船川上流にある貴船神社から御霊分けされた

貴船神社

公園化した際、水の神を祀る京都の貴船川上流の深山幽谷《シンザンユウコク》の地[g]奥深い山と奥深い谷を形容する言葉。にある貴船神社本宮から御霊分けされた社。祭神は高龗神《タカオカノカミ》。泉頭城の頃は存在しない。

遊歩道をさらに進んで湧水広場方面へ。公園管理棟から湧水広場あたりまでが 泉頭城の二ノ洞跡:

こちらは公園管理棟の裏あたり

二ノ洞跡

こちらは湧水広場あたり

二ノ洞跡

湧水広場からさらに南へ進んだ先にあるのが舟付場で、泉頭城の舟付曲輪跡にあたる。往時は狩野川から柿田川をさかのぼって舟を着けて水運で利用されたと云う:

ここに舟着場があった

舟付曲輪跡

ここでも水が湧いていた

舟付曲輪跡

舟付場を回り込むように本曲輪跡を目指すところにあるのが泉頭城の三ノ洞跡南端。三ノ洞跡自体は遊歩道(と駐車場)が敷かれていて確認できなかった:

手前が三ノ洞跡、橋の先が第六天曲輪跡、左手が本曲輪方面

三ノ洞跡の南端

三ノ洞跡南端を少し過ぎたところには第六天曲輪と本曲輪との間の堀切がある。これが唯一の遺構か:

左手が本曲輪方面、右手が第六天曲輪方面

堀切

公園の外へ出る[h]清水町地域交流センター方面へ向かうように。感じで切通しを上って行くと住宅街にでるが、このあたりが泉頭城の第六天曲輪跡:

ほぼ宅地化されていて遺構は期待できない

第六天曲輪跡

このあとは再び公園内へ戻り本曲輪跡へ。駐車場等で改変されるまで巡らされた土塁が残っていたらしいが、城攻め当時は全く確認できず :(

現在は駐車場になっている

本曲輪跡

往時は「泉の館」だった

本曲輪跡

泉頭城は柿田川の水源地[i]「水源地」が「泉の頭」を意味するらしい。に築かれた平城で、その城域は東西400m、南北500mあり、二ノ洞と三ノ洞とに区切られた本曲輪と、これを取り囲むように北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪、小郭、第六天曲輪、そして南ノ曲輪を設け、水源地の西側には堂ノ口出丸が築かれていた。また、それぞれの曲輪は泉ノ川と天然の深い洞、そして空堀で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていたと云う。

戦国時代の終わり頃には小田原北條氏の持ち城となり、駿河国を支配していた甲斐武田氏に対する最前線を担った城の一つであった。永禄12(1569)年に氏康は重臣の多目周防守元忠《タメ・スオノカミ・モトタダ》[j]小田原北條(伊勢)氏初期の家臣団である御由緒六家《ゴユイショロッケ》の家柄で、北條家五色備のうち黒備えを任されていた。河越夜戦では深追いした氏康を救った。と荒川清兵衛を城代として泉頭城へ派遣し、他の三枚橋城や駿河戸倉城らと相互に連絡して武田勢の来襲に備えた。

天正8(1580)年に武田勝頼が攻めてきた時には南にある戸倉城と舟で連絡しつつ籠城して城を守った。しかし翌9(1581)年にその戸倉城の城主・笠原政晴《カサハラ・マサハル》が寝返ったため戸倉城は武田の手に落ちるが、さらに翌10(1582)年に甲斐武田家が滅亡すると小田原北條氏が戸倉城を奪還した。

天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置が始まると泉頭城を引き払い[k]城を破壊して退去したので、この時に泉頭城は廃城となったと思われる。、城兵は韮山城山中城へ退いた。

元和元(1615)年に、小田原北條氏が滅亡したあと関八州を賜っていた徳川家康は景勝地として泉頭の古跡を気に入って、重臣の土井大炊利勝《ドイ・オオイ・トシカツ》と本多上野介正純《ホンダ・コウズノスケ・マサズミ》に隠居場所として城を築城するように命じ、自らも縄張りのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたが、翌2(1616)年に家康が急逝したことで取り止めとなった。

大正時代までは城跡がよく残っていたらしい。ちなみに町営駐車場の敷地内には柿田川湧水の水汲み場があった。

以上で泉頭城攻めは終了。

See Also泉頭城攻め (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。
b 氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。
c 北條五代記』には、「氏康は信玄逃げ行く由聞き、これら七つの城に人数を篭め置き、氏康父子小田原へ帰陣せり」とある。
d 「地質鉱物」の枠で指定された。
e したがって泉頭城跡に関しては特に言及はなし。
f 50m級プールでおよそ1000杯分。
g 奥深い山と奥深い谷を形容する言葉。
h 清水町地域交流センター方面へ向かうように。
i 「水源地」が「泉の頭」を意味するらしい。
j 小田原北條(伊勢)氏初期の家臣団である御由緒六家《ゴユイショロッケ》の家柄で、北條家五色備のうち黒備えを任されていた。河越夜戦では深追いした氏康を救った。
k 城を破壊して退去したので、この時に泉頭城は廃城となったと思われる。
l リンク切れ:https://www.pref.shizuoka.jp/kigyou/iihanashi/izumikashirajou.html 😕️。