秀吉は小田原城惣構を完全包囲し本丸を見通せる石垣山に本陣を置いた

天正17(1589)年10月に小田原北條氏の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が、利根川対岸にある信濃国小県《チイサガタ》の豪族・眞田昌幸が領する名胡桃城を奪取する変が勃発した[a]奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。。天正壬午の乱後、利根川を挟んでこれらの城がある上野国の沼田一円は越後の上杉景勝に従属していた眞田氏の支配下にあったが、のちに遠江の徳川家康と相模の北條氏直が自分達の都合だけで線引きしたことが国境問題として燻り出したため、往時ここ日の本の半分を支配下に置いて関白[b]「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。の座に昇りつめていた豊臣秀吉の裁定を請け、小田原北條氏の最高権力者である北條氏政の上洛を条件に新しい線引きが決められた上に、折しも関東惣無事令[c]秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。が出されていた中での事件であった。これを「天皇の裁定」に弓引くものである[d]秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。と激怒した秀吉は小田原北條氏に宣戦布告を発し、翌18(1590)年3月に総勢20万もの大軍[e]兵力や参加した大名・武将には諸説あり。を率いて、関東で難攻不落とされた小田原城惣構に籠城する氏政・氏直父子らを陸と海から包囲した。

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参照

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a 奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。
b 「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。
c 秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。
d 秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。
e 兵力や参加した大名・武将には諸説あり。